普遍主義・一般化
普遍と言う事の意味
世界で誰が一番金持ちなのかを考えてみると、意外なことに気がつく。それは、一番の金持ちは、実は、一番金に無縁だと思える宗教団体ではないのかという事である。宗教団体の金はあまり表に出てこない。ただ、いろいろな地方や国を旅して気がつくのは、その地方で一番良い建物は、神社仏閣か、お城だという事である。いくら金持ちだと言っても商人の建物などしれている。
それに、世界で有名な観光名勝の多くも宗教関連である。この様に見ると宗教団体というのはかなりの金持ちのようである。
考えてみると宗教教団ほど、経済的に効率のよい組織はないのかもしれない。その証拠に、世界で最も多くの富を築いているのは、宗教である。中には、国家以上の資産を持っている団体もある。
宗教が、経済的である理由の一つに、宗教が超俗的であることあげられる。宗教が経済的なのは、本質的に世俗的経済価値を超越しているからである。これは、逆説明的に聞こえるかもしれない。宗教は、経済的でないが故に、経済的効率的なのである。
そして、経済的であるが故に、宗教団体は、常に、世俗的問題から逃れられないのである。
この事を宗教的指導者が気がつくと、存外、宗教を土台とした効率的な新しい経済体制というものが築けるのかもしれない。
現に、宗教団体の中には、社会主義的なもの、共産主義的なもの、共同体的なものが連綿として生き続けいるのである。しかも、それらの組織が有効に機能するのは、それが宗教的なものだからである。また、アメリカという国を作り上げた組織も、また、アメリカの経済体制の礎を築いた組織の多くも、宗教的な組織、あるいは、宗教を土台とした組織、宗教団体そのものだったりする。
むろん、宗教的指導者が、真の宗教的指導者であることが前提となる。信仰の問題である。宗教が経済的であり得るのは、宗教的指導者が無欲だからである。金儲けのために、信仰を利用するような教祖は、一時的に金持ちになれるかもしれないが、理想的な経済体制は、築けない。
宗教が、なぜ、経済効率が良いのか。それは、経済が普遍的な存在に根ざしているからである。普遍的な存在に根ざしているから、経済の本質が見えてくる。
経済を欲望の結果だと考えている者には、無欲なるが故に、経済の効率が高まるという道理は見えてこない。資本主義経済を推進してきた者達の多くも自分の欲望を充足するために、働いてきたわけではなく。むしろ、勤勉で、禁欲的だったからこそ、資本主義的に成功したとも言える。労働に人生の意義を感じ、一生懸命働いた結果、富が蓄積された。逆に言えば、今日の資本主義の行き詰まりの原因も見えてくる。資本主義は堕落した。それは、人間が、欲望に溺れて、経済の実相を見失ったからである。
貨幣に囚われるから、貨幣の本質が見えてこないのである。
あげくに、金のためならば親でも、子でも、モラルも、仲間も、国も売る。経済こそ、道徳的でなければならないと言うのにである。
第一に、経済的価値の本源が問題なのである。
我々は、真の経済的価値を取り違えているのではないだろうか。つまり、経済の本質を理解していない。経済的価値を理解せずに、経済を理解していると思い込むことの方がおかしいのである。
我々は、一旦、貨幣的価値にとらわれると金銭感覚から逃れられなくなる。豚に真珠と言うけれど、豚にとって真珠は、真珠でしかない。真珠以下でも、真珠以上でもない。彼等にとって生存に必要でなければ、無価値なのである。
豚にとって金は、金としての価値しかない。仲間と諍い、殺し合うほどの価値は、金にはないのである。猫にとって小判は、小魚ほどの価値もないのである。
猫は、自分の餌やテリトリー、家族を守るとき以外、争ったりはしない。猫は、小判のために、仲間の猫を殺したりはしない。猫は、王侯貴族にも、資本家にもなりたいとは想わないだろう。
そうすると、豚と人間、猫と人間、真珠の本当の価値を知っているのは、どちらなのであろうか。
生きる為に必要だから、働き。生きる為に、必要だから、金を稼ぐのである。金のために生きられなくなるのであれば、金など必要ではない。
人は、パンのみに生きるにあらず。
この点、宗教団体は、貨幣価値を本質的なものと見なさないが故に、物の価値を理解しているとも言える。翻って言えば、貨幣価値に気が付き、貨幣価値の効能に目がくらんだ宗教団体は、金銭にとらわれ、執着した時から堕落する。だから、宗教団体は、経済的でないが故に、経済的なのだというパラドクスが成立してしまう。
宗教団体は、無欲であるが故に、経済の本質に則っているのかもしれない。経済というのは、欲の為せる結果だと思われてきた。しかし、考えてみれば、禁欲的で、勤勉、しかも物を大切に使えば、豊かになれないはずがない。つまり、経済的なのである。
ただ、それだけで、豊かさを持続するのは困難である。もう一つ、重要なことは信仰心である。つまり、神の存在である。神に感謝し、労働の成果を神に捧げることを無上の喜びとするならば、経済的にならざるをえない。
本来この世に与えられた物は、神の恩寵なのである。故に、日々、神に感謝し、大切にする。それが経済の本質である。つまり、上っ面に現れた経済活動の背後にある物、そこにこそ、経済の本質が隠されている。
科学も同様である。現象として現れている事象にとらわれることなく。その背後に隠された法則や真理を導き出すことによって、より多くの潜在的な可能性を引き出すことが出来る。目の前の現象ばかりに目を奪われると、物事の本質を見失ってしまう。
現代の経済は、経済現象の背後にある真実を見ようとせず。ただ、上っ面の現象にとらわれ、対処療法的な手段、施策に終始するから、いつまでも、経済を克服することが出来ないでいる。
仮説の根底をなす命題の正当性は、一般性に求めるべきであり、特異性に求めるべきではない。その前提には、了解可能性がある。それに対し、経済学の根底をなす命題には、得意なものが多すぎる。その典型が、ホモ・エコノミストである。経済学は、人間の生業を基礎とした学問である。だから、人間に対する透徹とした洞察が要求される。そして、そこで描かれた人間像に、多くの人の共感があって成り立つ。それこそが了解可能性である。また、そこに経済の本質がある。人間は、時として、特に、経済的問題に関しては、不合理な判断をする生き物なのである。
奇蹟とは、海が割れたり、死者が生き返るようなことを指すのではない。真の奇蹟は、毎日、太陽が昇り、また、決まった時刻に日が沈んで夜が訪れるような、当たり前なことが、当たり前に起こる事である。また、それが信じられることこそ奇蹟なのである。
一般化や普遍化の実もそこにある。誰もが、それを当たり前だと感じ、それを不思議だと感じなくなった時こそ、その事象は、一般化され、普遍化されたのである。
我々は、金があることが当たり前だと感じている。一般的だと感じている。金が使えるのも当たり前だと思い込んでいる。しかし、それこそが奇蹟なのである。
つまり、それは信仰の一種である。誰もが当たり前だと感じ、信じている。そのことが重要であり、それ故に、市場経済も貨幣経済も成り立っているのである。ただ、誰もそのことを不思議だとも思わないし、感謝もしない。それ故に、貨幣経済も、市場経済もその効力が薄れてきたのである。
経済とは何か。それは、生活である。生きていく為の生業である。そして、文化なのである。経済の仕組みは、日々の当たり前な生活を維持するためにこそ意味があるのである。
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