経済と方程式


 現代の市場経済現象、貨幣経済現象には、次のような特徴がある。 

 第一に、市場に現れる経済現象は、貨幣価値に還元、即ち、数値化が可能な現象、あるいは、数値的現象であるという事である。
 市場経済、貨幣経済を成立させている経済的価値は、数値的価値である。
 数値的価値というのは、量化可能な価値、数量に還元できる価値だと言う事である。

 貨幣経済における経済的価値は、財と貨幣価値の積である。物理的量と貨幣的量の積として表される。

 第二に、数値化が可能な現象は、方程式化が可能な現象だと定義づけできる。
 市場価値や貨幣価値を構成する量は、物的な量と貨幣的量に分割できる。そして、それは、物的な量と貨幣的な量の積として現される。

 第三に、市場経済における貨幣価値は、取り引きによって成立する。取り引きによって実現した貨幣価値、及び、その価値を数値的に表象した物を現金という。
 経済現象は、取り引きが成立した時点では、均衡しているという事。即ち、等式として表現することが可能な現象だと言う事である。

 第四に、経済現象は、何等かの構造を有し、経済構造は、等式の左辺と右辺に表れると言う事である。経済構造は、経済現象を構成する部分、要素に分割できることを意味する。そして、個々の部分の働きは、全体と部分との占有率、比率によってある程度、解明できるという事である。働きは、個々の部分を構成する要素を更に方程式化し、その方程式の構成によって把握することが可能である。
 例えは、粗利益率は、売上高に占める粗利益の占有率を表したものである。粗利益は、売上高から、仕入れを差し引いた数値である。売上高は、販売数量と単価の積である。販売数量というのは、量を表し。単価とは、単位あたりの価格を意味する。
 この様に、経済的価値は、物理的量と貨幣的量の積として表される。
 また、経済的物質的価値は、財の質と量によって決まる。量的な性格は、質な性格によって規定されてるのである。物的な質は、時間の関数である。例えば、生鮮食料は、質的な劣化は、数量と単価の減少に結びつくと言う性格を持つ。
 物価は価格の変動を表したものである。価格は、財と貨幣価値の積である。故に、インフレーションには、財が原因で起こるインフレーションと貨幣価値が引き起こすインフレーションと双方が引き起こすインフレーションがある。

 社会全体の物価の変動、動向、即ち、インフレーションやデフレーションは、市場の状態と貨幣の振る舞いによって起こる。

 財自体、物自体の価値も貨幣の価値も相対的な価値である。財の価値は、質と量によって決まる。市場価値は、市場に対する財の需要と供給によって決まる。貨幣価値は、貨幣の需要と供給によって決まる。財の重要と供給は、生産と消費によって決まる。生産は、生産力によって決まる。消費は市場の規模によって決まる。貨幣の需要は、支出、即ち、投資と貯蓄によって決まる。供給は、収入、即ち、所得と借入によって決まる。

 財の質とは、個々の財の性格である。財の性格は、生産に関わる要素と流通に関わる要素、在庫・保存に関わる要素、市場に関わる要素、消費に関わる要素、リスク要素から成る。
 生産に関わる要素とは、生産速度やその費用、原価構造(労働力、設備)から構成される。
 流通に関わる要素は、大きさや重量。有形、無形。運搬方法、手段と運搬にかかる費用等である。
 在庫、保存は、財の寿命の長さ、保存が出きるものが否か。保存にかかる費用等である。
 消費に関わる性格による分類には、消費の速度から第一に、消耗品、第二に、耐久消費財、第三に、不動産に分類される。財の必要度から必需品と贅沢品に分類される。

 取り引きは、取り引きが成立した時点、時点で均衡している。故に、その時点その時点の取引上では、利益は発生しない。利益は、取り引き間にある何等かの差によって生じるのである。特に、時間差である。差がなくなれば利益の消滅する。

 原材料と労働力を投入し、財と所得に変換する。それを媒介する手段が貨幣である。この関係から生じる量は、本来、等しいのである。

 この様に本来等しい価値が、時間的価値によって利益を生み出している。経営主体の働きは、労働と財の分配にある。利益は、その過程で生まれた残余価値であり、余力である。利益の働きは、経営力の蓄積である。当然、利益を追求すると言っても過剰利益も問題になる。過剰な利益は、何れは、清算される。

 なぜ、独占、寡占状態が悪いかというと市場は、取り引きによって成り立っており、取り引きは、価格に対する上昇圧力と下降圧力が働くことで均衡している。
 市場が、独占、寡占状態になると独占者、寡占者側の力が一方的に強くなり、適正な状態で価格が均衡しなくなるからである。例えば、生産者側が独占状態だと、市場は、生産者側に有利に働く。

 逆に過当競争は、差がなくなることによって終焉する。故に、過当競争は、価格の下落に歯止めがかからなくなる。

 第五に、経済現象の多くが、固定的な数値と変動的な数値によって構成されていると言う事。これは、定数と変数の問題に還元できることを意味する。
 何を定数とし、何を変数とするかは、等式を構成する要素と要素間の関係によって定まる相対的なものである。
 例えば、負債は、元本と金利に区分できる。収益は、利益と費用に区分できる。費用を構成するのは、固定費と変動費に区分できる。

 第六に、また、定数が、変数と連動しているか、独立しているかによって、定数、又は、変数の性格が形成される。

 変数は何に関連付けられるかが、重要なのである。

 変化の種類も一様ではなく、多様である。変化には、質と方向性がある。変化の質と方向性、即ち、有り様が、事象の現れ方を規定する。変化は、空間と運動と位置に現れる。

 変化には、流動と静止、固定(フローとストック)がある。向上と劣化がある。拡大と縮小がある。増加と減少がある。上昇と下降がある。流入と流出がある。加速と減速がある。消費と蓄積(残り)がある。変化には、前と後がある。

 温度は上昇と降下。上昇と下降という運動は、温度の性格を現している。気体は、拡散と凝縮。拡散と凝縮という運動は、気体の性格を現している。品質には、向上と劣化がある。向上と劣化は、品質の性格を現している。為替や株式相場には、上昇と下降がある。上昇と下降は、為替と株式相場の性格を現している。

 変化の性格が方程式の演算の基礎的部分を形成する。

 変化には、第一に、変化が、状態に還元されるもの。第二に、変化が、運動に還元されるもの。第三に、変化が位置に還元されるものがある。

 主体間の関係から生じる運動や働きには、例えば、為替の変動のように、主体によって反対方向に働く運動や働きがある。また、ゼロサムゲームの様な主体間で均衡している働きがある。

 第七に、変数には、内生的な変数と外生的な変数がある。
 変数は、内生的な要素によって変化するのか、外生的な要素に影響されているのかによって内生変数と外生変数に区分される。それは、基本的にその変数の要素が内生的な要素か、外在的要素かを決定付ける。

 第八に、経済現象の多くは、時間の関数だという点である。
 時間には、一定の期間を単位とするものと連続的な時間を元とするものがある。

 市場経済や貨幣経済は、利益を基準とする。利益は、期間損益として表される。期間損益は、一定時点間の経済的価値の差によって計算される。市場経済、貨幣経済における経済的価値は、時間的価値だとも言える。

 第九に、市場は確率統計的な局面がある。つまり、不確実な世界である。利益は、リスクにある。経済体制の本質は、リスク管理にある。

 現実の世界は、不確実な要素を取り除くことができない。確率統計的な世界である。人間の社会も不確実な要素が満ちている。むろん、だからといってこの世の中に確実なものは何もないと言うのは短絡的である。

 経済は、変化によって成り立っている。しかし、あらゆる部分が変化しているわけではない。全体を見渡してみると変化する部分と変化しない部分がある。変わるものと変わらないものがある。それを見極めることが経済を理解することです。
 変化する部分を易学では、変易と言う、変わらない部分を不易という。そして、その根底にあって物事を結び付けている法則は易簡なのである。

 変わらない部分は、何で、変わる部分は何かを区分することが大切になる。次ぎに、何が変化を引き起こす要因、動因なのかを見つけだすことである。逆に、なぜ、変化しないのか。変化を阻害する要因を探し出すことである。そこで、重要になるのは、時間である。時間の作用が、陰に作用しているか、陽に作用しているかである。

 変わらない物事は、予測ができる。予測ができることは、備えることができる。備えることのできない不足の事象がリスクの根源である。しかし、反面、予測できないことだからこそ利益が生じるとも言えるのである。経済は、その不測に備えることによって成り立っている。不足なことは、リスクである。故に、経済の根源は、リスク管理だとも言える。
 リスクは、確実な事象が不確実な事象に変化することによって生じる。不確実な事象とは、捕捉不可能、予測不可能な事象である。

 多くのことはあらかじめ予測することが可能である。しかし、予測不可能な事をなくすことができず。その不測の事態が全体の動きに重大な影響を与えているのである。

 不確実なものを確実なものとして見せ掛けるから問題なのである。不確実な事象は、不確実な事象として、それにどう備えるかが重要なのである。

 市場は取り引きの集合である。故に、集合としての数学的性格を持っている。

 人間には、価値観があり、各々は、自分なりの信念に基づいて行動している。一人一人の決断や行動は、何等かの根拠に基づいた確信的なものだとしても、それが、社会という集合体になると確率統計的な運動になる。

 人間の市場における行動は、確率統計的な運動としてしか認識されなくなる。人間には、意志があり、感情があることを忘れている。
 市場の行動は、確率統計的ではあるが、集団に作用する感情の力の影響を排除することはできない。人間は、理性によって判断し、感情によって決断しているのである。

 第十に、市場的価値は、相対的な価値である。

 経済的価値は、二者択一的なものではない。例えば、確実なものか、不確実な物かを決め付けられるものではない。勧善懲悪的なものではない。損か、得かではなく。その場において何が適切かの問題であり、何が有効かの問題である。
 経済的価値は、相対的なものであり、それが成り立つ前提が重要なのである。

 重要なのは、前提条件である。前提条件をどう設定するかは、認識の問題である。その上で何を基準とするか、基準をどうするかのかが問題になる。それは選択の問題である。
 状況や前提によって金融機関は、担保主義から収益還元主義への転換が、あるいは、逆に、収益還元主義から担保主義への転換が必要である。外的、内的信用が拡大している場合は、担保主義は有効である。反面に、外的、内的信用が収縮している場合は、収益還元主義が有効である。
 成長段階では、信用が拡大している。この様な時は、担保となる信用も拡大しているから担保主義は、それなりの妥当性がある。しかし、成熟期や衰退期になると信用は、横這いになるか、収縮する。その場合は、収益が返済力の基礎となる。
 むろん、一概に担保主義が良い、収益還元主義が良いと決め付けられない。それは、状況や環境と言った前提条件をどの様に設定するかによって決まるのである。

 数値化というのは、本来、認識の必要によって派生する。認識とは、対象を相対化することによって成り立っている。故に、数値化は、数値化された時に、相対化されるのである。

 経済的価値は、数値、即ち、量的な価値として表現されるが、実際の経済的財は、量的な要素だけで成り立っているわけではない。
 現実の市場では、むしろ質的な部分の方が問題となる。料理の経済的価値は、価格に還元されるが、実際に我々が料理を選ぶのは価格によってではなく、自分の嗜好であり、味であり、見た目である。我々は、値段を食べるわけではない。価格を決定する要素は、財の質である。それを忘れると経済の本質が見失われる。

 対象は、密度がある。密度とは、質と量から構成される。数値化というのは、個々の対象から量的な部分を抽出し、象徴化する、即ち、抽象化である。

 経済には、密度がある。市場にも密度がある。市場経済や貨幣経済は、この経済や市場の密度の量的な部分を抽象化することによって成り立っている。

 質とは、個性である。個々の属性を言う。数値は、この個性を直接的に表現できない。故に、数値的に表現された対象に質的な部分を加えなければ、経済的な価値の密度は、再現できない。
 経済的価値は、金が全てではない。しかし、表に顕れる経済的価値は、金である。
 労働力が典型である。労働の成果は、時間と労力の積として表される。しかし、そこには、質的な要素が欠落している。
 故に、職人的熟練仕事は、排除されることになる。仕事は、単位作業にバラバラに解体される。単価としての価値しかなくなる。つまり、そこには、労働者の個性は喪失するのである。

 大体経済学には、前提上の間違いが沢山ある。その最たるものが経済人の設定、前提である。多くの経済学は、人間は、合理的、功利的に行動するという事を前提としている。人間は、合理的、功利的に判断する存在ではない。人間は、合理的に行動すると言っても自分の価値観を前提として行動するものであり、その価値観は、多分に、社会や地域、宗教的な慣習や伝統、信条に基づいて経験的に形成されるものである。経済的価値観だけに基づいているわけではない。天才や聖人を前提とした社会は成り立たない。社会を構成する大多数の人間は、何の取り柄もない平凡な人間なのである。

 経済を成り立たせているのは、何等かの差である。経済的価値とは、その差の持つ意味をどう評価することにある。

 金が全てであるような基準では、人間性と言った質的部分は失われる。そして、量的な部分しか残されなくなる。報酬は、単に単位労働と時間の積でしかなくなる。そうなると、労働者は単なる部品でしかなくなる。

 利益の追求を第一義としていながら、利益とは何かという事を忘れている。そこには、利益に対する悪意、また、私的企業に対する悪意がある様に思える。
 利益にどんな働きを求めているのか。なぜ利益が必要なのか。利益は、誰のものかという問題がある。
 利益を企業の成績としてしか捉えなければ、属人的な部分は、どんどん削減されてしまう。
 好例が人件費である。利益とは何かという問いは、本来、人件費とは何かに結びつかなければならないはずである。
 利益にも、質と量がある。つまり、利益の密度が問題なのである。

 金が全て、即ち、金銭的、貨幣的効率性のみを突き詰めると量的な部分だけに極限化され、経済における質的な部分が削ぎ落とされることになる。
 人件費で言えば、個性や生活、年齢、経験、家族、技能といったものが削ぎ落とされ、或いは格付けされて、画一化されてしまう。しかし、それは、経済の持つ質的な部分を削除したに過ぎない。そして、経済の本質は、質的な部分にこそあるのである。

 親が家族が健やかでいることを願うのは当たり前だった。経営者が、社員が豊かになる為に働くのは当然だった。国が国民の幸せを祈るのは、何の不思議もなかった。それが愛情である。しかし、今は、いがみ合うことが当たり前だと想われている。愛が全てだと言いながら、愛情がない。利益が上がれば上がるほど人間関係は悪くなる。
 家族や社員、国民の幸せを目的とするのと、単に所得は競争の結果と割り切るのとでは、利益の持つ意味が違ってくる。
 組織や、共同体を構成する仲間の世話をする事、それが組織の論理であり、共同体の論理であり、組織や共同体の経済の目的である。利益を上げるのは、人間関係をよくするための手段に過ぎない。分配に差を付けるのは、働きに対する評価だからである。それも、組織や共同体を維持するための手段である。評価が組織の効率を高めると考えるからである。

 なぜ、経営者は、一般従業員より高給を取る必要があるのか。それは、組織の長だからである。それが、組織の論理である。人間の心理による。つまり、意欲を引き出すための仕掛けなのである。市場の論理ではない。市場が合理的な仕組みならば、組織も合理的な仕組みである。市場と組織に働く原理が違うのである。

 共同体内部では、金銭的取り引きは基本ではない。共同体内部では、仕事は、互助的な労働である。故に、その対価は、謝礼であって報酬ではない。それが、市場取り引きに変質すると報酬となる。報酬になれば、量的なものでしかない。感謝という質的な部分は失われる。

 プロとアマとの違いはどこにあるのか。プロとは、職業として恒常的に所得を得ている者を指し。アマとは、職業として恒常的に所得を得ていない者をいう。プロは、労働の対価として報酬をもらう。そこには、経済的な取引関係しかなく。取り引きが成立し、決済されたところで解消される。しかし、アマ、素人は違う。貸借関係が成立し、それは継続的な関係の基礎となる。内面の動機が違うのである。

 現代の経済学は、人間の欲求を無視しているつまり、人間は、自己実現を求めて生きていると言うことである。人間には感情があり、誇りがある。そして、認められたいという欲求がある。その欲求が経済の原動力である。だからこそ、評価を一律均等にすることはできないのである。その人間性を現代の経済学は無視している。それは、経済学者が自らを超然たる存在、即ち、神の如き存在に擬しているからである。

 自分の事だけを考えて競い合えぱ、自然に調和するなんて妄想に過ぎない。市場も人間関係の上に成り立っている。市場は、量だけの世界ではない。市場で重要なのは、質と量、即ち、密度である。

 市場は、量だけを求めているわけではない。消費者は、質も求めているのである。むしろ、消費者にとって重要なのは、質である。そして、それが経済の変化の鍵を握っている。つまり、量的な拡大は、質的な変化を市場にもたらすのである。その質的な変化に適合して市場の在り方も変化する必要がある。変化できなければ、市場の構造は、歪んでしまうのである。

 自動車を購入する動機や目的は、一台目と二台目とでは、違う。家も然りである。一軒目と二軒目では、建てる意味が違う。そこに質の違いがある。極端に言えば、二台目や二軒目は、不必要なのである。しかし、生産者側が二台目や二軒目に依存するようになると市場や経済の状態は、変質する。それは、必要性を前提とした市場や経済では成り立たないことを意味する。

 市場が過飽和になれば、消費者は、量よりも質を求めるようになる。それがブランド、高級品が成り立つ要因である。ブランドや高級品は、一定の質を保つことによって価格を維持している。つまり、量から質への転換をいかに行うかが、成熟した市場を確立するための鍵を握っている。重要なのは、廉価品と高級品が混在する市場をいかに維持するかである。

 資本の効率、生産性の効率は、結局、平準化、標準化の上に成り立っている。
 小さな街の小売業者は、大資本の前に淘汰されてしまう。その結果、財の多様性は失われる。

 成長経済から成熟経済への移行時には、量から質への転換が求められる。即ち、大量生産、大量消費といった量の経済から質の経済への転換が求められているのである。それは、環境問題や資源問題からの要請にも基づく。つまり、これまでとは全く逆の経済の在り方に転換する必要がある。
 大漁貧乏、豊作飢饉と言う現象がある。つまり、収穫や生産が大きすぎるとかえって貧乏になるという事である。それよりも内容が重要になる。

 数学的な論理で割り切れない、不合理な部分を多く含んでいるのが、現実の市場経済であり、それを無理矢理、割り切ろうとするから、経済がおかしくなるのである。経済の本質は、人間関係の上で成り立っているのであり、数学的論理の上に成り立っているわけではない。それを前提として考えて始めて、数値をリテラシーとした貨幣経済は成り立ちうるのである。

 利益にも質がある。それは、利益の源と用途である。利益が何によって生み出され、そして、どの様に活用されるかである。そして、用途で一番重要なのは、労働に対する対価と将来に対する投資である。
 賃金労働には、所得の平準化という意味もある。そして、そこに利益の持つ意味もある。ある程度の利益が確保されることによって、所得の平準化が図れる。所得の平準化は、利益を時間的に平均化することを意味するからである。儲けと所得とを切り離し、平準化することによって成立している。所得が平準化されることによって長期的な借入も可能となる。また、長期的な展望に立って人生設計や生活設計が可能となるのである。
 利益は、単純に企業成績を表す指標ではない。増収増益を企業は、運命付けられているが、何のために、誰のために増収増益をはかるのか。それは、労働と分配を関連付けるためである。そこに利益の質がある。

 経済の意義は、労働と分配にある。故に、経営主体の核は、労働主体にある。労働と所得の関係は、貨幣の相互作用を示している。
 労働と報酬とを切り離して考える思想がある。極論すると報酬を一律均等にしてしまえて言う思想は、労働と報酬を切り離していると言っても良い。また、共同体論の中には、私的所有権の否定と同時に、労働と評価を別のものとして結び付けない思想もある。さらに、貨幣は、単なる交換の道具だという考え方で、労働とは関係なく配布するという思想もある。それを突き詰めると貨幣そのものをなくしてしまえと言う事になる。
 しかし、それは、経済の意味を理解していない。労働は、存在意義である。最近、やたらと休日を増やし、労働を否定的にしか捉えない風潮があるが、それは、生きることの意味を理解していないからである。労働は、自己と他者、自己と社会とを結び付ける絆である。労働とそれに対する評価によって人間は、自己を社会の中に位置付けることができるのである。その評価に貨幣的に実態をあたえた物が対価である。そして、それが経済の礎である。

 需要と供給の均衡関係は、市場の状況や環境、前提によって変化する。一律に決まるものではない。
 市場原理主義者は、市場は、効率的であるとする。そして、需要と供給の間には、パレート効率が成り立つと仮定する。しかし、需要と供給のパレート効率が、必ずしも成り立つとは限らない。
 先ず、パレート効率が成立する前提は、第一に、家計も経済も功利主義的、合理主義的に行動すると言う事である。第二に、収穫は、逓減するという前提である。
 パレート効率が成り立たない要因は、第一に、情報の非対称性がある。生産者と消費者との間には、情報の非対称性がある。また、情報の伝達には、時間差がある。金融商品のように実態の見えないような財は、この情報の非対称性は、決定的な働きをする場合がある。
 第二に、財の個性、独自性の問題がある。同じ財でも、ブランドによって需要と供給に差がでる場合がある。また、生産工程によっては、需要と供給の即時的に均衡が図れない場合がある。
 第三に、パレート効率は、収穫の逓減、即ち、費用の逓増を前提として成り立っている。しかし、実際の市場は、費用が逓増するとは限らない。つまり、収穫は逓減するとは限らないのである。むしろ、技術革新は、費用を逓減させる場合がある。また、大量生産、大量消費型経済では、操業度によって収益と費用に差が生じる。また、損益分岐点が一つの指標となり、費用に差がでる場合がある。また、「範囲の経済」や「規模の経済」、学習によっても費用は逓減する。(「資本主義の暴走をいかに抑えるか」柴田徳太郎著 ちくま新書)
 第四に、不確実性の問題がある。現代の市場経済では、多額の初期投資を前提とする産業が多い。設備投資をする時に、他者の戦略的な意図を予測することができない上、一度設備投資をすると、その資金を回収するまで生産を拡大する必要が運命付けられてしまう。つまり、供給力は、不確実な要素によって予め設定されているという事である。

 第五に、在庫の効果がある。市場の評価は、期間損益によって為される。利益は、在庫量によって左右される。在庫を調整することによって需給の均衡を調節することがある。

 総生産は、販売数量と在庫に分類できる。総支出は、消費と投資、貯蓄に分類できる。生産は、供給を意味し、支出は、需要を意味する。需給の調整は、在庫量が決定的な機能を果たしている。この在庫の働きを無視しては、パレート均衡は成り立たない。

 つまり、景気政策を判断する上で、需要を喚起する為には、販売と在庫と消費と投資と貯蓄に対してどう働きかけるかが重要になる。更に、公共投資というのは、投資の中の一要素に過ぎない。
 しかも、販売、在庫、消費、投資、貯蓄の要素は、複雑に他の要素と結びあっている。公共投資だけに頼って景気を改善することはできない。
 販売、在庫、消費、投資、貯蓄の各局面に対して、どの様に働きかけるか、つまり、構造的に対策を立てることが重要なのである。

 第六に、人間は、功利的合理性に基づいて行動するとはかぎらない。人間は、むしろ、戦略的に行動する。

 需要と供給の均衡点は、損益分岐点が重要な意味を持つ。大きな錯覚があるのは、需要と供給の均衡点は、単式簿記と複式簿記の世界では微妙に違うと言う事である。単式簿記、即ち、現金主義的な世界では、収支の均衡点であるが、複式簿記では、損益分岐点が均衡点になる。現金主義では、現金で清算された時点時点で取り引きが成立したと見なされるが、実現主義は、取り引きという行為が認識された時点で取り引きが実現したと見なされる。故に、現金上の清算が終わったわけではない。その為には、取り引きの実現と現金による清算、決済が時間的にずれる場合がある。その為に、現金主義では残高が基準になるが、実現主義では、利益が基準となるのである。これは、実績評価に対する根本的な考え方に大きな差があることを意味している。
 故に、複式簿記を基盤とした市場経済では、損益分岐点が一つの指標になる。
 また、費用に占める固定費の比率が産業毎に違う。また、同じ産業でも業態が違うと違ってくる。生産方式、工場生産か、手作りかによっても損益分岐点は違ってくる。
 そして、この構造が景気に決定的な働きをもたらす。つまり、大量生産型、大規模の設備投資を前提とした経営主体と多品種少量型、また、小規模の設備投資の経営主体が混在した市場では、一律に需給が確定するわけではない。大量生産型企業は、損益分岐点をこえる事が最大の目標になるために、市場に対し、洪水のように製品を放出する。それに対し、小規模生産型の経営主体は、生産力に限界があるために、競争力には当然限界がある。この様な市場では、供給力が市場に対し、決定的な働きをする。

 産業革命は、質から量への時代だった。産業革命によって人間は、物質的には豊かになったかもしれない。しかし、工業化は、環境破壊や資源問題を引き起こしてもいるのである。大量生産、大量消費は、過剰生産、過剰消費を意味している場合もあるのである。現代は、量から質への時代の転換が求められている。
 大量生産から多品種少量生産へ、大量消費から省力型節約型時代へと移行していく必要がある。大量に安くから、少なく売って大きく儲けるへ価値観を変えていくことをも意味する。

 現代人は、経済を数値的現象として捉えがちである。それは、経済的価値が貨幣的価値に還元され、数値的価値と同一されることに起因する。しかし、実際の経済現象は、数値、即ち量的な働きよりも質的な働きの方が重大な影響がある。
 数値というのは、あくまでも対象の量的な部分を抽象化したものであって全てではない。世の中、金が全てではない。肝心なのは、内容である。

 経済危機にせよ、金融危機にせよ、危機という割れるような事態が起こる前には、必ずと言ってモラルハザード、倫理観の喪失が見られる。倫理観がなくなったから危機的な状況となったのか、危機的な状況へと向かっているから倫理観がなくなったのか、何れにしても、現代社会では徳が失われつつある。徳は、人間の行動を抑制する。その徳の働き失われたことが経済を退廃化させ、市場を荒廃化しているのである。

 現代の学問には、徳がない。現代の経済にも徳がない。それは、現代経済が、質を無視しているからである。それ故に、学問も経済も抑制が効かないのである。そのことに早く気がつかないと科学も経済も破局へと向かうことになる。

 還元率(回収率)=倍率×回転率×時間価値これが経済基準の基本である。

 経済現象や経営の構成は、方程式にするとよく表れる。そして、経済現象を表す方程式は、還元率(回収率)=倍率×回転率×時間価値である。例えば、経営指標としてよく用いられる株主資本利益率は、ROE=還元率(回収率)=レバレッジ比率(倍率)×総資本回転率×利益率として表現される。この利益率とは、時間価値である。時間価値には、利益、配当、金利、物価上昇率などがある。
 つまり、経済は、価値の倍率と回転と時間価値の積として考えられるのである。

 貨幣は、元々、金の預かり証に始まる。つまり、担保とした金によって信用を倍加し、それを回転させることによって金利という時間価値を生み出したのである。これが今日の貨幣経済の根本的運動である。そこで重要になるのが、倍率と回転率と時間価値なのである。

 金融危機やバブルは、金融機関が本業で収益をあげられなくなったという事がある。もっといえば金融機関だけでなく、多くの企業が市場の成熟に伴って収益、金融機関は金利、即ち、時間価値が喪失してしまった。その結果、レバレッジ比率(倍率)を高めて利益を確保せざるを得なくなったのである。資金の嵩をレバレッジによって以上に高め、忙しく資金を金融市場で回転することによってのみ利益が確保できなくなった。回転が一度止まれば、残されているのは、以上に倍率が高められた信用だけである。必然的に信用収縮が起こるのである。
 需要なのは、時間価値を市場の仕組みによって維持することなのである。





                    


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