5、会計と数学

5-9 資本の論理

資本主義の論理


 経済は国家観によって定まる。

 資本主義体制と言い、自由主義体制と言うが、何を資本と言い、何を経済的自由というのかが定かではない。
 資本や経済的自由の意味も解らずに、資本主義や自由経済の是非を問うても始まらない。先ず資本と経済的自由の意味を明らかにする必要がある。意味を明らかにするためには、資本と経済的自由の根拠を知る必要がある。

 資本は、会計的概念である。つまり、資本主義とは会計制度上で発展した経済体制といえる。資本主義は、制度的思想なのである。それが資本主義を解りにくい思想にしている最大の理由である。
 一般に思想や哲学というと日常的な言語体系の上に構築されている。つまり、資本とは何かという定義は、日常言語による幾つかの命題によって為される。しかし、資本主義は別である。資本の定義は、会計用語によって為されなければ、正確にはできない。それが資本主義の本性なのである。

 会計的思想には、期間損益主義と現金主義の二つがある。この期間損益と現金主義を分かつのは、会計的時間の概念による。会計的時間は、任意に設定された単位時間に基づく概念である。

 資本主義は、期間損益上に成り立っている思想である。現金主義的な概念では定義できない。
 この事からも資本の概念が会計的、制度的概念であることが解る。

 資本主義経済の文脈を構成する文法である簿記にも単式簿記と複式簿記がある。単式簿記が現金収支を記録するのに対し、複式簿記は、期間損益を計算するのに用いられる。複式簿記は、常に、取引を二つの要素に分解することによって成り立っている。

 つまり、資本は、複式簿記の文脈の上に構築された概念である。そして、資本主義は会計的に定義された資本を核として成立した思想である。即ち、資本主義は、近代会計制度の成立に伴って確立されたのである。

 資本主義においては、資本を核にして資産、費用、負債、収益は、機能している。

  現在の資本主義体制には、現金主義と期間損益主義が混在している。即ち、財政と家計は、現金主義であり、経営主体、即ち市場は期間損益主義である。そして、財政や家計と市場とは、制度的に不連続なのである。この制度的不連続制が色々な問題を引き起こしている。
 その意味では、現在の資本主義は、純粋な形での資本主義ではない。

 経済的自由とは、私的所有権が保障されることによって実現する。
 生産手段の私的所有権が保障されることによって近代企業は成立する。株式会社の株は、生産手段の私的所有権の一形態である。
 資本主義体制とは、資本の生成過程から生じる経済体制である。

 経済というのは、生きる為の活動である。生きる為の活動を支える社会的仕組みを経済体制という。
 資本主義体制も自由主義体制も貨幣経済体制と市場経済体制の上に成り立っている。すなわち、貨幣経済体制や市場経済体制は、資本主義体制、自由主義体制の前提となる。

 経済的価値とは、差によって生み出される。

 価値とは、位置である。位置とは差である。故に、価値は、差によって生み出される。
 経済的価値には、人的価値、物的価値、貨幣的価値がある。
 人的価値は、労働価値であり、単位労働当たりの所得差として表される。
 物的価値とは、財の持つ物理的差、効用の差であり、数量によって表される。また、質、量、密度として測られる。
 貨幣価値というのは、財の持つ貨幣的位置付けである。貨幣的位置付けは、価格差として表される。貨幣価値は無次元の量である。

 人的価値、物的価値、時間価値は、アナログな量である。それに対して、貨幣価値は、デジタルな量である。即ち、経済的価値を貨幣価値に換算すると言う事は、アナログの実体をデジタルな量に変換する。即ち、デジタル化すると言う事を意味する。

 国家は、儲けては駄目という不文律のような意識がある。それが間違いなのである。儲けては駄目、借り手も駄目というならば、残された手段は強奪しかない。税というのは、一種の強奪である。勝者が大多数の敗者から貢ぎ物を奪い取ったそれが税の始まりである。
 国民国家の成立によって、税は、国家が、国民のために働くための費用という考え方が生じた。しかし、それでも国民の間には、権力を背景にして自分達の成果を強奪されているという意識がどこかで働いている。その上、借りるのも駄目となれば、国家は儲けを考えるしかなくなる。
 国家も儲けるべきなのである。 ただ、民間というのは、儲からなければやらない。国はそう言うわけにはいかない。儲からなくても国民の安全や生活に不可欠なことはやらなければならない。また、国民の間の不公平を是正する必要もある。そこは税によって賄うしかない。ただ、儲けられるところは遠慮なく儲けるべきなのである。
 公共事業の有料化、受益者負担など、儲けられるところは儲けるべきなのである。その上で、単年度均衡主義を放棄し、期間損益主義を導入すべきなのである。

資本主義は四つの次元によって構成されている。


 経済の仕組みの役割は、物の流れと所得の公平を保つことである。物の流れは、物資、資源の偏在に起因し、所得の公平な分配は、雇用を維持する事によって実現する。つまり、生活に必要な物資は偏在しているのに、仕事は、公正に割り当てられなければならない。その均衡を保つ仕組みが経済の仕組みなのである。

 資本主義体制や自由主義経済は、人、物、金、時間の四つの次元から成る経済体制である。
 例えば、所得(人)、数量(物)、価格(金)、金利(時間)である。或いは、経済主体(人、需要と供給)、生産手段(物、生産と消費)、分配手段(金)、過程手続(時間)である。
 経済的価値で言うと人的価値、物的価値、貨幣価値、時間価値の四つの価値基準である。

 中でも時間価値が、資本主義経済を形成するのに、重要な役割を担っている。時間価値とは、時間によって作り出される差である。
 時間価値とは、時間差によって生じる価値である。時間差とは、過去、現在、将来の時点間の差を意味する。時間的価値の差とは、過去価値、現在価値、将来価値の差である。
 時間価値は、金利に依って形成される。

 経済上の異常な現象、ハイパーインフレや恐慌という現象は、雇用(人)の過不足、物の過不足、金の過不足のいずれか、又は、幾つかの相乗作用に起因する。
 社会現象、経済現象においては、同調的作用や共振的作用が事態を悪化させる場合が多々ある。同調的動きや共振的動きが大事にならないよう予防したり、抑制する手段を講じることが重要となる。場合によっては、経済の仕組みの中に予防的作用や抑制的作用を組み込んでおく必要がある。
 その鍵を握っているのが、時間の構造である。

 期間損益や借金の技術は、収入や支出、費用の平準化を目的として編み出された技術だとも言える。
 そして、この平準化の技術にこそ近代化を推進させた鍵が隠されていると言ってもいい。それ故に、経済は、時間の科学だとも言える。

 実物価値が資産を貨幣価値が負債を労働価値が収益を時間価値が費用を形成する。
 資産と費用は、実体的的価値であり、収益と費用は、名目的価値である。
 資産と費用、負債と収益を区分するのは、長期、短期の時間の働きの差である。
 資産と負債、費用と収益は、貨幣の働きを介して相対勘定となり、表裏の関係を形成する。

 物の価値は、使用価値であり、実質価値である。貨幣価値は、交換価値であり、名目価値である。

 実質的価値は、外在的因子によって変動し、名目的価値は、内在的因子によって変動する。

 問題なのは、実質的価値と名目的価値が常に一致していないことにある。時間と伴に、実質的価値と名目的価値が乖離し、それぞれが独自の価値を構成する。それを調節しているのが貨幣の流れである。

 時間価値とは、時間によって作り出される差である。この様な時間価値の水準を決める指標は、金利である。金利は名目的勘定である。しかし、実物価値は、名目的価値のように一定していない。外的要因によって絶え間なく変動している。

 配当が金利を上回れば投資に資金は向かうし、配当が金利を下回れば返済に資金は向かう。

 資本は、実質的価値と名目的価値の差額勘定であると言う性格と返済を前提としない負債という性格を併せ持つ。

 差額勘定という視点から見ると資本は、長期利益なのである。

 資本その物に資産価値があるわけではない。資本は、差額勘定であり、返済する必要のない負債とも言える。つまり、資本は、影なのである。

 不良債務の問題は不良債務の問題でもある。単に名目的価値だけの問題として捉えていたら解決できない。
 実質資産価値と名目資産価値の乖離の問題が隠されているのである。
 経費を削減し、投資を抑制したからと言って資産価値が上昇するわけではない。なぜならば、資産は外的要因によって変動するからである。経費や投資の問題は内的要因であり、むしろ、収益力によって左右される。競争力にあるわけではない。
 金利を収益に対応させる方策が必要なのである。
 金利を配当に置き換えたことが資本の成立原因でもある。即ち、固定的な金利を実物市場に併せて変動することを可能としたのが資本なのである。

 長期負債には、返済を前提とした負債と返済を前提としない負債がある。
 金融機関の収益というのは、金利から成るのである。貸付金を回収されても収益には結びつかない。

 返済を必要としない長期負債が資本化するのである。そして、資本化した負債を基にして支払われるのが配当である。配当は利益から支払われる。即ち、利益も時間価値である。

 景気が悪化した時、一番困るのは、金融機関が長期負債の回収にかかることである。収益が悪化している時に、長期的資金を回収されたら資金繰りが成り立たなくなる。収益が悪化している時こそ、長期資金を補充すべきなのである。
 最近、金融機関の多くが、不景気で融資先がないとこぼしている。融資する先がないのではなく。融資するための思想や構想がないのである。信念がないのである。どの様な産業や企業を育てるべきか。志や理想がないのである。金融機関としての戦略構想がないだけなのである。
 かつての銀行は、自分なりの国家観、産業間に基づいて融資先を選別していた。

 最終利益というのは清算価値でしかなく。継続を前提としないかぎり、金利を支払続け、費用を負担し続けることはできない。
 要するに、実際に経営や財政が破綻しているかどうかは、清算してみないと解らないのである。しかし、清算してしまったら、元も子もなくなってしまう。

 なぜならば、経営も財政も事業を継続することに意義があるのである。事業を継続することで本来の役割を果たすことができるのである。

 それに、資金が供給されているかぎり、経営も財政は破綻しない。
 ただそれが財政を限りなく膨らませてしまう要因の一つでもある。

 経営においても、財政においても累積している負債が大きすぎて金利負担を収益によって吸収できなくなるのが問題なのである。

 では、負債が問題だからと言って限りなく負債をゼロに近づければいいかというと、そうとは限らない。負債と資産というのは相対勘定である。負債とは、負の資産でもあり、資産は、負の負債でもある。
 かつては、無借金経営は、経営の理想的な形と思われたが、今日では、キャッシュフローという観点からみると、むしろ現金を効率よく活用しているわけではないとみられる。

 財政問題において期間損益を確定するためには、単位期間の費用をどう設定するか、特に、償却費をどう設定するかが重要なのである。プライマリーバランスというのは、収支上において新規の借入金を除いた収入から過去の借金の元利払いを除く歳出を比較した結果のであるが、それは期間損益とは異質なものである点を見逃してはならない。
 財政を資本主義的な観点、即ち、期間損益の基準に基づいて判断するならば、償却費をどうすべきかを明らかにする必要がある。

 これまで資本主義経済は、都合良く現金主義と損益主義を使い分けてきた。それが混乱を引き起こす原因となっているのである。

 会計制度を下敷きにした市場経済における、あらゆる債務は、国債といえ、企業の借り入れといえ、住宅ローンといえ収入に基づいて決済される。故に、適正に収入が確保されなければならない。債務の返済に充てられる部分の収入が適正か、否かは、期間損益による。期間損益上、収入に相当する部分は、収益である。故に、適正な収入が維持されるような市場の仕組み、収益構造が求められるのである。

人、物、金、そして、時間の均衡


 資本主義体制というのは、人、物、金の価値、及び、時間価値の均衡によって成り立っている。

 金利(時間価値)による時間価値を前提とした経済社会では、時間価値によって時間の経過と伴に、物価(貨幣価値)が上昇する。物価が上昇することは費用の増加を意味する。費用の増加が年々続くことを前提とすると個人所得(人的価値)を年々上げていかなければ、生活水準(物的価値)を維持する事ができなくなる。
 一定の率で個人所得(人的価値)が年々上がることを前提とした場合、販売している財の単価(貨幣的価値)を上げるか、数量(物的価値)を増大する以外に利益(時間価値)を維持する手段はない。
 財の標準化によって差別化が困難であり、単価の上昇が見込めない場合、販売数量の増大を測る以外に収益を維持する手段がなくなる。
 それが、過激なシェア争いをまねき、大量生産が市場を過当競争状態に陥らせ、市場が無秩序な状況に陥らせる。市場が無秩序な状態に陥るとかえって単価の下落を招く場合も予想される。
 金利を考えずに時間価値を想定しなくていい時代では、例えば、小売店では、使用人を雇っても人件費の上昇を見込んで事業を拡大する必要はなかった。だから、老舗と言われるような商売が成り立ったのである。しかし、時間価値を前提とした社会では、そう言うわけにはいかない。時間価値を前提とした経済体制は、成長し続けることが要求され、成長、発展を止めれば淘汰されてしまうのである。
 大量生産、大量販売型社会のジレンマである。
 では、金利や個人所得の上昇を抑えればいいかというと、時間価値が抑制される上に、消費の減退も招く。金利や所得が抑制されれば、今度は企業利益が圧迫を受ける。何よりも金融機関が収益を上げられなくなる。なぜならば、金融機関の収益原は金利だからである。
 企業は、通常の営業活動によって利益が確保できなくなれば、資産を操作して会計上の利益を計上しようとする。金融機関は、金融資産を操作することによって収益を確保しようとする。通常の経営活動によって得られる利益は、営業利益である。結果的に、企業は、通常の経営活動によって営業利益が確保できなくなると資産に資金を移動するようになる。これがバブル現象を引き起こす一因となる。

 経済に対する根本的な考え方を変えないかぎり、資本主義的悪循環を断ち切ることはできない。

 鍵となるのは、人、物、金、時間の均衡をどの様な仕組みによって保つかなのである。

 貨幣経済では、先ず、貨幣を手に入れることが先決になる。貨幣がなければ、市場から必要な物資を調達できないからである。貨幣を得る手段は、働く(人)か、物(物)を売るか、借金(金)をするかしかない。つまり、貨幣を調達手段には、人、物、金の要素がある。中でも、借金は、金で金を調達手段だと言う事である。故に、借金は、金の裏付けとなる何等かの対象がなければならない。

 所得は、費用であり、実質的価値であるが給与等によって貨幣化される事で名目的価値に転化され収益化される。

 労働効率は、労働意欲の問題である。労働意欲は、労働の価値をいかに評価するかにかかっている。労働の価値の評価は、個人所得に還元される。故に、労働価値は、所得差として表される。

 資本主義にかぎらず、社会主義も含めて現代経済は、なぜ、機能不全に陥るのであろうか。

 時代劇には、悪徳商人、悪家老、悪代官は、多く登場としても、悪地主、悪名主、悪藩主はあまり登場しない。
 一般の認識をよく表している。
 士農工商的な商業蔑視を象徴している。
 古来から商業や資本は、政治や生産、労働という観点から見ると一段低くみられる傾向がある。
 商業、或いは、資本は、いつも悪役にされてしまう。商業や資本という者が得体の知れないものに思えるからであろう。
 政治家や生産者、労働者から商売人や資本家が低くみられるのは、ある種の偏見だと言えなくもない。ただ、そう言う側面だけでなく。商業や資本に対する偏見は、商売人や資本家の責任がないわけではない。
 経済、即、金の問題だと思われがちである。それが、商売人や資本家が金の亡者のように言われてしまう要因がある。
 経済というのは、本来、生きる為の活動を言う。つまり、経済の本質は、生きる事にある。ならば経済的価値というのは、生き甲斐に結びつく価値でなければならないはずである。その様な価値は、本来、貨幣価値にあるわけではない。貨幣というのは、あくまでも価値を測る道具に過ぎない。貨幣を用いるのはあくまでも手段であって目的ではないのである。
 拝金主義的な傾向は、何も資本主義に問題があるわけではなく。資本主義の歪みがもたらしているのである。資本主義の歪みは、貨幣や労働に対する価値観、捉え方に問題があるから生じるのである。商業道徳、消費者道徳の問題でもある。

 商売というのは、無償の行為を有償の行為に、無料の物を有料の物に置き換えることから始まる。だから、何でも金かと言う事になる。
 しかし、有償化するにせよ、有料化するにせよ、そこに行為や物がなければならない。又、その行為や物がお金を取るのに値する行為、物であることを認めさせなければならない。そこに商売の本質がある。商売人が一人勝手に有償化したり、有料化するわけにはいかないのである。商売人が、ただ、金儲けのみを目的としたら商売というのは成り立たないのである。
 金儲けばかりを目的とする商売人が、蔓延(はびこ)るから、悪徳と言われるようになるのである。商売人にも社会における役割、責任がある。

 お金、つまり、価格だけで、それも何でもかんでも安ければいいと決め付ける風潮が蔓延している。それが、商業道徳や消費者道徳を廃らせているのである。
 ただ安ければ良いというのは、資本主義にとって危険な思想である。それは、量のみを追求して質を忘れた経済である。

 良い品を適正な価格で消費者に提供するのが商売の本質なのである。安かろう、悪かろうというのでは駄目なのである。
 商品を、安い、高いに依ってのみ判断するのではなく。適正な価格というのは何かを売り手も買い手も判断する目を養うべきなのである。
 ただ、問題になるのは、情報の非対称性である。だからこそ、公的機関、公的制度の必要性がある。規制は悪い悪いと言って闇雲に廃止するのは、心得違いである。
 要は、品質を見抜く目を養えるような経済体制となっているかが鍵なのである。
 最近、食の安全が問題とされているが、安物には、安く売れるだけの要素があるのである。悪貨は、良貨を駆逐すると言われるが貨幣のみに当て嵌まるわけではない。粗悪品が横行するようになれば、高品質の財は、市場から駆逐されてしまうのである。そうなると市場が貧相になる。
 品物だけでなく。店にも言える。見た目ばかり気にして、固有の信念がない店が増えている。古くからあった老舗が淘汰され、均一的なチェーン店に市場が独占されつつある。何もかも安易になっている。
 人間もただ格好だけで内容のない人間が増えている。品がなくなっているのである。
 財の品質を保つためには、当然、適正な情報が提供されているかは、重要な要素となる。

 原価割れの販売は、掟破りである。
 ただ、採算ばかりを追求し、経費節減ばかりを追い求めるのは、働く者の生活や成長を無視していることである。

なぜ、社会主義経済は破綻したのか


 なぜ、社会主義国が破綻したのか。又、社会主義的政策が上手く機能しないのか。それは、人間性を無視しているからである。しかし、同様の問題は、資本主義国においても抱えている。

 客観主義、唯物論、功利主義の最大の過ちは、怠惰を美徳とすることである。労働を罪悪視することである。労働は、忌むべき事であり、可能な限りなくしてしまうことが良いことだと思い込んでいることである。

 その結果、ひたすらに休日を増やし、働けないようにする。そして、雇用が減少するのである。労働は、自己実現の手段である。働く事は、社会に貢献することであり、働く事で社会に貢献する喜びを得るのである。それが社会における個人の存在意義でもある。働く場所を失うのは、自己の存在意義を見失うことでもある。働く場所を奪うことは犯罪にも等しい。ところが、現代経済は、労働に対して否定的でしかない。

 労働者の国とと言いながら、労働を苦役として、蔑視している。労働者は、過剰な労働を強いられることによって労働に喜びを見出せなくなっていただけである。労働者が、自分の労働に喜びを見出し、誇りを持てるような環境を作ることが真の労働運動なのである。労働を忌避し、蔑視することを促すような労働運動は、邪道である。労働者は、一律同等な扱いを受けることを望んでいるのではない。自分の労働に対する正当な評価を望んでいるのである。労せずして富を得る事を否定しているのであり、労働そのものを否定しているわけではない。

 同様なことは、資本主義にも言える。人間は、お金儲けのためだけに働いているわけではない。労働は、自己実現の手段なのである。
 定年退職と言う事ほど残忍な仕打ちはない。一定の年齢に達したら、自分の人生が中絶させられるのである。それまでの全てが否定され、消去(リセット)されてしまう。そして、全てを最初からやり直すことを強制される。こんな残忍な仕打ちをおまえのためだされる。自分が銃殺されるとき、銃殺用の弾の代金を請求するような所業である。

 近代経済思想は、身体の仕組みばかりを対象とし、生命の尊厳や精神的問題を省みない医学のようなものである。それを近代科学というならば科学は、偏向している。
 主体と客観は、表裏を為すものであり、いずれか片方だけで成り立っているわけではない。

 自由というのは、主体性を前提としているのに、自由主義の名の下に主体性を否定する。それが科学主義だというのであろうか。報道の公平性、中立性というのは、自分の立場を曖昧にすることではない。自分の立場を明確にすることである。

 疎外というのは、物事の本質と実態とが乖離することによって引き起こされる。その根本は、客観主義的な発想である。人間は、本来自己から切り離されて考えられる存在ではないのである。

 労働は、自己実現の手段である。しかし、資本主義者も社会主義者も労働は、金儲けの手段としか見なさないから、労働は、実態と本質が分離してしまうのである。
 故に、どこに勤めているかが問題となっても、どんな仕事をしているのかは問題でなくなる。仕事なんて、ぢれがやっても同じだとされてしまうのである。必然的に労働は、空疎なものとなり、人々は、仕事に対して生き甲斐が見出せなくなるのである。しかし、仕事以外に何に生き甲斐を見出せと言うのであろうか。そこに欺瞞がある。嘘があるのである。

 自由主義、社会主義、資本主義と唱えながら、その本質を逸脱している。だから、社会が機能不全状態に陥るのである。

 いい仲間といい仕事を終生する事が理想である。
 社会主義者は、労働者の為と言いながら、労働を否定しているのが間違いなのである。仕事や労働を否定する事は、人生を否定する事でもある。

 飛行機のパイロットは、自分が操縦している飛行機の高度や速度、飛んでいる方向を知る事ができる。それを知る事ができなければ、飛行機のパイロットは、自分の仕事、飛行機の操縦に責任が持てないであろう。
 医者は、体温や血圧、脈拍を測ることの意味や目的を知っている。さもなければ、医者は、医者としての倫理観を保つことができないであろう。医者は、人体実験をすることを目的としているわけではない。
 しかし、大多数の銀行家や会計士、徴税者、経営者は、利益の意味や資本の意味を理解していない。儲かっていると言うだけで税金を徴収し、損しているというだけで、融資を断り、資金を引き揚げる。投資家も、本当のところ自分が何に対して投資しているのかさえ定かではない。
 問題の本質はそこに隠されている。

 銀行や会計士、経営者、投資家にとって利益や資本の意味は曖昧であった方が都合がいいのである。
 利益や資本の定義が曖昧であれば自分の責任が問われることもなく、又、良心の呵責に苦しめられることもない。

 銀行家や会計士、経営者に、利益の目的や意義を試みに聞いてみれば解る。大多数の銀行家や会計士、経営者から満足のいく解答を得ることはできないであろう。

 銀行家も、会計士も、経営者も利益や資本の持つ意味を知らない。つまり、事業と言う行為が何を目的としているのか、どこに向かって走ってるのかも知らずに、利益を追求しているのである。
 この様な行為は不道徳の極みだ。自分達が追求していることによって破滅的な結果が招かれようとも彼等には関知ない出来事なのである。なぜならば、彼等は、自分達に求められたことを忠実に実行しただけだからである。自分達は、定めに従っただけだと抗弁するに違いない。たとえそれがどれ程、罪深い行為だと知っていたとしてもである。

 彼等は、神の前に立たされ利益をなぜ追求したのか。そして利益を追求した結果どの様な事態を招いかと問われた時、どの様な申し開きをするつもりなのであろうか。
 イエスキリストが十字架に掛けられようとして時、「神をお許し下さい。彼等は自分達のしていることの意味を知らないのです。」と許しを請われたことを忘れたのであろうか。そして、又、十字架に掛けようと言うのか。

 今の経済は、不義理、不人情な経済である。それが、経済が立ちいかなくなる最大の原因である。
 つまりは、人間性を欠いているのである。人間性を欠いているから、徳のない経済、礼のない経済になるのである。要するに、自分がないのである。主体性がない、と言うよりも主体性を否定したところに、社会の仕組みを構築しようとしていることに本質的な間違いがある。

 もし仮に、資本主義や社会主義がより人間的なものに変化するとしたら、それは、経済の視座を人間の生き様や人生、そして、道徳に向けた時であろう。
 その時にこそ、経済本来の在り方が見えてくるのである。

 儒教には、中庸という思想がある。何事も極端を排して均衡を重んじる思想である。極端に純粋であったり、均質な体制は、かえって偏りを生み、均衡に掛ける場合がある。むろん、極端な格差は、社会に階層、階級を生み出す原因となる。森林も雑木林の方が環境の変化に適用ができる。
 経済体制というのは、いろいろな形態の経営主体が混在していた方が効率が良いのである。この場合の効率というのは、生産性とか、採算性という意味ではない。生活をする上での効率である。生活に必要な物を効率よく社会に分配するという意味である。生産性ばかりを重んじて生活を忘れてしまえば、効率の良い分配はかえって阻害される。経済というのは、いかに多くの物を生産するかが重要なのではなく。いかに豊かな生活を多くの人に実現するかが重要なのである。

資本をどう定義するのか。


 利益や資本は、会計技術の問題ではない。会計思想の問題である。

 利益と資本は、任意に設定できる値なのである。だからこそ利益と資本の意味や目的をどこに設定するかが、重要となるのである。

 利益も資本も確定した値ではないのである。機械的に計算すれば、一定の答えがでるわけではない。設定の仕方一つでいかようにでも変わる値なのである。これが大前提である。そして、これが資本主義の本質を明らかにする上で重要な事柄なのである。

 つまり、利益や資本は、技術的に決まる問題ではなく。思想的に決める問題なのである。社会的合意によって利益や資本は、決めるべき問題なのである。つまり、国民国家においては、国家的な手続を前提としている。
 利益は誰のために、何のために、どれくらい必要なのかは、社会的、国家的な課題である。

 利益や資本は、自然現象のように自明な前提によって導き出される値ではない。任意な前提に基づき恣意的に導き出される値なのである。

 利益や資本の設定の仕方で、国家の有り様や経済の状態にも違いが生じる。故に、利益や資本に対する認識は、思想的なものなのである。

 それは、国民の生活の原資である所得は、費用によって生じ、その構成に基づいて分配されるからである。
 資本主義というからには、資本をどう定義するかにかかっている。問題なのは、資本というのは、会計的な概念だと言う事である。しかも、会計的概念にも期間損益主義と現金主義とがあり、資本は、期間損益主義から派生した思想だと言うことである。
 会計的に資本を言うと資本は、出資金と利益からなる。故に、資本主義においては、利益と資本の定義が根底を成すのである。

 利益や資本を導き出す基盤となる座標軸は任意に設定されるものなのである。何を起点とし、何を原点とするかは任意に設定されるのである。
 ところが、事業を始めるにあたり、その始点を設定する際、何を原点とするのか、つまり、ゼロの位置が明確に設定されているわけではない。何を起点として測定すべきかが明らかなわけではないのである。何から何を測るのか、その根拠は何かが、最初から明らかではない。

 利益は、妥当か否かが問題なのであり、多寡が問題なのではない。ひたすらに低収益を求めることは、社会的正義に反する場合もある。問題は、企業の果たすべき社会的責任の問題である。

 量としての利益だけではなく。質としての利益も求められるのである。
 又、資本主義では、事業の継続が前提となる。事業を継続することによって労働の提供と分配の機会を与えることが、事業体の責務であるからである。故に、国によっては、事業体を破綻させることは犯罪行為と等しいと考えられる。これも、思想である。
 資本も事業を継続するために必要なものである以上、必要なだけの質と量を蓄えておく事が要求される。

 利益も資本も反資本主義者が言うような、必要悪ではないのである。必要なものに悪はない。

 企業が継続を前提とした時から経営や経済の中に無限や極限の概念が入り込んできた。それは、経営や経済の中に微分的発想や積分的発想を取り込む事を意味する。

 利益や資本は、何を原点として考えるべきなのか。つまり、何をゼロとするのか。
 ところが、資本主義の担い手達は、ゼロの位置も意味も理解しようともしていない。だから、現代の資本主義には、善悪の基準が存在しない。それこそが重大な問題なのである。ただ、技術的に利益を追い求めることだけが、是とされるのである。つまり、現在の資本主義には、思想が欠如しているのである。
 利益を得るためには、何を、起点としてゼロとするのか、何によってプラスとなり、又、マイナスとするのかが重要となる。ゼロというのは、原点なのである。

 資本は蓄えから生じる。蓄えの前提は、保存ができる物であることである。貨幣の名目的価値は保存ができる。それが貨幣の特性である。
 物としての貨幣は、保存ができる。貨幣の保存性は、貨幣その物の名目的価値を保存する。
 名目的価値が保存できるという事は、名目的価値を蓄えることができる。それが貯蓄、貯金である。
 この様な蓄えが可能となると蓄えから貸し借りが派生する。貸し借りは、債権と債務を成立させ、投資行為が可能となる。
 貸し借りの総和は、市場全体から見ると常に均衡している。即ち、ゼロ和である。

 投資とは投げ出すことを意味する。一度、財産を投げ出すのである。所有権を投げ与えることで利益を得る権利を得るのである。
 つまり、投資の目的とは、本来は、経営権とそれから生じる配当にあったのである。株の資産価値は副次的なものであってのである。

 元々、投資は、配当が目的だったのである。株の売買益が目的なのではない。そのためには、投資家は利益から配当を受けることを原則とし、利益の意味を予め知っておく必要がある。
 そして、重要なのは、株の資産価値よりも長期的に見た企業の価値であり、事業の将来性や社会的価値なのである。

 ところが、株の投機的取引が盛んになるにつれて、株の資産価値が重視される傾向が強まり。企業の短期的な業績が重視される様になってきた。短期的な業績が重視されることによって長期的事業としての基盤が損なわれるようになってきたのである。それは資本対する思想の変化による。資本とは何かは、資本主義の基盤を構成している根本思想なのである。

 利益は、内部要因と外部要因の差によって決まる。内部要因だけで決まる値ではない。利益は、費用だけで決まるわけではない。いくら費用を削減してもそれだけで利益が上がるわけではない。
 外部要因は、独立変数である。外部要因を左右するのは、市場の仕組みである。外部要因を内部要因によって決定することはできない。市場の仕組みを構築するのは、国家の役割だからである。

 多くの人は、資本主義と社会主義を対立線上で捉える傾向がある。しかし、社会主義も資本主義も唯物主義、或いは、近代主義、国民国家主義という点において同一線上にあり、究極的な姿においては、双子のようによく似ているのである。

 資本主義も社会主義も中小企業や個人事業主が邪魔なのである。即ち、経済的に自立している個人は、阻害要因でしかない。
 資本主義は、大企業によって支配された方が会計上、或いは、生産効率からみたらわかり易いであろうし、社会主義は、計画的に経済が運営できた方がいい。しかし、経済というのは、会計や計画だけで決められるほど画一的ではない。なぜならば、経済は、人間一人一人の生活や生き様が集合したものなのだからである。

 つまり、資本主義も社会主義も究極的には、組織的、かつ、機能的な方向を目指しており、何等かの形で全ての国民が組織化されることを前提としている。そして、統一された規格や組織によって管理する事を目指しているのである。ある意味で、目的地は同じであり、手段が違うだけと言っても差し支えはない。

 自由主義と資本主義は等しいわけではない。

 市場原理主義とも資本主義や自由主義は異質である。又、市場原理主義は規制なき競争を市場原理とするが、市場は競争が全てではない。又、規制がなければ競争は成り立たない。故に、市場原理主義者が市場を擁護しているというのもあたらない。その意味では、市場原理主義というよりも競争原理主義といった方が妥当だと思われる。

 過当競争に陥った市場では、個々の企業の力によって競争を自粛するのは困難である。
 一次産業が衰退し、一次産業の労働者が行き場がなくなったことで二次産業が発展し、後進国が参加することで二次産業が競争力を失い。三次産業へ移行するという考え方がある。

 天上を極めた天龍より、これから飛躍せんとする飛龍の方が勢いが良いと易では考える。そう考えると先進国よりも途上国の方が経済状態は良いとも言える。

 技術革新が進行中の産業、市場が拡大している産業と成熟産業とでは取るべき施策が違う。

 株というと相場物、投機の対象、もっと言えば、ある種の賭け事のように思われている。投資家は、相場師であるように思われ、胡散臭い人物、博打打ちかの如くみられる。
 しかし、本来の投資家とは、何等かの事業に投資する者を指していたはずである。投資家というのは、ただ単に、金を出したと言うだけではなく、事業に共感したという面がなくては成らない。
 投資家の夢とは、単なる金儲けではなく。事業と事業から得る利益にあったはずである。金というのは、本来、事業の成果の結果、影なのである。
 投資家が相場師に変わったのは、そのまま、資本主義の変質を意味している。

 資本主義というのは、負の要素から生まれた思想だと言える。資本という概念自体が負の要素なのである。その他に、負の要素から派生した概念に、貨幣があり、資本等がある。負の概念を実体化し資産化した勘定が現金であり、預金であり、借用書であり、手形であり、有価証券であり、固定資産であり、商品である。つまり、資本主義の原点は、借金の技術なのである。だから、貸し借りが中軸的概念なのである。

資本主義の思想



 戦争は、軍事的な勝者と敗者ばかりでなく。経済的な勝者と敗者を生み出す。
 戦争に負けて、経済で勝つなどと言うことも起こりうる。
 最近では、景気浮揚策として戦争は最適だなどと言い出す者まで現れる。
 ただ、これだけは、言える。戦争ほど不経済なものはない。戦争によって解決できるような経済対策がなどありはしない。戦争で解決できるのならば、戦争によらずとも解決できるはずである。
 軍を占領地に駐留するにしても、他国を侵略し、支配するにしても莫大な費用を費やす。
 資源や領土を求めて戦争をしたとしてもそれによって犠牲になるものを考えればどう考えても戦争は不経済の極みである。
 なぜならば、経済は、生きる為の活動だからである。

 軍事力に依存する経済は、結局、軍事費に押し潰される。なぜならば、軍事は、拡大再生産に結びついていないからである。大体、経済の本義に反しているのである。

 国が借金する動機の多くは、軍資金の調達にある。そして、これも又多くの場合、借金の返済に窮して財政を破綻させ、或いは、紙幣を発行させる原因となる。

 資本の定義は、会計制度に則った思想である。即ち、まず会計という体系を設定した上でその会計の文法上において資本を定義すると言う二重構造になっている。
 この様な資本を基とした資本主義は、必然的に会計制度の支配下におかれている。資本主義とは会計的思想なのである。

 自由主義社会にいると、日常生活における出来事や判断が思想の基にして起こっているという発想を失いがちである。なぜならば、経済的思想や科学的思想は、実利的な事象に深く結びついているからである。その為に、科学や経済を思想的なものとして捉えることが難しいのである。しかし、経済的な事象の多くは、思想を基にして起こっている事を忘れてはならない。

 現代人は、科学主義を客観主義と取り違えて、思想的なものを排除、或いは無視しようとしている。我々が生活する上での思想をあたかも所与、当たり前のこととし、あえて生活する上での思想を考えから遠ざけようとしている。
 しかし、実際問題として、日々の生活の上で必要な価値観こそが、経済体制を決めているのである。
 婚姻の在り方、恋愛観、人生観、ありふれた事柄こそ思想の根幹をなしているのである。そして、その根幹をなすことこそ最も生活をしていく上で重要な役割をしている。

 例えば何を信じて生きていくべきかである。
 
 善悪の基準は、損得の基準に置き換えることはできない。

 今日、日常的な発想といえる考え方の中の典型的なものはゼロや無限という思想である。今日、我々は、ゼロや無限という概念を無意識に使っている。それだけ、日常の中にゼロや無限という思想がとけ込んでいるとも言える。
 自由主義社会に対してゼロや無限という思想が果たした役割は大きい。

 無限という思想が現代経済に重要な作用をもたらしたものの中の一つに資本や紙幣の思想がある。
 長期資金を無限に引き延ばす事によって資本が成立し、国債の満期を無限にすると紙幣になる。

 かつて、日本には、零戦という戦闘機があった。今では、我々は、ゼロと言う事を何の抵抗もなく受け止め、何の気もなしにゼロの概念を使っている。しかし、ゼロという思想は、数学史上、革命的な思想だったのである。その影響は、数学のみならず経済にも及んでいる。

 ゼロの思想が意味するのは、均衡という思想であり。均衡という思想は、貨幣経済全般を支配する思想である。つまり、貨幣的価値の総和は、基本的に均衡、即ちゼロに収束する。それが貨幣経済の原則なのである。均衡も又、自由主義経済を考える上で重要な概念の一つである。

 貸借を均衡させるというのも思想である。取引は等価交換を前提に成り立っている。

 市場価値は、市場取引によって成立する。市場価値は、即ち、貨幣価値である。貨幣価値は、債権と債務に等分に分割される。つまり、市場全体の債権の総和と債務の総和は等しい。それが前提である。

 今の日本経済の問題は、借金をしているのが国と金融機関だと言う事である。
 この状態で財政が悪化したことを前提に国が緊縮財政には知り、経常赤字を圧縮しようとすれば経済は破綻し、暴力的手段によって経済的不均衡を是正しようとすることになる。暴力的手段とは、戦争や革命を指す。
 国民や企業が安心して借金できない環境がその根底にある。また、国民や企業に金融機関が安心して金を貸せない状況がある。

 国民や企業が借金を恐れる環境を打破する必要がある。
 現在経済の根本的問題は、家計と企業が借金を恐れているから財政と金融が過剰な借入をせざるをえなくなっていることである。

 安心して借金ができるようにするには、所得や収益を平均化することである。

 収益や所得の裏にあるのは、費用である。費用の対極にあるのは収益、所得である。収益や所得を構成するのは費用である。所得や収益が安定して一定量確保されることで消費や支出が盛んになる。

 生産効率を高めることは、分配効率を低下させる事になる事もあることを忘れてはならない。
 結局は、需要と供給の均衡の問題に行き着くが、その場合、需給の量的な問題ばかりに注目して需要と供給の質を見落としては成らないのである。

 かつての日本は、高コスト体質だという批判がありました。しかし、高コスト体質だったから経済的だったという見方もできるのである。費用をかけるべきところには、費用を掛ける。その上で経費の削減は計れるのである。

 年々、経費が上昇しているのに、その上昇分を価格に転嫁することを許さない経済がおかしいのである。費用を価格に転嫁しないですむのは、市場が拡大している段階か技術革新が進行している段階だけである。

 ただ安ければ良いという利己主義的な発想をして道理を弁える必要がある。かつて、日本でスーパーが浸透しなかったのは、地域住民がスーパーは自分の仕事の客にはならないという意識が働いたからである。その頃には、適正な費用は仕方がないという思想が人々にあった。安くても後の面倒をみてくれないのでは買わないと言う考えもしていた。ただ安ければ良いという思想は不経済なのである。

 現代人の多くは、経済において負の働きのするもの、即ち、負債や費用を忌み嫌う。しかし、現代経済の基盤は、これら負の働きをする要素によって支えられていることを忘れてはならない。

 金を支払う側から見ると支出でも、金を受け取る側から見ると収入である。つまり、第三者から見ると収入も支出も同じ価値の貨幣が支払者から受取者の側に流れただけなのである。
 経常赤字の国があれば、必ず、経常黒字の国もある。

 費用や支出を削減することは、収益や収入を削減することでもある。

 この様に会計上、債権と債務は均衡する。しかし、物、即ち、生産と消費、需要と供給は必ずしも一致するわけではない。むしろ非対称な関係にある。

 足らざるを補い、余りを活用することである。経済の役割は、過剰な処から不足している処に人や物を転移することで過不足を是正することなのである。

 人が余っている処から人の処ところに、食料が余っている処から食料が足らない処へ、余剰の資金があるところから資金が不足している所へ、人、物、金を回す。それが本来の経済の在り方なのである。
 ただ、人も、物それ単体では一方通行の関係しか生じない。それでは、経済運動の均衡が保てないのである。だから、交換という行為と反対方向の貨幣の流れを組み合わせることで経済の均衡を計る仕組みが貨幣制度なのである。

 結局、問題となるのは、恒久的に物が、或いは、人が不足している所と恒久的に物が、或いは、人が不足している処があることである。その様な構造的不均衡をどう是正するかが、経済最大の問題なのである。

 よく経済問題で格差が問題となる。経済の本質とは、経済的価値を明らかにすることである。経済的価値を明らかにするということは、差を付けることである。差が物の流れを生み出すのである。差がなければ物の流れは生じない。

 大切なのは、平和と豊かさを実現する事であり、格差をなくすことではない。格差が問題になるのは、平和と豊かさを実現するための障害となる場合である。
 突き詰めると経済の問題は、人間の幸せとは何かになる。物質的に恵まれているからといって必ずしも幸せになれるとはかぎらない。
 ただ貧困と争いは、人間を不幸にするだけである。格差が問題なのは、貧困や争いの本に格差があるからである。しかし、格差が貧困や争いの原因となるのは、不条理な水準にまで格差が広がっている場合である。格差と言うのは、反面において自分に対する評価の基盤でもある。真面目に働いた者が報われるからこそ働く意義を自覚できるのである。闇雲に格差をなくせば幸せになれるというのも乱暴である。
 何が、豊かさで、何が平和かを突き詰めたところに格差とは何かの問題があり、それが、哲学、文化の問題でもあるのである。

 金持ちがいることが問題なのではない。貧しさが問題なのだ。仮に金持ちが問題だとしたら、金持ちの浪費によって貧しい人達に生きる為に必要な物資が行き渡らないことである。
 幸不幸は、個人の認識の問題である。金がなければ不幸だと思うものもいれば、金がなくても幸せだと感じる者はいる。ただ決定的なのは、生きることさえ難しいほどの貧困は人を不幸のどん底に落としてしまうという事である。

 現代の税制で一番問題なのは、税制上、課税対象とする基準が現金主義に基づいているのか、期間損益主義に基づいているのか判然としていないことである。その為に、税制の設計思想に一貫性が欠けているのである。

 税が現金収支を課税対象としているのであれば、巨額な利益をあげた時、広い土地を買えばそれだけ現金収入が減り節税対策になる。しかし、損益では、土地を買っても課税対象である利益は減らないのである。故に、土地を買っただけでは節税対策には成らない。

 高齢者問題というのは、見ようによっては、労働問題でもある。
 労働は、苦役であり、なるべくならば、労働を忌避したいというのも思想である。
 労働は、苦役だとするから働ける余力のある内に引退させてしまう。労働を好む者、いつまでも働きたいと願っている者の存在を頭から否定してしまっている。
 人の人生を十把一絡げに考え、個としての人間の生き方を無視している。人間性を無視した経済など経済本来の意味を見失ったものである。労働は、自己実現の手段でもある。その点を忘れた経済学は、経済学ではない。

 所有という概念の始まりは、獲物、収穫物という認識にある。それは自分の働きによるという意識である。

 自由主義体制といえど、私的所有権や相続、利益というのは原則的に認めていない。世襲や同族経営も認めていない。その点は、多くの人は錯覚しているが社会主義体制と基本思想は同じである。

 自由主義経済も基本的には、私有財産を相続したり、事業を世襲することに対して制度的に否定的である。事業は、清算してしまうと債務と債権は相殺される仕組みになっている。つまり、負債を背負い込む必要はないかも知れないが、莫大な財産を手に入れられるという事も稀である。得る物は、収入や所得から得るべきであり、財産から得るべきではないと言う思想が根底に流れている。反対に最悪でも破産することによって債務から免除できると言う救済処置も設けているのである。
 その意味で、破産というのも一つの権利である。

 賃金労働を基本とするというのも思想である。つまり、全ての価値を貨幣価値に還元することで、価値の一元化を図っているのが自由主義経済である。

 利益に対しては、二つの考え方が混在している。一つは、利益は経済行為の究極的目的だとする考え方。もう一つは、利益は、搾取であり、悪徳だとする考え方である。
 利益、中でも金利を罪悪視する考え方は、かなり昔からある。その顕れの一つが学問の世界でも商業や商売を経済と区分し、政治や経済、法学より一段低く扱うことである。しかし、市場経済を基盤とした今日、商業や商売を差別していたら経済は成り立たない。
 商業や商売に纏わる科学や技術を差別する考え方は、公的分野の人々に多く見られる。今でも公的部門にいる人の多くは利益という思想を頭から否定し、侮蔑的な態度をとる。
 私的企業の経営者は、経営に失敗すると責任を問われるのに、公共部門の経営者は、経営に失敗しても責任を問われるどころか、同情を集めて多額の退職金を手にしたりすることが許されている。
 士農工商と営利事業を卑しむ風潮があるかぎり。真の経済発展などありえない。

 経済体制の問題というのは、思想の問題と言うより、仕組みの問題であり、仕組みが思想だと言えるのである。
 経済問題は、現実の問題であり、観念上の問題ではないのである。
 経済とは生きることなのである。

 世の中には、何でもかんでも陰謀や謀略によると思いこんでいる者がいる。この世の出来事を陰謀謀略によって説明し、片付けようと思っている者がいる。
 得体の知れない秘密の組織があってその組織の世界は操られていると思い込んでいる人達がいる。特に世の中が乱れたり、経済の状態が悪化すると得体の知れない陰謀論が横行するようになる。それが、ただ噂や伝説の域を超えないうちは良いが、それが、民衆の内に浸透してしまうと危険な大衆行動に発展する場合がある。流言飛語は人心を惑わす。

 全てを謀略や陰謀、即ち、人間の意図に帰すのは、結局は、人間の驕慢さの現れに過ぎない。
 謀略や陰謀がないとは言わないし、謀略や陰謀が一定の効果を上げていることも否定はしない。しかし、驕る者久しからずの喩えのように、所詮人間の力には限りがあるのである。誰しも人間、いつかは、死ぬのである。
 人間は神にはなれないし、神を超えることはできないのである。

 特定の集団が何等かの意図を持って行動すれば、他の集団から見れば謀略に映るだろう。それが気が付かないところで行われれば陰謀と思われても仕方がない。しかし、組織や団体というのは、意図があって形成されるものであり、一々、それを謀略の陰謀のと非難されたら組織や集団など作れはしない。それこそ自由の否定である。是々非々を問うのならば、彼等の目指すところに対してである。平和的な体制を構築しようとする者が統一的な場を構築しようとするのは、当然の帰結であり、謀略の類ではない。
 金のために滅びる者がいたとしてもそれは、人間の愚かさ故であって、神に責任を問うべきではない。人は、人としての責任を果たすことのみを考えればいいのである。

 期間損益主義とは、現金主義に時間軸を加えることによって成り立っているとも言える。

 短期的な均衡を求めても自ずと限界がある。それを考えると財政の単年度均衡主義を放棄すべきなのである。経済的均衡は、短期、長期の時間構造の中で調節されるべきなのである。
 その為には、単位期間における損益構造と短期、長期における現金の流れの時間構造の両面から財政を検討する必要がある。

 期間損益とは、人、物、金という座標軸が作り出す経済的空間に時間軸を加える事によって形成される空間を基盤としている。単位期間内の構造と単位期間と長期期間とが作り出す時間構造によって経済現象を解明し、又制御していこうという思想が期間損益主義である。

 今の経済の最大の問題点は、非常、臨時、一時的、或いは、変動、変革、不確実、不定期、拡大、成長といった変化の上に立脚しているという点にある。砂上の楼閣なのである。変化の上に立脚しているからこそ不安定であり、不確かであり、不安なのである。それは、当然の帰結である。
 より頑強で固定的、即ち、経済を安定させる基盤は、負の部分、負債、資本、収益の部分の有り様にあることを忘れてはならない。


       

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