普遍主義・一般化
不変という事
今の世の中は、変化が激しい。激動の時代である。最近の金融危機を見ていると最も、世界で優秀だと讃えられた経営者が天文学的な損失を出して会社を倒産させてしまったり、ノーベル賞を受賞した学者がその理論に従って行った事業で世界経済を揺るがすような損失を出したりする。本当に一寸先は闇である。まことに、驕る者、久しからずである。昨日の英雄も、今日は、敗残者となり、今日の敗残者も明日は勝者となる。
空前の利益を上げ我が世を謳歌していた投資銀行の多くも金融危機の中で淘汰されてしまった。
原油価格や食料価格、住宅価格の乱高下は、実生活を直撃し、また、企業業績が悪化すれば多くの費とが職を失い、人生設計を狂わせ、生活が破綻する。
産油国の政変も決して遠い国の話ではなくなった。
為替や石油価格の急激な変動は、産業に壊滅的な打撃を与えかねない。戦争や災害と言った物理的現象だけが世の中の変動要因ではなくなった。むしろ、経済的現象の方が戦争や災害と言った事件よりも人々の生活に決定的な変化をもたらす。
先が読めなくなると人間は、刹那的になる。それまで計画的に送ってきた人生も社会の変動の前に崩れ去ってしまと、長期的な物の見方が出来なくなる。結局金だけを頼りに生きるようになる。
変化は、人々の価値観すらねじ曲げてしまうのである。変化が激しいという事は、明日をも知れないという事を意味するのである。それは、人々に絶え間ない緊張を強い、変革を強要する。
その結果、人々は、明日を信じなくなり、刹那的快楽に溺れ、他人を顧みなくなる。自分さえよければ、今さえよければ、後はどうなってもいいという考えな陥りやすくなる。自暴自棄になりやすい。公を蔑ろにし、私の世界に閉じこもる。自分だけが頼りなのである。他人のことなどかまっていられない。例え、それが親子、兄弟でも。神も仏もありはしない。だから、守るべき道徳など欠片もない。金さえあればいいのである。金さえあれば何でも好き勝手なことが出来ると思い込むのである。
この様な価値観の変化は、合成の誤謬を引き起こす。サブプライム問題の背景には、この様な価値観の変化が隠されている。
それが市場である。共同体ではない。市場にベース、根本を置くからそうなるのである。市場が悪いわけではない。市場の役割を見失っていることが悪いのである。
市場は変化を基礎とし、共同体は変わらないことを基礎としている。市場の基準は目まぐるしく変わるが、共同体の基準、道徳は、恒久的である。世の中には、変わり続ける部分と恒久的な部分があるのである。そして、それらを結び付けている仕組みや道理は以外と簡単な物である。
変化にあって変わらないものは何か。その見極めが出来ないから、変化に流されるのである。変化は、不変的なものに支えられている。その根源にある存在するのは神である。
不変なる存在は神の側にある。人間が不変なるものを操れると考えた時から破滅は始まる。神の名の下に自らの行為を正当化するものが出た時に、人間は、傲慢さの頂点を迎える。
市場や貨幣を神格化する者達が市場を終焉させるのである。今の市場は無法である。それはその根源に市場の目的が忘れられているからである。市場は金儲けの具ではない。
道徳というのは、難しい事柄ではない。しかし、その簡単な道徳に従うから、世の中の変化に対応することが出来るのである。その道徳の本質は不変的な道理、戒律である。人を殺したり、人の物を盗んだり、壊したり、嘘をついてはいけない。
公共投資は、本来の目的は景気対策にあるわけではない。その点を忘れてしまうと公共投資は本来の機能が失われてしまう。開発は、開発を目的として為されるものではない。本来の目的や機能が失われると、公共事業は、形骸化して弊害が発生する。景気対策は、二義的なものであり、公共投資は、国家事業がその前提となっていることを忘れるべきではない。
この様に、変わっていい部分と変わってはならない部分がある。例えば、公共投資の根本にある国家構想は、変えるべきではないが、その運用は状況や環境の変化に合わせて変える必要がある。
標準化は、多様性を前提とした上での標準化である。基礎構造部分の標準化を意味する。標準化は均一化、均等化を意味するのではない。
街の料理屋を考えればいい。料理屋の根本、基本的機能は変わらない。つまり、標準化すべき事は内在化している。外見まで統一してしまえば、その本質は失われる。料理の基本は同じでも、味は多様であるべきなのである。更に言えば、料理を食べる空間や環境も多様であるべきなのである。全てを統一するのは、一見、効率的に見えて、実は、非効率なのである。
標準化すべきは、倫理観であって人生観や世界観ではない。また、生き様でもない。人の一生は千差万別である。それは内面の行動規範である。それは十善に如かずなのである。
人間は、元来保守的な生き物である。変化をあまり好まない。なぜならば、あまりに激しい変動は、人生設計を狂わせるからである。また、それ以前に人生設計が出来なくなるからである。経済的には、借金が出来なくなる。必然的に無計画で、無軌道、刹那的な生活を強いられることになる。そうなると社会を組むことが出来なくなり、社会生活が営めなくなる。つまり、共同体が形成できなくなるのである。
多くの経営者何も好き好んで財テクに走ったのではない。本業で儲からなくなったから財テクに走ったのであり、
急激な円高によって本業で儲からなくなりその分財テクで儲けようとした。そのうえ、事業継承問題が重なる事によってバブル発生の下地が作られたのである。
変化が利益を生むのか。利益が変化を求めるのか。市場経済においては、変化が利益を生む。しかし、それは市場においてであり、共同体の利益はまた別の所にある。市場の利益は、需要と供給の関係から生み出されるが、共同体の利益は、労働と分配から得られる。それを仲立ちするのが、所得と消費である。
諸行無常。世の中の動きは、とどまることを知らない。万物は流転する。変化して止まない。変易。しかし、それでも変わらない部分がある。不変的法則がある。不易。また、よく観察すると、物事の本質は、以外と単純なのである。簡易。易簡。
現象の背後には、変化する要因と変化しない要因がある。変化する要因を変動要因と言い、変化しない要因は固定要因と言う。
現象は変化し続ける。激しく変化する現象を見ていると複雑怪奇である。しかし、一見複雑に見える変化も、不変的な法則や固定的な部分に依拠していて、その仕組みや原理は、簡明な場合が多いのである。
規則的な変化には、短期的な周期の変化と長期的な周期の変化がある。
時間は変化の単位である。故に、変化には、時間が重要な役割を果たす。つまり、変化は時間の関数である。
また、変化は運動である。運動にも、規則的な運動と不規則な運動がある。規則的な運動も時間的に規則的な運動と違う要因、例えば、形相と言った要因で規則的な運動がある。
変化には、その変化を引き起こす原因、要因がある。その要因の多くは、不変的な力や作用である。不変的な力や作用というのは、場に働く力や仕組みによる作用という点で不変的なのである。不変と言っても相対的であることに変わりはない。場の状況や仕組みが変われば変化する。
変化と言っても予め予測のつく規則的、あるいは、周期的変化ならば問題はない。無規則で、何の前触れもなく起こる急激な変化が問題なのである。
近代社会を成立させた要素の中で以外と見落とされているのが賃金制度、給与制度の確立である。給料生活者の出現は、画期的なことである。長期的、安定的に一定の所得を保証されたという事が、借金を可能としたのである。そして、それが借金の技術を発展させたのである。
それは、人間のライフスタイルも一変させた。将来がある程度予測できるようになれば、いろいろな計画を立てることが可能となる。予定が立つのである。それは人を安心させる。自分の人生を計画的にすることが可能となったのである。
人生に時間という座標軸を組み込むことが可能となったのである。
この様な給与体系や賃金体系は、市場の論理によって貫かれていたわけではない。共同体の論理の方が強かったのである。
陽中に陰あり、陰中に陽あり。何事も、極めると反対方向に動き出す。行きすぎれば、また還るのである。大切なのは均衡である。
近年、社会風潮としては、変動を常態と考える様に変化してきたように思われる。変化があるから利益が上がると言うように考えるようになってきた。つまり、社会は変化を求めていると考えられてきたのである。しかし、人間は、本来、保守的なのである。先の見えない状態には、耐えられないのである。それなのに、社会は変化を求めている。そのジレンマが現代社会の病巣である。なぜ、社会は変化を求めざるを得ないのか。
その背景にあるのは、共同体の崩壊である。そして、皮肉なことに給料生活者の出現が共同体の崩壊を促進し、変化を呼び戻したのである。つまり、給与所得は、人々の生活を安定化させた反面、共同体の解体を進めてしまったのである。その結果、社会はまた不安定な状態に逆戻りしつつある。
給料生活者の出現は、大家族から核家族へと変化させ、都市の拡大を促した。その結果、社会は流動化して変動的に変わってきたのである。
金融市場も過剰流動性が、流動性の阻害要因となっている。この様に過剰な流動性は、却って流動性を悪化させる。
情報の非対称性が利益の根源にあり、経営のコアの部分は共同体であり、人件費がネックである以上、情報の公開には限界がある。
共同体の機能を無視して全ての情報をあからさまにしてしまうと、共同体は、利益を確保することが出来なくなる。共同体内部の基準は必ずしも損得だけではないからである。
一体、人間は、安定を欲するか、変動を望むか。
変化が人を成長させ、不変なるものが生活を安定させる。大切なのは、その均衡にある。
人の一生は変化に富んでいる。一日の内にも朝昼晩の変化がある。一年には、春夏秋冬があり、人の一生にも幼児期があり、思春期があり、青春があり、壮年があり、熟年、老成がある。一人の人間の変化は、小さな変化である。しかし、それが寄り集まって経済や歴史の大きな変動の周期を作り上げている。現象は変化である。変化によって認識される。変化がなければ、時間の流れを知る事は出来ない。自分の存在を知る事もない。まことに人の一生は変化に富んでいる。
しかし、変化に富むと言っても変わらないものもある。それは人の思いであり、情である。生きていると言うことである。そして、自分を生かしてくれている存在、その存在は、明々白々なのである。
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