機能主義
経済を決定付けるのは、差と幅である
利益とは何か。
今年、2008年は、後世、歴史の節目の年と言われる程の激変の年だった。年初、勝ち組と言われた自動車産業が、年末には、空前の赤字を計上した。年末にかけての急激な企業業績の悪化に伴う人員削減が、深刻な社会問題となっている。
利益とは何か。急激な景気の後退によって明らかになったのは、過去の利益が、景気の変動に有効に機能していないという事である。
それでは、これまで上げてきた利益は、どこへ消えてしまったのであろうか。利益による蓄えは、この様な非常時や緊急時に役にたたないものなのであろうか。ならば、何のために利益を上げ、蓄える必要があるのであろうか。
実は、ここに利益に対する思想が隠されているのである。つまり、利益をどの様に定義するのか。もっと有り体に言えば、利益は、誰のために、何の目的で上げるのかという事が隠されているのである。そして、それこそが経済の実際的な思想を形成するのである。
利益とは何かは、経営主体、企業とは何かを実体的に意味する。つまり、経営主体を単なる金儲けの道具、機関と見るのか。人間集団、運命共同体と見るのかの違いが利益をいかに処理するかという実務に、如実に現れるからである。そして、その方が、観念的な思想よりもずっと、思想を体現するからである。
そして、更にそれは、企業は、誰のものであり、誰のためにあるのか、延(ひい)ては、経営主体の存在意義、目的を実体的に定義する事になるのである。
今の会計思想、即ち、現行の資本主義には、経営主体に利益を溜め込む、蓄積するという発想はない。経営主体はあくまでも機関であり、道具、手段に過ぎない。利益は、個人に還元すべきものだからである。つまり、共同体は、利益をため込めないのである。これは、経営主体だけでなく、家計も、財政も同じである。故に、資本主義体制下では、企業も、家計も、財政も赤字にならざるをえないのである。
もう一つは、差というものをどの様に解釈するのかの問題も惹起する。近代は、平等という概念の基に一切の差を否定してしまおうという傾向がある。
それでありながら、平等とは何かについて、曖昧にされたままである。平等というのは、同等とは違う。基本的に存在そのものに依拠した思想である。絶対性に基づいている。それに対し、差というのは、認識に基づいた概念であり、比較対照、即ち、相対的なものである。
会計というのは、差に基づいた思想なのである。そして、経済社会は、差によって成り立っているのである。それは、経済は、認識によって生まれるからである。経済社会は、認識の違い、つまり、差というものをどの様に実体的に解釈するかによって成立している体系なのである。
現在の市場経済は、会計制度を文法としている。会計制度を基盤としている以上、会計思想が、市場経済の根本思想でもある。
基本的には、収益には、上限と下限があり、その間に、必要な費用を組み込むというのが現行会計制度における根本の思想である。
利益は、目安である。故に、利益は、必ずしも黒字でなければならないと言うのではない。問題は、利益をどの様に解釈するかなのである。
上限と下限があり、その間に費用を押し込むという事は、天井を押し上げ、床を押し下げる行為が経営だと言える。逆に言えば、天井が下がってきて床が上がってくれば、経営主体は、押し潰されてしまうことを意味する。
経営資源には、一定の限界や制約があり、その限界や制約の範囲内に、いかに、費用を収めるのかが、一つの経営目標だと言う事である。その目安が利益だと言う事である。
利益を上げるためには、いかに費用を計算するかが重要なのである。つまり、何を費用とするかが鍵になるのである。それは、資産や負債、消費を費用化する操作によって決まる。
更に、それを資金化して、収入という上限の範囲に支出を収める事によって経営は、成り立っているのである。
なぜならば、上限と下限は、損益だけではなく。収支にもあるからである。そして、収支の上限と下限が実質的に経営の存亡を決定付けているのである。
上限と下限に拘束されているのであるから、ある一定の限度を超えると、経済は、機能しなくなる。
そして、その上限を収入とし、下限を支出とする。収入と支出の根本は現金である。現金とは、その時点において実現された貨幣価値である。故に、現金の収支には、マイナスはない。それに対し、損益は、費用対効果を土台としている。その為に、損、即ち、マイナスになることもある。マイナスになるという事は、限界点を意味しているわけではない。損益は、あくまでも尺度なのである。
そして、その限界は、最終的には、値段、価格に収斂する。それが価格の正当性である。
それを左右に分けて表示し、最終的に均衡させようと言うのが、会計の思想である。
つまり、会計においては、経営主体は、収入と支出は最終的に均衡すべきだという考えになる。経営主体に利益は残らないのである。また、資金を寝かせる、不活性化する、固定するものを貸借上に表し、資金が流動的なもの、活性的なもの、変動的なものを損益に表す。
また、右は、収入、即ち、収益と負債を意味するものであるから貨幣価値を意味するのに対し、左は、支出、即ち、資産、費用、つまり、資金の使い道を意味するのであるから実物、物や人と言った会計概念を表す。たしかに、売掛金のような債権を表す場合があるが、基本的には、実物を会計的に表現した部分である。これを見ても解るように、会計制度は、貨幣価値と実物価値を変換する仕組みなのである。
また、負債と預貯金は、表裏、作用・反作用の関係にある。負債というのは、費用の後払いを意味し、預貯金は、費用の前払い的な要素を持つ。
差が重要なのである。差を善悪の価値観で捉えると経済は硬直的になる。差で問題なのは、幅であり、率である。その幅も、率も、相対的なものである。つまり、何を基準にして、また、何と比較してその差の幅が妥当かが問題なのである。それが利益の幅や率を意味する。つまり、利益の幅や、率はどれ程が妥当なのかである。
それを単位化することによって価格が割り出される。それが適正な価格の基準である。また、価格の機能や妥当性を解明する手かがりである。
その妥当性は、資金の流れと資産、負債との関係によって決まる。つまり、資金の流れと資産、負債との関係が景気変動の基底にある。
その妥当性に基づいて価値は、創出されるものなのである。妥当性が損なわれると価値の妥当性もなくなる。また、妥当性を裏付けているのは、価値観である。この様に格差と価値観は、相互補完的関係にある。
経済は、生産と所得と消費からなる。国民経済では、生産は付加価値を意味し、所得は、分配を、消費は支出を意味する。そして、生産と所得と消費は一致すると考えられている。
生産と所得と消費が一致することを三面等価という。
三面等価を数式にすると
国内総生産=国内総所得=国内総支出となる。
その内訳は、
国内総生産=産出額−中間投入
=販売数量+在庫
国内総所得=雇用者報酬
+(営業余剰・混合所得+固定資本減耗)
+(生産・輸入品に課せられる税−補助金)
=家計の取り分+企業の取り分+政府の取り分
国内総支出=消費+投資(設備投資+住宅投資+在庫投資+公共投資)+経常収支
=家計支出+民間支出+政府支出+(輸出−輸入)
=民間消費+民間投資+政府支出+(財貨・サービスの輸出-輸入)
となる。
総生産は、販売と在庫から成る。総支出は、消費と投資、貯蓄に分解される。
という事は、販売数量+在庫=消費+投資+貯蓄になる。
:景気対策を立てる際、何でもかんでも、公共投資による景気刺激策か、金融政策かといった議論に終始しがちであるが、景気政策は、販売と在庫、消費、投資、貯蓄の各要素に対してどう働きかけるかが重要になる。即ち、多面的、多様的、複合的、構造的な取り組まなければならない。
公共投資というのは、投資の中の一要素に過ぎない。公共投資だけに頼って景気を改善することはできない。
生産と所得、支出が一致すると言う事は、所得は、生産以上にはならず。また、支出は所得以上にはならない。さらに、支出は、生産以上にはならないことを意味している。
貨幣経済というのは、極端な話し、資金さえ調達できれば、働かなくても生活が出来る、経営が出来ることを意味する。
しかし、負債勘定が多くなると社会全体の固定費も増大することになり、資金の実質的な流動性が低くなる。
重要なのは、可処分所得の量であり、それが、資金の粘度を改善する決め手となる。
現実を決めるのは、現金、つまり、資金の流れと収支である。そして、経済においては、重要なのは、表面に現れてくる通貨の量、市場に実際に流通する通貨の量である。
幅を決めるのは、価格と費用である。それを集計して損益の基準で分類したものが決算書である。
この幅を決める要因には、外生的要因と内生的要因がある。外生的要因とは、対象となる主体の外部で決定される要因で内生的要因とは、対象となる主体の内部で決定される要因である。
例えば、為替の変動や石油価格の高騰は、個々の企業にとっては、外生的要因であり、設備投資や経費の削減などは、内生的要因である。
経済は、この外生的要因と内生的要因が複雑に絡み合って形成される。経済政策は、この要因に政策当事者が直接的、あるいは間接的に働きかけることである。
負債の圧力が強すぎて資金の流動性が失われる。資金には、粘度がある。資金は、丁度血液中のコレステロールの濃度が高いとドロドロになるように。
つまり、資金の流れの中には、背景として負債を背負っているものがあるという事である。その負債は、信用によって保証されている。その信用が所得に対するものか資産に対するものかによって資金の粘度が変わってくる。資産とは、言い換えると将来受け取る事が予定されている所得の代替物である。
資産や負債に拘束を受ける資金は、何等かの固定的な支払が付随するために、資金の流動性が抑制される。例えば、不動産は、現金化するのに時間的、法的、手続的な制約がかかる。
この様な資産の流動性に基づいて資産を貨幣性資産、非貨幣性資産に区分する事も可能である。
費用には波があるため、その波を平準化しようとする働きは古代から存在していた。一時的費用を平準化する技術として負債は発生したのである。つまり、費用を時間的に配分し、一回の支出を少なくしたのである。つまり、これは、費用の後払い、繰延を意味する。
費用には、固定費と変動費がある。固定型というのは、一定期間変化しない費用を指して言い。変動費は、時間や数量と言った量的といった何等かの要因によって変動する費用である。
また、費用には、人件費型、金利型(固定と変動)、相場型(市場)がある。
人件費というのは、何等かの基準によって組織的、制度的に決められる費用であり、金利型というのは、予め相対取引によって決められる要因であり、相場型というのは、市場の需給によって決められる要因である。
この様な特性によって費用は、現れ方や支出に与える性格に差がある。
また、価格と費用は、外生変数と内生変数の関数として表現できる。
損益と収支という二つの幅の間で推移し、均衡している。いわば、損益と収支は経済のバロメーターの役割を果たしている。
費用対効果を計ることが損益の中心課題なのである。そして、損益を基準にして資金の供給の是非を決定するのである。
市場の価値は、物の市場価値価格に収斂する。物価は、人、物、金の三つの要素によって形成される。更に、近年、情報が加わった。
人は、購買意欲を形成し、物、財は供給力によって決まる。それを媒介するのが貨幣であり、購買力は、所得、即ち貨幣量によって与えられる。この三つが均衡することで市場は成り立っている。近年、貨幣の通貨量だけで物価を統制しようと言う思想が市場を席巻しているが、市場は、貨幣だけで成り立っているわけではない。貨幣は、あくまでも手段、媒介物にすぎない。価格は、人と物の働きを貨幣で表した情報である。
価格が何を表しているかを博く理解させることが重要なのである。ただ、安ければいいという事ではない。価格で重要なのは、密度である。密度とは、質と量の関数である。しかし、消費者の多くは、量として表された数値しか情報を与えられない場合が多い。それが情報の非対称性である。故に、市場を規制する必要があるのである。
経済が国際化することによって価格は、一番コストが安い水準に向かって下落し、コストは、最も価格が高い水準に向かって上昇する。それが市場に壊滅的な作用を及ぼすのである。
人、物、金は、経営資源でもある。この経営資源を組み合わせて経営は成り立っている。その運動と結果(位置)を数値化する仕組みが会計である。会計は、主として、数値、即ち、貨幣価値で表現されるが、それは、貨幣という座標軸に経営の活動と位置を写像しているに過ぎない。その実体は、人と物の動きと位置にある。
会計や価格が人や物の動きや位置を適正に反映できなくなると経済は、破滅的状況に陥る。
利益とは何か。それは、利益の前提となる意義が重要なのである。利益の持つ意味もわからずに、利益を追求することは、それ自体が罪である。それは、人混みを疾走する暴走族みたいなものだからである。利益は、基準に過ぎないのである。義のない行いは、罪である。
企業は、本質的に利益を追求するものである。なぜならば、利益が上げられなければ、事業を継続することが出来ないからである。市場経済において企業は、ゴーイングコンサーン、つまり、継続を前提とした主体である。そこに、利益の目的が隠されている。
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