貨幣と循環作用


 金は天下のまわりものと古来言われる程、「お金」は、循環してはじめて効能を発揮すると信じられてきた。

 回収率=倍率(レバレッジ比率)×回転率×時間価値は経済の基本式である。回転というのは、経済の速度である。回転は、経済の基本運動であり、経済の循環を生み出し、循環は回転運動となる。回転は、経済の原動力であり、回転運動によって経済は動くのである。

 百年に一度と言われた2008年、リーマンブラザースの破綻に端を発する金融危機は、金融機関の経営環境の変質が背景にある。金融機関、本来の収益源である金利による収益が見込めなくなった金融機関が、倍率と回転率を高めることによって金融市場において資金の効率を高めようとしたことが根底にある。
 金融機関にとって預金は、借入と同じなのである。借入だから、預金によって得た資金を運用しなければならないのが金融機関なのである。資金が回転しなくなったら、途端に金融機関は、破綻してしまうのである。
 金融危機で最大の問題は、資金の循環が止まってしまうことなのである。現実に、インターバンク内での資金の流れが止まったことが最大の危機だったのである。

 金融機関は、資金の循環を司っている。いわば、市場の循環器官である。金融機関が立ちいかなくなれば、資金は循環しなくなり、市場は機能不全に陥るのである。

 我々は、生まれた時から貨幣経済の中で育っている。その為に、かえって貨幣の持つ意味や役割が見えなくなっている。現代の経済を理解するためには、貨幣の持つ意味を改めて認識し直す必要がある。
 貨幣は、交換手段である。交換手段と言うだけならば、我々でも貨幣を作り出すことはできる。現に、私的な意味で、貨幣を代用していると見られる物は、結構ある。例えば商品券などは好例である。しかし、それは、一部に流通しているだけで、正式な意味では貨幣とは言えない。貨幣には、単に交換の手段と言うだけでなく。それに付加された機能が隠されているのである。その第一は、貨幣は、社会的、或いは、国家的な仕組みの一つだと言う事である。つまり、貨幣は、構造的な基準だともいえる。

 市場経済で問題になるのは、インフレーションとデフレーションである。そして、何れも貨幣的な現象である。故に、貨幣と貨幣の働き、動きを理解する必要があるのである。
 貨幣は、いわば、経済における血液のような存在である。貨幣が貨幣としての働きを維持するためには、貨幣は、常に循環していなければならない。
 故に、貨幣制度においては、貨幣を生み出し、循環させる仕組みが重要になるのである。

 貨幣を成り立たせている仕組みを明らかにするその前に、貨幣とは何かを、明らかにしておく必要がある。

 第一に、貨幣は、交換手段である。つまり、交換する行為、交換する物、交換相手を前提としなければ、貨幣は成り立たない。交換する行為とは、取り引きであり、交換する物とは、財であり、交換相手とは取引相手である。
 そして、交換という行為は、貨幣の流れとその逆方向の物の流れを生み出す。

 財があっても貨幣がなければ、取り引きは成立しない。それが貨幣経済の鉄則である。故に、需要は、交換手段がどれ程、浸透しているかによって左右される。
 その為に、不況の時に公共事業が有効なのである。

 第二に、貨幣は、交換価値を表象した物だと言うこと。ただ、今日は、この物が情報に置き換わりつつある。つまり、表象貨幣の本質は情報だと言う事であり、貨幣の流れは、情報の流れを意味していると言える。

 貨幣は、交換価値を表象した物だという事である。故に、貨幣の働きを理解するためには、交換価値の働きを理解する必要がある。交換価値の重要性は、交換は、専業を促し、分業を深化させる働きがあることである。
 交換価値には、補い合う作用があり、これが専業を深化させるのである。

 また、物から情報への変化は、革命的な変化だと言う事を念頭に置いておく必要がある。
 なぜ、革命的であるかというと、貨幣は、物としての性格を持っていたが、そのものとしての性格が失われるか、変質するからである。
 先ず、物としての性格は何かというと第一に、有形だと言う事である。つまり、目に見える形があるという点である。第二に、質量、密度を持つ。即ち、大きさや重量を持ち、その運搬や保存に物理的、空間的な要素を必要とするという事である。第三に、移動に時間がかかると言う事である。
 それに対し、情報とは、無形であるという事である。貨幣が数値や信号という無形な物になることによって目に見えない動きが増えることになる。情報は、瞬時に移動することができる。
 これらの変化が、経済の持つ、物理的、時間的特性に変化を与えるのである。それは、市場の持つ機能を根底から変えるだけの影響力がある。

 第三に、所得とは、貨幣を獲得する、つまり、交換所得を得ることである。そして、所得は、何等かの対価である事が前提となる。
 所得とは、交換手段、即ち、貨幣を獲得することである。その交換手段の獲得のためには、何等かの交換対象を前提としている。つまり、所得を得るためには、対価を必要とする。
 なぜ、何等かの対価として支払われなければならないのかといえば、それは、貨幣が交換手段であり、交換する物と交換相手を前提としているからである。
 この事は、単純に貨幣をばらまけばいいという発想では、貨幣の機能は発揮できないことを意味している。そこで重要なのは、所得は、労働や財の対価として支払われなければならないと言う原則である。
 ヘリコプターから貨幣をばらまけば景気が回復するというのは幻想に過ぎない。また、施しとして金をまいても一時的な効果に過ぎないという事を意味している。戦争のような破壊的行為は、当事国の経済に壊滅的な打撃を与えるだけである。

 貨幣は、本来、価値のない物に価値を付与するものではない。交換する必要ない財は、貨幣的には無価値なのである。

 多くの仕事があって市場は有効に機能するのである。仕事がなくなれば、市場は、機能しなくなる。ある意味で市場は、非効率を好むのである。生産性の効率ばかりを計って、仕事をなくせば、市場は、すかすかになる。密度が薄くなるのである。

 第四に、貨幣価値は、相対量だという点である。貨幣を絶対量と捉える者がいるが、それは間違いである。貨幣は、元々、交換を前提としている。交換は、財と財との比較の上に成り立つ行為である。故に、貨幣は、相対的な量である。
 しかも、貨幣価値は、何等かの物理的な単位に基づく尺度ではなく。市場取り引きの結果に基づく、相対的尺度だと言う事である。即ち、単位は、一定でなく、常に、市場の状況によって伸縮しているのである。

 貨幣は、無制限に流通すれば、貨幣としての機能を失う。貨幣制度は、制限、制約があるから成り立つのである。

 金本位制から離れ貨幣が不兌換紙幣になり金による制約は受けなくなったが、税収という制約はある。

 通貨量は、収入と借入を基盤としているから抑制できるのである。政府紙幣のように税にも借入も基盤としていないような貨幣は、抑制することができない。

 第五に、経済体制には、全体があって、市場も貨幣もその経済体制の一部である。貨幣は、手段である。貨幣、金が全てではない。貨幣は、支払(交換)手段、貯蓄手段、決済手段である。貨幣は、手段であって、貨幣そのものが価値を持っているのではない。価値を持つ実体は、貨幣が指し示す財である。

 金には、万能の力はない。金があれば何でも手にはいるというのではない。金は、金の価値を認める者がいてはじめて成り立つ。貨幣は、取り引きの手段に過ぎないのである。
 
 何もないからインフレーションになる。物が溢れているからデフレーションになる。実在する財を無視しては、貨幣経済は成り立たない。いくら金があっても交換する財がなければ、取り引きは成立しないのである。ただし、インフレーションもデフレーションも貨幣の振る舞いによって起こる貨幣的現象である。
 金融市場は、その財そのものが無形で、観念的な物、即ち、人間の意識が創り出したものであり、その財の価値は、仮想的な価値である。

 貨幣市場の規模は、財の市場の規模によって規制されている。故に、財の市場の規模を上限とする。財の市場を上回る貨幣の量は、過剰流動性の原因となる。インフレーションもデフレーションも実物市場の規模に対する貨幣市場の伸縮によって引き起こされる現象である。

 公営事業は、無限の資本を前提として収益を考えている。それ故に、財政の規律は保たれないのである。我々が活用できる資源は、有限である。それを前提とし、それに見合った貨幣の量を維持することが経済を安定させることになる。収入を考えない支出、生産を考えない消費、需要量と関係のない供給と言ったことが経済の混乱の本なのである。

 公共事業に投下できる資金には限界がある。その限界は、国民総生産、国民総支出、国民総所得と国家収入との関係から導き出される。

 通貨の流量は有限だという事である。また、貨幣は、有限であることを前提として成り立っている。つまり、無限に開かれた量ではなく、一定の範囲に閉ざされた量だと言う事である。

 なぜ、税が必要なのか。また、政府が直接紙幣を発行しない方が良いのか。貨幣は、循環させる必要があるからである。税をなくし、紙幣を政府が直接発行することは、貨幣を、一方通行的に垂れ流すことを意味する。それでは、紙幣を回収する術がなくなると同時に、貨幣の量の制限がなくなる。それは、貨幣価値の相対性を失わせると同時に、貨幣の政府による信認を失わせる結果になるからである。限界がないという事は、価値がないというのと同じなのである。
 貨幣制度においては、発券と同じくらい回収も重要な意味がある。回収とは、決済を意味するからである。そして、この信用の創出と決済という機能を果たすのが金融制度である。

 第六に、何等かの単位に基づく尺度だと言う事である。それは、交換を必要とする財を結び付けられることによって機能を発揮する基準だと言う事である。貨幣は、貨幣単体では成り立たない。貨幣は基準、尺度なのである。秤(はかり)は、測る物に依存して成り立つ。そして、それは何等かの単位を前提としている。単位を前提とするという事は、単位を構成する基準が存在することを意味する。現代は、為替基準が単位となっている。つまり、貨幣が貨幣の基準となっているのである。貨幣間の相対的価値が貨幣の基準単位なのである。

 貨幣は、貨幣価値を実現した物である。それが、現金である。貨幣そのものが価値を持つのではなく。貨幣が指し示した財の現在的価値を実現している物にすぎない。貨幣は、貨幣価値の尺度である。

 貨幣価値は、還元主義的なものである。対象から価値を抽象化し、量に還元したものである。
 価値を貨幣価値に還元する事によって、土地や食料、サービス、時間、音楽と言った質の違う財の価値を足したり、引いたり、掛けたり、割ったりすることが可能となる。

 第七に、表象貨幣の素材の価値ではないという事である。表象貨幣は、一種の情報であり、情報を伝達する媒体である。その媒体となる物が必要とされなくなれば、表象貨幣は、純粋の情報になるといえる。

 表象貨幣価値には、実体はない。会計制度は、表象貨幣価値を基とした制度である。故に、会計制度には、実体はない。企業は、会計制度の上に成立した機関である。故に、企業に実体はない。その証拠に企業は、清算されると債権と債務以下、跡形もなく消滅する。それが、資本主義経済の前提である。

 紙幣は、証券の一種である。故に、紙幣は、証券としての属性を持っている。また、紙幣の証券としての属性が、所謂、実物貨幣との違いでもある。
 証券を構成する要素は、第一に、紙、或いは物、第二に、権利(価値)を保証された物だと言うことである。第三に、その価値を証明されている。又は、何等かの主体、権威によってその価値が証明されている物である。第四に所有権の移転できると言うことである。この様な紙幣は、信用制度を基盤として成り立っている。

 第八に、万遍なく浸透している必要があるという事である。貨幣社会化成り立つためには、貨幣が、社会の隅々まで行き渡っていることが前提となる。なぜならば、交換を前提として成り立つ国家は、交換手段を全ての国民が持っていなければならないからである。つまり、交換手段を持つことは、国民の権利であり義務でもある。

 分配が市場を通じて効率よく行われる為には、通貨が、ある程度、均等に分配される必要がある。通貨の遍在は、分配に不均衡を生み、市場の働きの効率を悪くする。

 格差は、支払手段である貨幣の分布に偏りを生み出す。この様な偏りは、財の物量に歪みをもたらし、経済活動を停滞させる。特に低所得者の消費構造は、生活必需が占める割合が大きい。生活に必要な財の最低限の量を下回るようなことになると需要が弱まり、需給の均衡が崩れ、社会全体の生産性が低下する。また、社会秩序を保つことが困難になる。

 市場経済が発達する以前は、交換ではなく、分け合うこと、つまり、分配が経済の中心であった。分配は、主として共同体内部で組織的に行われた。

 故に、共同体内部では、交換手段は必要とされていなかった。あるとしたら、感謝の気持ちである。それは、最近まで、身近にあった。金ではない。金で評価できない。金にしたら意味のない行為が存在したのである。愛や信仰に基づく行為が典型である。これらの行為は、何物にも変えがたい行為だという意味がある。
 特に、共同体への奉仕は、無料であり、無料だから認められるという事である。それが公という思想である。この公と私の分離が不明確に成りつつある。それが共同体を崩壊へと導いているのである。

 市場経済が発達する以前は、一方に、必要な物が手に入らずに困っている者がいて、他方に、その物を持つ者がいれば、持たない者に持てる者が、必要な物を分かち合い、助け合ってきた。
 しかし、一度、貨幣が浸透すると、例え者があっても交換手段である貨幣がなければ、交換しない。又は、交換できない。それが不況の原因にもなっているのである。
 2008年のサブプライム問題も、一方に家を欲しがる者がいて、片方に、余剰な住宅があったとしても、それらを分配する手段がないという、おかしな現象なのである。

 第九に、現在通用している貨幣は、表象貨幣である。表象貨幣は、信用を裏付ける物が前提となることである。つまり、紙幣は、信用貨幣でもある。
 国民の権利であり、義務である交換手段は、国家によって保証される必要がある。それは、国家が貨幣に信用を付与することである。

 生産財は、有限である。消費者も有限である。市場の範囲も有限である。そして、貨幣価値は交換価値である。通貨の量も有限である。故に、無限な基準に信用を付与することはできない。即ち、貨幣価値の総量は有限である。貨幣価値は閉ざせれたかちであり、循環することによって成り立っている。
 自分に自分の信用を付与することはできない。故に、通貨の発行権を持つ主体と通貨に信用を付与する主体は、個々独立した主体である必要がある。
 行政府が通貨を直接発行することは、通貨の信認を危うくする。

 貨幣は投入した以上には増えない。なぜならば、貨幣を発券する権限は、発券銀行にしかないからである。貨幣は、増殖しないが、貨幣価値は増殖する。貨幣価値を増殖するのは、時間と信用である。

 資金が投入され、時間価値が信用によって加えられる貨幣価値が増殖される。貨幣が核となって信用価値を生み出している。その鍵は時間にある。

 実物貨幣の時代は、貨幣は、その時点その時点の決済の手段であった。しかし、信用貨幣の時代になると、貨幣価値には、時間軸が加わり、信用を創造するようになった。信用を創造することによって貨幣価値を何倍にも増殖することが可能となったのである。

 第十に、貨幣は、環流する事によって機能を発揮する、価値を実現するという事である。貨幣は、退蔵されてもその価値を発揮しない。

 資金は、循環した範囲内で需要を喚起する。言い換えると、需要は、資金が循環し範囲内でしか喚起されない。金融市場でしか資金が循環しなければ、金融市場内でしか需要は喚起されない。資金が周辺の市場に流れて始めて、金融市場の外部の需要を喚起できるのである。
 これは、公共投資や公的資金を活用する際に充分に考慮すべき点である。
 公共投資や公的資金を活用した時、資金が流れる範囲がどこまで及ぶかが政策の効果が及ぶ範囲だと言う事である。

 貨幣には、内部貨幣と外部貨幣がある。内部貨幣とは、内部流通貨幣でもある。

 いくら貿易収支が改善しても国内に資金が循環していなければ、景気が好転したとは言えない。いくら企業収益が良くなったといっても利益が社員や関係者に還元されていなければ企業業績が良いとは言えない。家計において、いくら資産価値が上がったとしても収入や可処分所得が改善しなければ、豊かさは実感できない。

 通貨の流れには、方向と量と力と速度がある。流れの方向は、債務と債権の働きによって決まる。また、財の流れと逆方向に流れる。通貨の流れが財の流れを促す。

 貨幣を機能させるための仕組みを考える場合、単純に貨幣をばらまけば良いという仕組みでは駄目だということが解る。垂れ流し状態では、貨幣は機能しない。それは、貨幣が交換手段だからである。そして、ある全体の一部を構成するという性格を持つからである。即ち、貨幣は有限な量を前提として成り立ってると言う事、相対的基準だと言う事である。また、貨幣が情報機能を持ち、フィードバック機能を持つ必要があるからである。つまり、貨幣は、血液と同様、回収されることを前提として成り立っているという事である。

 景気は、需要側からも、供給側からも、市場からも、制御されなければならない。需要を喚起するために、公共投資を行うのも有効な手立てではあるが、万能の手段ではない。また、公共投資には一時的な効果しか望めない。
 需要(消費)側を調整するよりも供給(生産)側を調整する方がより確実で効果的である。また、市場の規律を取り戻すことが企業の収益を改善するための重要な基本的手段である。

 公共事業は、生産者、供給者側から資金を投入する手法であり、減税は、需要者側から資金を投入する手法である。金融機関に資金を注入しても、金融機関の破綻は防げるかもしれないが、実物市場に即資金が廻るわけではない。

 景気の動向を決定付ける要素は、消費意欲と財と通貨である。つまり、人、物、金、それぞれの要素が相互に作用することによって景気の動向は形成される。
 それぞれの要素か過剰か、一定か、不足しているかによって景気の状態は、左右される。財の性格によっても違う。
 例えば、必需品で消耗品が不足し、通貨が過剰な場合、消費意欲は衰えないから、インフレーションが発生する。量が一定で通貨が不足しても他に節約できる財があれば、インフレーションになったとしてもハイパーインフレーションになる可能性は小さい。ただし、情報の流れ方次第では、インフレーションが加速する危険性はある。

 人間は、感情の動物である。人間は、不合理な存在である。人間には欲がある。その欲が人間の行動に重要な影響を与えている。人間は、理性で判断し、感情で決断する。この様な人間性を、現代の経済学は、無視している。
 人間は、自己実現を求めて生きていると言うことである。人間には感情があり、誇りがある。そして、認められたいという欲求がある。その欲求が経済の原動力である。
 この様な衝動によって人間の経済的行動は、左右される。だからこそ、人間の行動を一意的に予測するのが難しいのである。しかし、反面、人間の行動の傾向や方向性は、ある程度予測することは可能である。その為には、経済は、人間性に重きを置く必要がある。その人間性を現代の経済学は無視している。それが現代経済の病巣である。人間は物ではない。人間を人間として認識しない限り経済は理解できない。

 企業の寿命、三十年という説がある。あながち根拠がないわけではない。現在の会計制度に従えは、企業は、三十年くらいで寿命が尽きる。その寿命を延命するのは、多分に会計操作である。

 第一に、人件費の高騰がある。高齢化が進むことによって企業の人件費は高騰する。年齢や勤続年数が増えるのに従って生産性が向上するかというと必ずしも生産性は向上すると言い切れない。むしろ、ある年齢を境にして生産性は低下すると言っても良い。
 第二に、技術革新である。技術革新は、企業が蓄積した知識や、設備、技術を陳腐化し無価値な物にしてしまうからである。
 第三に、設備の寿命である。そして、それに伴う設備の更新である。更に、償却不足である。減価償却費というのは、償却資産の費用化であるが、それが設備の老朽化の速度、借入金の返済の速度との間に不適合があり、資金の流れと必ずしも一致していないという事である。それが、運転資金の調達と運用の周期に微妙な影響を与えている。この影響も順調に企業が成長拡大しているうちは良いが、成長が低下したり、横這いになると致命的な影響を及ぼすことがある。

 未実現損益の問題がある。未実現損益というのは、資金の流出入のない損益である。つまり、未実現損益とは、会計が、取り引きを前提としながら、取り引きによらない損益なのである。

 第四に、長期借入金の返済である。長期借入金の元本の返済が、長期的に資金繰りを圧迫し、景気の節目で資金ショートを引き起こすことである。俗に言う、資金繰り倒産、突然死の原因である。

 以前のように、土地を、財産を購入する感覚で購入すると失敗する。それは、現行の複式簿記を基礎とした会計制度は、債権と債務の均衡を前提とし、土地の購入のために借り入れた資金の返済は、損益上のどこにも表れてこないからである。それでありながら、売却益は、収益に加算されてしまうからである。故に、資金繰りを恒常的に圧迫し続ける原因となる。

 よく地価の下落によって借金が返済不能に陥ると言うが、地価の下落と伴に返済不能に陥ることが問題なのである。
 返済額が収益の範囲の中で納まっているのならば、問題はない。地価の下落と伴に、返済不能に陥るという本来の意味は、地価の下落に伴い、収益が減少したことを意味しなければならない。ところが、多くの場合、収益は減少していないのに、返済が滞る事態が生じる。それは、当初予定していた返済計画と違う要素が加わるからである。一つは、返済額、返済計画の変更である。もう一つは、返済計画が収益以外の収入に頼っていたという事である。
 大体、返済が滞らなければ、本来問題はないはずなのである。ところが、将来返済が滞ることを想定して早期返済を強制するのが、俗に言う貸し剥がしである。また、新規の借入を渋るのが貸し渋りである。この様な行為は、経済原則や倫理に反する行為である。それ故に、貸し剥がしや貸し渋りは、景気に悪影響を及ぼすのである。
 いずれも元本の返済が絡んでいる場合が多い。

 企業は金持ちにはなれない。なぜならば、企業は、実質的に現物を所有することができないからである。企業が持っているのは、所有権という権利である。また、企業の手元現金は、想像以上に少ないのである。
 複式簿記では、企業が所有するのは、権利であり義務、責務である。即ち、債権と債務である。そして、債権と債務は、取り引きが成立した時点で常に均衡している。企業を清算すると言う事は、債権と債務を清算すると言うことである。企業が清算されると権利と責務以外は何も残らない。つまり、企業というのは、物的実体を最初から持たない組織、経済的機関なのである。
 つまり、正と負の資産は、常に均衡され、相殺された状態にあるのが企業の実態である。企業は、情報に過ぎないのである。
 そして、貨幣は、使われてはじめて機能を発揮する。貯蓄されている貨幣は、その位置によって権利としての効力を持つが、それは潜在的な力に過ぎない。その意味で、企業は、手持ちの現金の残高を増やしても経営効率は良くならない。かえって悪化するのである。それが流動性の問題である。
 自分がいくら金を持っているかの問題ではなく。いくら使ったかの問題なのである。

 第五に、成長と成熟の分岐点である。

 現在の会計制度は、企業の継続を前提とした仕組みから株主価値の極大だけを目的とした仕組みに変質したのである。
 老舗企業の多くが淘汰されつつある。

 過当競争から独占、寡占への変化は不可逆的な変化である。国家権力のような力による介入がない限り、独占や寡占体制は妨げられない。

 経済を成り立たせているのは、何等かの差である。差によって貨幣や物の流れが生まれるからである。経済的価値とは、その差の持つ意味をどう評価することにある。
 差が小さくなれば、経済活動は、低下し、停滞する。差が大きくなれば、経済活動は過熱する。差が固定的なものになれば、換えって貨幣や物の流れを阻害する要因となる。

 キャッシュフローが流行っているが、キャッシュフローが重要なのは、何も企業だけではない。国家経済においてもキャッシュフローは、重要である。
 資金は、量だけでなく、方向性も重要である。

 経済の実態を明らかにするためには、収益と言った外形面だけに注目しても不十分である。重要なのは、通貨の流れである。通貨の流れる方向と量である。

 通貨は、循環することによって機能を発揮する。(電気が環流しなければ、電力を発揮しないようにである。)貨幣は環流する事によって機能を発揮する。流れる事が重要な要素なのである。つまり、一方向に対して流れたり、部分的に流れるだけでは機能しないのである。

 債権と、債務が発生すると同時に取り引きが成立した時点の貨幣価値が実現する。それを物質化したのが貨幣である。現在は、その物質かされた物が情報化されつつある。その貨幣が流れる方向が問題なのである。

 土地を購入すると土地の所有権という債権が生じるのである。そして、土地を購入するために調達した資金は、債務を生じる。調達された資金は、地主に支払われる。ここで注意しなければならないのは、土地を購入する資金は、どの様な形で調達されても複式簿記上は、債務を派生させるという事である。つまり、費用処理されないという事である。

 金融機関から借入をして工場用地を購入した場合、資金は、元の地主の所得となり、土地は、金融機関の担保に取られる。投資家から資金を調達した場合でも土地は、資本である。土地は、資産価値を持つと言っても売却しなければ、実現しない。門生町の資産は、原則的に稼働中は、売却を前提としていない。つまり、企業というのは、媒体としての実体しか持たないのである。所得は、支出と蓄えになり、蓄えは、金融機関に回収される。また、支出は、消費と投資となる。
 また、借入金は、一定の期間おき決められた額を返済されなければならない。貨幣が生み出す与信というのは、貸出、借入が成立した時点が頂点であり、時間と伴に減少していく。
 つまり、返済が始まると資金の流れは、逆方向の流れになるのである。

 実物市場から金融機関へと資金は、環流するのである。この環流によって物流が起こり分配という機能が働くのである。

 資本市場や金融市場は、資金の流れが双方向に発生する。実物市場と違い、資本市場や金融市場は、貨幣対貨幣、或いは、貨幣対貨幣と同等物、貨幣対金融商品と貨幣、或いは、貨幣と同等物の交換を前提として市場である。

 その点が実物市場との相違である。実物市場は、資金の流れの反対方向に物の流れ、物流が生じる。
 それが、貨幣が経済の物の流れを促す作用である。その作用によって物の流れと分配を制御するのである。
 しかし、金融市場や資本市場は、貨幣が貨幣の流れを加速する働きを持つ。金融市場というのは、貨幣の働きを蓄積し、力を充填する場でもある。所謂(いわゆる)、経済の心臓部でもある。
 ただ、金融市場や資本市場は抑制を失うと自己増殖する危険性を常に孕んでいることを意味する。

 おかしな話だが、財政赤字を問題とする場合、財政赤字と経営赤字とを混同している事が多い。財政赤字というのは、現金主義、即ち、収支上の赤字であるのに対し、経営赤字というのは、実現主義、即ち、損益上の赤字である。根本の思想も計算方法も違うのである。
 現金収支で赤字になれば経営は、即、破綻する。ただ、財政の場合、国家収入を土台にしているわけではなく。税収を基礎としている。その点が見逃されている。

 国債の問題も発行額ばかり問題にして、返済額、償還額、回収額を問題にしていない。つまり、資金の流れる方向を問題としていない。発行高だけでなく、国債がどこに蓄積され、実際にどれだけ流通しているかが重要である。国債が通貨をどの程度増殖したかが実際に経済に与える影響なのである。





                    


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