標 準 化


単位化

 標準化で重要なのは、単位化と単位の統一である。

 単位とは、一定の基準を満たす一つの塊と言っていい。また、単位は、部分である。つまり、単位が成立するためには、単位を集めた全体の存在が前提となる。単位とは、相対的な基準である。

 単位は、基準や尺度の部分を構成し、単位が集まり、分類されて、一定の基準や尺度の前提が構成される。

 単位は、比較を前提として成り立っている。標準化するためには、基準が必要である。基準を構成する部分が単位である。基準も、単位も、原則的には、任意なものであり、定義によって定められる。

 一つの単位は、全体の部分を構成する。部分が、集合して全体を構成する。単位は、全体としての関係で決まる。単位は、対象の位置を確定する。それによって、対象を測ることが可能となるのである。

 何等かの前提や条件の違いによって固有の単位を設定されるものを個別単位という。それに対して、一定の前提によって共通して用いられる単位を普遍単位という。普遍単位の成立が、近代社会が成立するための基礎的要件でもあった。

 単位には、組み合わせることが出来るものがある。

 尺度や基準は、認識の基盤を構成する。認識の基盤は、意識の枠組みを構成し、行動規範を支配する。尺度や基準は、人間の生活や人生を意識の上で規制する。故に、重要なのである。
 我々は、無意識のうちに一定の尺度、基準に従って世界観を構成している。それが定性的な体系が法であり、定量的な体系が尺度である。

 現在の日本の家屋は、メートル法を基準とし、一部、尺貫法が生きている。しかし、大枠は、メートル法の世界で生きている。
 また、暦は、太陽暦に従って生きている。我々は、無意識のうちにこれらの単位を受け容れ、その枠組みの中で考え、生活している。
 時間は、十二進法が基準である。週は七進法である。尺度の多くは、十進法を基本とするが、必ずしも十進法でなければならないという事はない。むしろ、単位の基礎は、実生活にあると言っていい。なぜならば、単位は、生活の必要上生まれたものだからである。故に、単位の在り方は、深く経済に関わっている。

 貨幣の単位は、十進法で、日本では、円であり、アメリカではドルである。

 単位には、全体を構成する最小限の要素、部分という意味もある。

 経済構造の単位は、家計と、企業と、財政である。つまり、一つの共同体を、一つの単位とする。もう一つの単位が個人である。
 なぜ、家計と財政、企業が経済体制の単位化というと、その基盤となる、家族、経営主体、国家が、共同体の最小単位だからである。そして、家族、経営主体、国家、個人が、市場構成する最小の要素だからである。市場の最小の要素というのは、所有権が帰属する最小の要素であることも意味している。

 経済単位の中では、企業収益が家計や税収の柱となるのであるから、企業収益が柱となる。

 現代人は、企業が経済の最小単位であることを忘れている。その為に、企業の内部に資金や資産を残しておく必要性を認めようとしない。その典型が、現在の企業会計である。企業が内部留保を積むことは罪悪だと考えている。その為に、企業は、痩せ細って体力をなくしているのである。しかし、企業は、景気の変動を耐えて雇用を確保し、納税の義務を果たし、尚かつ、将来への投資をし続けなければならない。可能な限り、企業の内部に体力を温存しておかなければならない。

 資産の持つ信用限度一杯に借入限度を設定した場合、資産の下落が、即、資金繰りに影響をする。しかし、今日の会計や税制は、内部に資金や資産を保たれない様な仕組みに出来ている、つまり含みが持てない仕組みに出来ているから、結局、借入限度額一杯まで負債を高める結果にならざるをえない。それが、資産の下落局面で資金繰りを圧迫するのである。
 現代の経済はあまりに余裕がない。

 現代資本主義は、崩壊の危機にさらされている。それは、基本単位に狂いが生じていることが一因である。企業を単位とする共同体の規模が巨大化している。その為に、企業が共同体として機能しなくなってきている。反対に゜、家計の中に市場が入り込んでいる。その為に、共同体という単位から個人という単位に置き換わろうとしている。しかし、個人という単位では、社会的機能が低下することになり、社会の一員として生活と関わる部分が、薄くなる。それが、疎外感を生み出しているのである。

 個人が経済単位となると所得は全て個人に帰属することになり、社会的な経済は成り立たなくなる。労働も、属人的な部分は削ぎ落とされ、単に、時間と単価によって計算されることになる。そうなると、個人としての自己実現も意味をなくす。労働は、単に機械的な行為でしかないのである。

 共同体に人間関係があるから、経済にも人間関係が反映するのであり、個としての人間に全てを収斂してしまうとこの人間としての関係が保てなくなるのである。故に、経済の最小単位は、基本的に共同体におくべきであり、補助的な個人という単位を用いるべきなのである。




                    


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