5、会計と数学

5-8 費  用

費用の基礎


 いつの時代でも借金と費用は、目の敵にされる。
 何かというと経費削減、借金の返済と費用と借金は少ないに越したことはないと思われている。
 しかし、費用と借金をなくしたら経済は成り立たなくなる。
 費用の裏側には、収益や所得があり、借金の裏側には投資があるからである。

 費用、即ち、コストの意味を正しく理解しておく必要がある。費用は、単なる支出や消費という意味だけではない。経済的価値の一種なのである。

 経済では、損益という観点からすると費用の持つ経済的な意味や働きが重要となる。費用の経済的な意味や働きを知るためには、費用の性格と構成が鍵を握っているのである。
 費用の意味や働きというのは、市場の環境や前提に左右される。

 人件費の持つ経済的な性格や働き、減価償却費の性格や働き、原材料費の持つ性格や働き、金利の持つ性格や働き、諸経費(地代、消耗品、エネルギー、宣伝広告費、通信費等)の持つ性格や働き費用の持つ性格や働きに応じた施策が採られる必要があるのである。

 費用の性格や働きを規定するのは、資金の働き、そして、資金の流れる方向である。資金の働きの中で費用の性格を規定する要素は、長期的な働きと短期的な働きである。

 費用を出費、支出と見るのか、分配、必要経費としてみるのかによって費用に対する考え方にも違いが出る。
 経済全般で考えると費用は分配であり、必要な物だという見方ができる。そうなると闇雲にただ削減すれば良いという訳にはいかなくなる。
 これは、費用を差と見るか,比と見るかの違いでもある。利益を収益から費用を引いた値であり、費用は少なければ利益は上がると考えるのか。費用独自の働きを見て費用が収益に占める比率を重んじるのかによって費用の本質は違ってくる。

 経済とは、費用の問題なのである。費用とは、分配の問題である。
 経済問題とは、いかに適正な費用を維持するかの問題なのである。そこに市場の役割がある。

 費用の働きは、分配である。費用が削減されるという事は、分配の原資が少なくなることを意味する。
 故に、一つの産業の費用を削減を促した場合、削減した分、他の産業の費用を増やす必要がある。なぜならば、一つの産業は、費用を削減するという事は、もう片側では、収益や所得が減らされることになるからである。一つの産業が費用を大幅に削減することは、経済全体では、雇用の減少や売り上げの減退を招くことになる。
 借金もひたすら返済をすれば、通貨が市場に流通しなくなり、金融機関に滞留することになる。滞留した資金は、金融機関の負債となり金融機関の経営を圧迫する。それがバブルを引き起こす原因となる。
 一つの産業を効率化するという事は、他方で高コストな産業を育成する施策を採らなければ、経済全体では、均衡しなくなるのである。

 費用の基本的働きは、分配なのである。故に、重要な指標は分配率である。
 費用の対極、裏側にあるのは、所得である。所得は言い替えれば収入である。費用を削れば、必然的に、所得も削減される。社会全体から見れば、収入も収益も減るのである。費用を目の仇にすることは、社会全体の収益を減らすことに繋がることも忘れてはならない。逆に、費用が増大すれば、収益を圧迫することにもなる。つまり、費用は相対的な科目であり、他の収益や負債と言った科目との均衡の上に成り立っていることを忘れてはならない。つまり、社会的な成果物をいかに分配するのかが、費用を考える上での鍵となるのである。そして、その根本は労働の量と質をどの様な評価に置き換えるかの問題なのである。

 総所得は、人口数×一人当たりの平均所得である。
 そして、重要なのは分配構造である。分配構造とは、所得のバラツキに現れる。

 最低線は、一人の人間生存するのに必要な資源を獲得するための最低必要源の所得である×人口数である。
 最高数は、調達する可能な資源の最大量である。調達する事が可能な量とは、生産量と外部からの輸入量である。生産量の最大限というのは、国内の存在する生産設備の全てをフル操業したときの生産量である。

 景気が悪くなる度に経費削減、経費削減と費用を悪者にするが、経費をむやみやたらに削減すると景気は、良くなるどころか益々悪化する。なぜならば、費用は、社会的な分配という機能があるからである。適正な費用が維持されなければ、適正な社会的分配は実現されない。
 経費の中には、所得と雇用が含まれているのである。所得は、収入を意味している。そして、費用の安定は、定収の維持を意味している。定収は、長期的借金を可能としている。
 費用の削減は、この連鎖の源泉である。経費の削減は、この連鎖の根源を絶ち、経費の削減が雇用不安と定収の崩壊、消費の減退、景気の更なる悪化という悪循環を引き起こす。
 経費を単に削減し、一企業利益や生産性を追求すれば社会の功用を満たすといは限らないのである。合成の誤謬である。
 社会的利益と企業利益の方向性を一致させるような会計の仕組みになっていないのである。

 費用というと無用な物、無駄の代名詞のように思われているが、費用こそが経済の本質だとも言える。単に費用を削減し、廉価な物は善だという思想こそが経済を悪質化する原因でもある。廉価ではなく適正な価格である。安ければ良いというのは短絡的すぎる発想である。

 市場競争も、市場取引も、適正な価格を確定するため必要なのである。だからといって無原則な競争は、適正な価格を破綻させてしまう。適正な価格が維持できなくなれば、費用割れした安売り合戦や乱売合戦を招き、市場を荒廃させる。適正な価格は、適正な費用構造が維持されなければ成り立たないのである。
 競争を原理の如く絶対視するのは、一種の新興宗教のようなものであり、ある種の狂気でもある。

 科学というのならば、前提条件を重視すべきなのである。
 公正な競争は、何を前提としたら成立するのか、その点を明らかにしなければ、公正な競争という意味は成立しない。
 前提条件を確認しないで公正な競争を前提とするのは、論理的に矛盾している。
 市場では、参加者が同じ前提条件の下で競争しているわけではない。
 同じ前提条件に基づかない限り、公正な競争など成り立たないのである。

 競争は、市場の重要な働きの一種である。しかし、市場は、競争が目的なのではない。競争は、市場で適正な価格を形成するための手段である。過激な競争は、市場において適正な価格を形成するのをかえって阻害する。
 価格が適正であるか、否かは、費用対効果、費用を構成する要素の働き、分配等による。
 費用を構成する要素の働きとは、例えば減価償却費の働きと減価償却費の割合等である。

 何が費用を決定する要素かが重要である。
 例えば、政治的費用や軍事的費用などである。
 費用を決定する要因には、外的要因と内的要因がある。
 例えば、燃料を決定するための外的要因は、石油価格の動向や為替の動向であり、内的要因とは、費用対効果と言った基準である。
 ガス、石油、電力、石炭、薪、太陽光等から費用対効果によって選択する。

 費用とは、支出に関わる科目である。

 費用とは、決済手段として行使されることによって外部に支出、流出する貨幣価値、或いは、過去の支払いを補填する貨幣価値を表した勘定である。

 貨幣経済は、お金(通貨、貨幣)の循環によって活動している。お金が循環しなくなると貨幣経済は、成り立たなくなる。
 経済主体(企業、家計、財政)は、お金の循環によって成り立っている。お金が廻らなくなると経済主体は、破綻する。
 故に、経済主体を成り立たせているのは、入金と出金の差、現金残高の存在である。

 資金不足の原因は、支出と収入の不均衡がある。
支出の増加に収入の増加が、追いつかない場合、資金不足が生じる。
 収入の減少、或いは、横這いしているのに、費用の上昇が続いている場合に資金不足が生じる。
 収入と支出の時間差によって資金不足が生じる。
 直接、収入に結びつかない、費用や投資の発生によって資金不足が生じる。

 費用とは、支出に関連した科目である。問題は、支出がないのに費用計上される科目と支出があるのに、費用計上されない科目である。前者の代表的な科目が、減価償却費である。後者の科目には、長期借入金の元本の返済、買入債権の決済に基づく支払い、配当の支払い、役員報酬の支払い、納税等がある。
 前者は、費用計上されることによって顕在化するが、後者は、費用計上されることがないために、潜在化して資金繰りを圧迫する。

 費用と支出の関係をよく見る。費用と支出のタイミングが一致しているとは限らない。費用の発生と支出との時間的なズレが経営や景気を左右する場合があるのである。

 ここで注意しなければならないのは、投資に対する資金も借入金の元本の返済資金も費用に計上されない、つまり、表面に現れてこないという事である。ただし、損失が確定すると、例えば、不良債権になっている土地を売った場合、ばじめて表面化する。
 それが未実現損益の特徴である。取引がなければ、顕在化しないのである。借金をして土地を購入しても、その資金は、期間損益上には現れてこないのである。この点が見落とされがちなのである。
 だからといって、未実現損益を期間損益に織り込もうとしたら、取引に基づかない損益を期間損益の中に取り込むことになる。それでは、取引という根拠を危うくする事になる。

 配当金は、費用計上されない支出である。
 配当と役員報酬、法人税等は、利益処分から支払われる。配当、役員報酬、法人税等は費用ではない。
 税は、費用ではない。税は、費用ではない支出の一つである。
 資本勘定は利益の蓄積である。

 逆に、支出がないのに費用計上され、それが負債、即ち、買上債務として計上される科目がある。
 この様な費用は、買上債務に影響を及ぼす。

 費用は、支出であり、何等かの形で、収入と対応していないと資金不足に陥る。期間損益の場合、原則的に収益に費用は対応させることになる。

 支出の増加に収入が追いつかない場合に生じる資金不足の典型は、費用の増加に対して収益の増加が追いつかない場合である。しかし、費用や収益は、必ずしも、支出と収入に結びついているわけではない。その為に、経営には、常に、潜在的な資金不足の罠が仕掛けられていることになる。この点を理解していないと経済政策は、立てられない。

 費用の本質は、原価計算と付加価値であり、突き詰めると分配である。分配は、言い替えると配分でもある。

 原価計算とは、製造にかかる費用である。
 原価を構成するのは、原材料費、労務費、経費である。

 費用とは、自然数を普遍集合とする集合である。
 費用は、借方勘定の真部分集合である。

 費用とは、単位期間内に貨幣価値を費やしてしまう勘定であり、尚かつ、実物勘定である。
 費用と時間との関係は、費用は単位期間内に清算されてしまう勘定だという点にある。

 費用というのは、現金価値を単位期間内に取引によって費消した勘定をいう。
 費用は、現金を支払うことによって受け取る効用、或いは、代償である。
 これが、現金と費用との関係を表している。

 費用も実物勘定である。故に、変動がある。
 つまり、費用にも固定的な費用と変動的な費用がある。

 費用は、資本(純資産)を減少させる働きがある。

 費用を構成する科目は、社会的分配を意味する科目である。つまり、付加価値を意味する科目であり、特に、人件費は、個人所得に転換する科目である。

 適正な費用の維持とそれを保証する収益をどの様にして維持するかが、重要となる。


費用の働き


 経済の教科書にも、希少だから価値があるというような記述がよく見られる。
 希少性に価値があるわけではない。経済性は、希少性だけに依存しているわけではない。生産にかかる費用が価値を構成するのである。
 希少な物は、それだけ費用がかかっているのである。

 現代人の多くは市場価値について錯覚をしている。
 その証拠に、現代人の多くは、市場価値がある物というとダイヤモンドや黄金を思い浮かべがちである。

 希少性というのは、価値を高める働き、効能があるが、価値の本質を意味するわけではない。
 市場価値の本質は、効用と労力にある。
 空気のように、効用はあっても労力がかかっていない物には、市場価値はない。空気に含まれる酸素でも水中で使用しようとすれば、市場価値が出る。それは、水中で酸素を使用しようとすれば、それなりの労力が必要とされるからである。
 効用と労力によって市場価値が形成されるとしたら、効用と労力を併せ持っている要素、即ち、費用こそが市場価値の源泉といえる。

 その効用の一つに交換価値があり、それが、貨幣価値の核心を形成する。貨幣というのは、交換価値を抽象化し、象徴化した物である。
 市場は、物と物とを交換する場である。故に、市場において交換価値を抽象化し、象徴化することによって交換を促す効用がある貨幣が圧倒的な力を発揮するのである。

 費用は、効用と労力によって構成されている。即ち、費用は付加価値に還元できる。更に、費用を突き詰めると最終的には、労働費に還元される。

 現代社会では、費用を限りなくゼロに近づけることが正しい行為だと思い込んでいる。しかし、それが現代社会の最大の間違いなのである。費用こそあらゆる経済活動の根幹をなしているのである。その費用をなくしてしまえば、必然的に経済活動は、成り立たなくなる。なくさないまでも、費用をどんどん削減してしまえば、経済活動の活力は失われてしまうのである。

 費用が価値の源泉となるのは、費用が社会的に重要な働きをしているからである。

 費用を裏返すと収益になり、生産になり、所得になり、消費、負債、資産となる。つまり、費用は、収益や生産、所得、消費、負債、資産の元なのである。それらを突き詰めると貨幣価値である。故に、費用は、貨幣価値を生み出す元でもあるのである。

 費用が、収益、生産、所得、消費、負債、資産、貨幣価値の源だとすれば、費用の役割が浮かび上がってくる。費用の重大な役割は、分配である。

 そして、費用を維持しているのは、収益である。適正な収益が確保されなければ、適正な費用は確保されない。適正な費用が維持されなければ、経済の分配機能に支障が生じるのである。

 適正な収益を維持するためには、収益の基となる費用の適正な値を割り出す必要がある。その為には、支出を単位期間に按分し、費用化する必要がある。

 即ち、費用化の目的は、資金の流れの整流にある。
 費用は、支出を平均化し、収入との関係を評価することが目的であるが、費用と支出とが必ずしも一致していない点に問題があるのである。
 即ち、減価償却費の様に支出を伴わない費用や借入金の返済や税金、役員報酬のように費用とされない支出がある。
 それでも、費用の目的は、一定期間における資金の流入と流出を平均化し、収入と支出の波を整流することにある。
 そして、流入する資金と流出する資金とを平均化することで、単位期間の費用対効果を測定するのが期間損益である。利益は、平均化された収入である収益と平均化された支出である費用の差額である。
 故に、期間損益の目安は、適正な利益をどう設定するかにかかっている。

 何が何でも安ければいいというわけではない。適正な利潤を上げる事が目的なのである。適正な利潤というのは、適正な費用に基づく。収益に合わせていたら適正な費用は維持できなくなるのである。今日、経済を破綻させている一番の原因は、適正な費用を維持できないことにある。

 会計は、期間損益を計算するために、現金収支を加工した数値である。
 期間損益を加工する過程で利益を操作することができる色々な要素が混入した。会計上の費用を操作して利益を出すことが、大企業ほど容易くなったのである。その為に、適正な費用を維持することが困難になってきたのである。
 問題は、利益操作によって市場を独占しようとする傾向が高まり、健全な企業や産業の育成が難しくなったことである。それが、市場を荒廃させ、産業を衰退させる原因となっている。

 流通の段階にまで、生産における効率基準を持ち込むのは、間違いである。
 例えば、料理を工場で作る製品と同じように扱うのは間違いである。ファーストフードで扱う料理の中には、工場の製品と同じように扱える商品もある。だからといって全ての料理を流れ作業によって企画通りにつれば良いというのは乱暴である。

 費用は、費用を掛けるだけの意義があるのである。その意義の最も核心的な部分は、人間の本質的な部分と重なっているのである。
 その核心的部分は、人間、いかに生きるかという点にあり、どの様な空間に生きていこうとするのかと言う問題よって構成されているのである。
 ただ費用は削減すればいいと言うのではない。費用がどの様に人間の生き様や社会と関わっているのかが重要なのである。

 景気は、費用によって左右されると言っても過言ではない。

 不景気になると費用や借金は、何かと目の仇にされる。兎に角、借金や費用を減らせと言う大合唱が起こる。そして、合理化の名の下に経費や人員の削減が行われる。
 それが経済的合理主義だといわれる。しかし、本当に経済全般から見て、経費や人員削減は、いい効果だけをもたらすのであろうか。
 個々の企業収益は向上するかも知れないが、それによって削減された費用の中に、保安や技術、サービス、品質の維持といった企業の果たすべき責務に関わる部分が含まれている可能性がある。
 費用が、経済に果たしている役割も見落とす事はできない。特に、雇用や技術開発、環境保護と言った経済全般に重大な働きしている。

 費用というのは、分配を担っている。
 負債と費用は、まるで、厄介者扱いをするが、実は、自由主義経済において重要な機能を果たしているのである。
 貨幣は、交換の手段であると同時に、分配の手段である。分配は、貨幣経済において重大な次元を形成している。

 費用というのは、裏返してみると所得である。費用を削減すると言う事は、所得を削減すると言う事と同義なのである。
 経費を削減すれば、取引相手の収益は減少する。人員を削減することは、雇用の減少を招く。取引は、連鎖によって成り立っている。費用を削減すると言う事は、負の連鎖の始まりを意味するのである。

 費用が経済の実体的部分を担っているとも言える。費用を削減しすぎると実体経済に支障が生じるのである。生産性や効率性も突き詰めすぎると景気の停滞を招く。それを避けるためには、費用の実際の働きを知る必要がある。

 費用を成立させている対象や要素は、人々の活動を成り立たせている要素なのである。その基準は、必要性なのである。費用が成立しなくなれば、生活が成り立たないのである。

 景気を左右しているのは、ある意味で費用構造である。

 費用の働きで重要なのは、分配である。それ故に、費用が適正な働きが出来なくなりと公平な分配が出来なくなる。社会の公平な分配を実現するためには、個々の費用の性格と働きを明らかにする必要がある。
 中でも重要なのは、管理可能費用と管理不能費用の分類である。即ち、経営主体では何が管理することが可能な費用なのか、管理することが出来ない費用なのかである。
 企業間の競争が地球的な規模になると地域的格差や地理的な条件に大きく影響を受けることになる。市場は一つの統一された空間ではなく。
 幾つかの空間に区分けされ、或いは重なり合って成立している。つまり、国際市場は、統一された一様、一律の場ではない。
 例えば、為替の変動の影響を受ける費用と受けない費用とがある。原材料の高騰の影響を受ける費用と受けない費用とがある。また、外生的要因の影響を受けにくい費用がある。これらの費用の働きを見極め、市場全体に共通した部分とローカル(地域性)のある部分とによって政策を使い分ける必要があるのである。
 公正な分配を実現するためには、適正な費用が支払える市場環境を維持する必要がある。

 公正な分配を維持する為には、適正な所得を確保することでもある。その為には、為替の変動や原材料の変動に中立的な価格を実現する事である。その為にこそ、市場の仕組みや会計や規制の役割があるのである。


経済は、費用構造によって左右される。


 産業の性格は、費用の構造によって制約される。
 人件費の比率の高い産業は、労働集約的な産業であり、減価償却費の比率が高い産業は、設備集約的な産業である。原材料費が高い産業は、原材料の相場や為替の相場を受けやすい産業である。又、固定費と変動費の比率は、産業の損益構造の前提となる。

 ただひたすらに費用を削減してしまえば、費用の効用が働かない産業になる。費用の効用とは、分配である。つまり、社会的な分配機能が働かない産業になるのである。
 重要なのは、適正な費用の配分であって費用そのものを否定する事ではない。

 適正な費用が維持されないから景気は回復しないのである。

 費用の効用を認めずに、費用を削減することばかり考えると結局実物経済を否定する事になる。
 そして、費用を掛けずに収益をあげる手段に活路を求める。費用を掛けずに、収益をあげる手段は金融と投機しかない。
 儲かるか儲からないか予測のつかない実業にかけるより、ある程度、金利計算が可能な金融商品に比重を移した方が投資家を説得しやすい。
 それがバブルを生み出す一因となり、又、金融危機の一因でもある。つまり、実体の伴わない貨幣の動きを生み出すのである。

 テレビのワイドショーで石油産業の規制が緩和されたことで、ガソリンスタンドの収益が過当競争によって悪化し、その結果、ガソリンスタンドの廃業が増え、ガソリンスタンドがない市町村が増えていると言う報道があった。将に、レポーターは、ガソリンスタンド難民だと嘆くのである。
 それを聞いてコメンティターの一人が規制を緩和することで収益が悪化するのですかと叫んだ。この程度の認識で、規制緩和、規制緩和と金科玉条のように言われたのでは無闇に規制を緩和された産業はたまったものではない。

 規制を緩和すれば、産業や個々の企業の収益力は、低下する。個々の企業の収益力が低下することで、機械化や、合理化、集約化が促進する。故に、機械化や合理化、集約化をすることによって対外的な競争力を養成する必要のある産業に対しては、規制を緩和すればいい。
 しかし、機械化や、合理化、集約化は、雇用を圧縮する作用があることを見逃してはならない。
 つまり、機械化や合理化、集約化を必要としていない、或いは、雇用を促進させたい産業に対しては、規制を強化することが効果的なのである。

 特に、流通業のような労働集約的産業は雇用の要であり、市場を規制によって保護しないとすぐに市場が荒廃してしまう。

 何が何でも規制を緩和し、競争の原理を導入すればいいと言うのは暴論なのである。

 国民所得(収益)を増やしたければ、企業の数を増やすことである。そうすれば、雇用も増える。流通を合理化すれば、それだけ、雇用は減少し、社会全体の所得(収益)も減少するのである。中間業者が増えれば、それだけ、収益も雇用(所得)も増えるのである。

 低価格、即、経済性というのは、錯誤である。この様な認識は、費用の効用に対する正しい認識が欠如していることによるのである。
 価格には、消費者における支出という側面の他に、生産者における費用と言う側面がある。生産者の費用は、めぐりめぐって、消費者の所得に転じるのである。つまり、価格は、支出と所得という表裏の関係を内包しているのである。

 大切なのは、何を競わせるカナのである。価格を競わせる産業もあれば、品質を競わせる産業もある。サービスを競わせる産業もある。デザインを競わせる産業もある。技術を競わせる産業もある。性能を競わせる産業もある。メンテナンスの競わせる産業、速度を競わせる産業、味を競う産業もある。ポリシーを競わせる産業もある。環境や省エネルギーと言った社会的貢献を競わせる産業もある。安全や信用を競わせる産業もある。研究や開発を競う産業もある。競争の基準は、ただ安ければ良いというだけではない。
 いずれにせよ、かかった費用をどの様に評価するかが重要なのであり、価格は中立的であるべきなのである。単純に価格に転嫁すれば、例えば、研究や開発にかかった費用負担の少ない企業が有利に立つことは明らかなのである。又、安全に対する費用や信用に関わる費用を削除すれば目先の利益は上がってくる。また、初期投資が大きく固定費が大きい産業は、目先の利益を求めて安売り競争に陥りやすい。悪貨は、良貨を駆逐するの法則が働くのである。

 費用というのは常に悪者扱いを受ける。しかし、費用こそが経済の原動力なのである。費用を裏返せば所得であり、消費である。所得と言う事は分配である。つまり、費用を削減することは、所得や消費を削減する事を、同時に意味するのである。安直な費用の削減は、所得や消費の偏りをもたらす。それが問題なのである。

 経済的合理性というのを単に利益の追求だというのは間違った思い込みである。経済は、単に金儲けを意味するのではない。又、物の分配だけが問題なのではなく。所得の分配も重要な経済の役割なのである。

 経済の根本は分配にある。それも、物の分配だけでなく、所得の分配も意味する。そして、所得を保証することは、経済的自立を意味し、身分を保証することにもなる。それは自由を保証することでもある。

 合理性というのは、一定の前提に基づいて論理的手続きに従って結論を導き出そうとする精神を言う。短絡的に利益を絶対視するような姿勢を言うのではない。重要なのは何を前提とするかである。前提を間違えば、必然的に結論も間違うことになる。だからこそ、その前提が問題意識を構成するのである。

 借金や費用というのは、経済的には負の働きがある。しかし、負の働きがあるから、正の働きが機能する。負の働きを是非善悪で捉えるのは危険なことである。
 貨幣経済は、正の価値と負の価値の均衡によって成り立っている。つまり、正の働きと同量の負の働きがあって経済は成り立つのである。負の働きを抑制すれば、同量の正の働きも抑制されるのである。

 利益は、収益と費用の差である。収益の主たる部分は、売上である。利益は、売上と費用の差額だと言える。そして、経営の目的を利益の追求だと割り切ってしまうと、経営目的は、収益の極大と費用の極小の追求と言う事になる。又、その様に思い込んでいる経営者や経済学者が現在では、多数派をしめている。
 それは、利益中心主義的な思想によって経済学が支配されていることによる。利益中心主義に立てば、費用に否定的にならざるをえない。

 しかし、経済の本質は、収益の極大化と費用の極小化を意味するのではない。経済の生産の効率という観点ばかりで経済を見ると経済本来の役割を見失ってしまう。
 ひたすら利益を追求するとなると、費用というのは限りなく少なくなればいいという事になる。しかし、それはともすると不経済に繋がる。だから、使い捨てによる無駄遣いが横行する一方で、合理化による雇用の削減がまかり通るのである。人が生きていく上で、何が必要で、何が不必要なのかという視点が、経済から抜け落ちてしまっているのである。
 間違ってはならないのは、利益も、生産性も、本来社会的概念だと言う事である。生産というのは、社会にとって有用な物を社会に必要なだけ経済的に効率よく生産することを意味している。この場合、経済的生産性とは、単純に時間あたりの生産量ばかりを意味しているわけではない。
 利益というと金銭的な問題である。そして、生産性は、物の経済である。しかし、一番肝心なのは、人の経済である。それは、労働と所得の問題である。
 現在でも、所得を分配するために、わざわざ仕事を創出しているのである。しかし、一番大切なのは、社会の中に、労働と分配を結び付ける仕組みが組み込まれていることなのである。無理に、或いは、無駄に、仕事を創る必要はないのである。

 経済を単に、利益の極大化だなどと考えると経済の本質が見えなくなる。経済の根幹は、労働と分配であり、分配も、物の分配だけでなく、所得の分配があることを忘れてはならない。
 即ち、費用と所得は、表裏をなすものである。そして、所得は消費と貯蓄の原資である。
 一つの企業の内部取引の結果として損益を考えるから、費用の役割が見えなくなるのである。市場経済を構成する取引は、企業にとって外部取引の方が主たる取引なのである。
 自分の支出があるから他者の収入があり、他者の支出があるから、自分の収入が計れるのである。自分の支出をひたすら減らせば、結果的に、他者の収入を減らすことになるのである。
 支出は、他者の所得となり、他者の所得は、消費と貯蓄の原資となる。消費は、生産者の収益となり、貯蓄は、金融機関に対する貸付、融資となる。このように経済は取引の連鎖によって成り立ち、取引の連鎖によって貨幣は、社会の隅々まで循環するのである。
 経済は内部取引と外部取引の均衡の上に成り立っていることを忘れてはならない。

 最近、自然エネルギーの仕組みが話題となっている。自然エネルギーは、これまでのダムや原子力と言った大規模集中型の仕組みではなく。小規模分散型の仕組みによって経済効率を高めようと言う思想に基づいている。
 自然エネルギーの仕組みの大事な事は、経済効率は必ずしも大規模集中型の方がよいとは限らないことを意味している。
 小規模分散型の仕組みの方が経済効率が良い場合があるというのは、コンピューターの世界では立証済みである。
 つまり、経済効率というのは、生産性のみに求められるのではなく。分配や消費という観点からも検討されるべきものなのである。それをこれまでは、単に生産性のみから経済性を捉えてきた。ところが、今日の経済の状況は、生産性のみに依拠していたこれまでの有り方の限界によって引き起こされたのである。
 これからは、何でもかんでもスケールメリットを追求する時代ではなく。より消費者側に立った視点が要求されるようになるのである。

 本来、品質の良い品をより長く使うことを経済的と言ったのである。それがいつの間にか低価格の品を使い捨てすることを経済的と言うようになってしまった。その為に、節約とか倹約という言葉は、経済性と言う意味から失われ、浪費や無駄遣いが節約や倹約という言葉に取って代わった。そして、大量生産が効率性の代名詞となり、安物が経済性の代名詞となったのである。そこには、消費者の好みや意志など入り込む余地がないのである。

 経営者は、管理可能な、即ち、予測可能な費用の範囲内で経営している。経営者は、基本的に管理が不可能な、即ち、予測がつかない費用に対しては責任が持てない。

 例えば石油価格や原材料費の高騰、為替の変動が費用に与える影響などは経営者の力では管理が出来ない。それは政治力の問題である。

 しかし、現実には、管理不能な費用によって経営が左右され、ひいては、経済が左右される場合が多い。だからこそ、本来は、政治が重要な役割を持っているのである。その辺を政治家が理解していないと経済は安定しない。

 どこからどこまでが経営責任で、どこからどこまでが、行政の責任、どこまでが政治の責任なのかの境界線を明らかにすることが先決なのである。

 だからこそ、無原則な競争や市場の規律を乱すような行為には断固とした姿勢で臨まなければならないのである。
 結局、最終的には、適正な収益をいかに維持するかの問題に収斂する。適正な収益の基礎は、費用対効果の問題なのである。



利益と費用


 利益は、思想である。利益という思想があって費用、特に人件費は、抑制できる。
 利益を悪だとする思想、つまり、公共は道徳で、営利は欲とする思想は、錯誤である。だから、財政や公共事業は破綻するし、公務員の報酬は抑制できなくなる。
 利益というのは、期間損益上の最終的指標である。故に目標である。利益を出す仕組みをどの様に設定するかによって経済は決まるのである。故に、利益は思想である。公共事業のように利益を悪だとしたら、経済的指針は定まらない。
 なぜならば、経済のおいて最も重大なのは単位期間の経済的効果を特定することだからである。その期間損益を測る基準が利益なのである。
 利益は、収益と費用の差額として表現される。利益の根幹をなすのは費用であり、利益を実現するのは収益である。収益とは、社会的評価を実現した結果である。利益は、費用をどの様に認識し、設定するかにかかっている。故に、利益の本質は、思想なのである。
 公共事業は、現金収支を均衡させ、収支をゼロにする事を前提とする。故に、経済的効果を基礎とすることができない。なぜならば、現金収支には、思想がなく。どの様な経済的効果を狙って費用を掛けているのかを測る基準がないからである。
 現金収支には、費用対効果を計る根拠、思想がない。
 しかも、現金収支には、経済的効果の働く期間という思想が欠如しているために、長期資金と短期資金の区分がされない。その為に、費用の平均化ができない。
 故に、現金収支に基づく財政は、長期的な展望に欠ける。最も、長期的計画の事業に適さない仕組みである。
 重要なのは利益を生み出す仕組みであり、その為の費用構造である。

 利益に合わせて収益や費用を調節するのはいけないことだという間違った思い込みがある。しかし、収益、費用、利益は連動しているのである。
 利益は、収益や費用、状況に合わせて調整されるものである。利益は操作される値である。収益、費用、資産、負債、資本は、収益は収益、費用は費用というように個々独立した値でない。収益、費用、資産、負債、資本は、相互に関係しながら働いているのである。

 そうなると収益に占める費用の割合が問題となる。収益と費用の均衡が重要となり、市場に対する費用の働きが鍵となる。
 特に、粗利益に占める費用は、分配率として表現される。この分配率の働きを読み解くことが経済を理解する上で鍵を握る。

 同じ費用でも、費用の性格に依って資金の流れる方向に違いが生じる。
 例えば、減価償却費は、返済資金の原資となり、金融機関に対する回収の方向に流れる。
 それに対して、人件費は、所得に転じて、消費のための原資となる。資金は、市場の方向に流れていく。
 単純に利益率が良くなり、企業業績がよくなったから景気に貢献するとは言い切れない。費用の削減は、その反動として所得や収益の減少として表れるからである。企業には社会的責任があるのである。

 利益は、指標であり、目安なのである。単純な結果ではない。利益目標を目安として経営計画が立てられる以上、利益は、一つの行動指針となるのである。
 その意味では、利益は、期待値であり、予測値でもある。

 利益は価格差によってもたらされる。価格差は、何らかの距離の差、時間差からもたらされる。この様な差は、取引が繰り返されることによって解消される性質のものである。利益は価格差によってもたらされる。故に、放置すれば利益は失われる。

 鍵を握っているのは、収益と所得の関係であり、そこに介在しているのは、費用である。

 ただ単に利益のみを追求するような経営者は、経営本来の目的を理解していない。そのような経営を容認する社会も狂っている。なぜならば、利益は経営、本来の目的ではないからである。
 利益は、指針なのである。あくまでも目安である。経営本来の目的は、むしろ、費用対効果に現れる。つまり、費用の働きにこそある。そして、収益対費用の関係にこそある。だからこそ、赤字になったから即、経営が成り立たなくなるというわけではないのである。意味のある赤字ならば、赤字であっても事業を継続する意義は十分あるし、資金が続けば、経営を持続することは可能なのである。そのために損益を計上するのである。

 大体、収益力が低下することで最も被害を受けるのは、下請け業者、蓄えのない若年労働者、経費削減の対象となる管理職層である。
 収益に合わせて費用を削減すべきなのか。費用に見合うだけの収益を上げるべきなのか、問題は、費用や収益を成り立たせている要素にこそあるのである。

 貨幣数量説では、通貨の残高と通貨の流通速度を掛け合わせた値と物価の水準と市場の取引量を掛け合わせた値とは等しい、或いは、均衡すると仮定する。
 つまり、これは、市場に流通する貨幣の量と市場に流通する物の貨幣価値の総量は均衡することを意味している。

 物価水準と取引量は、言い換えると物の価格と市場における取引高といえる。価格と、取引高から導き出されるのは収益力である。
 収益力は、一つは、費用構造の問題であり、今一つは、市場の問題である。市場の問題は、需要と供給の問題であり、消費力の問題でもある。

 費用の原形は家計に求められる。費用という概念を考察する上で重要になるのは、可処分所得と非可処分所得である。

 費用の性格の原形は、衣食住に見られる。費用の性格は、対象となる財によって決まる。
 即ち、食のように保存が効かずにその日その日の内に費される物資に支払われる費用と衣料の購入してから一年とか二年、基本的に単位期間内で消耗される財に対する費用、家や自動車と言った長期間にわたって一定の働きをする費用である。
 そして、長期にわたって作用する費用を借金や賃料で賄うことによって生じる費用が非可処分所得のあたる部分を形成する。
 そして、この可処分所得が収益を非可処分所得が負債の元となるのである。

 可処分所得では、その構成、構造が重要となる。

 可処分所得というのは、所得の中で消費に回せる収入を指す。それに対して非可処分所得とは、自分の自由にならない部分、使い道が予め特定されている所得を指して言う。つまり、所得の中で公的債務、私的債務の返済に充当される部分である。

 家計の流動性とは、所得の中に占める可処分所得の割合を言う。

 可処分所得の動向は、消費の性向として現れ、景気の動向を左右する。景気の動向は、消費の性向に主導される傾向があるからである。
 可処分所得をどの様な方向に向けるかは、景気対策にとって重要な関心事である。故に、消費の動向の基礎となるのが家計の流動性である。家計の流動性が低くなれば、景気は硬直的となる。又、些細な景気の変動によっても家計が破綻しやすくい傾向を持つことになる。

 家計の流動性は、経済状況に対して重大な働きをしている。流動性は、景気の動向を左右する要素である。
 ただ、気をつけるべきなのは、景気を下支えしているのは、非可処分所得、即ち、固定的支出だと言う事である。流動性が高まると景気は不安定化する。また、景気が悪いからと行って固定的な部分に手をつけると経済は一気に流動化してしまう。
 非可処分所得やそれに準ずる生活費に相当する部分は、経済の基盤を構成していることを忘れてはならない。
 生活費に準ずる部分というのは衣食住でも基礎的な部分に属する必需品を言う。贅沢品に属する部分は、含まない。

 重要なのは、非可処分所得であり、非可処分所得の意味するところである。
 非可処分生得を構成する要素は、長期負債に対する返済部分と税金や社会保険費と言った公的支出を形成する部分である。
 非可処分所得とは、固定的支出を指して言う。この様な固定的支出は、会計上費用としてみなされていない。その為に、借入金の返済は、公式には表に出てこない。
 その為に、企業会計上では、非可処分所得に相当する支出は、償却費として計上されている。しかし、借入金の返済と償却費とは直接的に結びついているわけではなく、資産を減額する一方で負債を減額する事で均衡を保つようにしている。
 ただし、非可処分所得に相当する負債の減額部分と償却費とは必ずしも一致していない。それが会計を解りにくくしている。

 償却というのは会計的思想である。償却費に相当する費用は、借入金の返済原資である。しかし、償却費が設定されたことで、借入金の原資は、費用とはみなされなくなった。

 減価償却費は資金流出のない費用だという間違った認識があるが、借入金の返済として資金流出はあるが、ただ、表面に現れないと言うだけである。
 故にこそ、金融の融資基準として長期借入金を減価償却費と税引き後利益で足した値で割る手法が有効なのである。

 なぜ、減価償却という処理が必要なのかというと、減価償却に相当する部分を単純に借入金の返済に充ててしまうと自前の資金、資本で購入した資産の効果に対応する費用が計上できなくなるからである。
 それでは、借入金によって資産を手当てした者と自前の資金で手当てした者との間に、費用構造上の不公平が生じてしまう。また、自前で購入した資産の費用対効果の測定もではない。また投資額が莫大な事業の場合、償却に時間がかかる上に、資金調達が容易でない、又、更新時に資金の蓄えられていないなどの点を鑑みられて減価償却費という架空の費用が設定されたのである。

 減価償却という思想を理解するためには、減価償却がなぜ、必要とされたのかを理解する必要がある。減価償却は、単位期間内の費用対効果を測定可能とし、明らかにするために成立した費用なのである。
 適正な利益は、適正な費用に上に成り立っている。適正な利益を実現するために会計制度はある。そして、それは、会計的に費用を定義することを意味するのである。

 非償却資産は、借入金の返済時には費用に換算されずに、売却すると収益に対して税金がかかる。それでも、地価が上昇している時は、旨味があるが、地価が下落時には、資金調達の障害となる。
 現在の会計は、地価が上昇することを前提としているような部分があり、地価が下落すると景気に対して重大に弊害をもたらす危険性がある。

 費用対効果を測定する目的は、収益に対する費用の働きを明らかにすることである。費用対効果が釣り合っていれば適正な経営がなされていることを意味し、費用対効果が釣り合っていなければ、経営のどこかに歪みがあることを意味する。問題は、その歪みの原因を探し、歪みを是正することである。

 歪みを是正しようとした時、注意しなければならないのは、資金の短期的な働きと長期的働きを混同しない事である。
 短期的な問題と長期的な問題とでは、本質が違うからである。そして、短期的な働きと長期的な働きを混同する資金計画に重大な悪影響を及ぼすことになる。

 短期的な資金が不足した時、長期的な働きをする部分を回収しようとすれば、資金循環の基盤を損傷し、資金繰りを破綻させる原因となる。

 家計では、短期的な資金を補助する資金として失業保険や健康保険という社会的制度が設けられた。しかし、この様な発想が企業会計には欠けている。

 企業は、短期的な資金が不足した時、それが長期的資金にどの様な影響を与えるかを予測した上で、蓄えをするのである。蓄えの原資は利益や資本に求められ内部留保として積み上げられる。
 内部留保というのは、無意味に存在するわけではない。収益の波を平均化する目的で蓄えられる資金である。それを無闇に配当や税金で放出すれば、企業の体質は脆弱なものになってしまう。

 収益と言った短期的な働きの悪化を長期借入の回収と言った長期的資金によって解決しようとすれば持続的な経営に支障が生じる。また、減価償却の先送りと言った長期的費用の操作によって調整しようとすれば、費用構造に歪みが生じ適正な利益を維持できなくなるのである。
 収益の問題は、収益上の問題として片付けなければならない。さもないと正確な期間損益を測定することができなくなるからである。



費用対効果が経済指標の本質である


 現金主義と期間損益主義の決定的な違いの一つに対価という思想がある。収益と費用は、対価という概念によって結び付けられている。この対価という概念によって単位期間内における費用対効果が計られるのである。そして、費用対効果を測る指標が利益なのである。

 現金主義では、この対価という概念が稀薄である。現金主義では、支出は支出、収入は収入として捉え。儲けは、その日の収入から支出を引いた残高という考え方である。その残高が次の日の仕入を決める。
 故に、原価という発想が成立しにくい。
 逆に言うと、対価という発想や費用対効果という発想がなくても経済は成り立つのである。

 現金主義である財政では、この対価という思想が乏しい。故に、費用対効果を測定するのが難しいのである。

 財の働きは直線的な働きであるのに対し、貨幣の働きは、循環的な働きである。財と貨幣の働きの差は、取引における財と貨幣の運動の差としても現れる。財の運動は、個々の取引において完結するが、貨幣の働きは、次の取引に対して連鎖的に影響する。それは貨幣が交換の手段であることに起因する。
 故に、財の働きは単一方向のものなのに対して、貨幣の働きは、二方向の働きとなる。即ち、売りと買い、貸しと借り、入りと出と言うように必ず一つの方向の働きには、反対方向の同量の働きがある。その結果、働きの総和はゼロとなる。そして、その働きは、経済主体に対して内と外、自と他という形で表出する。

 「物」や「人」の動きは直線運動であり、「金」の動きは回転運動である。

 この財と貨幣の働きの差は、費用の働きにも影響する。

 「物」と「人」の動きが直流電流のような運動だとすれば、「金」の動きは交流電流の様な運動だと言える。言い替えると、「金」の動きは、波動運動だと言える。

 財の動きというのは、財の必要性に基づいた生産から供給という直線的な動きである。それに対して、貨幣の動きは、交換取引を前提とした循環的動きである。そして、取引においては、取引の主体と相手に働く双方向の作用を基としている。それは、費用の働きに、消費という物の働きと費用という貨幣の働きの差を生じさせるのである。費用は、収益、所得に転換される。つまり、費用には収益や所得という裏の働きがあるのである。

 財の働きは、生産から供給といった直線運動である。人の働きは、労働の対価としての所得を得る事から財の消費と言った直線運動である。この物と人の直線的働きを貨幣の回転運動によって駆動し、制御するのが貨幣経済である。つまり、貨幣経済の動きは、ピストン運動みたいなものである。
 経済主体は、生産主体、供給主体、労働主体、消費主体の四つの側面を持つ。労働と消費は、収入と、支出に転換される。消費は、生産の範囲内で行われ、支出は、収入の範囲内で行われる。そして、余剰の生産物や収入は、在庫や貯蓄に、即ち、ストックに廻される。
 貨幣経済は、経済の基数は、生産を分母とし、消費を分子とする。また、収入(所得)を分母とし、消費、支出を分子とする。その上で、貨幣価値は、ゼロサムになるような仕組みになっているのである。

 貨幣経済上、貨幣の働きは、ゼロサムを原則とするから可逆的反応である。
 物と人の経済現象は、不可逆的反応である。生産から消費の流れは、一方通行、即ち、不可逆な流れである。また、労働過程も不可逆である。
 それに対して、貨幣の流れは可逆的な流れである。

 そして、生産は、労働と結びつき、労働は報酬となり、所得、収入に還元される。消費は、家計に結びつき、支出に還元される。
 つまり、生産(物的要素)と収入(貨幣的要素)は、労働という人的な要素によって結びつき。消費(物的要素)と支出(貨幣的要素)は、費用、家計、生活という人的な要素によって結びついている。その効用は、費用対収益によって測られる。その指針の一つが利益である。

 生産と雇用は関連しており、雇用と所得とは結びついている。所得は、負債の裏付けとなる。所得と負債は、収入に転化される。負債は、資産、債権へと形成する。収入は、支出、貯蓄とに転化される。支出や貯蓄は、消費、投資、費用となる。
 生産力が低下すれば雇用も低下する。雇用を減らせば所得も減る。所得が減れば負債の返済力が落ちる。負債の返済力が低下すれば、投資力も減退する。消費力も低下する。資産価値も下落する。そして、巡り廻って生産力も低下する。

 働いたとしてもその成果物が自分の所有とならなければ、その成果物は、労働に対して負の価値を持つ。その負の価値、対価を補う働きがあるのが貨幣価値である。

 所得が支出を生む。支出は、見方を変えると所得となる。生産が消費の因となり、消費が生産の因となる。労働と所得、所得と支出、生産と消費、消費と生産、各々の因果関係を数学的に捉えることが肝腎なのである。
 
 社会全体で見れば、支出が減少すれば、収入も減少するし、支出が増えれば収入も増える。
 収入が減れば、支出が減る。収入が増えれば支出が増えるという方が解りやすい。しかし、現実は、収入が増えても支出が増えるとは限らないし、収入が減っても支出が減るとは限らない。むしろ、社会全体では支出が減れば、収入が減り、支出が増えれば収入が増えると考えるべきなのである。
 安売り業者の横行は、家計面で、節約に結びつくように思われるが、雇用の減少や経費の削減によって収入の減少に結びつくことを見落としてはならない。

 景気や経済の問題は、財の生産量、或いは、供給量と雇用(所得)、そして、通貨の流量の均衡の問題なのである。

 現代人の多くは、経営の目的は利益の追求にあると錯覚している。利益は、一つの指標に過ぎない。経営の目的は、貨幣の循環過程において適正な費用を形成することにある。即ち、費用を形成する過程で所得を生みだしていくことにあるのである。

 生産から消費、収入から支出への過程は、取引、即ち、売り買い、貸し借りといった市場における交叉した、交換行為によって成立する。その取引の媒体か貨幣なのである。この様な取引が費用の実体を構成していく。

 生産から消費への流れと収入と支出の流れを結び付けのが貨幣の働きであり、円滑な流れを維持できるように貨幣を供給するのが金融機関の役割である。
 生産と消費、収入と支出の場を形成するのが産業と家計なのである。

 生産と消費との間にある時間的制約は、貨幣の働きを長期、短期に区分したうえで、所得の範囲内で金融機関によって調整される。
 住宅ローン等が好例である。ある意味で今日の経済は、負債経済、借金経済だとも言える。借金を可能とするのも貨幣経済の特徴の一つである。

 経済は、生きる為の活動をいい。人々が生きる為に必要な物資を分配する仕組みが、経済制度なのである。物資を分配するための手段として貨幣があり、その貨幣を労働に基づいて配分するのが国家や事業体なのである。お金儲けは手段に過ぎず。目的ではない。言い換えると利益は手段に過ぎず、目的ではない。そして、所得の分配において重要な役割を果たしているのが費用の部分なのである。費用は邪魔な部分どころか、最も肝心な部分なのである。

 費用というのは無駄な出費を意味するのではなく。費用こそが経済の根幹をなす要素なりである。この点を正しく理解していないと経済を在り方を見誤ることになる。今日の経済が停滞する最大の理由は、費用を過剰に削減してしまうことにある。

 聖書にも落ち穂を拾うなと書かれている。つまり、経済というのは、分配の仕組みなのである。それを前提として適正な利潤をあげるために会計制度はある。それがいつの間にか、競争力をつけることばかりが偏って重視され、費用を最小限に抑えることに目的がすり替わってしまった。

 今日、我々が通常使用する費用とは、会計上の概念である。つまり、費用は貨幣的な概念である。しかし、貨幣制度が定着する以前は、必ずしも、費用を、貨幣的な概念と認識していたわけではない。
 本来、費用の元となる概念には、物的な対象や人的な対象を含んでいた。つい最近まで、医者に対する謝礼を「お金」のない者は、物で支払っていたし、又、借金の形(かた)に人が取られたりもした。税金の多くは物納や使役であった。
 農作業は、村中、総出で行ったりした。つまり、「お金」が全てではなかったのである。費用が、「お金」で考えられるようになったのは、貨幣経済が浸透し、又、会計制度が確立されてからである。つまり、費用の根底には、貨幣以外の要素が働いているのである。ただ、それは、貨幣経済に支配されるに従って経済の表層から埋没してしまったのである。

 「お金」のない時代、世界では、今日的な意味での費用の概念は成り立たない。

 「お金」のない時代は、猿のような群を作る動物のように、人間も、家族を中心にして集団を組んでいたのであろう。その様な時代や世界では、食料の採取も家を建てるのも共同作業であり、お互いの協力関係や力関係によってそれぞれの役割が決められた。つまり、労働や必要物資を商品、即ち、貨幣価値のある物として認識されていなかった。
 しかし、費用の本質は、貨幣のあるなしに関わらず存在していたはずである。つまり、費用の対象となる物や行為は、貨幣とは関係なく存在しているのである。
 貨幣価値に換算されない労働は、非貨幣的労働である。
 今でも、家庭内労働は、非貨幣的労働である。その為に、家庭内労働を費用として、翻って言えば、仕事として社会的に認知されていない。そのために、家庭内労働に従事する者が、隷属的な地位におかれている。それが問題なのである。
 利益とは、費用対効果の結果なのである。

 利益を計算する上で何を変数とすべきかの問題である。

 何を変数とするかは、資産、費用、負債、収益の変動と取引との関係が、どの様に利益に影響を与えているのか、その度合いによって決まる。

 適正な利益が確保できない原因は、第一に、費用の要因がある。第二に、収益の要因がある。第三に、資産の要因がある。第四に、要因の問題がある。第五に、資本の要因がある。
 費用の問題にも、固定費の要因と変動費の要因がある。
 原因によって取るべき対策はまったく違った施策になる。闇雲に、費用の削減、負債の回収などとやれば、壊滅的な打撃を与えるだけである。
 腹が痛いからと言って何でもかんでも手術をしてしまえと言うのは乱暴である。

 費用というのは、ある意味で気配りである。思いやりである。費用を軽視すれば社会的弱者が虐げられることになる。その結果、格差が拡大する。それは、社会的配分が不均衡になるからである。強い物は、更に強くなり、富める者は、更に富む。それこそが不経済なのである。

 利益を追求することだけが、経済的合理性だと錯覚している者が結構いる。そういう者は、経済的指針は利益しかないと思い込んでいるのである。収益も、費用も、利益をあげるための手段でしかないと決め付けている。
 そう言う人が、経済的合理性というと限りなく費用を削減することでしかない。費用の働きなんて一切認めないのである。
 そして、経済的合理性をすぐに結果である利益に結び付けて解釈しようとする。結果、安直に費用の削減に走るのである。
 しかし、合理性を検証する根拠は、論理の前提、設定にある。結果は、前提や設定に則って論理的に導き出される結果である。前提や設定を変えれば、まったく違った結果が導き出される。

 費用は、利益をあげるための必要な要素である。費用を梃子として収益をあげ、費用を確保することで利益が計上されるのである。不必要な物でも、排斥される物でもない。又、費用には、経済活動を支える重要な要素が含まれている。
 ただ、費用が際限なく拡大すると経済の規律が失われるのである。それは、財政や公共事業に端的に現れている。だから、費用は抑制される必要がある。その為に、費用対効果を検証するために利益が大事になるのである。
 費用には、収益をあげるための根源という働き以外に所得の分配という機能がある。所得は、経済の活力源である。所得が縮小すれば経済は活力を失うことになる。経済的合理性と言って経費削減や人員削減を推し進めれば、かえって景気は悪化する。それは経済的合理性でも何でもないのである。最初の利益設定に問題があるのである。
 費用を極端に削減すれば、経済的な活力が削がれることになる。つまり、不経済なのである。

 会計は、本来企業活動を保護する為の仕組みである。その会計が、費用の働きを計算できないと事業を圧迫する要因になってしまうのである。それはあたかも費用を不必要で無駄な物という認識に基づいているからである。
 費用こそが、利益や経済の源なのである。

費用構造が収益構造の基礎


 費用の果たす役割、社会的機能を知るためには、費用とは何かと言う事を明らかにする必要がある。
 第一に、費用というのは、収益から直接控除、即ち、差し引かれる勘定である。
 第二に、費用とは消却される財である。
 第三に、費用とは支出、或いは、支出を前提とした勘定である。
 第四に、費用とは所得である。
 第五に、費用とは消費である。
 そして、第六に、費用は会計的概念だと言う事である。

 公正な競争を維持するためには、適正な収益構造が保たれることが前提となる。
 収益構造というのは、裏返してみると費用構造でもある。

 競争は手段であって、目的ではない。況や、原理ではない。競争は、適正な価格を維持するための手段である。即ち、競争の目的は、適正な価格を維持することにある。競争によって適正な価格が維持できなくなった場合は、競争以外の手段を講じるべきなのである。競争を絶対視するのは危険なことである。

 適正な価格を維持する手段として競争が有効に機能するためには、公正な競争を実現できるかにかかっている。公正な価格を実現する為には、市場のルール、規律が守られることが前提となるである。
 即ち、市場に要求されているのは、公正な競争力である。やたらに競争力ばかりを追い求めるのは、経済政策としては、邪道である。
 その為には、費用構成においてどこまで公正さが維持されるかが重要となる。その時、重要な指標となるのが、管理可能か、管理不能かの比率である。

 管理が不能だと言う事は、外的要因によって費用が支配されていることを意味する。そして、その外的要因が何かによって取るべき経済政策が変わってくるのである。

 例えば為替の変動や原油価格の高騰は、個々の産業や企業にとって不可抗力な要素である。その様な管理不能な変動に対しては、何等かの公的な施策が求められるのである。

 公正な競争を実現するためには、前提条件が大事なのである。
 例えば労働条件が違う市場では価格は当然違ってくる。低い賃金を求めて労働条件の悪い国に生産拠点を移すことは、結局、自国の労働条件の悪化を招いたり、貧困や公害の輸出と言った事態を招く事になりかない。それは、両国にとって不幸なことである。

 競争は、同じ条件の下で行われるから有効なのである。

 収益が上昇している状況では、比が重要となり、収益が下降している状況では、幅が重要になる。なぜならば、収益が上昇している時は、一定の収益構造が一定の比率だとしても、又、多少、収益構造が悪化しても費用を吸収することは可能であるが、収益が下降しはじめると利益幅を圧迫するからである。
 この事は、市場の拡大期と縮小期にも見られる現象である。収益が下降したり、市場が縮小したからと言って費用を圧縮するのは簡単ではないのである。だから、政策の重要性がある。
 収益が悪化した状況、条件から収益の悪化した原因を解明せずに、ひたすら費用を削減し、負債の軽減を求めることは、かえって事態を拗(こじ)らせるだけである。かといって、資金援助をすれば事態の改善が望めると言うほど単純なことではない。

 収益、即ち、価格が問題だとしても、価格を下落させた原因として、市場の過当競争、需要の減退、急激な技術革新、過剰設備、為替の変動、人件費の安い国からの輸入の増加といった多様な事象が考えられる。
 しかも、個々の要因が表に現れるまでには、時間がかかる上に、個々の要因毎に、現れるまでの時間にも差がある。

 経済は、オリンピックではない。勝つことや記録を作る事に目的があるわけできない。そのオリンピックにも、規則はある。競争は規制を緩和することなどと言うのは世迷い言である。規制をなくすことで公正な競争が保証されるのではない。むしろ、逆である。規制をなくせば公正な競争ではなくなる。ただ、規制がなければ、規制に対して防いではないと言うだけである。それは不正な行為を正当化する詭弁に過ぎない。
 競争の重要性というのは、競争の為の規制があってはじめて意味がある。その為には、適正な利益をいかに算出するかが肝心なのであり、その根拠となるのは、適正な価格である。

 つまり、重要なのは利益の追求よりも適正価格の維持にあるといえる。

 そして、適正な価格は、需給関係からのみ導き出されるわけではない。適正価格の核となる部分は、むしろ費用である。そして、費用の中に操作が可能な勘定科目が入り込んでいることに注意すべきなのである。
 費用の中には、基準によって値が変化するものがある。又、設定条件によっても違ってくる。表に現れない費用もある。又、資金の流出を伴わない費用もある。これらを操作することによって見かけ上の収益や費用、その結果である利益は操作することが可能なのである。

 需要と供給は結果であって原因ではない。需要と供給だけで適正な価格が定まるというのは、幻想以外の何ものでもない。価格を決定する仕組みを需要と供給の働きだけに委ねるのは無謀なことである。
 価格が反映されるのは、期間損益である。そして、期間損益に決定的な働きをするのは、需給関係よりも固定費と変動費の費用構造である。また、期間損益の中には、短期的な需要や供給に影響されない科目もある。利益を出すだけならば、需給に依らなくても可能である。要するに、需給関係のみで価格決定の仕組みを捉えていたら、価格決定の本当の仕組みが見えなくなる。価格決定上において重要なのは、費用が適正に価格に反映されているかである。その為には、単価に対する固定費が適正に配分されているかが、鍵となる。

 適正な価格を形成するために、適度な競争が必要である。しかし、何でも度をすごすのは良くない。確かに、競争がないのも良くないが、過度の競争も問題がある。

 それは利益が操作することが可能だからである。利益が操作することが可能である以上最初から公正な競争など成り立たない。しかも無理な競争は、実質的な利益を損なう危険性があるからである。その為に本来還元されるべき費用が費用が還元されずに体力のない者から淘汰されてしまう危険性があるのである。つまり、競争は、不正を行う者に有利に作用することがある。

 現在市場で決められている適正な価格というのは、会計上において適正と言うだけである。

 会計は、適正な費用の算出と維持にあると言っていい。利益は、収益と費用の差に過ぎず。実体はない。収益は、取引の結果であり、費用は、価格の原因である。
 その為に、競争が有効なのである。なぜならば、費用は相対的な値だからである。しかし、競争によって必要な費用まで賄えなくなったら、それは本末転倒である。マスコミは、競争を煽り立て、何でもかんでも安ければ良いという風潮がある。しかし、過度の安売り合戦は、市場を荒廃させ、経済に壊滅的な打撃を与えることもあるのである。

 肝心なのは、何を競うべきなのかである。価格なのか、サービスなのか、品質なのか、それとも、アフターサービスなのか、安全なのかである。今日では、情報や環境、資源保護なども重要な要素となりつつある。これらの要素を無原則な競争に委ねていいのか、甚だ疑問なところである。

 公正な競争を維持するためには、原価が問題となる。製造原価と流通経費には、質的な違いがあり、同次元には語れない。
 また、国内市場と国際市場とでは条件も事情も違う。

 人件費のような国内市場でのみ通用する費用もある。所得や物価が極端に低い国とでは、競争のしようがない。しかも、労働条件が各国の制度に委ねられている以上、標準化するのは困難なのである。

 障壁となるような規制は、自由な交易を阻害する。しかし、市場間に制度的な歪みがあることも事実である。

 単純に保護主義が善いか悪いかではなく。前提となる理念と条件こそが重要となるのである。

損益分岐点


 経済的指標で重要なのは、費用に占める管理可能費と管理不能費の割合である。管理可能費と管理不能費の是非が問題なのではない。管理不能費の比率が大きくなればなるほどその産業や企業の費用は硬直的となるという事が重要なのである。管理不能費は、固定費を構成し、管理可能費は変動費を構成する。
 管理不能費が大きい、即ち、固定費が大きい産業や事業は、その原因を解明する必要がある。固定費は、費用を硬直的にするからと言って闇雲に削減すればいいと言うわけではない。費用というのは分配を担っており、所得の原資でもある。費用を闇雲に削減することは、所得の減少をも招くのである。

 費用を個々の製品に按分するための適切な配分方法を定式化したものに原価計算がある。

 費用を区分する基準には、第一に、固定と変動がある。第二に、直接と間接がある。第三に、原材料、労務費、経費の別がある。第四に、管理可能費と管理不能費がある。第五に、形態別と機能別に分類することが可能である。第六に、資金の流出、現金支出を伴う費用と、資金の流出、現金支出を伴わない帳簿処理上の費用がある。第七に、物に関わる費用と時間に関係する費用、人に関わる費用がある。第八に、全体的な費用と部分的な費用に区分できる。第九に、損金に算入される費用と損金に不算入な費用、即ち、税制上認められた費用と認められていない費用がある。

 費用に対するこれらの基準が費用の果たす役割の性格を形作っている。つまり、費用が産業や労働の質を確定するのである。

 例えば、固定費と変動費の別である。

 固定費と変動費の構成比が産業の性格を決める。

 固定費と変動費を見る場合、注目すべき点は、変動費と固定費の動きが、全体で見た場合と製品単位あたりで見た場合では逆転すると言う事である。つまり、内部構造の動きが全体と部分では逆転するのである。
 それが収益構造に重大な影響を与え、営業活動に決定的な作用を及ぼしている。この点を見落とすと公正な競争は維持されなくなる。つまり、単価の維持か、量の拡大かの分岐点を意味するのである。

 固定費を構成する要素には、労働費と償却費がある。労働費の比率が高い産業は、労働集約型の産業、償却費の大きい産業を設備集約、資本集約型産業という。

 費用を構成する要素は、原材料(仕入れ)と人件費、そして、経費に分類できる。そして、それぞれの要素は、固有の働きがある。

 労務費というのは、年齢、技能、資格、経験、労働環境、生活環境と言った属人的要素が強い。又、その国、その地域、宗教や民族、風俗習慣、労働慣行によって支配されている部分も多く含んでいる。この様な労務費は、下方硬直的な性格を有する。故に、単純に一律の費用と見なす事はできない。貨幣経済と人の経済の違いである。
 不況期には、人員の削減によって調整される傾向のある費用である。人件費は消費に繋がる費用であるから、人員の削減は、不況を更に深化させることになる。

 労働市場は、需給だけで決まるような単純な仕組みではない。大体、労働市場という場が存在するかどうかも疑わしい。労働の場というのは、市場と言うより、組織体、共同体と言った方が相応しい。

 全ての経済事象を市場的現象として認識する事にはどだい無理がある。
 貨幣も、労働力も、はじめは、余剰、補助的なものだったのである。経済の主体は、共同体にあり、市場にあるわけではない。共同体の内部は、取引の場ではなく、非貨幣的空間である。貨幣制度が確立する以前においては、労働も賃金労働ではなかった。
 現在でも家内労働は、非賃金労働である。だからといって価値がないわけではない。

 家族を路頭に迷わすという事が現実の問題だったのは、家内労働が非賃金労働であり、賃金労働の担い手が父親に限られていたからである。

 費用とは、貨幣的な概念である。費用は貨幣化された部分である。貨幣化されるとは、数値化それた部分である。逆に言うと、費用とは、貨幣に返還された部分を言う。つまり、費用に換算されている経済的価値というのは、氷山の一角に過ぎないのである。費用として、或いは、収益や資産として水面上に現れている部分だけで、経済現象を捉えたら経済の本質を理解することはできない。

 市場経済というのは、取引の連鎖によって形成されている。その連鎖反応を引き出す触媒が貨幣である。連鎖反応によって生じるのが収益と費用である。その結果、利益が生まれる。
 この様な連鎖反応を制御するためには、触媒である貨幣の量を調整することと、連鎖反応を引き起こす費用の構成を変化させることである。


変動費、固定費



 費用には、固定費と変動費がある。

 産業には、第一に、高固定費型産業低変動費型産業、第二に、高固定費高変動費型産業、第三に、低固定費低変動費率産業、第四に、低固定費高変動率産業がある。
 第一の高固定費低変動率型産業は、鉄鋼や電力、ガスと言った重厚長大型産業で、かつての日本の主力的な産業である。
 第二は、高固定費高変動率型産業で、構造不況業種と言われる産業である。
 第三は、低固定費低変動費率型産業は、固定費がかからない変わりに変動費率が低く、損益分岐点を越えても利益がなかなか伸びない産業で、流通等が好例である。
 第四は、低固定費高変動費率型産業は、ソフト産業などである。

 全ての産業は、全てが固定費による産業と全てが変動費の産業の間にあるとも言える。

 高固定費低変動率型産業は乱売合戦、赤字販売に陥りやすい。そして、乱売合戦や赤字販売が常態化すると高固定費低変動率型産業は、高固定費高変動率型産業へと変質し、構造不況業種の仲間入りをする。

 原価割れして販売することを逆鞘という。逆鞘では利益がでない。ところが過当競争が激化すると逆鞘を承知で販売するようになる。
 適正な費用が回収できないと言う事は、適正な社会的分配が出来なくなることを意味し、社会的な存在意義を失うのである。

 経済は、金儲けだけで成り立っているわけではない。金の有効な使い方も重要なのである。今の経済は、金儲けばかりを考えて有効な金の使い方を疎かにしている。それが、経済を不毛なものにしているのである。

 過当競争が激化すると利益をあげるためには、固定費の削減が必要となる。固定費の削減は、経済にとって両刃であることを忘れてはならない。競争力や生産性と言った観点から見ると固定費の削減は、プラスに作用するが、所得や雇用という観点から見るとマイナスに作用する。
 競争と言っても明白な形でハンディが生じる場合、例えば、労務費が何分の一、ひどい場合は、何十分の一と言った差が生じる場合は、公正を保てるはずがない。その点を解決しておかないと市場の規律や産業の構造を維持することは出来ない。競争と言っても何を競わせるかが、問題なのである。価格だけの競争と言うだけでは、公正な競争を保つことは出来ない。

 固定費には、サンクコストと非サンクコストがある。
 サンクスコスト(埋没費用)固定費は、既に支払った固定費で、減価償却費などである。
 非サンクスコスト固定費は、これから支払う固定費で、人件費や家賃などである。(「一円家電のカラクリ 0円Iphoneの正体」坂口孝則著 幻冬舎新書)
 収益が悪化して利益が確保できなくなると先ずサンクスコストから削減をする。その後、非サンクスコストの削減をする。サンクスコストは、会計処理によって表立たないという事が第一であり、非サンクスコストは、人員削減などの痛みを伴うからである。しかし、サンクスコストを削減する、具体的に言うと減価償却費を小さくすると、資金繰りが厳しくなり、負債が増大する結果を招きやすい。
 しかし、一度サンクスコストを操作するとそれは、長い期間、負債に重大な影響を及ぼすことになる。

 長期借入金の元本の返済は、支出であるが費用とは見なされない。減価償却費は、長期借入金の返済の元本に影響をする。長期借入金の元本の返済は利益には影響を与えず、減価償却費は利益に直接的な影響を与える。

 減価償却費は、資金の流出しない費用というとんでもない間違った認識がある。減価償却費は、長期借入金の元本の返済に対応している。
 つまり、一見、支出を伴っていないように見えるが、支出を伴っているが費用に計上されない負債勘定がもう一方にあるからである。

 その為に、減価償却費を小さくすれば、資金繰りを圧迫し、長期借入金の元本の返済が滞り、負債の増加を招きやすいからである。

 また、減価償却費と借入金元本の返済計画との非対称性が象徴である。それが資金繰りに重大な影響を及ぼす。

 長期借入金の元本の返済が費用勘定されないという事は、長期借入金の負担が直接的に表に現れにくいことを意味している。設備や機械と言った償却資産への投資は、それでも減価償却費として費用計上されるが、非償却資産である不動産に対する投資の負担は、表に現れない。それが、黒字倒産やバブルの原因ともなっている。

 費用、収益、資産、負債という概念は、期間損益主義から発生している。財政は、現金主義に基づいている。この様な財政には、長期、短期と言った時間の概念がない。

 現金主義では、費用に相当する概念は、もっばら支出の概念によって補われている。

 現金主義、単年度予算主義にたつ財政赤字は、必然的帰結である。即ち、財政は、破綻すべきして破綻している。

 予算には、収支予算と損益予算がある。財政と家計は、主として収支予算を基礎としている。それに対して企業は、主として損益予算を基礎としている。

 予算の在り方も現金主義と損益主義では違う。

 収支予算とは現金主義に基づく予算である。損益予算とは、損益主義に基づく予算である。

 収支予算は、収入と支出からなる予算である。つまり、支出予算は、収入予算と支出予算の二つ部分からなる。そして、収入と支出の認識時点、即ち、時間の認識の違いによって複数の予算の形式がある。
 収支予算の考え方には、収入が確定してから支出予算を決める考え方と、収入を予測し、その予測に基づいて支出予算を組む考え方がある。
 支出予算の考え方には、予め支出の項目と金額を設定しておく考え方と項目と金額は大枠を設定した上で、担当責任者を決めて実際の支出は、その担当者に裁量枠を与えて一任するやり方がある。

 財政では、収入予算は、歳入予算であり、支出予算は、歳出予算である。

 財政が必然的破綻する要因は、まず第一に、収入が確定してから支出の予算を組めば少なくとも一年以上、収入予算と支出予算に時間差が生じると言う事である。収入予算と支出予算を同時並行的に作成しようとすれば、収入予算は、予測に基づく事になる。現行の支出予算は、立法という縛りがある。つまり、支出予算は、立法手続きを経なければならないことを原則としている。
 そうなると、収入は予測で支出は確定予算にならざるをえない。収入が予測に基づき、政治的な要求圧力がかかり続けると言う事は、どうしても、歳入を高めに設定しやすくなる。
 しかも、一般に、収入の予測は、前年実績を前提として組まれる。なぜならば、支出予算が前年実績を基礎としているからである。多くの支出は前年を上回る計画になりやすい。
 仮に、経済が拡大、成長期にあれば、前年を上回る事が状態となり、傾向的に予算に対する要求額は、前年以上になりやすい。この傾向、景気の下降局面でも変わりない。
 支出には、下方硬直的な傾向がある。しかも一度獲得した予算は使い切ることを原則とする。
 それに対して、収入は、不安定である。税収が減る、即ち、景気が後退した局面では、支出は減るどころか、景気刺激策として増加する傾向がある。つまり、支出は下方硬直的で慢性的に上昇する傾向があるのに対して、収入は不安定である。となると財政は、慢性的に赤字傾向になる。財政の慢性的な赤字傾向を脱するためには、費用対効果予測を基礎とした手法、即ち、期間損益主義を導入、或いは、併用する意外にない。

 現金主義と期間損益主義の決定的違いは時間に対する考え方である。それを儲け主義か否かで区分するのは皮相な考え方である。根本は、お金の短期の働きと長期の働きを区分することなのである。逆に考えると財政は、長期的資金と短期的資金が未区分だと言える。それは単年度予算主義の弊害でもある。

 また、財政上の収入は、基本的に税収を基礎としている。ならば、何を課税対象にするのかによって税収の傾向と予測の精度が違ってくる。この違いが財政の健全度を左右することになる。
 課税対象を所得にするのか、それとも消費にするのか、それとも財産にするのか。それは財政の在り方そのものを根底から左右することになる。
 所得税、中でも、法人利益を基礎としたら景気の動向を諸に受けることになる。法人税は、期間損益主義に基づいて設定されていることを忘れてはならない。

 予算は、確実性と不確実性の狭間にある。
 一般に収入は、不確実なもので、支出は、確実性が高い。
 それが予測と計画の違いにも現れる。予測は、柔軟に計画は固定的につくられるものである。その加減か予算、そして、予算を基礎とした財政の成否を決めるのである。

 予算は、不安定な動きを安定した動きに変化するための手段なのである。その為に、予測機能と計画機能、そして、変化への適合機能の三つの機能を併せ持つ必要があるのである。
 現行の財政は、この予測機能と計画機能、変化への適合機能が結びついていないところに問題があるのである。

 経済主体というのは、経済の変動を一定な動きに整流する働きがあるのである。例えば、収入の季節変動を固定費に変換し、定収に替える働きである。

 景気を悪くする原因で最も深刻なのは、雇用問題、即ち失業問題なのである。この点を理解しないと費用の重要性を理解することは出来ない。
 安定した収入が保障される社会だからこそ安心して借金も出来るし、金を貸すことも出来る。不況に陥り、安定した収入が保証されなければ、金を借りることも貸すことも安心して出来なくなる。それは、長期的資金の働きを阻害する要因となるのである。
 その為に、短期的な周期でしか資金は、機能を発揮しなくなる。その短期的な働きですら、安定した所得が、保障されなければままならないのである。その結果、資金が廻らなくなる。
 経営主体単体でみれば、収入と支出、収益と費用は独立した要素に見えるが、社会全体でみると収入と支出、所得と費用は、表裏の関係にあるのである。
 企業収益が悪化した、景気が悪くなったからと言って経費をただ削減しろと言う一方では、もう一方で安定した収入を維持し得なくなるのである。そうするとスパイラルに景気は悪くなる。
 かといって所得が保証され、自分の働きとと報酬、即ち、仕事と評価が結びつかなくなれば、費用対効果が経済に反映されなくなる。そうすると社会は経済は機能不全に陥るのである。
 だからこそ、期間損益と費用との関係を正しく認識しておく必要があるのである。

 今、世界経済は、危機的状況にある。その危機の根源にあるのは、異質の構造や経済水準が違う市場が混在していることにある。それは、分配構造、つまり、費用構造の不備に起因している。
 例えば、雇用水準、労働条件、物価水準、所得水準の差などである。これらの前提条件や水準を調整する機能を持った仕組みがなければ、市場の安定は望めない。
 個々の市場を調節し、世界全体の経済を制御することが可能な国際的な経済の仕組みが構築されない限り、世界経済、ひいては、世界平和の実現はあり得ないのである。


費用こそ分配の要


 一方で住む家がなくて困っている人達がいるのに、もう一方において家の在庫が過剰で取り壊していたり、又、生産力があるのに、あえて建設をしない。
 多くの人が仕事がなくて貧困に喘いでいて、その為に消費が拡大しないというのに、利益をあげるために、人員を削減せざるをえない。仕事がなくて困っている時に、仕事を減らすのである。これこそ不経済である。
 物が不足しているわけでも、生産力がないわけでも、需要がない、つまり、必要としている人がいるというのに、人員を削減し、生産を抑制しなければならないのは、必要としている人に資金が行き渡っていないからである。「お金」が偏在しているのでる。
 現代社会は、物が溢れている(rich)のに、否、物が溢れているから貧乏(poor)なのである。豊漁貧乏。なぜ、この様な事態が起こるのか、それは収益構造、即ち、費用構造を維持する仕組みに問題があるからである。
 食糧不足によって餓死する子供達が沢山いるというのに、もう片方で、やれ、グルメだなんだで飽食する人達がいて、大量の食料が捨てられている。これが現実である。
 なぜ、食べることがないかと言えば、要するに「金」がないからである。「お金」が廻ってこないのである。

 この様な経済が正常だと言えるであろうか。いずれにしてもただ利益をあげればいいと言って費用を削減することは、本当は経済的なのか。実際は不経済な行為ではないのか。

 分配は思想である。費用は分配である。故に、費用は、思想である。
 費用にこそ思想は現れるのである。

 分配率というのは、粗利益に占める費用である。粗利益は、経費、人件費、利益に三分割される。更に、経費は、償却費と消耗費に分けられる。これは、分配の性格を如実に表している。

 分配に対する考え方こそ、社会に対する思想を実体的に表しているのである。

 分配は、経済のあり方を表している。
 分配は、第一に、労働者に対する分配。第二に、生産手段に対する分配。第三に、金融機関に対する分配。第四に、取引相手に対する分配。第五に、出資者に対する分配。第六に、国家社会に対する分配である。
 この六つの分配の比率こそが、産業の性格や経済のあり方を規制している。

 思想が最も顕著に表れるのは、労働分配率である。
 人件費を均一に分配するのか。
 それとも、実力、能力に応じて分配するのか。
 生活の水準に合わせて分配するのか。
 年齢や持ち分に応じて分配するのか。
 家柄や人種等の生まれついての属性に基づいて分配するのか。
 資格や学歴と言った後天的な技能に対して分配するのか。
 つまり、分配は思想によって決まるのである。

 貨幣経済を動かしているのは、差である。差のない社会では、物は強制力でしか流せない。
 分業は、物と物との交換、物々交換を前提として成り立つ。それは貨幣経済でも同じである。貨幣は、物々交換を仲介しているのに過ぎない。

 共産主義は、差のない社会を前提としているかぎり、強権的な全体主義国家にならざるをえなくなる。
 差をなくすといっても外見上の差をなくすことを意味するのに過ぎない。それは背後にある差別を隠すことになる。

 生産物を均一に分配したらしたら、差が生じないために、物は流れない。そして、配給切符のに様な働きしかしなくなるからである。物を流す力は貨幣ではなく。何らかの権力による強制力になる。

 差をなくし、強権をもって物を流そうとすると、組織は、垂直方向に発達する。垂直方向に発達する上に階層化することになる。階層は、世代を超えると階級化することになる。
 組織効率は、平らで自立的な組織の組み合わせによって実現する。水平方向への発達を促す。

 生産手段に対する分配とは、償却を意味する。生産手段は、会計上、費用性資産として現れる。それは投資に対する分配を意味し、長期借入金に対する返済を意味する。

 人件費は、市場の側に向かって流れ、償却費は、回収の側に向かって流れる。
 償却費の元は、費用性資産でもある。

 取引相手への分配は、消費を意味する。即ち、物への分配である。物への分配も最終的には、収益、所得に変換される。取引相手への分配は、市場に向かって資金を流す。

 金融機関への分配とは、金利を意味する。金利は付加価値として市場に環流される。

 費用は、分配を通じて資金の流れる方向を決める。資金の流れる方向は、景気の有り様を定めるのである。

 我々は、電気製品を扱う時、電子の流れる量や方向を問題としたりはしない。電子の流れが引き起こす、働きや運動を問題とするのである。経済も同じである。貨幣の量や流れる方向も重要だが、貨幣の流れが引き起こす働きや運動こそが肝心なのである。その働きや運動を自分達の目的に応じて活用するために、貨幣の量や流れる方向が重要になるのである。

 資金の流れを適正に保つためには、費用が維持される必要がある。この様な費用を維持することによって景気は保たれている。収益は、費用を維持するためにある。適正な費用が維持できなくなると景気は後退し、最悪の場合破綻してしまう。

 言い換えると、収益は、適正な費用を維持されるために必要な仕組みである。費用が収益に比して適正であるか否かを判定する基準が利益である。

 つまり、会計というのは、適正な費用を算出する仕組みと言っていい。適正な費用が維持されることで健全な経済情勢が保たれるのである。適正な費用を保護するために会計制度はある。

 個々の市場には固有の仕組みと規則がある。市場の参加者は、この仕組みや規則を尊重すべきなのである。
 いつの日か世界は一つの市場に統一される時代がくるかも知れない。しかし、現代のように、生活環境や生活水準、また、所得水準に格差があり、価値観や習慣が多様である時代に無理をして市場を統一しようとするのは、危険な行為である。

 費用は、付加価値を形成する部分でもある。つまり、国民総生産を形成する部分であることを忘れてはならない。

 時間価値を付加する費用の扱いが重要になる。そして、時間価値を付加する費用の典型的なものが金融費用や地代、家賃である。ただし、金融費用や地代、家賃というのは、その対価としての労働を持たない。即ち、不労所得である。

 供給は、物的関数であり、需要は人的関数である。供給力は、物の生産力に依拠し、需要は、人々の欲求に依拠している。欲求の根源は、必要性である。必要性の質によって需要の質も定まる。つまり、必要不可欠な物なのか。できれば必要な物なのかによって財の性格も決まる。
 この様に需要と供給の関係は、必ずしも貨幣経済に依拠しているわけではない。

 人的関数は、所得、人口、消費量等によって構成される。
 物的関数は、生産力、生産量、物流費用等によって構成される。
 金は、資金の流通量と物価、為替等で構成される。

 費用のどの部分が何に対して連動しているかを見極める事が重要となる。

 物価に連動して変化する費用もあれば、為替に連動する費用もある。その年の天候や災害、自己に連動する費用もある。株価や原油価格に連動する費用もある。つまり、費用は、何に感応するかによって費用構造は変わるのである。そして、それは経済や産業構造に重大な影響を及ぼす。市場の背後では、費用構造の変化が、景気に作用しているのである。

 各々の費用が何と関係しているのか、その相関関係が経済に重要な影響を与えている。
 償却費の増減は、設備投資や再投資と関係している。即ち、投資に影響がでる。労務費は、雇用や所得に関係している。雇用や所得の裏側には、消費と貯蓄がある。

 又、費用が資金の調達と流出とどう関わっているのかも認識しておく必要がある。

 費用は、原則的に支出を伴う勘定であるが、単位期間内の支出の伴わない費用もある。予め、支出されている費用もあれば、単位期間後に支出が予定されている費用もある。

 設備投資は、減価償却費と金利を発生させる。また、一定の額の元本の返済資金が借入金をの返済が終わるまで一定期間、固定的に発生する。
 また、減価償却費というのは、投資をすると償却が終了するまで、好不況に関われなく発生し続ける。故に、設備の更新投資は、長期間にわたって費用を累積する傾向がある。ただし、会計の処理の仕方によってある程度の調整が利く費用である。

 会計上の費用である減価償却費の果たす役割も正しく認識しておく必要がある。逆に、費用として表に現れてこない出費が果たす経済的効果、作用も見落としてはならない。

 減価償却というのは、あくまでも会計的尺度であり、実際の設備の老朽化や陳腐化と等分の関係にあるわけではない。その為に、実際にかかる支出と減価償却との間がかいりする場合が生じる。
 貨幣経済と物の経済の違いである。

 設備投資において資金が必要とされるのは、初期投資と運転費用である。設備投資には、初期投資の時点で多額の資金が一時的に、かつ集中的に必要となる。この資金を負債で賄うか、資本によって調達するのかによってその後の資金の流れが変わる。初期投資にかかる資金は、費用ではなく。資産に計上され、相手勘定として借入によって調達された場合は、負債に、増資によって調達された場合は資本に計上される。
 そして、一定期間、減価償却費として費用計上され、資産から費用計上された部分が控除、削減される。その為に、減価償却費は、資金流出を伴わない費用のような見方がされている。しかし、実際は、借入金の返済部分がこの減価償却費に相当するのである。ただし、設備投資に、不動産、即ち、非減価償却費が含まれる場合、この部分の返済部分は、資産の減価に含まれない。その為に、不動産部分が資本で賄われていない場合は、借り換えによって対応する必要がでてくる。つまり、資金が堆積されるのである。
 又、元本の返済額と減価償却費は同値ではない。

 この様に、設備投資は、初期投資の段階で貸方から借方の方向に資金が流れ、以後は、借方から貸方方向に資金は流れる。この資金の流れを見ないと景気の動向を見誤ることになる。

 長期的に固定される資金、即ち、長期的に一定の支出が確定している債務と短期に変動する、即ち、予測がつかない変動する収入の関係が、経済を不安定にしている要素なのである。そして、固定的な資金が固定費を構成する。固定費の中で大きな部分は、減価償却費と人件費である。つまり、減価償却費というのは償却資産、即ち、設備投資に関わる仮想的費用であり、人件費は、労働の対価として所得の基となる費用である。

 実際的な資金の流れからすると設備に対する支出は、減価償却費ではなく、元本に対する返済額でなければならない。

 なぜ、長期借入金の返済額ではなく。減価償却麻痺が問題となるのかというと、あくまでも期間損益というのは、費用対効果の測定に基づいて、利益処分の基礎となる数値を算出することを目的としているからである。
 つまり、収支や資金の流れが問題とされているわけではない。
 実際の収支や資金の流れに基づいて減価償却費は計算されていない。つまり、減価償却費というのは、あくまでも見積額なのである。減価償却費には実際の資金の流れの裏付けがあるわけではない。

 借金があったら借金のことばかりで頭が一杯になったり、財産があったら取らぬ狸の皮算用になるのは、単式簿記的な発想である。複式簿記的発想とは、借金、即ち負債を問題とする時は、必ず財産、即ち、資産を併せて考え、資産のことを考える時は、負債との均衡を考える。
 複式簿記的な発想を土台とした上で現金の流れの働きを明らかにしなければ、経済の状況も経営の状況も理解できない。

 貨幣経済では、負債はなくならない仕組みになっている。貨幣経済は、負債がなくなると機能しなくなる仕組みなのである。そして、負債は、貨幣の信認の前提となるからである。負債を否定的に考えている限り、貨幣経済は理解できない。問題なのは、負債の水準であり、負債の存在ではないのである。


       

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