情報化

情報と意味づけ

 現代は、情報化時代だと言われる。
 情報化時代というのは、情報が特別の働き、機能を持つ社会である。そして、情報化時代は、情報に支配された時代でもある。
 情報に支配されているという事に抵抗や違和感を感じる者がいるかも知れない。しかし、貨幣は、情報に過ぎない。その貨幣、即ち、金銭に我々の生活は支配され、振り回されている。情報化時代というのは、情報そのものが価値を生み、実体を持つことを意味する。それを忘れてはならない。

 情報伝達は、基本的に言語化して伝達される。今日では、映像による情報の伝達も通常化しているが、情報伝達の手段の成り立ちは、主として言語による。
 つまり、情報は、言語を基礎としている。そして、言語の成り立ちは、音声に依拠している。言葉は、音声の集合体である。一言一言、一語、一語を点だとすると言語は、音の集まり、集合体である。つまり、言語は一次元的な体系である。この事は、言語体系は、直列的で同時に二つ以上の情報の伝達は出来ないことを意味している。
 即ち、言語において重要なのは、語順、順番、言葉の構造であり、語の組み合わせである。言語体系は、語の位置と働き、関係によって成立している。これらの要素は、語順、組み合わせ、文型、構文、言葉の変化に還元される。また、句、節、文の構成である。それらを法則化したのが文法である。

 言語は、言葉によるものだけではない。数学や、会計も、コンピューターも、広義の意味での言語体系によって情報を伝達していると言える。
 そして、数学や会計、コンピューター言語も語順、順番、言語の構造、組み合わせの働きによって成り立っている。

 言葉や記号は、象徴(シンボル)である。象徴と言う事は、抽象化を前提とする。つまり、言葉や記号は抽象的な物なのである。

 言語は、認識上の問題であるから、相対的な対象である。相対的であるという事は、その言葉を成り立たせている前提や状況が重要になる。

 言語が成り立つためには、言語を成り立たせている環境、状況と前提が必要とされる。環境、状況の中でも言語的基盤が重要な役割を果たしている。

 言語を成立させている前提は、言語を構成する言葉の辞典と法則の社会的素地、インフラストラクチャーが確立され、社会に浸透していることである。
 一つの社会、一つの国家を形成していても言語的に統一されているとは限らない。それは、言語体系のインフラストラクチャー、基盤を共有していないからである。その様な社会では、情報の交換、コミュニケーションをとるのが困難である。その為に、特定の言語を公用語として、共有している場合が多い。

 意味とは、対象を認識する過程で生じる、対象を識別するための観念である。言葉は象徴にすぎない。三つの要素の関わり合い依って言葉の意味は、形成される。故に、意味というのは、主体と対象の働きによって成り立っている。言葉や記号が意味を持つわけではない。言葉や記号は、対象を識別するための形象である。
 意味とは、言葉や記号が指し示す対象そのものや対象の働き、性質、概念である。

 意味を構成するのは、言葉や記号と言葉が指し示す対象と言葉や記号、及び、対象を認識する主体とから成る。

 情報というのは、本来、それ自体が実体を持っているのではない。情報は、情報を伝達する側の主体と情報を伝達する側の主体との関係によって成り立っているものである。しかし、情報化時代では、情報そのものが価値を持つようになる。その典型が貨幣価値である。本来、貨幣は、交換価値を伝達するための道具、手段に過ぎない。ところが、貨幣経済下では、貨幣そのものが価値を持つようになり、実物経済を支配するようになる。終いには、金さえあればどんな物でも手にはいるというような社会になる。逆に、金がなければ生きていくこともできない社会になる。金に支配されてしまうのである。手段によって実体が支配されるのである。
 情報化時代に生きる我々は、情報の持つ弊害をよく理解したおく必要がある。その意味でも、情報とは何かを明らかにする必要がある。

 情報は、主として言語によって伝えられる。しかし、言語だけが情報の手段ではない。情報を伝達するものは、象徴(シンボル)である。つまり、形象、形式である。
 情報は、形式化されて伝達される。形式の中には、礼儀作法のような挙止動作も含まれる。

 近年、情報を伝達する手段は、多様化している。それを情報の進歩という見方もあるが、逆に、退歩しているという事もある。たとえば、映像化による影響である。なるほど、情報の映像化は、大量の情報を加工せずに伝達することを可能とした。反面、加工と翻訳に関する思考力を弱くもした。言語や記号で情報を伝達するためには、対象を抽象化し、言語化、記号化し、更にそれを再構築する必要があるからである。その過程で必要な情報を分類、分析する能力を必要とした。それが情報の知識化を促したのである。今は、情報をそのまま受け容れるために、対象を抽象的概念化する事が出来なくなりつつある。

 情報は、形式によって伝達される。故に、形式を無闇に軽視するのは、情報の軽視でもある。例えば、何等かの意思を伝達しようとした場合、言葉だけでは不十分である場合が多い。言葉で不十分なところを補うのが儀式典礼である。それを象徴しているのが冠婚葬祭である。人間の感情や気持ちは、言葉だけでは伝達できないのである。だからこそ、儀式典礼という形式が重要になるのである。また、地震祭や開店式や閉店式といった節目、節目の式典も特別な意味を持つ。言語というのは、この様な環境や状況も含めた相対によって成り立っている。
 また、儀式典礼には、博く知らしめるという機能もある。
 構造主義者は、形式主義者でもある。

 情報化時代においては、情報の開示も重要な事柄の一つである。しかし、何でもかんでも情報を開示しろと言うわけではない。情報の開示は、プライバシー、個人情報と表裏をなしている。情報における公と私の区別の問題に還元される。そして、この問題は、思わぬ所で齟齬をきたすことになる。
 情報を開示するというのは、情報化社会においては重要な要素である。反面、個人情報の保護というように、情報の開示を拒む要素も重要となる。情報の持つ力が強くなればなるほど、一方において情報の開示が求められ、もう一方で、情報の保護が叫ばれる。極めて矛盾した状況が現出するのである。情報の持つ意味が重要になるのである。

 例えば、犯罪者の氏名の公表である。どこまで、名前を公表して良いのかが、常に、微妙な問題となる。日本人は、これを言葉の解釈の上で捉えようとする。しかし、言葉の解釈で解決が図れる問題ではない。もともと、社会的合意、国民的合意を前提とするからである。欧米においては、性犯罪者の氏名を公開している国すらあるのである。それは、法とは何かの根本思想の問題なのである。杓子定規に規定すべき事ではない。

 情報を開示化する意味は、情報を開示する目的に規制される。情報の開示は、なぜ、情報を開示する必要があるのかによる。故に、情報の開示は、情報を開示する目的に規制されるのである。

 例えば、企業には公開会社と非公開会社とがある。企業が基本的に情報を開示する義務を負うのは、投資家と債権者に対してである。それは、情報を開示する目的に規制されるからである。
 例えば、税金に関しては、徴税当局に対してのみ情報の開示の義務を負い、徴税当局は、守秘義務を負わされる。この様に、特定された対象にのみ情報を公開する例もある。この事が示すのは、情報を開示する対象や範囲は、目的に規制されているという事である。

 つまり、情報の意味は、情報を伝達する目的によって規制されるという事である。これは、会計制度を考える上で重要な要素である。

 市場は、放置していると均衡状態に至る。完全に均衡した状態というのは、市場が不活性化して状態である。熱力学で言うところのエントロピーが増大した状態である。故に、常に、市場は、不均衡な状態に置いておく必要がある。
 市場は、一方で均衡を前提とし、もう一方で均衡を嫌う。この矛盾した条件を維持するために、市場には仕組みが必要であり、また、制御する必要があるのである。
 市場の制御は、一方通行的な作用、即ち、競争なら競争だけを良しとするような操作によっては維持されない。常に、市場を監視し、市場が一方向に暴走しないように管理する必要がある。また、何等かの安全装置や制御装置が要求されるのである。

 市場の不均衡な状態というのは、一つは、情報の非対称性によって維持される。故に、何でもかんでも情報を開示しろと言うのでは、経営は成り立たないのである。そこに情報の開示の難しさがある。また、情報の非対称性にも、、問題がある。

 安売り業者は、安く売ることに生き甲斐を感じ、安ければいいと言う価値観の持ち主がいる。そして、利益を度外視したり、また、客寄せのために、原価や仕入れ値を無視した価格で売り出す業者もいる。また、保安や保証を削って価格を安くしていることもありうる。

 逆に、独占業者は、不当に高い価格で販売することが可能である。
 しかし、消費者にとってそれが適正な価格であるかどうかを判断する情報が少ない。その為に、良心的な業者、良質な業者が市場から排除されてしまうことがある。消費者にとって最終的に受け取れる情報は価格だからである。つまり、価格から得る情報が全てである可能性が高いのである。それが、情報の非対称性の問題である。

 価格というのは、基本的に数値情報であり、定量的な情報に還元されている。その為に、定性的な情報が稀薄になる傾向がある。不当な廉売であろうと、独占的価格であろうと、生産者、販売者側の意図を正確に見抜くことはかなり至難な業である。

 情報というのは、虚構である。しかし、情報化時代においては、虚構である情報が一人歩きをすることがままある。
 金融は、情報に依って成り立っている。金融市場は、貨幣市場である。貨幣は、市場における情報伝達の媒体に過ぎない。しかし、それが実物を動かすことが可能だと言う事になると話が変わってくる。

 貨幣は、情報を伝達する媒体、手段である。それ自体が実体を持つわけではない。貨幣は象徴(シンボル)にすぎない。市場も仮想空間にすぎない。しかし、貨幣は市場において絶大な力を発揮する。

 貨幣があるから差別が生じるわけではない。貨幣がなくても差別は生じる。
 ただ、貨幣は、貧富の格差を増幅し、定着化させる作用がある。そして、貧富の格差は、差別へと変質する場合が多いのである。

 貨幣とは、表示された数値と同量の交換価値を有する財と市場で交換する権利を持った物である。現金とは、本来、貨幣価値を実現した物であるが、貨幣と同一視される場合が多い。

 自然な状態に貨幣があるわけではない。貨幣は、極めて社会的な物なのである。これは大前提である。貨幣が象徴するように経済的な物は、人工的な物である。経済は仕組みである。人為的な仕組みである。無為に臨んで、自然に治まる仕組みではない。人間の意志によって動く仕組みなのである。
 経済は、まるでジェットコースターのように激しく乱高下することがある。しかし、放置すれば、均衡にいたり、停止してしまうのである。一度停止すれば、再起動するのが困難なのが経済である。それが市場の均衡状態である。

 情報は、認識に基づくものである。故に、対象を正しく表現する必要がある。
 近年、不良債権が深刻な問題となっている。バブル崩壊後の長い日本経済の停滞もサブプライム問題も不良債権問題が根底にあるとされる。しかし、本当に不良債権の問題なのであろうか。実際は、不良債権というのは、一面的な見方に過ぎない。
 つまり、実際は、不良債権の問題であると、同時に、不良債務の問題でもあるのである。そして、深刻なのは、不良債権ではなく不良債務の問題なのである。だから、不良債権と言われる問題の本質は、不良債務をどうするかの問題であり、リスケジュールの問題なのである。それを債権処理の問題として捉えている限り問題の解決にはならない。
 例えば、不良債権とされる不動産でも、不動産そのものが価値を失ったのではない。不動産を取得した時の価値から不動産の価値が下がったのに過ぎない。問題なのは、不動産を取得した際の債務との乖離が生じたことなのである。その為に、債務に対する返済圧力が加わったのと、含み損が派生している状態なのである。故に、片付けなければならないのは、不動産担保の裏付けを失った債務の処理なのである。不良債権を処理しろと言う圧力を加えたところで、債務処理が片付かなければ問題の解決はつかないのである。これなどは、間違った情報が処理を困難にしている好例である。

 言葉は、言葉を前提としている状況や条件によって意味が違ってくる。意味とは働きである。良い例が、カルテルや、統制、不当廉売である。使い方を間違うとその正しい意味が伝わらなくなる。一番、困るのは、前提を確認せずに決め付けてしまうことである。

 カルテル、統制、不当廉売は、悪いと決め付けている人が多いが、カルテルの何が悪くて、統制のどこが悪いのか、また、不当廉売は、なぜ、悪いのかを明らかにしない。その為には、カルテルや、統制、不当廉売には、どの様な働き、作用があり、それがどの様な効能、あるいは、弊害があるのかを明らかにしておく必要がある。ただ闇雲に、カルテルは、悪い。統制は悪だ。不当廉売は駄目と言って筋が通らない。あるいは、規制は悪い。競争が絶対だと言ってもはじまらない。問題の解決には繋がらないのである。
 カルテルも、統制も、不当廉売も状況の為せる業であり、設定条件が違えば、カルテルは提携、協定となり、統制は、産業保護となり、不当廉売は、自由競争になる。
 肝心なのは、どの様な状況において、どの様な政策をとるかなのである。薬も使いようによっては毒になる。毒も使いようによっては薬になる。薬には、副作用がつきものである。大体、薬は、常用する物ではない。
 必要な政策を、必要な時に、有効な状態にして使用することが肝心なのである。

 経済政策を決定するにあたって、何をもって是とし、何をもって非とするのかを言うのならば、どの様な状態を是とし、どの様な状態を非とするかを問うべきなのである。そして、どの様な状態を是とし、どの様な状態を非とするかは、前提に基づくのである。
 そして、その前提は、目的と必要性に帰すのである。水を沸騰させるのは、それ自体が目的なのではなく。卵を茹でるといった目的に応じるのである。水を沸騰させる事が是か非かは、その意図するところによって決まる。
 競争が是か非かは、競争をさせる目的によって判断すべきであり、競争は絶対だとするのは、一種の信仰である。

 過当競争と言い、また、寡占、独占というのは、市場の状態を言うのである。その是非は、一概には決め付けられない。何をもって是とし、何をもって非とするのかは、その前提条件に依るからである。
 そして、その前提条件と状態に応じてどの様な政策が妥当なのかを決定すべきなのである。

 競争状態の長所、欠点、あるいは、状態の特性を正しく理解した上で、どの様な状況下において、どの様な競争が、是か、非かを、論じるべきなのである。一律に競争は、正しいとか、反対に、競争は悪いと断定してしまうことは無謀、無定見である。

 規制を緩めて競争を煽るのは、市場を活性化するためである。規制を強め、企業同士の提携を促すのは、競争を抑制すべき状態だからである。その前提とするところ、状態が明らかにされなければ、その判断が妥当、適切であったのかの見極める事は出来ない。

 ただ、言えることは、市場が完全に均衡した状態は、市場の活力が失われた時だと言う事である。そして、競争も、提携も放置しておけば、市場は完全に均衡し、行き着くところは、市場の停止、終焉だと言う事である。

 何でも、かんでも、規制は間違いだから、緩和しろ、極端に言えばなくしてしまえと言うのは乱暴である。逆に言えば何でも、かんでも、規制してしまえと言うのは、暴論である。
 重要なのは、どの様な状態に置いて、どの様に市場を規制すべきかである。時代にそぐわなくなった規制はなくすべきだが、新しく生じた不具合は規制すべきである。
 肝心なのは、市場の状況を正しく反映した情報なのである。そこに、情報の開示の必要性がある。

 機械装置の制御や操作を神の手に委ねるのが、いかに愚かな行為であり、また、危険な行為かは自明である。しかるに、人間は、市場という持っても危険な仕組みを神の手に委ねようとしている。それは、かえって神を冒涜し、責任を神に転化しているのに過ぎない。人間は、自らの行いに対して責任を持つべきなのである。



                    


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