構造経済


 構造経済というのは、経済を一個の構造物とみなし、経済制度を人為的に、システム化していこうとする思想である。
 その為には、経済制度に対して明確に設計思想を持つ事が前提となる。つまり、経済は、突き詰めると制度の設計思想の問題だと考える。
 
 また、構造主義では、政治体制と経済構造は一体ではないとする。政治体制に応じて、資本主義的構造経済、社会主義的構造経済、全体主義的構造経済、君主制的構造経済、封建制的構造経済、宗教的構造経済などがある。

 ちなみに、私の思想は、個人主義自由主義民主主義である。

 構造は、全体と部分から成る。全体を構成する部分には、それぞれ固有の働きがある。また、部分は、それ自体が自律した機能を持つ。市場も、貨幣も、産業も、部分であって全体ではない。重要なのは、部分の働きと全体の調和である。

 現代社会を形作ったの要素は、四つある。第一に、近代科学である。第二に、近代民主主義である。第三が、近代会計制度である。第四に、近代スポーツである。これらの四つの要素を土台にして構築されるのが構造経済である。

 この四つの要素に共通していることは、
 第一、定量主義、数値主義である。数学である。
 数学の特徴は、視覚性と操作性、論理性にある。目に見えて、操作ができて、論理的であるという事が、数学を発展させた、大きな要素である。同時に、論理的構造が万国共通であるという事が、大事なのである。
 定性的な体系を基礎にした場合、解釈が分かれる。数字を基礎とすることによって、了解可能点を低くすることができたのである。

 第二が、形而下主義である。
 形而上的問題を排し、現象として現れた対象の背後にある法則を割り出す事が基本なのである。故に、根本は、実物主義・唯物主義である。勘違いしてはならないのは、形而上的問題を軽視しているとか、否定しているのではないという事である。尊重しているし、重視しているから、とりあえず、保留していると言うだけである。遵法精神を前提としているから法は、成り立っている。しかし、遵法精神を成文化しても意味がない。ただ、前提とするしかないのである。

 第三が、現実主義である。
 立脚しているところは、常に、現実であり、事実でなければならない。形而上的存在は、肯定も否定もしない。
 ただ、論理的根拠、推論の根拠として観念的な実体を否定しているのである。 その結果、観察や実験に基づく帰納法的手法が重要な役割を持つ。

 第四に、論理実証主義である。
 論理実証主義において前提となる命題は、任意な仮定である。仮説に基づいて実験を行い、結果を出し。その結果で、仮説を証明するという手続きが必要となる。
 この様な論理実証主義においては、手続きや過程が、重要なのである。このことは、民主主義も同様である。また、スポーツは、手続きの競い合いとも言える。

 第五に、相対主義である。
 任意に、相対的空間を設定する。任意という事が前提である。任意と言う事は、意志が働いているという事である。意志のないところに、何も成立しない。それが相対主義の本質である。
 物理学的単位は、相対的固定的基準である。それに対し、経済的単位である貨幣単位は、相対的変動的基準である。それが、経済法則を複雑なものにしている。しかし、貨幣単位は、線形的なものでもある。

 第六に、法理・法則主義である。任意なルールを前提として近代は、成立している。ただ、ここで言う法理、法則とは、契約に基づく法であり、自然の法則とは異質なものである。
 法則が、一旦、立証されると今度は、演繹的に結論が導き出される。ただし、この場合の法則というのは、自然の摂理とは違い。契約に基づくものである。
 問題は、法則間の無矛盾性である。数学的論理は、この無矛盾性が数学的に立証できるが、人為的空間である社会では、この無矛盾性が保てない場合が生じる。そこに、政治の介在する理由がある。
 スポーツや会計学的な世界では、ある程度、この無矛盾性が保たれている。それ故に、スポーツや会計制度は、堅固な基盤を持ちうるのである。

 第七に、契約主義である。契約という概念は、民主主義の根本的概念である。ここで言う契約と言う概念は、単に、人間対人間との間で交わされるものを指すのではなく。何等かの普遍的存在を仲介にして成り立つ概念を指して言う。また、契約とは、それに伴う手続を前提として成り立っている。つまり、手続が重要となる。
 契約とは、合意を成文化することが前提となる。科学で言えば仮説主義である。つまり、合意というのは、了解の可能性の問題であり、科学は、その根拠を実在と立証性においている。契約は、それを合意と手続に置いているのである。また、仮説主義とは、見方を変えると合議主義でもある。それは、仮説は、了解可能性を前提として成り立っていて。その了解可能性は、一定の手続に則っているという事です。そして、この手続が合議の下になされる体制を合議主義というのです。議会と手続に最初の暗黙の全員一致がある。

 第八に、場の理念である。
 任意の空間に一定の法則によって力が満たされると場が形成される。現実の空間は、これらの場が重層的になって形成される。重なり合う、一つ一つの場は、独立しており、物質や自己が媒体となって結合している。故に、個々の場の法則を明らかにすれば、現象の背後にある法則が解明できる。
 これは、民主主義社会を考える時、非常に重要な要素である。

 第九に構造主義である。
 構造と言う概念は、近代を考える上で重要な要素である。民主主義は、特に、構造的、制度的思想である。そして、組織、制度を前提とすると、必然的に、機能主義的になる。
 また、論理も構造をもっている。そして、この論理的構造が、思想を表現する重要な要素の一つとなるのである。弁証法が好例である。ただ、弁証法は、近代化とは、相容れない。なぜなら、無矛盾性が立証できないからである。無矛盾性が立証できない以上、神秘主義の一種とならざるを得ない。

 第十に、機能主義である。
 重要なのは、機能である。機能によって構造は、ダイナミックになるのである。構造は、安定を求め、機能は、安定を望まない。スポーツは機能である。スポーツは働きである。  

 第十一に、情報化である。
 近代を考える時見落とせないのが、情報化の流れである。情報化の流れは、貨幣経済の本質を変えようとしている。近代は、情報革命によって新たな局面を迎えようとしている。

 第十二に、普遍主義、一般化である。
 科学の本質は、一般化にある。一般化することによって、科学は、普遍的なものになりえたのである。共産主義国を飛ぶ飛行機も自由主義国を飛ぶ飛行機も同じ原理で飛んでいる。キリスト教国を飛ぶ飛行機もイスラム教国を飛ぶ飛行機も同様である。現代人は、これを当たり前なことだと思っている。しかし、これが当たり前だと思っていない時代があったのである。同じ人間でも、生まれた家や人種、信じる神によって別の生き物であるように思われた時代があったのである。

 第十三に、標準化である。
 標準化することによってスポーツは成立した。標準化すればするほど、個人の能力は、際だつのである。

 第十四に、開放主義、解放主義である。
 解放主義というのは、大衆主義でもある。誰にでも関わり合うことができる。開かれた社会、体系であることが、近代を大きく飛躍させた。知識や情報、技術の共有化によってはじめて、人類は、共通の地盤を手に入れることができたのである。

 第十五に、自由主義ある。
 自由は、法則によってもたらされる。ルールによって作られた人工的な空間でこそ、スポーツの自由は保証されているのである。
 無法な社会に自由はない。

 第十六に、個人主義である。
 科学も、民主主義も、会計学も、スポーツも個人の名前に代表されるものはない。個人の自由な研究と権利が保証されることによって科学技術は、飛躍的に進歩した。そして、技術革新の成果によって産業は発展し、今日の繁栄を築いた。その根本は、個人主義である。

 第十七に、時間の概念である。
 何らかの形で時間の概念定義を持っている。時間は、変化の単位である。会計にしても、スポーツにしても一定の時間・変化の単位が定義されている。例えば、会計期間とか、スポーツの回(ラウンド)、カウント、セット、タイムとかという形でである。また、時間に対する定義が重要な働きをしている。
 時間の問題とは、不可逆的変化をいかに刻むかの問題である。日常的な時間は、一見普遍的であるように思えるが、時間ほど相対的なものはない。スポーツが好例であるが、スポーツのルールが有効である時間は、限られている。しかも、個別的である。止めることもできる。ただ、不可逆的変化であることは共通している。その時間の定義をいかにするのかが、時空間を特定しているのである。

 第十八に、平等主義である。
 徹底した属性の排除と抽象化が特徴である。その結果としての平等主義、実力主義である。ただ、ここで言う平等主義というのは、同等主義ではない。ハンディキャップをかしたスポーツの存在が、好例である。スポーツにおいては、スポーツに関係したこと以外の属性は、排除される。極端な場合、性的な差も無視される。そして、実績や実力によって評価される。これは、論理的な意味でも平等を意味する。つまり、理論に序列や権威を認めないのである。況や家柄や人種、社会的地位などは斟酌されない。それが平等なのである。

 そして、この十八の要素を土台として経済制度を構築していこうとするのが、構造主義である。
 モデルは、プロスポーツ機構である。特に、NFLの仕組みである。

構造経済を構成する五つの要素


  構造経済を構成するには、五つの要素である。第一にフィールドである。第二に、ルールがある。第三に、プレーヤーがいる。第四に、審判がいる。第五に数字に還元される。
 第一のフィールドにかんして。
 フィールドとは、ある一定の境界線に区切られた範囲、ドメインを持つ人為的時空間である。
 ここで重要なのは、フィールドは、人為的時空間だという点である。つまり、人間によって区切られた空間であるという性格と、時間的、また物理的空間だという性格の二面性を持つと言う事である。
 これは、近代という時代を特徴付ける要素でもある。人為的、即ち、契約的空間であり、明らかに物理学的空間と性格を異にしているという事である。
 また、空間は、物理的空間軸だけでなく、時間的空間軸を併せ持っているという点である。
 また、空間を確定するのには、ドメインが重要となる。
 近代スポーツには、ある一定の範囲が設定されている。その範囲内に作られる空間内部でしか、そのスポーツのルールは、有効ではない。
 範囲は、時空間的でものある。時間の範囲は、時間(例えばピリオド)を指すこともあれば、一定の要件を満たした場合(例えばスリーアウトチェンジ、セットカウント)もある。これは、時間の概念に一定の示唆を与える。
 空間は、何らかの境界線を以て設定される。境界線の内部であれば、当該スポーツのルールは有効である。
 次ぎに、ルールである。このルールは、フィールド内だけに働く力である。つまり、フィールドというのは、人為的場だと言う事である。
 ルールとは、人為的法則・規則である。故に、ルールは、必然的に契約的性格を持つ法則、規則である。
 自由は、ルールによって保たれる。無法な空間に自由はない。

 ルールが成立する前提は、情報の開示である。

 基本的に重要になるのは、ルールと範囲である。経済的なルールは、会計と税、商法、取引法である。範囲は、市場の範囲である。

 会計をルールとするというのは、会計が実体的な権能を発揮することを意味する。つまり、会計は、ただ企業活動を監視するだけでなく。企業活動を規制することになる。

 試合は、宣言以て始まり、宣言を以て終わる。スポーツには、始まりと終わりがある。始まりと終わりは、コール・宣言によって為される。フィールドは、この始まりと終わりのコールによって仕切られた空間である。
 会計で言えば、期間損益を指して言う。

 そして、第三に、プレーヤー、チーム、チーム・ワークである。
 スポーツは、必ず、複数のプレーヤーがいて、ルールに基づいて成績を競う競技である。更に、団体競技では、予め決められた同数のプレーヤー間で競われる。つまり、一人で行われるヨガや修業・瞑想のようなものとは違うと言う事である。
 そして、それぞれのプレーヤーの位置と運動と関係がルールを決める重要な要素であると言う点である。

 経済のプレーヤーは、経済主体である。経済主体には、政府、企業、家計がある。

 第四に、ジャッジ、裁定である。
 また、公正な判定、ジャッジをプレーヤー以外の審判に委ねるという点である。また、予め定められたルールに従って主体的に、責任を持って判定を下す。そのうえ、審判は、独立した地位が保たれ、それ自体が一つの自律した機能と構造を持っている。 

 第五に、スコア、即ち、数値的な成績である。近代社会は、数値的な世界である。
 全ての基準、評価、判定は数字に還元される。スポーツの勝敗の判定基準は予め決められており、それは数字に還元される。

 以上が、構造経済の基本的要素である。

 現代の経済は、大量生産と大量消費を前提とし、成長、拡大を土台とした体制である。その為に、過剰生産、過剰消費、過剰流動性と全てが過剰なのである。省エネルギー、成熟市場では、かえって弊害が多くなる。
 また、経済を需要と供給という側面からだけ考えるのは、危険である。経済の根本は、むしろ、労働と分配にある。
 働きと生活状態に応じて財を分配する仕組みが経済体制である。そう言う意味では、経済は、一つの全体であり、多くの要素が複合的に組合わさって構成されている。市場も貨幣も経済の一部に過ぎない。分配の機能には、市場だけにあるわけではない。市場や貨幣を絶対視している限り、現実の経済は、制御する事はできない。市場も貨幣も補助的な手段に過ぎない。

 構造経済の根本は、労働と分配である。労働と分配の機構を土台として、第一に、生産と消費、第二に、需要と供給、第三に、フローとストックに関する仕組みが乗っかっているのである。経済を需要と供給だけで考えるのは危険である。

 また、構造経済の基本的単位は、国家である。

 どの様な国や社会にしたいのか、国家観や世界観が下地になければならない。それは、経済や事業の大前提となるからである。
 産業に関しては、その産業が必要かどうか。また、どの様な働きをしているのかを明らかにする必要がある。
 そして、一番大切なのは、人間にとって、国民にとって、人類にとってなにが幸せなのかである。

重要なのは制御である


 経済は、基本的には、分配構造である。つまり、生産と消費、労働と分配、流通と保管(在庫)、需要と供給を市場や組織(共同体)を通じて分配する仕組みである。経済機構が潤滑に機能している時は、財が必要としている部分に、必要としているだけ、配分される。経済が、有効に機能していないと財の分配に偏りができ、歩留まりや滞留が生じる。最悪の場合、物流が止まり、全体に財が行き渡らなくなる。
 財が、全体に万遍なく、公平(同等ではなく公平にである)に行き渡るためには、生産量と消費量を制御し、また、流通量と在庫量を調整する必要がある。その基準、尺度が、需要と供給である。

 分配には、組織的分配と市場的分配がある。
 市場は部分であって全体ではない。エンジンが全てであるような自動車は以上であるように、市場が全てであるような経済は歪である。

 問題は、制御である。経済現象は、絶え間なく変動している。環境の変化、市場の状態、発展段階、国家間に働く力関係、技術革新、資源の状態、人口の変化等と言った複数の要素が互いの影響しあい、経済現象を複雑に変化させている。為政者は、経済の仕組みを巧みに操ってこの変化に即応していかなければならない。

 自動車に例えれば、高性能な車と運転操作に熟知した運転手、それと、明確な地図が揃って始めて目的地に到達することが可能となる。

 構造には、中心、あるいは、中核を持つものと持たないものがある。この点も充分に留意しておく必要がある。中心、中核が明確であるか否かは、構造を制御する上で重要な鍵となる。

 構造には、不易、つまり、動かないところと、変易、つまり、可動するところ、そして、易簡、即ち、それらを制御、管理、操作、変換するところがある。

 経済は、暴走すると内部に向かって収縮するか、外部に向かって発散するかしかない。内部に向かって収縮すれば内部崩壊をきたすし、外部に向かって発散すれば爆発かバブルである。

 現代の市場経済は、成長を前提としているために、成熟市場を制御する事ができない。経済の状況や段階に応じて経済構造を変換する必要がある。

 現代の経済体制は、制動装置を持たない自動車のようなものである。それがいかに、危険な仕組みか誰でも理解できると思う。

 成長を常に前提とした経済体制である。現代の資本主義の仕組みは、ただひたすら、成長と拡大を前提として成り立っている自転車操業的な経済体制である。市場が成熟し、停滞すると途端に景気は減速し、収益は悪化してしまう。ところが多くのコモディティ市場、必需品、消耗品の市場は、伝統的市場であり、成熟している。その為に、物価は常に不安定であり、必需品、主要産業の多くが構造不況業種化している。

 また、現在の市場経済は、大量生産、大量消費型経済である。大量生産、大量消費は必要性が基になっているわけではない。その為に、必要性によって制御する事が困難である。つまり、制動装置のない機械みたいな仕組みなのである。

 かつて、経済性と言えば、効率の良い物資の活用を指した。美徳は、節約や質素倹約であった。贅沢は悪徳であった。物を大切に使い。日々の手入れを怠らなかった。食べ物を残すと言う事は罪悪に近かった。今は何でも使い捨てである。
 経済性というと現在は、ひたすら生産と消費を指して言う。つまり、効率の良い生産と、効率の良い消費である。
 我々の祖父母は、古いものを大切にして使い、また、修理、修繕し、再生して使ったものである。古い着物を仕立て直してきたりもした。祖父母にとって、本当の高級品というのは、何世代にもわたって使えるものを指していった。しかし、現代の高級品は、消耗品の一種である。無駄遣いこそが経済的だと現代人は思い込んでいる。壊れてしまえば、修理も修繕もせずに捨ててしまう。

 また、現在の経済体制は、成長を常に前提とした経済体制である。現代の資本主義の仕組みは、ただひたすら、成長と拡大を前提として成り立っている自転車操業的な経済体制である。市場が成熟し、停滞すると途端に景気は減速し、収益は悪化してしまう。ところが多くのコモディティ市場、必需品、消耗品の市場は、伝統的市場であり、成熟している。その為に、物価は常に不安定であり、必需品、主要産業の多くが構造不況業種化している。

 そこから生まれるのは、際限のない無駄遣いと浪費である。そして、その無駄遣いと浪費が、環境破壊と資源の枯渇を招く。この際限のない無駄つがいと浪費を防ぐためには、市場に制動装置を組み込む必要がある。そして、なりよりも真の経済性の意味を解明する必要があるのである。

経済政策は、前提条件によって違ってくる。

 先にも言ったように、構造には、不易、つまり、動かないところと、変易、つまり、可動するところ、そして、易簡、即ち、それらを制御、管理、操作、変換するところがある。そして、経済構造は、基本的に国家を一単位とし、内部構造と外部構造との二つがある。これら内部構造と外部構造の調節、制御が重要な課題となる。

 経済を構成する経済主体は、産業、財政、家計の三つがある。

 また、経済には、場があり、それが重層的に重なっている。個々の場はそれぞれ独立した法則を持ち、個々の経済主体に作用を及ぼしている。
 場には、最下層に物理的な場があり、その上に、生物的場、社会的場、個人的な場がある。
 社会的な場は、国際的・地球的場があり、その上に、民族的、又は、文化的な場、国家的な場、地域的な場がある。
 そして、国家的な場には、制度的な場、政治的な場、経済的な場がある。
 経済的な場は、生産的な場、流通的場、消費的な場によって構成されている。

 現代の経済は、貨幣経済と市場経済を土台としている。

 産業には、段階がある。
 財政には、歴史がある。
 家計には、人生がある。

 経済政策は、富国強兵、殖産興業、所得倍増にせよ、国策に基づいたものである。それなのに、近代経済学もマルクス経済学も国策という概念すらない。国策どころか、国家そのものの政策を無視する。

 経済政策は、前提条件によって違ってくる。
 例えば、物価が上昇している時や市場が拡大している時と物価が下降していて、市場が縮小している時とは、とるべき政策が違ってくる。必然的に金融政策や不良債権に対する基準も変えなければならないのである。

 同様なことは、不良債権にも言える。不良債権をなくさなければならないというのは解る。問題は、どうすれば不良債権をなくせるかである。その為には、不良債権の発生するメカニズム。仕組みを明らかにする必要がある。

 不良債権、不良債権と言うが、何をもって不良債権と言い、どの様にして不良債権が発生するのかを知っておく必要がある。

 不良債権は、損益上で見れば収益の悪化によって生じる。また、貸借上に置いては、資産価値の下落によって生じる。収益の悪化や資産価値の下落は、景気の後退と無縁ではない。景気が後退すると金融機関は、融資や投資に慎重になる。そのことで取引が低調となり、景気は後退する。景気が後退すると資産価値が下がり、資金の兆達が困難になり、取引がますます低調になる。といった悪循環に陥る。この様な場合、不良債権を生み出しているメカニズムは、経営内容にあるわけではなく。資産を形成する市場の仕組みにある。それを経営上の問題としているかぎり、不良債権問題は解決されないのである。市場の効率をはかればはかるほど、不良債権は増え続けるという現象を引き起こしてしまう。

 個々の経済主体が置かれている状況から前提条件は求められる。
 あたかも飛行機が、離陸し、滑空し、着陸する際の操縦と同様、その時々の状況によって前提条件は変化する。そして、その前提条件の変化に応じて政策も違ってくる。

 人間は、なぜ、変わるのであろうか。貪欲、虚栄心、執着心、煩悩、快楽、野心、独り占め、身勝手。その根本には、経済的な理由が隠されていることが多い。経済の何が人間を変え。あさましいまでも貪欲にしてしまうのであろうか。

 どんな正義も、力がなければ実現できないし、維持できない。逆に、どんな不正義も力を背景にすればまかり通る。ただ、力は、一人で持てるわけではない。力は、組織と集中によって発揮される。一人の力には限りがあるのである。そこに正義が求められる。そして、力ある者は、自制が求められ、理性が要求されるのである。

 国策に基づかなければ、利権に過ぎない。国策に基づいていたとしても利権化する危険性は多分にある。だから、権力は腐敗しやすいのである。それは主義主張に関わらずである。

 それ故に、権力の腐敗を防ぎ、経済機構を正常の機能させるためには、相互牽制機構を権力構造間中に組み込んでおく必要がある。つまり、国家の機能を分析して明確にし、それぞれに独立した機関を持たせる必要があるのである。

効率化すればするほど景気が後退することがある


 現代人には、錯覚があるようで、何でもかんでも安ければいいと思い込んでいる。また、効率化すれば景気が上向くという誤解である。

 最近、石油価格の高騰によって漁業が収益をあげられなくなった。そこで、石油価格の高騰による収益の悪化にたいし、何等かの補助金を支給するよう全国一斉休業をした。
 このニュースの中で、所謂、漁業関係者の取り分が問題となり、流通過程の合理化が取り上げられている。つまり、流通過程を合理化すれば、問題が解決するとメディアは説明している。しかし、本当に、問題は解決するであろうか。流通過程を合理化すれば、流通過程に従事する労働者の雇用は失われ、所得はなくなる。これなど典型的な例である。メディアの人間は、物事の一面しか見ていない。
 何でもかんでも効率化すれば、問題は解決すると思い込んでいる。経済は、労働と分配の仕組みである。単価を引き下げれば経済が活性化するというのは、根拠のない論理である。問題は、適正な価格である。適正な価格を維持できないから、経済は、機能しなくなるのである。ただ値段だけで測れば、量販店か、スーパーのような業者しか生き残れない。その結果、シャッター商店街であり、個人商店の淘汰である。

 その証拠に、効率化したら無駄や浪費が減ったか。その逆である。効率化すればするほど、無駄や浪費が酷くなる。それが大量生産、大量消費社会なのである。この様な社会では、もったいないと節約や倹約をすることは悪徳なのである。

 競争の原理、安売りの前に、価格を維持することは悪い事のように思えてくる。しかし、価格には、価格を構成する意味がある。ただ、競争を煽り、低価格ばかりを追い求めると失業の増加や品質の低下を招くことになりかねない。価格の構造、価格の背後にある構造こそが重要なのである。

 多くの人は、安売りが善で、適正な価格を維持することは悪だと考えているふうである。しかし、適正な価格が実現しないから景気は回復しないのである。経費削減と言うが、経費は、経営主体内部から見ると費用だが、外部から見れば所得なのである。ただ効率、効率と経費削減ばかりを問題にすると、その裏側にある所得を減らすことにもなるのである。効率化、合理化によって経費をひたすら削減すれば、その反対側にある所得も減り、景気は、ますます悪化することにもなるのである。問題は、何が適正な価格であり、それをいかにして実現するかにあるのである。廉価は、場合によっては不当な行為によって実現されることを忘れてはならない。

 やれ競争だ、市場の原理だともてはやし。同業者間の話し合いや協定を頭から否定してしまう。競争と言えば聞こえがいいが、本来は死闘である。しかも、ルールなき、掟なき争いである。これは、スポーツのような類ではなく。喧嘩、私闘である。その結果、生き残ったのは、圧倒的な力のある強者か無法、無頼の輩だけである。真っ当な人間や弱者は市場から淘汰されてしまう。どんなに、正直な商売をしようとしても不当に安売りをするものが正義感面していては真っ当な商売は成り立たない。正直者が馬鹿を見るだけである。
 例えば競争相手の力を削ぐために、ルールを変えるようなものである。それを公正というならば、どんな正義だって成り立たない。なぜ、今までうまく行っていた事、機能を捨ててまで、相手の言うなりになる必要があるのか。しかも、相手のやり方ではうまく行かないのがわかっているのに。それを、正当な理論だというならば、正当性に合理性などどこにもない。なぜ、争うことばかりを称揚し、話し合いを否定するのか。話し合いで決める事は悪いことなのか。ならば民主主義とは何か。民主主義とは、力づくで自分の主張を通すことをいうのか。

 スポーツには、必ず上部組織として、話し合いのための機関がある。話し合いのための機関がなければ成立しないのである。なぜ、経済においてこの様な機関が存在しないのか。また、機能しないのであろうか。

 競争の原理、安売りの前に、価格を維持することは悪い事のように思えてくる。しかし、価格には、価格を構成する意味がある。ただ、競争を煽り、低価格ばかりを追い求めると失業の増加や品質の低下を招くことになりかねない。価格の構造、価格の背後にある構造こそが重要なのである。

 百人で一億円の利益を上げる企業と千人で一億円の利益を上げる企業とを比較した場合、生産という局面における効率面から見れば前者であろう、しかし、分配における効率性という観点から見ると後者である。

 我々は、どの様な経済状態を望んでいるのであろうか。平準化、標準化され、東京でのみコーヒーも、京都で飲むコーヒーも、ニューヨークで飲むコーヒーも、皆、同じ味。店の内装もレイアウトも変わらない。また、倉庫のようにがらんとした味も素っ気もない店で、セルフサービスで商品を買う。しかも、街には、失業者が溢れている。そんな経済状態を望んでいるのであろうか。

 経済は、文化である。どの様な、社会を築き上げるか。人生とは何か。幸せとは何かを解き明かす過程で経済の問題は考えられるべきなのである。

 経済における効率とは何かを考えることは、経済の本質を理解することに繋がる。

 経済は、金儲けのための手段だという錯覚がある。それが不幸の始まりなのである。経済は、人々を幸せにするための手段なのである。

 未来型都市と言うけれどオフィスと倉庫、工場、集合住宅しかない街を指して言うのか。
 綺麗だけれど味も素っ気もない事務所のような酒場で酒を飲み。美味しいといっても、味気ない物を食べ。
 愛想のない倉庫のような店へ行って買い物をし、ホテルのような家に住んだとして、それで豊かな人生が送れると言えるのであろうか。そんなの、人間の住む町ではない。人と人との交流がないところに社会は成り立たないのである。
 かつての街には、人の情けがあった。お互いの健康状態や家庭の事情まで知り尽くして助け合う人々がいた。合理化、効率化の行き着く先は、不毛な世界である。景気が良くなるはずがないのである。
 人と人の出逢いがあり、素敵な恋愛ができる街、子供を育てるのに適した街、それでこそ経済は、成り立つのである。
 経済は、単なる金の問題ではない。金銭は、大切である。しかし、金銭の裏に、人生や思いといった実体があっての話である。金で人の人生は買えないのである。金で人を好きになるわけではない。それは打算である。何よりも大切なのは、人々が生き生きと生きていける世界なのである。その世界を作り出すのが経済の役割なのである。
 経済とは、文化なのである。



英語ドイツ語フランス語ロシア語中国語。






                      


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano