4.貨幣的経済と数学

4-2 負の経済、借金経済

負の経済の仕組み




 この世にある物は、全て借り物だという思想がある。
 この肉体ですら、神から借りた物であり、最後には、神に返さなければならないという思想である。最終的に人間が所有できる物は何もないというのである。
 近代の思想の根幹をなす思想、代表的なのは、共産主義や社会主義であるが、基本的には、所有権を認めないという点では、この世の全ては借り物だという思想を根本に持っている。資本主義も例外ではない。資本主義も、この考え方が基盤になっているとも考えられる。
 個人が所有できる物は何もない。個人は、あくまでも、国家から、消費するまで、物を借りている。だから、最終的には、消費するか、国家に返却をする。
 一時的に物を借りる権利を得るために使用するのが貨幣だという考え方である。
 故に、生産手段の中で設備は、最終的には、費用に還元されて償却される。償却されない生産手段、代表的なのは、土地であるが、それも、相続の時点で税金として段階的に回収する。つまり、所有というのは、あくまでも建前に過ぎないのである。
 これはあくまでも思想である。しかし、それが、制度として定着するとそれは社会を形成する上での大前提として人々は受け入れるようになる。

 現代の経済では、負の部分が経済の仕組みの半分の部分を担っている。負の部分の仕組みが理解できないと、経済現象を読み解くことはできない。

 経済の負の部分を担っているのが金融である。金融は、損益の部分では、貸借の部分で働いている。金融は、費用や収益の部分に直接的に作用するのではなく、資産や負債、資本を介して間接的に費用や収益に作用しているのである。
 故に、財政収支、家計収支、経営収支、経常収支の対極に現れて財政収支、家計収支、経営収支、経常収支を均衡させているのである。

 貨幣経済を動かしている原動力は、現金の流れである。
 ただし、お金の世界は、虚構である。お金は人工的な物であり、自然界に存在する物でない。自然界では実体がないのである。
 つまり、お金は虚構なのである。お金が、虚構であるからこそ、貨幣を基礎とした経済の仕組みでは、負の部分が生じる。お金が、経済の負の部分、言い換えると陰の部分を作り出すのである。

 経済を動かす力は歪みによって発生する。
 歪みそのものを否定したら力は発揮されない。問題は、歪みの大きさ、規模なのである。歪みが大きすぎれば、発生する力によって仕組みを破壊しかねないしのである。

 エネルギーは、歪みによってもたらされる。経済を動かす力も歪みによってもたらされる。歪みは、差である。
 競争は、現象であってエネルギー源ではない。働きが現れた結果である。
 歪みは、差によって生じる。差は、正との働き、即ち、プラスの働きと負の働き、即ち、マイナスのはたきの均衡として認識される。
 お金にもプラスの働きとマイナスの働きがある。プラスの働きから資産が生まれ、マイナスの働きから負債が生じる。

 経済現象も経営現象も期間損益からすると資産と負債、資本の増減運動として表される。この資産、負債、資本の増減運動を引き起こしているのが取引である。

 取引にもいろいろな形がある。しかし、現実の取引に現れる取引の形は、それほど沢山あるわけではない。それを如実に表しているのが日本の伝票の体系である。
 現実に現れてくる取引の形が限られているのならば、取引の持つ働きを理解する上では、頻度の多い取引に注目してみる事は経済現象を理解する上で有効である。
 日本の伝票制度には、三伝票制、五伝票制がある。三伝票制は、入金伝票、出金伝票、振替伝票の三つの伝票から構成され、五伝票は、入金伝票、出金伝票、売上伝票、仕入れ伝票、売上伝票の五つの伝票からなる。このことは、会計制度の本質を端的に現している。
 すなわち、会計制度の土台は、現金の入りと出にあり、それを補完する形で、他の取引がある。さらに、現金の動きの次に、売りと仕入れが会計の基礎を為しているという事である。この入金と出金を売り上げと仕入れに転換する事で現金主義から期間損益主義への変換がされているのである。

 100の現金を持っていたとして、その現金を預金し、預金を担保にして、100の借入をして、また、100の現金を手に入れる。そうすると借方に100の現金が新たに生じ、この100の資産は、単純に考える100の担保価値を生じる。この担保価値によって100の現金を借りると先の100と合わせて200の資産と負債が生じる。この操作を繰り返すと無限に資産を増やす事ができる。反面、同量の負債が積み上がっていく。これが俗に言う梃子の原理、レバレッジ効果である。お金を使わない内は、資産は、減らない。ただ、金利がかかる。金利以上の収益が上げられないと損失が積み上がるのである。このことを考慮しなければ、少ない元手で、莫大な資金を調達する事が可能なのである。これは、財政も家計も同様である。
 少なくとも金利の分だけが収益を上げようとすれば、現金を何かに置き換える必要がある。現金は、それ自体は、収益を上げないからである。そこで調達した現金を生産手段に置き換える。
 現金を土地に置き換えた場合、土地だけでは、収益を生まない。また、土地が金利分以上の値上がりをし続けるという保証があれば別である。しかし、土地が値上がりし続けるという保証はない上に土地には値下がりするリスクすらある。
 収益を上げるのであるのらば、何らかの設備を購入して収益を上げるか、商品や原材料を仕入れる必要がでてくる。負債と資産と費用、収益の関係はこうして生じるのである。この点は、財政も基本的には同じである。

 損益は、変化を表し、貸借は状態を表す。利益は、損益と貸借を結ぶ指標である。損益は、変数を含む方程式であり、貸借は、債務と債権の恒等式である。
 現金が不足すると経営活動は持続できない。すなわち、経営主体の死を意味する。故に、経営主体が経営活動をしているかぎり、現金残高は、常に、正の数である。

 投資は、収益に転換されないと利益にはならない。利益は、資本に転換されないと資産や負債に転換されない。

 投資は、投資元では資産に還元され、投資先では、収益に還元される。収益は、費用になり、費用は、収益と個人所得に還元される。費用は、段階的に個人所得に還元されていく。

 投資の原資となる資金は、負債と資本によって調達される。
 投資された資金は、投資先では収益に計上される。収益は、費用に還元される。費用は、他の経営主体の収益と個人所得に還元される。
 期間利益は、政府、経営者、出資者に分配された後、資本化され全て投資される。投資された資本は資産となる。
 利益が計上されることで負債が圧縮され、資産への再投資が可能となる。また、税として公的部分に収益の残高を公的部分の収入に還元し、公的部分の負債を圧縮する。配当として投資家に還元することで新たな投資を促し、資本を充実させる。利益は、指標であると同時に以上の働きがある。
 すなわち、負債・資本から資産に転換され、資産から収益に転化され、収益から費用に転化され、収益の残高が利益となり、利益は資本に転化することによって負債を圧縮するか、再投資の原資となるこれらの一連の働きによって資金と生産財とを循環させるのが貨幣経済の仕組みなのである。そして、貨幣経済の文法が会計制度なのである。

 利益は、第一に、負債の返済と再投資といった経営資源に振り分けられ、第二に、税として公的部分に振り分けられ、第三に、配当として投資家へ振り分けられ、第四に、長期借入金の返済として金融機関へ振り分けられ、第五に、報酬として経営者に振り分けられる。この分配の比率が経済に対して重要な働きをする。

 社会全体では、収入=支出。借入金=貸出金。これが前提となる。

 ゼロサムは、保存則を意味する。
 例えば、経済取引の総量はゼロサムになる。すなわち、取引で生じる価値の総和はゼロである。問題なのは、取引によって生じる貨幣価値の量の振幅である。貨幣価値の量の振幅は、通貨量を現すからである。

 経済を動かし力は、歪みから生じる。歪みを是正しようとする力が経済を動かしているのである。

 経済取引は、二つの経済主体の間で成立する。経済取引は、取引当事者間の双方向に作用を及ぼす。一定方向の働きには、必ず、逆方向に同じ量の力が働いている。つまり、作用反作用の力が働いている。取引は、均衡しているのである。
 双方向に働く運動とは、例えば、貸しは、借り。売りは、買い。支払いと受け取り。受け、渡しの四つである。経済の運動はこの四つのいずれかを指す。そして、受け、渡し以外は、金銭の働きを示している。

 また、これらの働きによって貨幣の流れと逆方向の財の流れか、または、貨幣の流れと同量の債権と債務が派生するかかの、二つの事象のいずれかが取引を介して成立する。前者を売買取引と言い。後者を貸借取引という。

 売買取引は、入りと出。貸借取引は、増減運動として現れる。

 費用と支出の関係をよく見る。費用と支出のタイミングが一致しているとは限らない。費用の発生と支出との時間的なズレが経営や景気を左右する場合があるのである。

 現金主義は、最終的には、現金残高が問題なのである。例えば借入金も預かり金も収入である事に変わりがない。逆に、支出は、投資にかかる資金も費用にかかる支出も区別されないのである。この点が、財政や家計と企業会計の根本的な違いになる。

 家計をキャッシュフローや期間損益からとらえる事も重要である。

 家計でも収入=支出となる。
 さらに、支出面から家計を見ると、
 支出=消費+返済額+貯蓄+納税+現金の関係式が成り立つ。
 そして、消費は企業収益に結びつき、返済額は、金融機関の資産を構成し、貯蓄は、金融機関の負債になる。そして、納税は国家の歳入になる。

 企業や家計が貯蓄をする事は、金融機関にとって負債を増加させる事であり、借入金の返済する事は、資産の減少させる事である。
 この点を理解しないと金融危機の原因は解明できない。つまり、景気が悪化したとして貸付金を強引に回収する事は、金融機関にとって資産を圧縮する事を意味する。逆に、預金を増やす事は、負債を増加させる事になる。家計や企業が借入金を減らし、預金を増やす事は、金融機関の経営を圧迫する働きがあるのである。

 注意しなければならないのは、金融機関の収益は金利によってもたらされるのであり、貸付金ではない。貸付金は資産だという点である。貸付金が返済されれば金融機関の資産が圧迫される。又、貸付金を返済された結果、預金が増えるという事は、金融機関にとつて負債が増える事を意味する。そして、余剰の資金を資産市場によって運用する事は、バブルを発生させる原因となるのである。

 また、国債というのは、国の借金だという事ばかりに問題にするが、国債を買う側からすれば、貯蓄をするというのと同じ働きを持っている事を見落としてはならない。つまり、国債は、貯金の一種だともいえるのである。

 社会全体で見れば、消費と借入金の返済額、貯金の支出に占める割合、および、消費、借入金の返済額、貯金の経営主体(家計、財政、企業、海外)ごとにそれぞれが全体に占める割合が重要なのだという事である。

 もう一つ、支出の性格を決める要素の一つが、支出の周期である。

 周期的支出のサイクルには、ディリー、ウィークリー、マンスリー、四半期、半期、一年というサイクルがある。又、これ以外に、人生というサイクルを基本とした支出。病気や災害にかかる支出のような臨時的、突発的支出がある。このような支出の性格は、景気に一定の波を起こす。
 又、消費の流行すたりは、景気の動向に決定的な働きをする事がある。

 支出の性格を決める要素の一つに衣食住がある。

 家計支出も一種類ではなく、支払い形態によって幾つかの種類に分類できる。そして、それぞれの種類によって性格がある。
 例えば、住宅の関して家計投資を支出という側面から分析した場合、一つは、借金をして、家を購入する事例である。第二は、貯金をして家を購入する事例である。第三は、家を借り続ける事例である。
 第一の事例だと最初にお金を借りて一定額を一定期間、支出し続ける事になる。第二の事例、貯金が貯まるまで任意の額を任意の期間、支出し続ける事になる。第三の事例では、流動的な額を恒久的な支出をし続ける事になる。このような支出は、消費に分類できる。
 このように、家計投資の支出も幾つかの種類があり、それぞれに、性格がある。
 長期的に見ると借金と貯蓄というのは、表裏の関係にある。支出で言えば、借金は、定期預金と対称的な関係にある。違いは、借金は、最初に全額を受け取って一定期間、一定額を金融機関に支払い続けるという形であるのに対して、定期預金は、一定額を一定期間支払い続けて後全額を受け取るという仕組みだという事である。違いは、一つは、借金は、支払いが義務づけられているのに対して、定期預金は、任意だという点である。また、借金が、全額を最初に受け取る事で、財の使用権、所有権と最初に手にする事ができるという点にある。
 つまり、お金の所有権を物の所有権に置き換える事になる。お金は流動性が高く、物は流動性が低いという特徴がある。時間価値の差は、物価上昇率と金利との相対的関係によって決まる。
 負債と貯蓄の差は、金で貯めるか、物で貯めるかの差であり、いずれにしても、貨幣価値を社会に積み上げる効果があるのである。物の貨幣価値と金の貨幣価値は、各々独立した動きをする。社会に積み上がった物の貨幣価値と金の貨幣価値の差が景気の変動を促す要因となるのである。

 支出の種類には、第一に、生きるための支出。第二に、社会のための支出。第三に、自己実現のための支出の三つの種類がある。
 支出の性格には、第一に、固定的支出と随意的支出がある。第二に、定期的、不定期的支出がある。第三に、必要不可欠な支出と嗜好的な支出がある。

 これらの支出の種類と性格は、消費の種類と性格、貯蓄の種類と性格、支出の種類と性格を形成する。

 このような支出は、安定した収入によって支えられている。
 収入にも周期があり、その周期によって種類が分けられる。収入の周期は、ディリー、ウィークリー、マンスリー、イァリーがある。これらの周期によって、日給制、月給制、年俸制、歩合給、出来高給などに分類される。
 いずれにしても、収入が安定しないと計画的な支出が成立せず。借金もできない。
 そこに雇用の問題がある。雇用の問題には、雇用形態、賃金水準、賃金構造、労働条件、失業問題等がある。

 収入も支出も図形化すると面積の問題になる。

 企業会計では、収入は、負債と資本、収益に振り分けられ、その上で一旦、相手勘定として資産に集められ、その後、資産の相手勘定として費用と負債に仕分けられる。
 すなわち、収入=負債の増減+資本の増減+収益。
 支出=資産の増減+費用。
 簿記では、借方、資産。貸方、負債、あるいは、資本、又は、収益となる。次に、借方、費用、あるいは、負債。貸方、資産という様に計上される。
 貸方に資産が計上された場合は、資産の減算を意味する。貸方の残高がマイナスになる事はない。というより、マイナスにならないように調整する。借方に、負債が計上された場合は、負債の減算処理を意味する。

 企業や財政では、固定的支出や借入金の返済額は、ある程度、確定的であるのに対し、収入は一定していない。家計においても定収というのは、見かけであり、個人事業者や定職を持たない者は、不景気になるとたちまち不安定になる。失業をしたら収入の道が途絶えてしまう。これが経済の潜在的、かつ、根本的な問題なのである。

 このような点を鑑みると景気変動の影響も固定費中心型産業と変動費中心型産業では、違ってくる事は明らかである。一律に競争を促せばいいというわけではない。規制緩和は万能薬ではない。

 競争の必要性は、競争の働きに基づくものであり、元々、競争の働きは、相対的関係による相互牽制にある。このような働きを絶対視するは、本来の働きからして間違っているのである。

 我々は、企業経営や産業に関して膨大な情報を持っており、また、多くの分析結果も蓄積している。それなのに、経済学者の多くは、それらの情報や分析結果を経済政策や景気対策に活用しようとしていない。これを傲慢、怠慢という意外になんと言うべきなのか。
 企業経営が悪化する原因は、例えば、会計制度の変更、税制度の変更、商法の改正、為替の変動、原油価格の高騰、地価の急激な変動、物価の変動、人口の変動、自然環境の環境の変化、災害や戦争、産業構造の変化、技術革新等、多岐にわたる。しかも、個々の産業や企業によって条件の変化に対する影響や対応も違ってくる。
 それを何でもかんでも経営者の責任にとしていたら、経済は衰退してしまう。中には、国際的に、又、国家的に取り組まなければならない要因もあるのである。
 競争は原理であり、全ての規制を撤廃して、無原則な競争を推奨すれば、万事解決というわけにはいかないのである。



企業は清算できるが、国家を清算する事はできない。


 企業は清算できるが、国家を清算するわけにはいかない。

 公共機関と民間企業とでは、設立からして思想が違うのである。

 国家目的を明確化しておかないと財政は、利権や既得権によって硬直化しやすい。
 財政的収入を歳入と言い。財政支出を歳出という。
 歳出には、固定的支出と一時的支出がある。一時的支出には、投資と臨時的支出がある。投資は、収益によって賄われる。臨時的支出は、貯蓄によって賄われる。固定的支出を賄われなくなったら、財政赤字は累増する。
 一時的支出は、一過性の性格を持つ支出であり、財政の骨格を変えてしまう場合がある。臨時的支出は、財政の次元を変えてしまう恐れがある。臨時的支出は、戦争とか、災害といった事象である。

 公共投資は、一旦取引によって収益に変換される。公共投資の原資は、借入と税収である。ただ、財政は、現金主義であるために、収入側における負債と資本、収益の仕分け、支出側における資産と費用の仕分けはされていない。
 取引によって収益に変換された後、一部は、費用として放出され、費用を差し引いた残高は、利益として計上される。

 費用として放出された部分は、収益と個人所得に振り分けられる。 個人所得と収益は、市場を経由して支出と費用に転換され、収益の一部は、利益として資本化され、資産か負債へ変換される。個人所得の一部は、貯蓄として金融機関の負債に転換される。

 利益として計上された部分は、配当と税と報酬に分配され、分配された後の残高は、負債の元本の返済の為、および、再投資の為の原資とされる。

 税は、国家の収入となり、国債の返済の原資となる。ただ、財政は、現金主義であるために、収益に転換することができず資産、負債、費用への振り分けがされない。

 また、経済の仕組みを動かしている原動力が現金だとすると、現金の流れが経済の仕組みにどのような影響を及ぼしているかを知る必要がある。

 重要なのは、人、物、金の均衡である。

 資金不足も問題だが、金余りも問題なのである。

 実際の処、金が余っている事の方が深刻な問題を引き起こす。なぜならば使い道のない金だからである。

 金はあればあるほどいいというわけではない。市場の流通する資金の適正な量は、取引の量によって決まる。流通する資金の量は、多すぎても、少なすぎても経済を不安定にするのである。
 金余り、つまり、使う当てのないお金は、経済に深刻な打撃を与えることがある。その典型が過剰流動性である。
 経済は、人の働きと物の働きと金の働きが均衡することで安定するのである。

 第一に、現金の流れは、現金の流れに沿って財の動きを伴うか、同量の債権と債務を生み出す。この二つの働きが現金の基本的作用である。
 債務と現金が流れる部分が、負の空間を生み出す。そして、負の空間に経済の実態は写像されるのである。その結果、経済現象は、貨幣の関数となる。

 資金の流れ(キャッシュフロー)は、収益に基づく流れ(営業キャッシュフロー)、財務に基づく流れ、投資に基づく流れの三つの流れが組み合わさって形成される。
 収益に基づく流れは、期間損益を形作り、財務に基づく流れは、負債や資本を構成し、投資に基づく流れは、資産の元となる。

 企業でいえば、現金の流れ、つまり、キャッシュフローは、債務と債権と決済の三つの働きに分類される。
 企業会計では、キャッシュフローのうち、債務に関わる流れを財務キャッシュフローに、債権に関わるキャッシュフローを投資キャッシュフローに、決済に関わるキャッシュフローを営業キャッシュフローに分類する。
 創業時点では、投資キャッシュフローと財務キャッシュフローは均衡していてゼロサムに設定される。そして、営業キャッシュフローは、ゼロである。
 式にすると投資キャッシュフロー+現金残高=財務キャッシュフロー
 初期投資が終了する段階を創業期とすると、投資キャッシュフローは、徐々に減少をし、それに伴って、財務キャッシュフローも運転資金へと比重を移していく。また、営業キャッシュフローも上昇を始める。
 投資キャッシュフロー+現金残高=財務キャッシュフロー+営業キャッシュフロー
 成長期には、営業キャッシュフローによって投資によって生じた長期借入金の返済をまかなうようになる。
 財務キャッシュフロー+現金残高=営業キャッシュフロー

 成熟期になると一部の投資を換金しつつ、長期借入金をの返済を続ける。
 財務キャッシュフロー+現金残高=投資キャッシュフロー+営業キャッシュフロー

 衰退期では、再投資や更新投資のために、新規の投資資金が必要とされるようになる。
 財務キャッシュフロー+投資キャッシュフロー+現金残高=営業キャッシュフロー

 これらの動きが、収益、費用、資産、負債の変動を引き起こす。
 現在の経済で重要となるのは、収益と費用、資産、負債の水準を均衡させることなのである。そのための指標として利益が設定されている。

 収益、費用、資産、負債の均衡を保つための緩衝材の役割をしているのが、減価償却費と長期借入金の返済である。そして、現金残高と利益が均衡を保つための指標としての役割を果たしている。

 生産量と所得とが結びつけられ。さらに、所得と消費が結びつき。消費が価格に反映されて生産が制御されるという仕組みができて貨幣の流通量は、制御される。そして、生産と所得とを結びつけて計測する指標が利益である。

 公共投資、公共事業、公共支出は、生産と所得、投資と貸借、労働と所得との結びつが希薄なために、貨幣の流通量を抑止力が働かないのである。

 特に、軍事費は、平時、軍の効用を直接的に評価する基準を持たない。かといって軍事費の効用を評価するために戦争をするというわけにはいかない。効用を測る基準が存在しない以上、国防予算は抑止力を失う危険性がある。実際、第二次世界大戦以前の日本は、国防予算の節度を失い。それが、太平洋戦争の遠因にもなったとも考えられるのである。

 戦争という行為は、最も不経済な行為である。そして、戦争の原因の本質は、経済ある。
 いかなる戦争も生産手段である労働力や生産手段、資源を浪費し、破壊してしまう。孫子の言葉を引用するまでもなく、戦争は、国力をとことん疲弊させてしまう行為なのである。

 戦争は、拡大再生産に繋がらない。消費と破壊が専らである。ゆえに、戦争は不経済に行為である。戦争は、生産手段の破壊を伴う。勝っても負けても国家の存亡を左右する大事である。国防のための費用は大事である。しかし、それはあくまでも国防の為であり、国防費も過大になれば、かえって国を危うくする。国防は、両刃の剣である事を忘れてはならない。そして、戦争の最大の原因は経済にあるのである。

 不況対策として、所得の再分配をして有効需要を拡大する事が有効だとされている。しかし、所得が増えたとしても、即、生産量が増えるとは限らない。では、どこに変化が現れるのかである。それは。第一に労働量が増えるという事である。第二に、購買力が増加する。第三に、投資に資金が回るという事である。
 お金をばらまいて有効需要を拡大させたとしても拡大再生産に結びつかなければ、経済成長には結びつかない。
 つまり、実質的な生産財の増加、それも、消費者の必要性に適合した生産財の増加が見込めなければ、消費の拡大と持続的な投資に結びつかないからである。生産財の増加がなければ、朝三暮四に過ぎないで実質的な経済成長ではないのである。

 これらの弊害を取り除くためには、財政にも期間損益主義を導入する必要がある。

 期間損益を確立するためには、少なくとも、金融資産と投資と費用の部分を明確に区分する必要がある。その役割を果たしているのが減価償却費である。故に、減価償却や在庫の処理を内部金融と考える者もいる。

 資金の働きは、周期を基礎として考える必要がある。
 金融資産は、短期的な資金の過不足を調整する働きがある。
 償却資金は、設備の更新周期を基礎とし、費用性資産とも言われている。
 問題は、非償却資産である。非償却資産は、主として不動産であり、長期的資金を担保している。非償却資産の相場は、本来、短期的資金とは無縁なはずなのであるが、急激な相場の乱高下は、資金の担保力に影響し、短期資金の調達に直接影響する場合がある。それが、バブルや不況の潜在的な要因となる。

 利益は、経営主体の営業活動と経営主体が置かれている市場環境によってもたらされる。経営努力と市場環境が両立することによって利益は出るのである。どちらか一方がかけても利益は計上されない。経営努力だけでは、利益が計上できない場合もあるのである。

 財政も基本的には同じ動きをする。
 重要なのは、期間損益を明らかにすることによって負債の水準を一定に保つことである。
 財政問題が解決しないのは、財政において期間損益が確立されていないことに依る。そのために、負債の水準が確定されず、負債の水準が一定に保たれていないことが財政を不安定している原因なのである。

 家計、企業、財政、海外の四つの主体の相互運動によって市場全体は均衡している。この均衡が維持できなくなると経済は、大きく変動することになる。場合によっては、市場を制御できなくなる。

 会計の仕組みは、企業経営の行動規範の土台となる。ある意味で、経済倫理、モラルの本となるのである。

 会計情報を多くの人は結果を表していると思い込んでいる。しかし、会計情報は、基本的に過程の状態を表した値であり、結果ではない。たとえて言えば、飛行機や自動車のメーター、計器に現れた値の様なものである。

 結果ではなく、過程だという事は何を意味するのか。それは、完結した数値ではないという事である。経営主体が置かれている状況や段階を表した数値であり、その状況や段階によって良くも悪くもなる値だという事である。故に、表面に表れた数値だけを見ても経営の実態を正確に知ることにはならないという事である。利益が出ているからいい状態だとは限らないし、赤字だから悪いと決めつけられないという事である。問題は、表示された数値の前提にあるのである。

 重要な点は、表示された値が、過程の中のどの時点を表した値なのかである。事業の中には、一つの過程が数年、場合によっては、数十年に及ぶものがあるからである。反対に、一つ一つの取引は、その時点時点で完結してしまうものもある。故に、取引の周期が重要な意味を持っている。

 もう一点、ここで気をつけなければならないことがある。会計情報は、デジタルによって表示されているという点である。デジタルというのは、自然数であり、離散数であることを意味する。アナログというのは、実数であることを意味する。会計情報は、自然数によって表示されるという事である。この点は、情報処理の根本に関わる問題である。

 経済主体の運動は収入と支出が基礎である。資金の動きが経営主体を制御しているからである。しかし、現金の動きだけでは、経済主体の働きを解析することが出来ない。
 そこで、長期的働きを貸借によって短期的働きを損益によって測るのである。
 期間損益において経営主体を正常に保つのは、収益力である。経済主体の動きを発展させるためには、収益の向上が基本である。つまり、期間損益では、収益が中心なのである。
 そして、収益は、適正な費用によって支えられる。収益を構成するのが費用と利益だからである。

 この点に関する誤解がある。例えば、不況などによって企業収益が悪化するのは、収益の問題であって、貸借の問題ではない。ところが、収益が悪化した時、収益の問題を担保力、即ち、負債の問題に置き換えて多くの金融機関は、長期資金の回収を測る。
 恐慌のように多くの企業が収益力が低下している状況では、当然、資産価値が低下している。その時、一斉に資金を回収しようとすると資産価値は暴落することになる。それが悪循環を引き起こすのである。問題の本質は、収益の悪化なのである。収益の問題は、価格の問題なのである。つまり、適正な価格が維持できなくなったことが主因なのである。

 適正な収入を得るためには、適正な価格を維持することが重要となる。無原則な競争を放置しておいたら、適正な価格を維持することは出来ない。
 収入が安定していることが負の経済の前提なのである。この前提が崩れると経済は安定を欠くことになる。単純に価格は安ければいいとするわけにはいかない。
 なぜならば、支出に結びつかない費用があり、逆に、会計上、計上されない支出があるからである。

 経済の仕組みも会計の仕組みもフラクタルな構造を持っている。

 現在の現金収支主義と期間損益主義の違いは、減価償却費、長期借入金の残高、在庫等に現れる。これらを操作すると現金の流れとは関係のない部分で利益を調整することが可能となる。
 そうすると名目と実体とが乖離してしまうのである。そして、価格を実際の支出から見て必要以上に低く設定することが可能となるのである。

 たとえば、旅館やホテルのような宿泊業を始めようとした際、自分の土地に、自前の資金で建物や設備を建て家族で経営をした場合と借金をして土地を購入し、建物を建て、人を雇って経営をした場合では、どのような違いが出るかを考えると解る。
 利益は、自前であろうと借金であろうと会計上は、大差がないような仕組みになっているのである。
 なぜならば、会計上は、負債と資本は総資本として同じ扱いがされているからである。自前の資金で建てようと、借金で建てようと資産価値は、同じ方程式によって償却される。つまり、費用として計上される額は同じなのである。違うのは金利の部分である。ただし、自前の資金といっても配当はしなければならない。
 また、利益に差が生じ一方が過剰な利益を上げたとしても税金によって調整されてしまう。
 問題は、資金繰り上の問題である。
 なにが違うのかというと借入金は、返済義務を負っているという点であり、収益が悪化した際、回収圧力がかかるという点にある。しかし、回収圧力がかかるにしても約定があるという事を忘れてはならない。収益が悪化したからといってすぐに元金を返済しなければならないというわけではない。
 気をつけなければならないのは、借金と自前の資金といっても資金調達という点おいてには変わりはないという事である。違いは、借入金の元本は、返済が義務づけられているという点にある。
 現金主義ならば、元本の返済分だけ収支に影響が出る。ところが、複式簿記ではこの長期借入金の元本の返済が計上されていない。会計制度は、借入金によるか、自前の資金であるかの差を基本的には、緩和し、あるいはなくしているのである。
 これが資本主義という思想なのである。
 そして、借入金の元本の返済をどう処理するかが、鍵を握っているのである。なぜならば、借入金の元本の返済の原資は、償却費と税引き後利益にあるからである。この部分が確保されないと負債は、膨れあがっていく。これは、企業会計でも、財政でも、家計でも同じである。ただ、財政や家計は、現金主義であるから、より硬直的だという事である。

 経済を裏で支えているのは、負債と費用である。そして、負債を調節する働きをするのは、損益である。償却費と利益が上がれば、負債は圧縮され、償却費と利益が確保されなければ、負債は増加する。
 そして、負債と費用の関係を調節しているのが収益なのである。つまり、期間損益において基本は、収益にある。

 収入には、波がある。支出にも波がある。
 収入は、景気の動向やはやり廃りといった不確定な要素に影響されるのに、支出は、約定や契約と行った確定的な要素によって定まっている場合が多い。
 収入がないからといって支出は待ってくれない場合が多い。そして、景気の動向を実際的に決めるのは、資金の流れなのである。
 その収支の波を緩和し、資金の流れを調節する目的で期間損益は、成立したのである。金融機関の役割もこの期間損益主義の目的に基づいている。
 ところがこの目的が昨今見失われている。

 個人事業主といえども個人所得は、給料である。経営主体には、所得を一定化させる働きがある。この事は、負債にも、税のあり方にも影響する。税額を安定的、確定的をするために会計制度を制定したともいえる。

 長期借入金の返済額は、収入に関連して決められるのではない。借入をする際の約定よって決められている。また、資産の償却費も収入によって決められるのではない。故に、余剰の収入があったからといって借入金の返済を増やしても利益に直接関係するのではなく、資金繰りにのみ影響を与える事になる。

 先にも言ったが、資金不足も問題だが、金余りも問題なのである。余剰な資金は、市場に流れれば、物価を押し上げる働きをし、市場に流れなければ、負債や資産の部分に滞留し、負債や資産価値を実態以上に増幅したり、または、圧縮してしまう働きがあるからである。

 問題なのは、債権と債務は非対称だという点である。
 債権、すなわち、実物価値と債務、すなわち、名目的価値は、連動して変化しているわけではない。この債権と債務の非対称性が、資金の流れる方向を左右しているのである。

 債権と債務は、非対称である。
 実物価値は、経営の状態、景気の動向に左右されるのに対して、名目価値は、資金を調達した時点における約定に制約される。
 そのために、債権価値が消失しても債務残高がなくなるとは限らないし、逆に、債務が清算されても債権価値が残る事がある。

 期間損益主義は、貸借と損益から構成される。市場全体における貸借の総量は、資金の供給量を表し、損益は、資金の流通量を表す。
 貸借は基礎数であり、損益は、資金の回転数を表す。
 費用は、実績を表し、収益は原資を意味する。費用と収益の関係は、費用は過去の実体を表し、収益は、将来の状態を示している。費用より、収益が大きい、すなわち、利益が計上されている時は、経済は拡大しているが、費用より収益が小さい時は、経済は縮小していると考えられる。

 費用の収縮は、収益の収縮を招く。収益の収縮は、資産価値の収縮を招く。逆に、費用の増加は、収益の増大を促す。収益が増大すれば、資産価値も上昇する。その中で、費用や収益、資産の増減と無縁なのが、名目的価値である負債なのである。
 負債の働きは、資産や収益との相対的関係に依存する。資産に比べて、負債が大きければ、資金の流れは、回収側に流れ、資産に比べて負債が小さければ、投資の側に資金は流れる。
 そして、実物経済を形成するのは、資金の流れである。資金の流れる方向が景気の傾向を決めるのである。

 費用や消費は支出を本にして成り立っている。支出は、お金を使う事を意味する。経費を削減するというのは、要するに、金を使うなという事に等しい。ところが、貨幣経済は、金を使う事で成り立っている。金を使うなというのが問題なのである。

 利益を追いかけて費用を極端に削減するのは、経済の目的から見て逆行している。費用に対して適正な価格という視点が失われているからである。

 宿泊業が成り立つためには、一定の顧客数、すなわち、旅行者が常時存在しなければならない。一定の旅行者を確保するためには、旅行をするという意欲や動機が前提となる。さらに、旅行をする事が可能な所得がなければならないのである。このような事は、一旅行業者だけの努力で解決できるわけではない。
 今日のように、負債や資本を基盤とした経済体制では、投資をした瞬間から固定的な支払い義務が一定期間生じるのである。それが、良きにつけ、悪しきにつけ人々の価値観の根底を築き上げるのである。

 費用を一律に削減すると社会全体の収益は悪化する。なぜならば、収益は、費用が転じたものだからである。社会全体の収益力の向上を図るためには、費用を構成する個々の要素の効用を分析する必要がある。

 経済運動の基本は、入りと出にある。つまり、受取と支払の差であり、その差を生みですのは時間である。
 最初に手持ちの現金がなければ支払いは出来ない。元手がなければ、受取が先で支払が後という関係は成り立たない。貨幣経済ではお金が先なのである。お金がなければ始まらないのである。元手は基本的に負債なのである。なぜならば、最初から現金を持っているのは、貨幣の発行元でしかないからである。貨幣経済を成り立たせるためには、貨幣を、先に使い手に渡しておかなければならない。それが負債の本である。ここに負債の性格の源がある。負債と資本が会計上同列に置かれている由縁でもある。負債と資本の根本の性格は同質なのである。

 支出の全ては、最終的に、個人所得に還元される。




人の効率、物の効率、金の効率



 今の市場経済では、生産の効率のみが追求されている。
 しかし、効率性は、生産の効率性ばかりを追求すればいいというわけではない。効率を計らなければならない要素には、生産だけでなく、分配や消費の効率もある。
 例えば、所得である。所得には、費用という局面、報酬という局面、生活費という局面がある。そして、それぞれの要素の働きの方向は、必ずしも一定方向を向いているわけではない。
 所得における費用という側面は、収益と結びついてて生産に関係している。報酬は、労働と結びついて分配と関連づけられる。生活費は、支出と通じて消費に転化される。

 生産の効率は、費用をいかに抑制するかにかかっている。そのためには、設備の稼働率を上げたり、作業の標準化や人件費の平準化をいかにするかが、鍵になる。それが大量生産、機械化に繋がるのである。

 百人で一億円の利益を上げる企業と千人で一億円の利益を上げる企業とでは、どちらが効率が上かというと生産性という観点からすれば前者であろう。しかし、分配という観点からすれば後者である。経済性というのは、単純に、生産性という観点から飲みとらえるのは間違いである。
 分配の効率というのは、いかに、多くの者に効率よく、所得を分配するか、また、財との交換を促すかの問題である。流動性の問題でもある。
 所得の分配は、財や通貨の循環にかかわる問題でもある。一律平等に配ればいいというわけではない。かといって格差が広がりすぎれば、労働効率の低下を招く。所得の分配には、自己実現、すなわち、労働に対する評価の問題でもあるのである。

 消費の効率化は、生活に関わる問題でもある。生産と消費は、需要と供給、収入と支出の問題でもある。
 消費という観点から経済性を考えると、倹約、節約という点が核心となる。すなわち、消費の効率からみると、いかに、少ない資源を効率よく使用するかという事にある。また、品質の問題でもある。
 いい物を長く大切に使うという事が、消費の効率を高めることになる。そうなると、高品質、高価格でも成り立つことになる。単純に廉価、標準だけが効率の指標ではない。使い捨ては必ずしも消費の効率を高めることにはならない。
 大量消費は、大量生産の効率を高める事に対する要求による。必ずしも消費の効率を良くする目的ではない。消費の効率を高めるためには、むしろ、多品種少量生産の方が、資源や環境保全という観点から見ると消費の効率を高めることになる。

 このように、生産の効率、分配の効率、消費の効率は、同じ方向を向いているわけではない。
 そして、生産、所得、消費の効率の不均衡が、通貨を循環させるための原動力となるのである。

 経済は、金の動きと実物の動きとに分かれる。
 実物の動きは、人と物の関係から生じる。
 すなわち、人数と物量である。物量とは、生産財の量である。
 経済現象における、貨幣の動きが名目的な価値を形成し、物の動きが実物的な価値を形成する。
 インフレーションやデフレーションといった経済現象には、お金の働きに起因する事象と物の働きに起因する事象とがある。そして、それを仲介しているのが人なのである。経済現象は、人口や生活水準、社会環境、嗜好、所得や富の偏りなどにも左右される。
 故に、インフレーションやデフレーションといった経済現象を分析する際は、それが、お金の働きに起因しているのか、物の働きに起因しているのか、人の問題なのかを明らかにしておく必要がある。
 物価の上昇は、物が不足しているのか、お金が余っているのか、人の所得やとみに偏りがあるのかのいずれかである。同じように物価が上昇しても起因する要素によって対策も違ってくるのである。

 負債は、先買い後払いの仕組みなのである。

 先買いさせるためには、先に資金を供給させておく必要がある。
 先に資金を供給する手段には、貸付と投資がある。対極から見ると貸付は、借入であり、投資は融資である。

 先に資金を供給してもらってその資金で、資産を購入する。資金を供給してもらう際に担保するのが不動産、すなわち、土地である。土地を担保にして資金を供給する。それによって資金を先渡しする。つまり、土地が資本の元なのである。
 このような資本主義の形態は、土地本位制度と言ってもいい。土地本位制と言ってもいい経済体制下では、地価の動向が決定的な働きをすることになる。
 このような体制では、資産価値の水準を一定に保つ必要がある。特に、不動産価値の変動の水準を一定に保つ施策を中央政府や中央銀行はとる必要がある。

 借金や融資によって得た資金を元手にして土地や設備、すなわち、資産を購入するのである。資産とは、基本的に生産手段をいう。資産が収益の元となる。
 資産だけでなく、費用も収益の元となる。

 借金や融資の仲立ちをするのが金融機関である。
 気をつけなければならないのは、金融機関の収益は、金利によってもたらされるのである。この点が問題なのである。借入金の元本の返済額は、借り手側にとって費用ではなく、また、貸し手側にとっては収益ではない。金融機関にとって元本は、利益の元ではないのである。利益の元は、収益であって、費用である。それは金利である。

 先に資金を投入する。つまり、今日の資本主義では、資金不足があって資金を予め、先渡しをする。それが、資金不足と過剰流動性の原因となる。貨幣の不足と過剰は、微妙な均衡の基に成り立っている。

 借金というのは、お金の先渡しの仕組みである。資産さえあれば、一時的に資金は、潤沢になる。しかし、後先も考えずに金を借りて後で収入が途絶えれば、支出の義務だけが残されるということを意味する。そして、収入は不安定なのである。不安定な収入を期間で均したのが期間収益である。
 支出が収入を上回ったらその瞬間に経営は成り立たなくなる。それは国家でも、企業でも、家計でも同じである。

 金を借りるという事は、所得や所有権の一部の権利を譲渡する事を意味する。そして、権利を譲渡した分、義務が生じるのである。それが債権と債務を構成する。この義務を誠実に実行しようとすると一定の収入を継続的に確保し続ける事が前提となる。そのために、預金もしなければならなくなるのである。つまり、収入を平準化する必要が生じるのである。
 つまり、期間損益は、収入と支出を平準化するための手段だといえる。

 借金というのは、最終的には、返済を前提としたものだという事を忘れてはならない。
 資本は、返済を前提としていないというが、間違いである。負債が一定期間を単位としているのに対して、資本は、一事業期間を単位にしているだけであり、資本も負債の一形態に過ぎない。
 つまり、負債にせよ、資本にせよ、返済を前提として成り立っている。返済ができなくなれば、資産の残によって返済を迫られる事になる。返済の原資は、収益にある。それが原則である。

 借金の有無は、この返済義務に集約される。借金がなければ、資産は生じない。資産がなければ、資産を取り上げられる事もないのである。つまり、資産は会計上の勘定なのである。

 借金をすれば物質的には豊かになるが、反面、借金の返済に追われることになる。借金の返済に追われて仕事をし、生活をするようになるのである。資金繰りが失敗しないように、借金の返済が滞らないように経済主体を経営することが宿命となる。借金を基礎とした時代以前は、お金がなくても生活ができた。しかし、借金を土台とした経済体制では、お金がなければ何もできないどころか、全てを失ってしまう。
 借金をしたら長期にわたって一定の収入を維持し続けなければ生活が成り立たない。一時的にでもお金がなくなったら破産ということになる。だから、デフレーションは怖いのである。
 つまり、現代の貨幣経済は、正と負の均衡によって成り立っていて、正と負、つまり、資産と負債の均衡がとれるような施策を講じないと経済は、破綻してしまうのである。
 借金が経済の半分を支配する。それが現在の経済の有り様なのである。

 問題は、債権と債務の非対称性にある。そして、この非対称性によって利益は形成するのである。
 債権と債務の非対称性とは、損益と収支の非対称性に起因する。
 損益と収支の非対称性とは、支出のない費用と費用計上されない支出がある事による。それが減価償却費と長期借入金の元本の返済である。
 その結果、会計上の結果と資金の流れに非対称性が生じるのである。

 このような経済の仕組みでは、減価償却費、長期借入金の返済、在庫等が利益を計上する上での鍵を握っているのである。
 減価償却費の元は、償却資産である。償却資産は、費用の塊である。それに対して、非償却資産は資本となる。つまり、資金を調達する際の担保である。なぜならば、非償却資産は、償却を前提としていないからである。

 資産は、負債なのである。
 また、資産の中で償却資産は、費用の塊だといえる。逆に言えば、非償却資産、特に、不動産は、費用化できない負債だといえる。

 また、債権は資産でもあり、生産手段でもある。

 生産手段には、土地、設備、労働力がある。そのうち、一部が資産を形成し、他の部分が費用となる。

 収益が悪化したからといって負債を回収しようとすれば、必然的に資産や生産手段を処分する事を促す事になる。それでは、経営が成り立たなくなるのは必然的帰結である。

 不良債権を考える場合、この点を理解していないと重大な過ちを起こす。不良資産だといって簡単に処分すると債務だけが取り残されることになる。
 不良債権とは、裏返してみると不良債務なのである。不良債権だけを処理すれば、不良債務だけが取り残される。それが後々、災いの種になるのである。

 借金、すなわち、先取り、後払いの仕組みは、一定期間、一定額の支払い義務が生じる事を意味する。しかも、名目勘定であるから景気の変動に関わりなく支払いし続けなければならない事になる。この支払い義務が債務を形成する。
 この点を裏返して考えると一定の収入が、一定期間、確保されることによって先取り、後払いの仕組みは成り立っている。この前提が崩れると経済は成り立たなくなるのである。

 現金主義の最大の問題点は、投資と費用、そして、負債、資本と収益の区分が判然としていない。それを補完する形で期間損益主義が発達してきたのである。現金主義に則る財政と家計は、未だに、投資と費用、そして、負債、資本と収益の区分が曖昧なままなのである。その結果、資金の長期的働きと短期的働きによる効果の測定が難しく、対処の仕方が明らかにできない。
 負の経済では、負債は、貨幣の供給量の目安である。要は、負債を一定の水準に保てるか否かの問題なのである。

 現金主義の家計と財政は、長期借入金の返済額は、硬直的である。それに対して、企業は、長期借入金に対して柔軟な対応を可能としている。それは、負債の概念が確立されているからである。
 ところが、不況に陥るとこの負債の概念が怪しくなり、それが、資金の環流を阻害する事になる。それが、不況をより深刻な状態にしてしまうのである。

 貨幣経済の原点は収入である。収入は、消費と投資と貯蓄に変換される。
 更に、消費は収益に、投資は資産に、貯蓄は負債に変換される。消費は、言い替えれば費用である。
 貯蓄は、負債に転化されて、更に、金融機関によって負債は、投資に変換される。投資は、現金と生産手段を結び付け、市場に現金を供給する。
 投資や貯蓄は、ストックを形成し、消費は、フローとなる。

 はじめに入りがなければ、出は生じない。貨幣経済では、貨幣の入り、即ち、収入が始まりである。
 収入が全ての本になる。収入は、現金の調達を意味する。現金の調達は、収益と負債と資本による。生産財がなければ収益は生じない。故に、最初の資金は、元手によるか、借金によるのである。何れも、債務である。
 収益に結びつくのは、消費であり、費用である。通貨の効用は、消費によって発現する。
 利益は、費用に見合う収益を上げられるか否か測る指標である。収益に費用が見合っているかどうかを測る指標ではない。
 なぜならば、費用は、分配を表しているからである。そして、費用は、実在勘定であるのに対して、収益は名目勘定だからでもある。

 失われた十年などと言われ、不良債権の存在がデフレの原因とされる。
 ただ、気をつけなければならないのは、不良債権の問題とバブルの問題は、裏腹の関係にあるという事である。
 不良債権とバブルは表裏の関係にある。いずれも、名目価値と実質価値の乖離が原因なのである。バブルというのは、資産の名目価値に対して実質価値が上昇し、その結果、名目価値である負債が急激に増加する現象をいい、不良債権は、逆に、資産価値が名目価値に比べて減少した結果として現れるのである。
 このカラクリが理解できないとバブルとバブルが破裂した後の経済状態の原因は理解できない。

 負の経済とは、借金を前提とした経済である。則ち、投資先行型の経済である。又、梃子の原理、レバレッジをきかせた経済である。

 負の経済が確立される以前の経済は、貯めてから買うという経済が原則であった。投資先行型経済は、借金をして投資を先行することが可能な経済である。その為に、巨額な投資が可能となる。
 又、借金が可能となる以前は、金ではなく。物を借りることなよって成り立っていた。例えば、住居は、一部の資産家が長屋を建て庶民は、それを間借りするという具合にである。この様な物の経済を生の経済とすると負の経済は陰画のような経済と言える。
 投資が先行することで、需要を喚起される。反面、常に、収入の一部が借金の返済に向けられるようになる。つまり、可処分所得が制約されるようになる。同時に、定収入が得られなくなると負の経済は破綻する。
 つまり、収益の概念と負債の概念は表裏の関係にある。

 負の経済では、投資と借金の関係が重要になる。投資と借金は裏腹だという事である。借金の中には、資本も含まれる。
 今日の経済では、一度投資したらそれを回収しなければならなくなる。回収しなければ借金は返せない。そこに資金の流れが最初から決められている。それが負の経済である。
 その基となるのが、基本的に収益であり、その指標が利益である。それか市場主義の基本である。投資した資金を回収するためには、一定期間かかるのである。それが大前提である。
 ところが、競争を野放しにするとこの収益が維持できなくなる。収益が維持されなければ、投資した資金は回収できなくなる。
 そでもインフレーションの時は、負債が軽減されるからいいが、デフレーションの時は、逆に、負債の負担が増す。その上、競争の激化は、設備の陳腐化を早め再投資を促す事になる。これが市場が成熟した時の景気の状態なのである。
 このような状態を制御するために金融機関が発達したである。不況になるとこの金融期間の働きが機能しなくなる。
 だから、成熟した市場では規制が必要となるのである。

 負の経済は金融制度の発展を促し、金融制度の発展は、負の経済の拡大を促す。
 預金と負債は、表裏の関係にある。金融機関にとって預金は、借入金、即ち、負債である。金融機関は、負債である預金を投資に変換するための機関である。

 負の経済が、確立されるためには、定収入が確保されなければならない。ある一定期間、定収入が保証されることで、返済計画、資金計画が立てる事が可能となる。つまり、定収と借金は表裏の関係にある。
 負債の根拠は担保力であり、資源は資産にある。負債の元本の返済資源は、利益にある。利益は、収益と費用の差額である。

 一定の通貨の回転数が保たれないと経済は成長せず利益は、確保されない。利益を生み出すのは、入りの回転と出の回転の差である。時間が利益の本なのである。

 金利は、時間価値を形成することによって資金の流動性を高める働きがある。資金に流動性をもたせるのは、貨幣価値の時間差である。貨幣価値に時間差を派生するのが金利だからである。

 貨幣価値は、自然数の集合であり、経済主体の状態は、貨幣価値によって表現される。故に、自然数の総和と経済主体を構成する要素の組み合わせの数が経済の状態を表している。

 表に現れる経済現象の裏側では、負の経済の働きが隠されている。
 市場経済では、借入金の水準、収益の水準、資産の水準、費用の水準の均衡が鍵となる。水準は相対的なものであり、個々の要素を他の要素と比較することで意味を持つ。例えば、負債と収益、収益と費用、資産と負債、資産と収益の関係が水準の妥当性を決めるのである。
 経営の結果は、負債、収益、資産、費用の上下運動して現れる。この上下運動が一定の周期で繰り返されれば、経営は安定し、将来を予測することが可能である。しかし、負債、収益、資産、費用の上限運動が不規則で、周期が定まらない運動になると経営は混乱するのである。景気も同様である。
 重要なのは、周期、幅、均衡である。
 故に、経済事象を考察する際は、負債、収益、資産、費用の均衡を確認することから始める必要がある。

 負の経済下での運動は、どの経済主体も基本は同じである。しかし、表現の仕方が違う。:経営主体とは、家計、企業、政府、海外である。家計の負債は、他の部門の資産であり、政府の資産は、他の部門の負債である。故に、個々の経済主体の相互の負債、収益、費用、資産の均衡が重要なのである。

 負債の働き、負債の負担には、元本の返済と金利の二つがある。
 負債の負担の内、元本の返済は、表には現れない。表に現れるのは、費用として計上される金利である。ところが、金融危機が表面化すると水面下にある元本の返済を強要されるのである。そして、これが金融危機や不況を深刻化させる最大の原因となるのである。
 元本の返済と金利の負担をなくしたのが資本である。しかし、これでは、資本家には何の得もない。元々、資本家は、経営者に資本を預けたのである。つまり、資本も、本来は借金の一つである。その点を見落としてはならない。資本にも負担はある。それが配当である。

 なぜ、金利が派生するのか。そのためには、金利の働きを明らかにする必要がある。これまで、金利は、必要悪のようなとらえ方をされてきた。しかし、経済において、金利は、必要悪なのではなく。必要なのである。金利の働きによって貨幣経済は正常に機能しているともいえる。金利を働かせている要因は、時間価値にある。
 時間価値は、通貨の流通量を制御する。時間価値が生じることによって時間差が派生し、時間差には資金の流れを促進する働きがあるのである。
 時間価値の効用は、金利や配当を通じて発揮される。ただ、配当は利益を基礎としているのに対して、金利は、元本を基礎としているのである。元が入り口にあるか、出口にあるかの差である。極論とすると負債も資本も返済する義務はがあるが、返済しなければならない資金ではないという事である。元手なのである。
 経常収支と財政赤字は、通貨圏間の問題と、経済主体の問題の違いである。

 経常収支は、基本的にゼロサム取引である。経常収支の赤字国を黒字にするという事は、同時に、経常収支の黒字国を赤字にするという事を意味する。
 第一、ユーロのような統一通貨国間の経常収支は相殺勘定であり、内部的に均衡していれば問題とならない。
 又、財政赤字の問題は、経常収支の問題とは、質が違う。財政赤字は、経済主体間の問題であり、財政赤字は、政府部門の赤字を意味し、財政赤字を解消するためには、家計部門か、民間部門、海外部門のいずれかを赤字にする必要がある。
 民間部門の収益力が低下した時に、金融部門が長期資金の回収に走った結果、民間部門の負債が圧縮され、その反動で、政府部門の負債が増大したことが原因なのである。

 経常収支は、通貨国圏内で均衡していればいい。

 今、採るべき政策は、公共投資を上乗せすることよりも、通貨を供給することよりも通貨を市場に流通させ、回転数を高めるることの方が重要なのである。その為に、民間の企業の収益力の向上が最優先事項である。

 財政を改善するためには、公共事業の民営化を促進し、公共投資を抑制する。政府部門の負債を民間部門に、転移、付け替えればいいのである。
 景気を拡大するためには、民間企業間の過当競争を抑制する事で収益を改善し、その上で、民間投資を促進する。

 要するに、どこを赤字にして、どこを黒字にするか、その結果、資金や生産財の流れる方向や供給量にどのような影響が出るのかが重要なのである。





国債は、単なる借金なのであろうか。


 現代経済体制は、借金を土台とした経済体制だと言える。

 資本主義の発展の裏には、借金の技術の発展が隠されている。その点を見逃したら、現代経済を理解する事はできない。

 負の空間の拡大が経済成長を促し、正の空間の縮小が経済成長を抑制する。その均衡によって現代経済の変動は制御されるのである。

 負の数は、0と原点と座標軸があって成り立つ。そして、負の概念は、これら三つの概念と深く関わり合っているのである。そして、この三つの概念と深く関わることで負の概念は確立されたのである。

 自由経済体制下では、債務は、同等の債権が存在することが前提となる。故に、現金主義におれる借金の概念と債務の概念とは、異質の概念である。
 ところが、現実の経済では、現金主義的概念と損益主義的概念が混在している。それが経済の混乱の根底にあるのである。

  市場経済は、債権と債務の均衡の上に成り立っている。債権は正の経済を形成し、債務は、負の経済を形成する。即ち、市場経済の半分は、負の経済なのである。
 そして、負の経済を構成しているのが貨幣経済である。貨幣経済を制御している部分が金融制度である。故に、実物経済が、陽ならば、金融は、陰な存在である。表に働くのは、人や物の経済である。金融は裏で働くのである。

 国際金融機関の陰謀という事が囁かれる。しかし、それは結果論である。元来が金融というのは表で働く存在ではない。経済主体が自己の利益を追求するのは、必然的問題である。それを単に是々非々の問題として捉えるのではなく。経済の仕組みに転化することによって解決すべきなのである。
 特定の集団が何等かの意図を持って行動すれば、他の集団から見れば謀略に映るだろう。それが気が付かないところで行われれば陰謀と思われても仕方がない。しかし、組織や団体というのは、意図があって形成されるものであり、一々、それを謀略の陰謀のと非難されたら組織や集団など作れはしない。それこそ自由の否定である。是々非々を問うのならば、彼等の目指すところに対してである。金融制度を構築しようとする者が統一的な場を構築しようとするのは、当然の帰結であり、謀略の類ではない。

 貨幣制度を市場に浸透するのに歴史的に見て重大な働きをしたのが、鉄道や運河、そして戦争である。

 戦争が金融の仕組みを発達させたというのは、事実である。しかし、金融機関が戦争を望んだというのは穿ちすぎである。むしろ、戦争や革命と言った暴力的手段によらないと経済の仕組みが改まらないという事が問題なのである。

 鉄道や運河、道路と言った国際事業、国家事業によっても経済の仕組みの革新は可能である。

 確かに、銀行家は、戦争によって儲けたかもしれない。しかし、銀行家が戦争を起こしたわけではない。
 経済の仕組みの変革を戦争や革命によって成し遂げるのではなく。国際的な事業によって実現すべきなのである。

 債権の総和と債務の総和の値は等しい。そして、債務は、負の値だから、債権と債務の総和は、ゼロである。
 即ち、債権の総和=債務の総和なのである。これが市場経済の前提である。

 紙幣の原形である。藩札は、藩の借用証書が元である。借金が清算されれば藩札は流通しなくなる。この事は、紙幣の性格を端的に現している。

 紙幣は公的債務だと言う事を忘れてはならない。貨幣の発行は、公的債務の増大を意味する。それでも実物貨幣は、貨幣自体が交換価値を有していた。紙幣が持つのは、交換する権利だけであり、紙幣自体が価値を持つのではない。
 つまり、紙幣の発行する事によって先ず債務の基盤を作り、債務によって債権価値を生み出しているのである。そして、社会全体の債権と債務の総和は、常にゼロである。債務、即ち、負債の方ばかりを見ていたら、経済の均衡は計れなくなる。

 借金というと借金のことばかりに頭が囚われる。しかし、借金は、借金単独に成り立っているわけではない。それが複式簿記の発想である。借金は、ただ飲み食いや遊興、博打の為にするわけではない。借金にも使い道があるのである。そして、多くの借金は、長期的投資資金のために調達するのである。
 つまり、金儲けのための元金である。
 国債も然りである。

 企業の場合でも負債がいくら多くても、又、赤字でも資金が廻っていれば破綻はしない。これは国家財政も同様である。企業が倒産するのは、資金が廻らなくなるからである。この点は、国家経済も同様であり、資金が循環していれば経済が破綻すると言う事はない。問題は、資金の回転数と量と循環の範囲なのである。

 借金と預金というのは、表裏をなすものである。銀行預金は、銀行から見ると借金である。つまり、預金というのは、銀行の借金の一側面を意味している。故に、銀行を評価する時、重要となるのは、預金量の多寡ではなく。預貸率である。

 借金とは、負の預金と考えることもできる。つまり、債務というのは、負の債権だとも言えるのである。言い替えると預金は、負の借金といえる。
 債務が転換して債権を生み出し、債権が又債務に転換するこの回転運動を繰り返すことによって信用制度の基盤が形成されていく。

 預金と借入が表裏の関係にあるというのは、預金と借金が、前払いか、後払いかの差みたいな部分にもある。例えば、家を借金をして建てるか、それとも、お金を貯めてから建てるのかの違いである。
 これは、持ち家か、賃貸かの選択基準を構成する上での要素でもある。

 今日の市場経済では、債権と債務の力は均衡していることを前提とする。債権と債務の均衡が崩れると経済は、制御不能となる。
 債権と債務が均衡しているという前提は、会計制度の前提でもある。

 借りる者がいれば、貸す者がいる。売る者がいれば買う者がいる。この相互関係によって今日の経済は成り立っている。それが期間損益主義の大前提である。

 負債が増えると言う事は、もう一方で資産が増えていることをも意味するのである。その平衡の上に経済はなりたっている。国債と言った債務を検討する場合は、債務の対極にある債権を見る必要がある。

 期間損益を土台とした市場経済を考察する場合、貨幣の働きを二つの方向の働きとして認識する必要がある。
 例えば、売上は、相手の立場に立つと仕入れである。逆に、仕入れは、売上。同様に、受取は支払。支払は受取である。売掛金は、買掛金であり、買掛金は売掛金になる。つまり、自分と相手とは、取引おいて表裏の関係となる。

 日本の国債を多く所有しているのは、日本の銀行である。
 なぜ、日本の銀行が日本の国債を多く所有しているのかという事が重要なのである。

 2009年7月27時点で日本は、140兆円の預金超過状態である。(「今、世界で何が起こっているか」三橋貴明著 彩図社)
 超過預金というのは預金額から貸出額を引いた値である。預金超過と言う事は、銀行の過剰借入状態を意味する。

 家計の預金は、金融機関から見ると借入、即ち、負債なのである。国の金融機関からの借金は、即ち、金融機関から見て貸付なのである。 民間企業に有望、或いは適当な融資先が見あたらないから家計貯蓄の多くが国の借金に置き換わったと言える。

 金融機関に滞留している資金の量が問題なのである。

 所得として得た資金が向かう先は、消費か、預金である。預金は、金融機関から見ると借入金である。金融機関は、預金として得た資金を運用しなければ過剰借入になる。故に、企業や政府に貸し付けることになる。企業への貸付は基本的に設備投資か、金融投資であり、政府への貸付は、国債である。それ以外は金融市場に向かうのである。金融市場に向かう資金は、結局は、金融市場に滞留している資金である。
 所得が消費や投資に向かうか、貯蓄に向かうか。貯蓄が設備投資に向かうか、金融投資に向かうか、それが、経済状況を形成するのである。
 本来、実物市場への資金の通り道を造るのが会計の役割であり、政策の役割なのである。
 競争と言うが、何を競うべきなのか。価格なのか。品質なのか。サービスなのか。今は価格ばかりを問題にする。その為に、実物経済への資金の道が閉ざされ、金融市場へと資金が向かってしまうのである。

 国債は、借金なのであろうか。借金だと認識するから、国債の働きを正当に評価できず、かえって、国債の量を無用に膨らませてしまうのである。
 国債は、表象貨幣制度において貨幣の流通に伴う、反対作用である。つまり、国債は、表象貨幣制度の基盤であり、国債があるから表象貨幣制度は成立し、かつ、安定する。
 国債の働きは、紙幣の流通量の総量を制約する。金利の動向を定め、金利の下限、上限を制約する。
 国債は、通貨の総量を規制し、財政は、通貨の増減を調節する。
 それによって物価や景気を制御する。又、公共投資の有り様によって国債の性格は、負債に近いものか資本の近いものかを確定する。
 また、国債は、外貨準備金を用意し、経常収支の過不足を補う。国債が外貨建てか、自国通貨建てかでその働きに違いが生じる。

 国債は、紙幣の種、素だと言える。言い替えると紙幣は、国債の一種だとも言える。金貨のような実物貨幣と紙幣との違いは、紙幣は、実物ではなく証書だと言う事である。つまり、何等かの権利なり責務なりを記した契約書の一種だという点である。紙幣そのものが何等かの価値を有するというわけではない。要するに紙幣というのは、貨幣価値を印刷された紙に過ぎないのである。

 今の経済は、ボイラーの空焚き状態に似ている。市場経済を制御するのは、市場の仕組みである。市場の仕組みは、市場に働く正の働きと負の働きによって成り立っている。経済の働きで、正の働きばかりを見て、負の働きを無視すれば市場を制御する事はできない。


負の価値


 表象貨幣は、正と負の価値を生み出しているこの点を見逃してはならない。即ち、表象貨幣の流通は、同量の正と負の価値を生み出しているという事を意味する。つまり、全体が均衡するためには、正の部分と負の部分が同量存在しなければならないことを意味する。それは、得をしている部分と損をしている部分があることを意味しているのではない。正は得で、負は損という発想を切り替える必要がある。そうではなくて、正の働きをしている部分と負の働きをしている部分の働きの総和が均衡していることを意味するのである。
 財政と家計が負であれば、それに相当する企業収益が正となる。また、経常収支が負ならば、資本収支は正となると言うようにである。故に、ただ個別の値が正であるか、負であるかを問題にしても意味がない。問題は、正の値を示す部分と負の値を示す部分の働きの相関関係が重要なのである。

 貨幣の流れを作り出すのは、負の部分の働きに負うところが大きい。即ち、金利の働きや資金調達、返済の働きである。それは、長期的周期の資金であるか、短期的周期の資金であるかによって決まる。負の圧力が資金の流れに対して重要な働きをしているのである。

 会計上、貨幣価値が均衡しているという事は、貨幣価値に正と負の価値が均等に存在すると言う事を意味している。そして、負の価値を補う形で財が存在するのである。

 経済で最も重要なのは、均衡と振幅である。 

 会計的均衡には、内的均衡と、外的均衡がある。内的均衡は、経済主体内部の均衡を指し、外的均衡とは、経営主体外部の均衡、即ち、市場の均衡を言う。

 一般に会計というと内的均衡の問題に捉えられるが、市場、即ち、外部経済において重要なのは、外的均衡である。

 市場価値は、市場取引によって成立する。 市場価値は、即ち、貨幣価値である。

 運動は、一定方向の働きだけでは制御できないのである。双方向の働きがあってはじめて運動を制御することができる。
 故に、貨幣経済、及び、会計制度では、物の流れの反対方向に貨幣の流れを想定し、作り出すことによって物の流れの均衡を保ち、交易を制御しているのである。

 インフレーションやデフレーションは、市場の規模と通貨の流通量の不均衡によって引き起こされる市場的現象である。
 市場の規模が小さい時、過剰に資金が市場に供給されると物価の高騰を招く。貨幣経済の初期によく起こる現象である。それは、貨幣経済、特に、紙幣が成立する初期の段階で市場経済が拡大する過程において、その時点の市場規模に比して過剰に紙幣が流通することがある。市場経済や貨幣経済が離陸段階にあって通貨が市場に浸透していないことによって起こる現象である。
 新興国家は、この様な通貨の過剰な流通には、よく注意する必要がある。特に、中央銀行を中核とした金融制度が良く整備されていない段階で、政府が直接紙幣を発行したり、国債を濫発したり、或いは、私的銀行が通貨を勝手に発行したりした場合、市場の規律が保たれなくなる懼れがある。

 会計制度は、貨幣取引を前提として成り立っている。
 資産は、物を指すのではなく、貨幣取引によって発生した債権を意味する。資産として債権が指し示す物は、債権を成立させた根拠にすぎない。
 会計的現象は、純粋に観念的現象なのである。

 会計的価値は取引によって生じる。取引が実現する以前の価値は、潜在的価値であり、未実現価値である。

 この世の全てが貨幣価値に換算されているわけではない。言い替えると市場に出回っている経済的価値を有する物は、貨幣価値に換算された部分に限定されている。
 貨幣価値というのは、交換価値、市場価値を表象しているだけで、一般に言われている価値を意味しているわけではない。
 たとえば、美味しい物の価値には味があるが、貨幣価値は味を表象しているのではない。
 例えば紙幣だけを見たら、その紙幣の持ち主が何を必要としているのかは理解できない。紙幣というのは、市場で紙幣に示された貨幣価値と同等の財と交換する権利を示しているのに過ぎない。紙幣は、一種の尺度である。

 金は、数であり、人、物、時間は、量である。

 数と量をかけて数量とする。量に数を重ね合わせて数量に変換する。それが価格であり、貨幣価値の量である。

 人と物は所与の空間なのに対し、金は、任意、即ち、人為的空間なのである。

 物と違い、貨幣価値は、数そのもので実体はない。それだけに、価格だけの競争に陥ったら歯止めを失う。
 価格は、あくまでも市場価値を表した値であり、価値の部分、側面に過ぎない。経済的価値の本質は必要性であり、主観的なものである。

 会計は、元々数値化できない対象を取り扱っているわけではない。数値化された財を対象として会計は成り立っているのである。その意味では会計的現象というのは数値的現象だと言える。
 ただ、対象とされた財自体に、最初から貨幣価値があるわけではない。そこで、市場取引を経由することで数値化するのである。一度、市場取引が成立すれば、取引の結果としての数値が実績として記録される。それが会計数値の根拠となるのである。
 本来、貨幣価値というのは、取引実績の上に成り立っているのである。

 貨幣価値は、均衡するようにできている。それは、交換価値を表象するという貨幣の性格による。

 市場価値というのは交換価値である。故に、市場価値ばかりに経済的価値が偏ると交換性のみが強調され、必要性という視点が欠落しまう危険性がある。

 貨幣の働きには、正の働きと負の働きがある。どの経済主体が正の働きの部分を担い、どの経済主体が負の働きの部分を担っているかを見極める必要がある。そして、その構造が長期的にどの様に変化するか、又、させるべきかが経済の在り方や政策を決定付ける。

 なぜ、債権と債務が均衡するのか。それは、最終的には、現金によって決済されることを前提としているからである。

 現金とは、その時点、時点の貨幣価値を実現する物だが、貨幣価値の実体は、現金にしかないといえる。つまり、貨幣価値を確定するのは今しかないのである。

 貨幣価値は、債権と債務に等分に分割される。つまり、市場全体の債権の総和と債務の総和は等しい。それが前提である。

 単位期間における紙幣の流通量の総量は、紙幣の発行残高と回転数によって決まる。

 市場に流通する紙幣の総量は、紙幣の発行残高を上回ることはない。

 資金の量は、資金の調達手段によって制約を受ける。

 紙幣の流量は、紙幣を発行し、管理する仕組みによって決まる。紙幣の発行残高は、紙幣の発行の仕組みと回収の仕組みによって制約されるからである。

 紙幣の発行の形態は、借入をする手続と同じである。なぜならば、紙幣の発行は、公的負債の形式をとるからである。

 兌換紙幣は、政府の保有する金や徴税権を担保として中央銀行が紙幣を発行する。不兌換紙幣は、国債を担保として中央銀行が紙幣を発行する形式をとる。中央銀行にとって銀行券は負債勘定として、保有現金と区別して表示される。即ち、紙幣は、公的債権を代償として発行される。公的債権は、対極として公的債務を発生させる。即ち、紙幣というのは、借用書の一種である。

 政府が直接紙幣を発行する形態でも公的債務という性格は変わらない。ただ、政府が直接紙幣を発行することには幾つかの弊害が生じる。

 政府が直接紙幣を発行することは、幾つかの問題点がある。その第一が、政府が直接紙幣を発行することによって中央銀行の機能が発揮できなくなるという事である。その為に、金融機関に対する中央銀行の統制力が弱まり、金融機関による系統だった紙幣の管理に支障が生じることである。
 第二に、財政は、現金主義に基づく会計処理がされているのに対し、市場は期間損益に基づく会計処理がされている。この間に制度的な連続性がない。故に、中央銀行を仲介することによって財政と市場との整合性を取っている。この働き、変換ができなくなる。その為に、会計的整合性が失われる。
 第三に、紙幣価値を規定する何等かの物的、或いは、貨幣的基準が得られないため、紙幣の信認が得られなくなる。貨幣価値が不安定なものになる。物的というのは、金本位制では金、不兌換紙幣では国債を言う。

 金本位制度下では金の変動は、貨幣価値の変動を招く。
 金の価格が異常な高騰を見せている。それは、社会不安と貨幣への信認が薄れているために、金相場に資金が流れているからだと言われている。しかし、金の高騰が直接、物価に連動しているわけではない。
 現在の金の高騰の影響を貨幣価値が受けないのは、不兌換紙幣だからである。

 紙幣の流通量という観点からすると国債の問題は、国債の発行量の問題よりも国債がどれくらい資金化され、市中に流通したかの問題の方がより重要である。

 紙幣の発行は発電によく似ている。発電量は、使用電力によって決まるのである。発電量に対して使用電力が多くなると停電が生じる。また、使用電力が少なければ、発電の効率は低下するのである。発電量ばかりを問題にしても意味がないのである。問題は、電力に対する需要、必要性の問題である。  

 貨幣経済から見た財政の役割は、紙幣の流量を調節することにある。

 国家の支出は、紙幣の発行量の増加に繋がり、国家収入は、紙幣の回収量の増加に繋がる。国家の収入と支出が紙幣の発行量の増減量を決める。

 国家の支出は、民の生活により、国家の収入は、市場の規模による。民の生活とは、所得の再分配と社会資本の整備、行政費用からなる。これらの根底にあるのは、国家観である。
 国家の働きは、金の働きや物の働きだけではなく、人の働きがある。例えば、老人介護に対する働きには、ただ、金を与え、施設を作ればいいと言うのではない。むしろ、人としていかにあるべきかが重要なのである。つまり、国家観の根本は人にある。その根本がなくして国家財政の基礎は築けない。

 公的債務の存在は紙幣の性格上必然的なのものである。問題は、公的債務の量である。財政に対して公的債務の量が与える影響が問題となるのである。

 国家の債務の規模は、紙幣の発行量に比例する。紙幣の発行量は、財政収支によって決まる。

借金経済


 市場の拡大に比例して公的債務も増加する。

 国家の支出は所得の再分配の問題であり、国家の収入は、紙幣の回収の問題である。国家の債務の問題は、収支の均衡の問題である。

 通貨の実質的流通量は、国債の残高の総量と国債の新規発行の量と国債の借り換えの量の関数として表される。

 国債の市中消化は、公的債務の民間への転移を意味する。同時に、国債を市中で消化させる事は、国家が、貨幣から吸い上げる事をも意味する。つまり、国債の発行は、貨幣の回収手段の一つなのである。国債以外に、市場から貨幣を回収する手段は、税収と事業収入がある。

 国債の市中消化は、公的債務を民間、特に、民間の金融機関に転移し、国債を担保する事によって中央銀行から紙幣を引き出す操作を意味する。その場合、国債の金利は、国債の保有者に対する配当となる。
 一定の国債の保有が恒常化すれば、国債は限りなく資本と同じ働きをするようになる。例えば、将来の税収や公共事業、公共資産を担保して国債を発行すれば、徴税権や公共投資に対し、国債の所有者に何等かの権利が生じる事を意味する。

 将来の税収や公共事業、公共資産を担保した公的債務が対外債務である場合、国家の主権に瑕疵が生じる可能性が高い。

 国家の支出は、紙幣の発行量を増加させることによって潜在的需要を顕現化する働きがある。潜在的需要が顕現化するという事は、市場取引を活発化することに繋がる。
 ただし、紙幣を流通させるだけでは、需要を喚起することには繋がらない。国家の支出で重要なのは、所得の偏りを是正することによって市場の取引の均衡を保つことにある。

 税制の要点は、紙幣の回収率と税率の問題だといえる。

 税収は、即ち、国家収入、言い換えると政府による紙幣の回収高は、市場の規模に比例する。市場の規模は、取引の総量によって決まる。問題は、市場の規模を税制度がどこまで捕捉するかである。

 財政の基本的な機能は、財政支出の規模と財政収入の規模によって紙幣の発行量を調節する事にある。財政収支の不均衡は、公的債務の量によって調節される。

 市場規模と生活水準が均衡するように紙幣の発行量を調節するのが財政の役割である。
 市場と規模と生活水準を均衡させることが出来るように税制度を構築し、予算を作成するのが政府の責任である。

 財政破綻というのは、政府が紙幣の流量を制御できなくなって状態を言う。紙幣の量は、財政収入と財政支出と公的債務の関数である。
 故に、財政破綻の原因は、財政収入と財政支出の差が極端に広がり、公的債務に対する抑制が効かなくなることを意味する。

 財政の働きは、効率よく紙幣を回収し、又、環流することにある。政府が、紙幣を回収する仕組みは、税制度である。税の仕組みは、効率よく紙幣を回収する仕組みでなければならない。紙幣の回収と環流の均衡がとれなくなると財政は、破綻する。

 財政を健全化するためには、国家目的に基づいて国家収入と国家支出、そして、公的債務の均衡を計ることである。

 政府が有効に機能するためには、まず第一に、長期的展望に立った国家観、国家構想を前提とする必要がある。
 その上で、財政収入と財政支出を長期的に均衡できる仕組みを構築する必要がある。財政収入と、財政支出、そして、公的債務の量は、紙幣の必要量から算出されるべきものである。目先の景気対策ばかりに捕らわれるべきではない。

 国債というのは減らそうとすればするほど増えることがある。十分、気をつける必要がある。

 財政は、国債の増減を調整する事であるから、無理矢理、財政支出を抑制すると市場の収縮を招いてかえって国債を増やす結果になることがある。問題は、税によってどれくらい経済の動向を捕捉できるかにかかっている。

 紙幣の流れをどう税制によって捕捉するかと言った点で重要になるのは、どの部分を課税対象にすべきかという事である。所得と言っても、期間損益に基づく所得と現金主義に基づく所得では、性格や働きに違いが生じる。消費や商品に対する課税というのは、取引と言う行為と結果である財を課税対象とすることを意味している。土地や権利を課税対象とするのは、固定資産、ストックを課税対象とすることである。関税は、物流を課税対象としていることである。使用税は、受益者を対象として課税しているのである。
 所得を対象とするのか、取引を対象とするのか、市場を対象とするのか、資産を対象としているのか、物流を対象としているのか、受益者を対象としているのかそれは課税の目的に依るのである。

 何に対して課税するのか、もっと、有り体に言えば、何を課税対象とするのかが税の働きを規定するのである。
 課税対象には、人、物、金がある。故に、税には、人に対する課税がある。物に対する課税がある。金、即ち、会計的概念に対する課税がある。物を課税対象とする制度には、固定資産税や関税、物品税、相続税がある。人を対象とする課税対象には、所得税や消費税、人頭税などがある。会計的概念を対象とした税に法人税などがある。
 重要なのは、課税対象が資金の流れや働きにどの様な関わりがあり、どの様な影響を及ぼすかである。

 特に注意が必要なのは、所得税と言っても期間損益に基づく所得税と現金主義に基づく所得税は、性格も働きもまったく異質だと言う事である。
 期間損益というのは、会計制度によって計上された利益を課税対象とするものであり、法人税などを指して言う。それに対して、現金主義に基づく所得税は、現金収入を課税対象とする税である。現金主義に基づく所得税は、資金の流れに基づくが、期間損益は、資金の流れとは直接的には結びついていない。つまり、収入があってもなくても課税される。また、期間利益に対する課税が過剰だと、長期資金の原資が確保されずに、負債の圧力が蓄積されることになる。
 その為に、期間利益に対する課税は、適用を間違うと資金の流れの阻害要因となる。可能であれば、期間利益に対する課税は、補助的なものに限定すべきである。さもないと、企業活動や投資活動が抑制的なものになってしまう危険性がある。
 この点は、資産と言ったストックに対する課税も同様である。資産は、換金化されない限り、紙幣の流れに直接かかわってこないのである。つまり、取引を前提とした対象は、取引という行為があってはじめて実現するものであることを忘れてはならない。原則的に未実現利益は、利益として確定しないかぎり、現金化されないのである。
 逆に、ストックに対する潜在的な価値を表面化するという効果や社会的不公正を期待することも可能であるが、ストックを課税対象とする税制を導入する場合は、その効果や影響を慎重に検討しておかなければならない。

 景気が悪化した時に、法人税を上げる事は、企業の長期資金に対する原資を圧迫することになり、企業の資金繰りを悪化させる。景気が悪化しているという事は、収益が悪化していることを意味し、尚かつ資産価値が低下していれば、企業の資金調達力は三重の打撃を受けることになる。そこに金利や物価の上昇が追い打ちを掛ければ、事業の継続に重大な支障が生じる。

 民間企業が大量に破綻することは、景気に負の連鎖をもたらす。

金利の働き



 金利とは何か。金利の意味を明らかにするためには、金利の働きを知る必要がある。

 金利の働きには、第一に、時間価値の形成がある。第二に、費用としての働きがある。第三には、金融機関にとって収益源としての働きがある。第四に、付加価値としての働きがある。第五に、物価に対する働きがある。第六に、金利は、為替相場を形成する働きがある。第七に、金利は、貨幣の流通量と回転、そして、ストックに与える働きがある。第八に、金利は資金を循環させる働きがある。

 金利が時間価値を形成すると言う事は、金利は時間の関数だと言う事である。
 故に、金利の働きを測る場合は、キャッシュ・フローによる現在価値を計算する必要がある。
 時間的金利差が経済に及ぼす影響も考慮しなければならない。

 考慮しなければならないのは、借入金の返済計画と収益とが必ずしも連動していないという事である。

 借入金の構造は、借入金の元本の部分と利息の部分から成る。借金の構造の中で利息の部分が時間構造を形成する。
 借金か、借金でないかは、調達した資金を決済するための期間によって決まる。即ち、調達した資金を決済するのに、単位期間を越えるものを借入金、負債に分類され、単位期間内に決済される部分を費用とするのである。ただし、借入金の元本に相当する部分ま返済額は、費用として見なされない。

 第二に、金利は借り手にとって金利が費用だと言う事である。

 この対極に金利は、貸し手にとっての収益源であるという事がある。つまり、金利は、貸出金利と借入金利があるという事を意味する。

 また、金利には、固定的なものと変動的なものがある。
 固定金利とは、一定期間に予め決められた利率で支払われる利息をいい、変動金利とは、市場の相場によって変化する利息を言う。

 金利の変化は、金融機関のみならず、民間企業や財政、家計の収益構造に重大な影響を与える。

 また、金利は、地代、家賃、人件費や減価償却費と同じように付加価値を形成する。

 金利は物価の変動を左右する。この働きが金融政策の基本にある。

 金利は、国際間の資本収支に影響をあたえ、為替の変動に作用する。

 金利は貨幣の流れる方向にも影響を与える。
 資金は、金利が低いところから高いところへ流れる傾向がある。
 特に、この性格は、内的市場と外的市場相互に作用をする。つまり、金利の上下動は、国内の物価を変動させると同時に、為替相場にも連動している。金利と物価と為替相場の三つの要素の整合性をとるのは困難なのである。

 金利は通貨の流通量を変化させる働きがある。この働き、ストックの状況を前提としている。
 借金の構造は、金利の部分がフローを元本の部分がストックを形成する。
 即ち、金利は短期的な変動に影響を与え、元本の部分は、長期的な働きに作用する。
 資金の短期的働きとは、収益を言う。つまり、金利は期間損益に作用し、借入金の元本の返済は、貸借に作用する。貸借に作用すると言う事は、投資に作用することを意味する。

 金利の上昇は、貨幣の流通を抑制し、金利の低下は、貨幣の流通を促進する働きがある。

 現在の貨幣制度において通貨が循環するのは、時間価値、即ち、金利の働きによる。逆に言うと、時間価値が働いているから、通貨は循環せざるをえないのである。時間価値が働いていない時代は、貨幣をそのまま保管していても貨幣の持つ価値は変わらなかった。しかし、時間価値が働くと貨幣をそのまま保管していたら、貨幣価値は減価してしまう。故に、貨幣価値を保つためには、貨幣を使用しなければならなくなるのである。



通貨の総量管理と比率


 国債は、ただの借金ではない。現金取引は、現金の授受をもって完結する。
 それに対して負債は、対極に資産、債権を生み出す。国債が生み出す債権とは、何か、それが意味するところが重要なのである。

 現金主義で言うところの借金は、債務に転置される。債務は、債権を生み出し、中でも、国家債務から派生する国家債権は、貨幣価値の根幹を形成する。

 国家経済を制御するためには、通貨の総量管理と比率が重要となる。それは、貨幣価値の根源が債務に基づくからである。通貨の総量管理は、国家債務の管理を意味し、国家債務の管理は、経済規模に比例してなされなければならないからである。
 貨幣経済体制では、負債というものはなくならない。負債を限りなくなくそうという発想は、貨幣経済を否定する考え方である。貨幣経済は、負債を能動的なものとして受容することによって成り立っている。
 通貨の総量管理と比率を調節するとは、部門別に貸借を明らかにし、貸借全体の水準と個々の部門が占める割合を調節することである。  

 資金の過不足総枠は、貨幣の供給量によって決まる。又、資金の過不足の総和は、ゼロになる。
 市場の状態は、貨幣の供給量(ベースマネー)と貨幣の流通量(マネーストック)と物の需要と供給によって決まる。貨幣の流通量は、貨幣の供給量(ベースマネー)の回転数によって導き出される。

 取引は、等価交換を前提としている。借りる者がいれば貸す者がいるのである。つまり、取引が成立した時点時点では価値が均衡していることが前提となる。それが、三面等価の根拠にもなる。
 つまり、市場経済は、取引を土台としており、市場全体では、経済的価値は、均衡即ちゼロサム、ゼロ和的状態にある。

 物の取引は、一方通行に流れる。それに対して貨幣取引というのは、双方向に流れる事を前提としている。つまり、物の流れる方向の反対方向にお金が流れることで取引の均衡を保つのである。その為に、貨幣は、債権と債務という双方向の働きを生むのである。そして、この働きの総和はゼロである。

 部門別に見ると家計、民間、政府、海外部門の資金の過不足は均衡する。資金の過不足は、資金側から見ると資金の貸し借りとして現れる。つまり、負債として現れる。
 そして、家計、民間、政府、海外部門の資金の過不足の総和はゼロになることが前提である。

 国際経済において国家の外部にある経済を外部経済とする。
 為替は、外部経済である。即ち、為替取引の結果、経常取引と資本取引の国際為替市場全体では、総和は、過不足なく均衡しているので常に、ゼロである。
 また、資本取引と経常取引は、表裏をなしている。

 経常収支は、物を本とした収支である。金を本とした収支は資本収支である。物と金とは、鏡像関係にある。
 経常収支は物を基盤とした収支であるのに対し、「お金」を基盤とした収支は、資本収支である。

 現代の為替制度では、国の内外の不均衡は、貨幣価値を変動することによって調節される。それが、変動為替制度である。貨幣価値の変動は、国内の財政、家計、民間企業の資金の過不足構造にも重大な影響を与える。政府、家計、民間企業、海外の相互作用によって経済全体の構造的均衡は維持されるのである。
 そして、世界市場の貨幣価値の水準は、生活の水準や構造に併せて一定の値に均衡しようとする。それが市場に働くエントロピーである。

 経済主体間の資金収支、資金の過不足の均衡を考えると七つの形相、局面に分類できる。
 第一に、公的部門(財政)=家計+民間企業+資本収支(海外)であり、この場合、財政が黒字の場合と赤字の場合の二つ場合がある。
 第二に、公的部門(財政)+家計=民間企業+資本収支(海外)であり、この場合、公的部門と家計を足した値が黒字の場合と赤字の場合がある。。
 第三に、公的部門(財政)+民間企業=家計+資本収支(海外)であり、この場合、公的部門と民間企業を足した値が黒字の場合と赤字の場合がある。
 第四に、公的部門(財政)+資本収支(海外)=家計+民間企業であり、この場合、公的部門と資本収支を足した値が黒字の場合と赤字の場合がある。
 第五に、公的部門(財政)+家計+民間企業=資本収支(海外)であり、この場合、公的部門と家計と民間企業を足した値が黒字の場合と赤字の場合がある。
 第六に、公的部門(財政)+家計+資本収支(海外)=民間企業であり、この場合、公的部門と家計と資本収支を足した値が黒字の場合と赤字の場合がある。
 第七に、公的部門(財政)+民間企業+資本収支(海外)=家計であり、この場合、公的部門と民間企業と資本収支を足した値が黒字の場合と赤字の場合がある。
 今の日本は、第四の場合の公的部門と資本収支が赤字の場合に相当する。資本支出=経常収入であり、資本収支が赤字だと言う事は、経常収支が黒字だと言う事を意味する。

 この様な均衡が何を意味するのかを考えてもらいたい。つまり、赤字の経済主体と黒字の経済主体があり、両者の値は、常に均衡、即ち一致しているという事である。つまり、赤字であるか、黒字であるかが問題なのではなく。赤字幅、イコール、黒字幅であり、その幅が通貨の流量の水準を表していると言うことなのである。つまり、赤字の幅を縮めれば、黒字の幅も縮むと言う事である。それは、市場の規模を縮小する効果があると言う事でもある。

 国債残高を減らそうとしたら、民間の借金を増やすことを考えなければならない。単純に債務を減らそうとすると資金の流量の減少を招くからである。民間の借金を増やそうとするのならば、安心して借金ができる環境を作る必要がある。安心して借金ができる環境というのは、固定収入が確立した状態である。つまり、一定の所得や収益が見込める状態である。

 国の負担を減らそうと考えるならば、例えば、国に代わって公益法人が民間の金融機関から融資を受ければいいのである。むろんその際は、損益主義に則ってである。

 重要なのは、均衡である。単純に黒字は是で赤字、借金、費用は非だというのではない。

 債権と債務は、単位期間でも、累積残高でも、内外取引でも均衡する。即ち、短期間でも債権と債務の集計値は同じであり、債権と債務の総和はゼロである。累積残高でも債権と債務は同値であり、総和はゼロになる。国の内外との引きにおいても、債権債務は同値であり、総和はゼロになる。国際市場における国家間の債権と債務は同値であり、総和はゼロになる。
 経常黒字の国があれば、黒字分を負担する経常赤字の国がある。そして、決してそれは、過不足の問題であって勝負事とは無縁の問題である。

 問題となるのは、単位期間における構造的な残高は、蓄積される危険性があるという事である。河床に堆積する汚泥のように、債務の残債が貨幣の流れを圧迫し、そして、洪水が河床に堆積した押し流すように、累積した債務をインフレーションや戦争が債務を解消してきたのである。しかし、洪水が周辺地域に多大な被害をもたらすように、急激な景気変動は、経済機構に甚大な被害をもたらす。構造的に蓄積される債務の残債をいかに処理するのかが、重大な課題なのである。
 しかし、それは単位期間の構造だけを問題としていたのでは解消できない。国家間、及び時間の構造変化によって長期的な観点で調整すべきなのである。短期的に、無理矢理解消しようとすれば、国家間の関係や時間的構造を破綻させる結果を招くだけである。

 例えば構造的に経常収支が黒字国は、外貨準備が蓄積し、経常赤字国は、国債残高が蓄積する。又、恒常的な財政赤字国は、国債残高、累積してしまう。

 この様な単位期間に基づく不均衡は、短期、長期の時間的構造によって解消する以外にはない。
 即ち、経済構造の長期的変化と単位期間における構造とを調節することによって解消するのである。

 それが、損益構造、貸借構造を明らかにする動機でもある。損益は、単位期間内の動的構造を表し、貸借は、一時点での静的構造を表している。

 会計における長期短期の働きの違いは、貸借構造と損益構造に端的に顕れる。貸借構造は、資産に対して負債と資本を対比させるという水平構造を持つのに対し、損益構造は、収益から費用を段階的に差し引くという垂直構造を持っている。

 このような時間的均衡、即ち、期間損益構造を財政も家計も持っていない。その為に、単年度中に不均衡を無理矢理是正しようとしてかえって歪みを拡大させてしまうのである。
 
 国家内外の資金の過不足の状況は、資本収支を見れば解る。資本収支の裏には、経常収支がある。経済収支とは、物の動きに基づく収支である。我々は、金の動きばかりに囚われるが実際は、物、即ち、財の動きが根底にあり、財の均衡が前提となり、それが資金の均衡として現れるのである。
 必要な物資を調達するために、財を輸出して資金を得る。交易の決済の過程で資金の交換が生じるのである。それが為替である。

 国内の資金の過不足の状況は、家計、企業、公的部門の資金の過不足状態を意味する。国内の資金の過不足を補うのは、国外からの資金の流れである。

 国外からの資金や物資の流れがない時代では、家計と企業、公的部門の資金の過不足の総和はゼロであった。家計や民間の資金の不足は、政府が貨幣を発行して補っていたのである。つまり、貨幣は、公的債務である。金本位時代は、金を担保として貨幣を発行していた。今は金に変わって国債を担保としている。

 国内の資金の均衡も財の均衡があって保たれる。財の絶対数が足りなくなれば、貨幣は、余り。物価は上昇する。経済の基盤は物の経済なのである。

 貿易の不均衡は、関係国間で、経常収支と資本収支を相互協力することによって調整しなければ解決できない。例えば、現代のように中国とアメリカ間における貿易の不均衡は、中国がアメリカからの輸入を増やし、アメリカが、中国から資金を調達する事によって長期的、段階的に調節する必要がある。その際、重要になるのが為替である。当事国間が自国の利益ばかりを追求すれば国際経済は、破綻する。つまり、釣り合いのとれた長期的関係をいかに築くかが重要なのである。

 経常黒字国は是で、経常赤字国は非だと一概に決め付けられない。是々非々は、黒字国と赤字国の構造的関係によって判断すべき事なのである。
 今、経常黒字国がインフレーションを恐れ、経常赤字国がデフレーションを恐れている。それが何を意味するのか、その背後にどの様な関係が隠されているかを明らかにすることが重要なのである。

 通常、資金の過不足は均衡する方向に向かう力が本来働いている。経常収支の赤字国は、通貨の下落を招き、また、黒字国は、通貨の高騰を招くことによって経常収支は、均衡する方向に働く。
 この様な働きを短期的な視点から調整しようとすると経済の均衡を破綻させる結果を招く。
 全体をどの様に均衡させるかは、家計、企業、財政、交易の在り方をどの様なものにするのかの構想に基づいて長期的観点から為されるべき事である。

 交易というのは、均衡、相互補完が前提であり、どちらか一方が利益を独占しようとすると成り立たない。故に、国際経済体制は、相互補完体制でなければならない。要するにお互い様なのである。

 全ての国が緊縮政策をとれば忽ち資金繰りが付かなくなる。国家間の均衡をいかにとるかが重要なのである。赤字国は非であり、黒字国は是という議論は成り立たない。

 国家間に存在する不均衡の問題は、最終的には、貨幣価値基準によって解消される。その為に、国際為替市場がある。根本は、世界的な通貨制度の仕組みなのである。

 通貨の流量が一定の水準を超えると流動性が過剰になり、金融市場に滞留するようになる。不必要に滞留した資金が色々な悪さをし、障害を引き起こすのである。

 家計貯蓄や企業貯蓄というのは、裏返して金融機関から見ると借入である。
 企業の貸借は企業の貯蓄から投資を引いた値として表れる。
 経済の状態を見るためには、金融機関の預貸率、預金超過額の推移が重要な鍵を握っているのである。

 家計の貯蓄残高と企業の貸借、政府の財政収支、資本収支の総和は、均衡、即ち、ゼロに調整される。調整できなければ、経済は均衡を失い破綻する。

 通貨の総量の水準は、余剰資金の総和、即、不足資金の総和である。
 そして、比率とは、家計の過不足、企業の過不足、政府の過不足、資本収支が資金に占める割合である。
 現在の資金の水準は、家計が貯蓄を積み増すと同時に、企業が借金の返済をしている為に、全体として縮小傾向にある。その分、財政赤字と資金収支が増大しているのである。つまり、現在の状況では、家計が預金を積めば積むほど、財政赤字は拡大する。
 個々の部門に蓄積される負債の量を清算する為には、資金運用の時間構造によって解消するように仕組む必要がある。故に、単年度均衡予算制度では解消することは困難である。

 故に、経済政策の根本においては、通貨の総量と比率の時間的管理が重要となる。比率とは、家計、企業、政府、海外、個々の部門の働きを意味するのである。 

 また、通貨の働きと単位期間内における費用対効果の両面から経済活動は考察されなければならない。その為に、現金主義と期間損益主義の二つの視座が必要とされるのである。

 通貨を回収する手段は、決済、清算、償却がある。いずれも、資金を費用化した上で、収益と相殺する操作である。最終的な処理に際しては、国家収益がその原資となる。

 経営者ならば、価格が単に貨幣の流通量だけで決まるのではないことを知っている。又、単純な需給だけで決まるわけではないことも知っている。
 価格を決定する要素には、貨幣的要素だけでなく物的要素、即ち、農産物で言えば、天候や作柄に左右されるし、また、工業製品ならば原材料価格や為替、流通などが影響していることは明らかである。つまり、物価に対して決定的な役割をしているのは、物の生産や流通なのである。それを前提として貨幣の働きを考察する必要がある。

 石油の備蓄も、ただ石油も備蓄すればいいと言うのではない。何の目的でなぜ、石油を備蓄する必要があるのかである。石油の備蓄は、必要とされた時に、市場に放出されなければ意味がないのである。肝心なのは、どの様な時に、石油を放出すべきかなのである。それを決めるのは、石油を備蓄する目的に依るのである。

 現代人の多くには、借入は悪い事だという認識がある。しかし、今日の経済社会は借入によって成り立っている事を覚えておく必要がある。借金は経済の半分の世界を担っていると言えるのである。そして、部門毎の借入の増減を分析することである。借金の能動的な働きを正しく認識しないと今の経済の実体を理解することはできない。
 負債というのは、家計や企業の貯蓄が増えると財政赤字や資金収支の赤字も増えるというように、資金の過不足の状態によるのである。借金がなくなるという事はない。なぜならば、公的債務がなくなるという事は、通貨の流通がなくなることを意味するからである。

 借金が悪いわけではない。返済が滞るから問題なのである。金融危機の際、返済が滞っていないのに、担保価値が割れたと言って長期資金の回収に多くの金融機関が走った。この様な行為は明確に背信行為であり、契約違反である。そして、それが経済の底割れを誘ったのである。
 借金の返済の原資は、収入にある。債務を解消する手段は、適正な収益と利益を確保することなのである。
 収益が悪化しているのならば、収益の悪化している原因を問題とすべきなのである。収益も悪化していないのに、担保価値が劣化していると資金の回収に走るのは犯罪行為に近い。

 資産価値と収益の変動は、予測がつかない。負債と費用の変動は、ある程度計算ができる。故に、経済施策や経営計画は、計算ができる負債と費用を基にして構想を立てるのである。

 投資の対極には、負債があり。経常収支の対極には、資本収支があり、公共投資の対極には、財政収支がある。これらの要素を均衡させるためには、短期、長期の時間的構造によらなければならない。
 その為にも現金主義と損益主義の二つの視座が必要とされるのである。

 人は所得、物は生産、金は、支出、時間は金利に現れる。人、物、金の均衡は、時間の均衡、即ち、短期、長期の均衡によって実現する。
 その為には、短期的には、損益におけるの単位期間均衡と資金における長期的均衡均衡の二つの均衡を明らかにする必要がある。



 参考文献
「今、世界経済で何が起こっているのか」三橋 貴明著 彩図社
「経済ニュースの裏を読め」三橋 貴明著 TAC
「データで見抜く日本経済の真相」原田 泰著 日本実業出版社

均衡と振幅


 時計の振り子が時を刻むように、振幅と均衡によって市場経済の動きは制御されているのである。

 経済で最も重要なのは、均衡と振幅である。 

 会計制度を基礎としている経済では、会計的均衡が前提となる。会計制度は取引を集計した集合である。故に、取引の均衡が前提となる。
 取引の均衡は、債権と債務の均衡を意味する。故に、債権の総和と債権の総和は均衡し、値は一致する。
 一つの目の均衡である。

 経済の半分が負の部分であるとしたら、考えなければならない事は、債務の適正な水準であって、債務をなくすことではない。

 均衡という観点から幾つかの等式が成り立っている。その等式の持つ意味が重要なのである。
 等式を列挙すると、先ず、債権の総和=債務の総和である。
 次ぎに、経常赤字の総和=経常黒字の総和
 貿易黒字の総和=貿易赤字の総和
 経常収支=資本収支
 総生産(生産)=総所得(分配)=総支出(支出)
 国内生産+輸入=消費+投資+政府支出+輸出
 経常収支=民間部門の貯蓄投資差額+財政収支
 総資産=総資本(総負債+資本)
 借方(総資産+費用)=貸方(総負債+資本+収益)等である。

 留意しなければならない点は、経済規模や財政規模、市場規模を絶対額で捉えてはならないという点である。
 経済も財政も拡大縮小と言った変動しているのである。経済や財政、市場は、内包数であり、相対的な値である。しかも、前提や社会の仕組み、経済構造などの前提によっても違い、何%が妥当と言った形で一様に決められる基準ではない。

 債務と債権は均衡する。この均衡を測る場合、重要なのは、水準であり、水準は、債務の絶対額ではなく、相対的値だと言う事である。

 会計的均衡には、内的均衡と、外的均衡がある。内的均衡は、経済主体内部の均衡を指し、外的均衡とは、経営主体外部の均衡、即ち、市場の均衡を言う。
 一つ目の均衡は、外的均衡を意味する。
 外的均衡は、内的均衡の前提となる。経営主体内部の借方、貸方は、均衡する。これが二つ目の均衡である。

 一つの制度は、一つの空間を形成する。一つの空間は、境界線を画定することによって範囲を形成する。一つの範囲は、内と外の関係を生じさせる。

 一つの通貨制度は、一つの空間を形成する。一つの会計制度は、一つの空間を形成する。通常、通貨制度と会計制度が作り出す空間は重複している。
 通貨制度の内外の均衡は、経常収支と資本収支によって表される。経済収支と資本収支は均衡する。これが三つ目の均衡である。

 会計的均衡とは、均衡するのではなく。内的にも外的にも均衡させるのである。なぜならば、貨幣価値は、分配のための手段だからである。

 会計というと内的均衡が重要だと考えられるが、市場、即ち、外部経済においては、外的均衡の方がより重要である。つまり、売り買い、貸し借りと言った取引の総量が市場の状況を推し量るためには重要となるのである。

 債権と債務の内的、外的均衡が会計空間を成立させ、尚かつ、会計制度を維持しているのである。

 簿記上の借方、貸方が示す数値は、経営主体を通過していった資金の量である。故に、貸方、借方は均衡するのである。
 売掛は、買掛。受取は、支払。つまり、一つの事象、取引を内と外から見た違いに過ぎない。

 貸借関係は、取引の対称性がもたらす鏡像関係である。

 家計、民間、政府、海外、いずれにも、貸借関係がある。

 負債は、負の資産である。資産は、負の負債といえる。

 資産は、流動的であり、負債は固定的である。資産は実物的で、負債は名目的である。故に、資産は、自由に関わり、負債は、平等に関わる。
 負債を資産化し、流動性を持たせようとするのである。負債を資産化し、流動化させる技術とは、例えば、証券化である。証券化も借金の技術の一つである。

 借金は、資金を固定化し、流動性を低くする働きがある。それが可処分所得を減少させ、新たな需要を引き出すのを阻害するのである。

 過不足は均衡している。故に、振幅の幅が賃金の流通量を表していることになる。

 経済では、三面等価が成り立つ。三面等価とは、総生産、総支出、総所得が等しいとする事を意味する。この事は、生産と支出と分配は、一つの事象を共有していることを表している。言い換えると一つの事象を三つの側面に分解できることを意味する。
 三面等価の中で支出面から見た国内総支出は、民間消費+民間投資+政府支出+経常収支を言う。
 これは、家計消費+家計投資+民間企業消費+政府支出+経常収支でもある。つまり、家計支出+民間企業支出+政府支出+経常収支である。
 又、分配面から見た国内所得は民間消費+民間貯蓄+政府収入である。
 これは、家計消費+家計貯蓄+民間企業消費+民間企業貯蓄+政府収入に分解できる。
 国民総支出と国民総所得は一致するから
 (民間貯蓄-民間投資)=(政府支出-税収)+経常収支
 (家計貯蓄-家計投資)+(企業貯蓄-企業投資)=(政府支出-税収)+経常収支
 家計貯蓄の過不足+企業貯蓄の過不足=財政収支+経常収支

 お金の入る量と出る量とは一致しているという事である。出る量というのは、貯蓄も含めた広義の支出である。収入の手段には、所得、借金と政府収入がある。支出は、消費と投資と政府支出である。
 つまり、所得+借金+政府収入+経常収入=消費+投資+政府支出+経常支出となる。
 政府収入の主たる部分は、税収であり、税収は、反対給付のない収入である。

 三面等価とは、資金の流れを示している。
 税制を設計する際は、資金の流れに沿ってどの局面に税を課すが鍵を握っている。即ち、貨幣の流れのどの局面に税を課せば貨幣を効率的に回収できるかが根本となるのである。
 注意すべき事は、収益は、直接的に貨幣の流れを表しているわけではない点である。収益に税を課す場合は、収益と貨幣の流れとの関係を十分に理解し、会計制度との整合性を保つようにしなければならない。

 税金の経済的な役割というのは、第一に、所得格差の是正である。第二に、貨幣の循環にある。第三に、資金の流れる方向を定め、効率的運用を図ることである。第三に、人、物、金が円滑に流れる環境を整えることである。第四に、社会資本の整備。人、物、金の社会基盤を作ることである。第五に、安全保障の確立。即ち、治安、国防、防災体制の確立。第六に行政費用の原資などがあげられる。

 経済の仕組みとは、収入と支出という運動を繰り返すことによって資金を循環し、資金の循環運動を通じて生産財を社会の隅々にまで分配する事を目的とした機関なのである。その目的からして経済の仕組みにとって、収入と支出の均衡を保つ事が重要になるのである。

 債務の解消は、収益に基づいている。収益は、費用と対応し、費用は、単位期間内の消費を意味する。消費が低迷すると債務の清算は進まない。

 家計、民間、政府、海外からの借入金は、相関関係にあるが性格は違う。
 家計上の負債は、可処分所得に影響するのに対し、民間企業の負債は、資産とに対応し、資金繰り、資金調達に影響する。財政上の債務は、資金の供給量に影響をする。

 例えば、家計が金融機関から借り入れれば、金融機関から見ると貸付金である。つまり、金融機関から家計へと資金が流れたことで、借入と貸付という表裏の関係が金融機関と家計の間で生じるのである。そして、借入と貸付は、取引が成立した時点において等価関係にある。それが会計上の原則である。
 負債は、企業では、調達された資金の量、財政では、供給された貨幣の量を意味する。
 そして、収益は、循環した貨幣の量、税収は、回収量を意味する。

 家計、民間企業、政府、経常収支によって不足した資金は、借金か収入によって補填する。補填できない場合、国家経済の均衡は破れ、破綻する。

 家計、民間企業、政府、個々の要素が破綻を避ける為には、家計では、支出を削減すると同時に、所得の増加を計る必要がある。
 企業は、経費を削減すると同時に資金の調達を計る必要がある。資金の調達には、借入と増資と売上がある。
 財政の資金不足は、税か、外債、国内債、輸出によって補填する。

 政府の役割は、分配に関しては、所得の再分配であり、生産に関しては、再生産、貨幣は、再循環である。
 そして、生産は消費に、労働は所得に、転換されることによって効力を発揮する。つまり、消費を促し、雇用を創出し、貨幣を万遍なく供給するのが政府の主たる役割となる。

 再分配は、税と給付によって実現する。

 納税資金は、湧いて出るわけではない。公的債務を担保して発行された貨幣がその源にある。通貨の発行残高と国債は連動している。
 通貨の量を抑制するためには、国債が必要なのである。国債そのものを悪者にしたら問題は解決できない。それは、借金が悪いと頭から決め付けるような事である。そうではなく。借金の額と収入の額とが均衡しているかの問題なのである。家を建てたり、結婚したりする場合、一時的に多額の資金が必要となる場合がある。借金が悪いとしたら、一時的に費用がかかることは、何もできなくなる。
 収入の範囲内で借金の返済が収まれば問題はない。収入の額以上に返済額が生じた場合、返済額を抑制することが困難になるから問題なのである。

 財政を立て直すためには、支出が増大している原因と歳入、特に、税が減少としている原因を明らかにする必要がある。

 税というのは、反対給付のない公的収入である。
 給付というのは、反対用役のない公的支出である。
 つまり、労働と対価が直接結びついていないのが公的な収支、即ち、財政収支である。
 対価が確認ではない支出は、費用対効果を測定し、適正の利益の確保を計ることが難しい。故に、給付を税収の範囲内に抑える仕組みを構築していないと財政は規律や自律性を失いやすいのである。

 闇雲に緊縮政策ばかり追求すれば、財政も経済も泥沼化する。求めるのは均衡である。 中でも、財政に不均衡をもたらすのは、税制の在り方と、公的給付の在り方である。税制や公的給付を設計する際は、その時点における市場の状況を補正する仕組みを組み込む様に留意する必要がある。基礎にあるのは国家観である。

 歳入とは、貨幣の回収装置である。現在の歳入の仕組みは、税制度の多くを依存している。それは、国家事業において営利という思想が欠如しているか、或いは軽視されているからである。
 公共という思想の中に、営利という思想を排除しようとする傾向があることが最大の問題である。そこから、公共事業の民営化の発想が生まれる。しかし、何でもかんでも公共事業を民営化してしまえと言うのは乱暴である。
 公共部門が、期間損益という思想を受け容れないことが最大の原因なのである。要するに、利益は、悪いという価値観を変えればいいだけである。思想の問題である。

 歳入の仕組みや国家債務の在り方を見直すとは、ギリシアを例にとると、観光資源を資本として観光事業を株式化する様なことである。
 株式化することによって公務員数、公的債務を削減する一方で、民間投資を促し、産業を興し、民間の雇用を創出する。
 また、規制を強化して観光資源や規律を国法によって守る。観光資源や観光サービスをの質を向上させることによって観光客によって利益をあげる。
 ギリシアで問題なのは、世界有数の観光資源を資産化できないでいる事である。
 自国の資源に対する自覚が低く、その為に、サービスも悪い。それが、ギリシアの国家資産の価値を著しく毀損しているのである。

 税金の使い道も大切である。例えば、民間企業が、生産に直接関係ない福利施設や手当に多額の投資をしても収益の向上に貢献しない。
 公共投資は、拡大再生産に結びつく投資である必要がある。即ち、税の使い道、即ち公共投資の基本は、社会資本の在り方にあり、社会資本の在り方は、国家構想、建国の理念に基づく必要がある。

 経済は、生きる為の活動だというのに、どの様な社会を、どの様な生き方をすべきかの思想が欠けているから、経済の本質を見失うのである。

税の働き


 国民国家が成立する以前、複式簿記を基盤とする市場経済が確立されるまでは、税は権力による一方的強奪だった。今日、税は、資金循環と所得の再分配の一手段としてみなされるようになった。

 所得の再分配は、所得の配分の偏向を正すことによって、資金の効率を高める施策として有効である。
 しかし、所得を再配分する場合は、所得の変更している状態をよく吟味し、それが財政収支に与える影響を十分に考慮する必要がある。
 なぜならば、所得の再配分は、財政収支に与える影響が大きく、十分な財源が確保されていないと国庫に対して際限のない負担を生じさせる結果を招く危険性があるからである。また、状況認識を誤るかえって所得配分の歪みを拡大する結果を招く恐れもある。

 子供手当のような国民に対する直接的な補助金は、対象を特定した減税とは同じ効果がある。要するに、補助金と減税の組み合わせは、所得の付け替えに過ぎず、朝三暮四的効果しか望めない。補助金の支給にかかる費用は、まるまる国家負担の増加になる。肝心なのは、どの様な働きを期待して所得の再分配を意図するかにある。

 過剰設備、過剰負債が原因で収益が悪化し、景気が悪くなったときに金利を下げても投資は促進されない。投資が抑制されている原因は、金利にあるのではなく。過剰設備と過剰負債、収益の悪化にあるからである。

 又、補助金を出しても収益の改善に結びつくものでないかぎり、問題を先送りしているだけで、実際は、事態を更に悪化させているだけである場合が多い。

 景気が悪化した時は、資金の回転率を高める方策を講じるべきであり、ばらまき型の施策は、かえって資金の効率を悪化させる危険性が高いことを留意する必要がある。景気を悪化させる原因の主たる部分は収益の低下なのである。つまり、収益構造に原因がある。収益構造を悪化させている要因、即ち、過度の競争による収益力の低下、資産価値の低下による資金の調達力の減退、雇用不安、所得不安に基づく消費の減退、借入金の返済が滞る等を除く方策を採るべきなのである。負の連鎖をどこで断ち切るかが重要な課題となる。

 どの様な税制が最適かは一概には言えない。税の働きは、景気の動向や財政支出の規模によって違ってくるからである。問題なのは、どの様な目的によって税を掛けるかである。

 税制を設計する際は、税の定義、税の目的や働き、役割を明確にする事が大切である。その上で、課税対象を明らかにすることである。税というのは、本来合目的的なものである。ただし、税の目的を明らかにするというのは、税制を設計する上での問題であり、税の使用を目的によって限定的に制約をする目的税を意味するのではない。目的税は、税の効果を限定的にする事があり、導入には、充分注意する必要がある。

 景気の変動を税に反映したいのか、市場の規模や取引の総量といった何等かの全体を反映としたいのかによって税制の設計は違ってくる。

 景気の変動を反映するような税制は微分型税制である。市場の規模に基づくような税制を積分型税制という。

 市場の拡大期、経済成長期には微分型の税制は有効であるが、市場の停滞期、経済の成熟期には、積分型の税制に切り替えないと財政の悪化を招く結果になりやすい。

 税の目的は、財政支出の目的から考えられるべきなのである。財政支出の第一の目的は、紙幣の流量の調節する事によって景気を制御する事にある。第二の目的は、所得の再分配にある。第三の目的は、社会資本の整備にある。第四の目的は、行政サービス、第五に、国防にある。

 社会資本を整備する目的は、国民の生命財産の保障と福利の厚生にある。根本は、国家とは何かという国家観にある。
 
 財政収入の問題点としては、税の捕捉率の問題と市場の拡大の鈍化が考えられる。税の捕捉率の問題は、即ち、紙幣の回収率の問題である。財政支出の問題点は、財政の硬直化が最大の問題である。それに関連して予算制度の在り方の問題がある。

 現行の予算制度は、現金主義、先決め主義、単年度均衡主義である。要するに時間の観念が欠如している、或いは、短期的な視野にしか立てないことが問題なのである。企業会計は、期間損益主義、決算主義、長期均衡主義である。むろん、企業会計にも問題がある。双方の利点を生かす制度を導入することが今後求められる。

 財政支出には、所得の再分配、社会資本、行政費用、国防費用がある。

 所得の再分配の目的は、格差の是正にある。格差の是正は、社会的正義の問題もあるが、それ以上に重要な要因として経済的理由がある。
 経済的格差の拡大は、労働意欲を減退させ、社会不安の原因となる。
 しかし、それ以上に重要なのは、経済構造に重大な歪みを生じさせ、紙幣が万遍なく行き渡らなくなることである。その結果、紙幣の流れに澱みや滞留、偏りを生じさせ、紙幣の働きに支障が生じ効率を低下させる。
 又、社会に経済的断層を作り、階層化させてしまう。経済的断層や階層は、財の分配に偏向をもたらし、経済構造を不安定なものにする。
 社会階層は、資金の流れに対し障壁や溝を作ることになるからである。
 逆に、極端に格差を小さくすると自己実現を阻害し、労働意欲やモラルの減退を招く。また、社会的分業の意義を喪失させる。
 社会を構造化することによって極端な格差の広がりや縮小を抑制することが重要なのである。そこに所得の再配分の意義がある。
 所得の再配分は、政治に利用されやすい。選挙のために大衆に迎合的な施策がとられ、効果的な所得の再配分が計られなくなると財政を破綻させる一番の要因となる。根本は、社会思想、哲学の問題である。

 社会資本は、国家観の基づくものでなければならない。当に、国家百年の計である。長期的展望に立ってはじめて有効なものであり、又、経済情勢にあわせ柔軟に支出を決める事が可能なのである。又、資金も長期的な展望に立って計画することが可能である。
 ただ、最も、利権、既得権に変質しやすく、政治や行政と言った権力と結びついて腐敗を招きやすいやすい部分であることを忘れてはならない。だからこそ、国家理念、国家構想が不可欠であり、常に、情報の公開を要求され、厳しく監視されるべき部分である。高邁な理想や精神によってのみ社会資本は築き上げられるのである。

 行政費用は、極力、必要最小限に抑えるのが、鉄則である。その為には、行政の一部を現金主義会計から期間損益会計に移行する。即ち、民営化が有効である。なぜならば、現金主義会計は、時間価値に対して硬直的であるのに対し、期間損益は、時間価値に対して柔軟に対応できるからである。故に、行政の一部を民営化するのは、効果的である。その際に公的債務も併せて資本化することである。

 国防というのは、狭義で言えば軍を指して言うが、本来の意味には、もっと広い意味が含まれている。
 国防というのは、国家主権と独立の維持、国民の生命財産の保障を目的としている。国民国家においては、国家の存在意義をなす部分である。即ち、国家の主権と独立が維持されなければ、国家の自立している実質はない。国民の生命財産が保障されなければ、国家の存立意義はない。故に、国民国家において国防は、国家の存立意義である。当然その為の支出は、保証されなければならない。問題は、その量と質である。
 そして、国防支出は、その目的と対象によって決まる。
 国防の目的は、第一に、国外の敵から国家の主権と独立を護ることにある。第二に、国内の犯罪から国民の権利と命を守ることである。第三に、地震や台風、津波、洪水、火災、飢饉と言った災害から国民の生命、財産を護ることである。第四に、交易を保護し、国内外の取引を保証することにある。第五に、法や制度の保障である。第六に貨幣価値の保証である。

 国防をただ単に軍事だと思うのは早計である。

 国家は、権力であることを忘れてはならない。即ち、力の源泉なのである。だから、権力は抑止しなければならない。権力者は自制しなければならない。

 国防費というのは無制限な費用ではない。古来、国防費によって、多くの国家が、財政や貨幣制度を破綻させてきた。国防が本来の目的を忘れて侵略主義的な傾向を持った時、財政は、歯止めを失うのである。何から何を護るのか、それを明らかにせずに国防は成り立たない。その点だけは、忘れてはならない。
 近代でも、国家財政を破綻させる契機となる国債の異常な増発の多くは、戦争を原因としている。又、多くの疑獄事件の原因は国防費がらみである。国を護るための費用が、国を滅亡させ、或いは、権力の腐敗を招くのでは、意味がないのである。

 紙幣の流量は、物価に影響を与える。物価を形成するのは、需要と供給と貨幣の量である。貨幣の量は、需要は人的経済に関わる問題であり、供給は物的経済に関わる問題である。貨幣経済に関わる問題である。
 即ち、物価は、人、物、金の経済の均衡の上に成り立っている。

 市場は、生活水準の向上に伴って拡大し、生活水準の成熟に従って落ち着いていく。

 結局、経済的価値を決めている要素は、物と人である。貨幣は影に過ぎない。その影である貨幣に捕らわれて身動きできなくなりつつあるのが現代経済なのである。しかし、それは貨幣が悪いわけではない。貨幣に捕らわれている人間の問題である。現代人は、貨幣という影に怯えて自らを破滅へと導いているのである。

 日本のように、財政が均衡しないのは、歳入、歳出の仕組み、構造に問題があるからである。

 現代の日本の税制で一番問題なのは、税制上、課税対象とする基準が現金主義に基づいているのか、期間損益主義に基づいているのか判然としていないことである。その為に、税制の設計思想に一貫性が欠けているのである。

 直接税、間接税という分類もあるが、それ以外に、現金収支を課税対象の基盤としているのか、それとも期間損益を基盤にしているのかも重要な要素である。
 同じ、所得税に属する所得税と法人税でも所得税は現金主義に基づき、法人税は、期間損益に基づいている。この違いは、税制の働きの本質的な違いを表している。
 又、取引を前提としているのかも重要な要素である。基本的に未実現損益を課税対象にした場合、現金の動きの実体がない対象に課税することになる。

 税が現金収支を課税対象としているのであれば、巨額な利益をあげた時、広い土地を買えばそれだけ現金収入が減り節税対策になる。しかし、損益では、土地を買っても課税対象である利益は減らないのである。故に、土地を買っただけでは節税対策には成らない。

 ローンを支払って土地付きの家を買うのが得か、家賃を支払って借り家住まいをした方が得か、それは会計思想と税制思想によって決まる。

 この様な違いは、人生観や価値観と言った人間の根幹的な部分も変質させてしまう働きがある。

 財政を現金主義から損益主義に変える際、留意しておかなければならないのは、会計上、借入の回収が隠されている点である。逆に、現金主義では長期債務と運転債務の区分がされない。



       

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