開放主義


資本の実体


 資本とは何か、これがとても悩ましい問題なのである。

 資本と一口に言うが、今日的な資本という概念は、市場経済や貨幣経済、会計制度の発達とともに長い間かけて形成されてきた概念である。その意味で資本は、歴史的産物であり、何等かの思想的な背景があって成立した概念ではない。故に、資本主義といっても統一的な思想体系があるわけではない。現在の市場経済や貨幣経済、自由主義体制が形成している状態を資本主義体制として一括りしているのに過ぎない。
 ただ、実際的な意味では、会計的な概念によって規定されているのが実態である。
 その証拠に、会計的な概念によって処理されていない空間、例えば、財政や家計においては、資本という概念は、成立していない。

 資本の概念は、資本主義の核となる部分である。資本主義の核となる概念である資本の概念が会計的概念だと言う事は、資本主義は、会計主義とも言える。

 資本というのは、家計で言えば私有財産から借金を引いた残高に相当する部分である。つまり、資財、資産財産である。では、財産と資本とは同じ物かというと、資本と財産は違う。
 会計上で言う資産と家計で言う財産とは別である。そして、それが資本主義が成立する以前の経済の姿なのである。

 会計制度上における資本には、第一に元という意味がある。第二に、差という意味がある。第三に、信用、第四に、保証、第五に、保険、第六に予備、第七に、準備、第八に、留保、第九に、蓄積、第十に、余剰、第十一に価値、十二に、所有という意味がある。
 そして、これらの意味は、資本の算出根拠、あるいは、前提となる。
 元というのは、出資額を意味する。差は、純資産や企業価値をの根拠となる。元という意味は、元金、元本という意味があり、金銭的に固い部分、絶対額をさし、取得原価主義、総額主義に基づいていると見なせる。差とは、非貨幣的あるいは、時価主義という意味もある。つまり、相対的価値、純額主義である。
 信用、保証、保険が意味するところは支払い能力を意味する。何に対する支払かというと、投資家、債権者、仕入先、従業員、納税に対する支払保証である。また、信用、保証は、債務の根拠となる。つまり、支払い能力は、借入を裏付ける。
 留保や蓄積、余剰は、利益を根拠とする解釈であり、同時に取り分を示唆する。利益が意味するところは成果でもある。
 準備、予備、留保は、事業の継続の原資を意味する。
 準備とは何に対する準備かというと支払準備であり、清算、更新、年金、退職金と言った長中期的支払や為替の変動、原材料の高騰、景気の悪化と言った非常時、緊急時、臨時などの短期的、一時的な資金に対する準備である。準備に積立金という意味もある。
 価値とは、企業価値を意味する。つまり、株の取引価値、株の時価総額、企業の合併、買収、また、清算価値のような価値の算出根拠である。
 資本を性格付ける要素の一つが所有権である。経営主体から所有権を抽出し、独立させて所有権者を部外者、即ち、所有権の所在を外部に設定した点にある。この事によって、所有権と経営権が分離し、資本が独立した概念として成立したのである。
 そして、これらが、資本の意味を資本金、資本(純資産)の部、純資産、株の時価総額、総資本などの解釈の違いになる。

 資本の意味は、生産手段の所有権と経営権の問題に帰結する。

 生産手段の所有の在り方が、自由主義、社会主義、共産主義の言った経済体制の違いである。資本主義の特徴の一つは、生産手段の所有権と経営権を分離した点にある。資本というのは、生産手段の所有権を意味する場合もある。
 言い換えると資本の在り方が、国家の形態を規定しているとも言える。

 現実の経済は、混合経済がほとんどである。純粋の自由主義経済や社会主義経済、共産主義経済体制というのは、ほとんどみられなくなった。自由主義のメッカであるアメリカでさえ、銀行や民間企業の国有化が俎上に上がっているくらいである。
 旧共産主義圏のロシアや中国でも企業の再国有化が検討されるようになった。
 異質な要素が混在しているから市場は、機能するのであって、同質な要素だけに占められ純化されると市場は偏ってしまう。定常的状態に陥り活動が停止する。

 経営者が、生産手段を所有する形態、生産手段を借りる形態、生産手段を委せられる形態がある。
 生産手段を委せられるというのは、雇用されることを意味し、予め決められた、あるいは合意した基準によって報酬が支払われる形態を意味する。
 つまり、資本の在り方は、雇用の形態をも決めてしまう。この点は以外に見落とされているが、資本の在り方、所有者によって雇用、即ち、分配の手段が確定する事にもなるのである。
 純粋の資本主義というのは、使用者と労働者が分離された分配構造に収斂させたる事を目的としている。それが資本家と労働者、資本家と経営との分離にも結びつくのである。この資本家が国家に置き換わった形態が国家資本主義である。そして、国家資本主義の形態は、社会主義や共産主義にも結びついていくのである。
 それに対し、自由主義というのは、本来、経済的に自立した個人、つまり、個人事業を基盤として経済体制を指して言うのである。
 自由主義が資本主義と共存できるのは、資本主義が未成熟で個人事業が成立する市場においてだけである。必ずしも自由主義と資本主義は同じものではないと言うことを忘れてはならない。

 経営者に求められるのは、一つは、組織運営者の側面であり、もう一つは、組織設計者の側面である。それは、組織形態の在り方が企業経営の在り方を規制するからである。同様のことは、国家についても言える。国家の為政者は、国民から委託を受けた、いわば経営者と同じ立場にある。国家の所有権は、主権者にある。そして、国家経済の仕組みを規定することは、国家経済の有り様を決定することに繋がるのである。ただ、企業経営と財政と決定的に違うことは、財政には、資本という概念がないことである。

 混合経済だと言う事は、家計と財政という資本概念を持たない経済主体と企業という資本概念に基づく経営主体が混在していることからも言える。
 つまり、純粋な資本主義というのは、現時点では存在しないのである。

 財産というのは、経営権と所有権が一体である。資産は、必ずしも経営権と所有権が一体だとは限らない。
 経営権というのは、その財を自由に運用する権利である。家計では、自分の財産は、自分が所有権を持っているから、自由に運用して、処分することが出来る。しかし、会計上では、経営者と所有者は、一体ではない。別である。例え、同一人物だとしても経営主体と所有主体は、別人格と見なされる。つまり、財産は、自分の物だと主張できるが、資産は、自分の物だと経営者は主張できないのである。
 つまり、家計や財政の所有者は、家計や財政の内部に存在するが、企業では、資本の所有者は外部にいることになるのである。

 つまり、資本主義が成立する以前では、経営者と所有者は一体のものとして見なされていたのである。必然的に、経営者は、経営上の失敗に対し、全責任を負っていた。全財産を質にしていたのである。だから、事業に失敗すれば、全財産を失ったのである。財産という概念には、私的所有権が不離不可分に存在する。それに対し、資産は、所有権は、個人に属さないのである。

 かつては、家屋敷とある程度の財産があれば、食べていけた。しかし、現代は、家屋敷や財産があってもそれだけでは生きていけないのである。それは、財産の持つ意味が違ってきたからである。現代では、財産は、資産であり。資産は、債権であると同時に債務でもあるのである。
 財産という考え方は、現金主義的な考え方なのである。つまり、現金によって財産を取得したときに取引の全ては完了し、清算される。それが現金主義の考え方である。ただ、それは、常に、現金取引を前提としてしか成り立たない。つまり、手持ちの現金の量が限界なのである。それに対して、実現主義は、現金の授受がなくても実質的に財の交換が成立したと認識されれば取引が成立したと見なす。現金の授受は、多少時間的にずれても良いのである。つまり、実現主義は、取引の認識、即ち、債権と債務の発生をもって取引が実現したと見なす思想なのである。つまり、資産とは、債権と債務の成立を意味するのである。そして、取引は、常に、現金をかいして、現金と同量の債権と債務のが発生するのである。その債務と債権は、現金決済において解消される。
 しかし、通常、資産は、負債によって賄われるために、所有権があると言っても同量の負債を持つことが前提となるのである。
 しかも、この負債の返済は、約定をもってなされ。いくら、返済資金を稼いでも期間損益上においては解消されない仕組みになっている。言い換えると、返済資金があってもそれを借入金の元本の返済に充てると資金繰りがつかなくなることがあるのである。つまり、資産は、借金の裏付けによって存在する。それが財産と資産との違いである。

 資本を考える上で、減価償却を理解することが重要である。減価償却は資金の動きにも重大な影響を与えている。
 減価償却費というのは、資金流出のない費用という見方があるが、これは間違いである。減価償却費は、資金の流出を伴っている。ただ、その資金流出が期間損益の費用という形で認識されないと言うだけである。
 減価償却費の相対勘定、即ち、実際に費用流出を伴う勘定が損益上において認識されていないと言うだけである。
 相対勘定がなぜ、損益上で認識されないかというと、相対勘定が資本勘定と負債勘定だからである。つまり、減価償却費として処理されている取引は、直接、負債勘定や資本勘定から差し引かれていることを意味する。これが、会計上、資金の動きを見えにくくしているの原因である。
 減価償却に対応するのは、長期資金の動きである。
 長期資金の基本は、長期借入金の元本の部分であり、資本である。ここに資本の実体がある。長期借入金の元本というのは、負債と見なされるが限りなく資本に近い性格を持っている。翻ってみると資本というのは、長期借入金の元本が変質した部分とも言える。この長期借入金が負債の基幹を形成し、負債の性格を規定している。 長期借入金がなぜ、資本化したのかと言うところに鍵がある。長期資金の元本は、本来、固定的で変動が長期わたる部分である。
 借り手側からみると、返済することが出来なくなった負債、あるいは、貸し手側からみると返済されては困る負債が滞留し、資本化したとも言えるのである。金融危機になるとこの負債の曖昧な部分が企業活動に対して負の作用を及ぼす。
 また、償却資産は、費用性資産を意味する。つまり、費用の塊だという見方もできるのである。資産と費用の中間にある灰色の部分という意味である。これは、資本の別の側面も意味する。資本の相対勘定が固定資産だからである。

 資本には、純資産という意味がある。純資産は、総資産から総負債を引いた部分を指す。家計には、総資産という概念がないから、家計と財政には資本という概念が成り立たない。

 家計と財政は、現金主義である。つまり、会計とは思想が違う。会計は、実現主義、発生主義を基礎として成り立っているのである。
 現金主義というのは、現金の出入り、即ち、出納に基づく。それに対し、実現主義、発生主義は、取引による利益の発生を基礎としている。現金主義と実現主義、発生主義の違いはどこにあるのかというと、一つは、狭義の意味での認識の違いである。狭義の意味での認識の違いとは、認識の時点、仕方、基になる物の違いである。
 今一つは、取引に対する考え方の相違である。何を経済的取引が実現した見なすか。これも厳密に言うと認識の問題である。
 そして、最後に、何をもって経済行為の成果、実態とするかの問題である。これも認識の問題である。つまり、現金主義と実現主義との違いは、認識の違いなのである。
 そして、この認識の違いが資本に対する考え方に決定的な差を生じさせるのである。そして、この資本対する差は、国家や経済の在り方にも決定的な要素となるのである。

 資本というのは、元々、貿易をする際、商品以外で貿易に必要な物、例えば、船のような物を一々清算するのが面倒臭いと言うところからはじまったとされる。
 つまり、ここで言う資本財は、船のように恒常的に使用するための資材や設備を指して言う。資本財とは、生産手段であり、生産財と同一されることもある。
 それは、経営資源としては、資本財を購入するための原資、資金的裏付けとしてみなされる。それが、経営資源に対する物的所有権を株主に与える。つまり、資本は、本来は債務である。

 近代的会計制度確立される過程で資本という概念が形成された。それによって財産の持つ意味が変質したのである。

 しかも、資本の概念というのは、必ずしも明確ではない。曖昧な概念である。また、多様な概念でもある。故に、その価値を算出するのも容易ではない。例えば、資産は元金だという考え方がある。資本金とされている部分を指すという考え方である。しかし、最近では、純資産、即ち、総資産から総負債を差し引いた差額という思想である。しかし、総資産も簿価を基準とするか時価を基準とするかによって全く違った数値になる。また、時価もどの時点、また、何をもって時価とするのかの定義によって違ってくる。つまり、統一された明確な定義は存在しないのである。更に、株式の時価総額という考え方もある。時価総額というのは、資本その物の市場価値を意味する。また、利益の株主取り分という考え方もある。
 資本は、株の集合体と見なすのか。それとも一つの権利として見なすのかも議論が分かれている。これは法人という概念にも関係している。
 資本のこの曖昧さ、多様さが、資本主義の揺らぎにもなり、また、柔軟性にもなるのである。何れにしても、資本というのは、ある種の思想である。

 不景気になり、大量解雇やリストラが叫ばれ出すと、これまでの利益はどこへ行った、内部留保はどうなっているんだという声がよく聞かれる。
 しかし、利益は、企業内部に溜め込んでおけない仕組みに現代の会計制度はなっているのである。

 内部留保はどこへ行った。
 財産と資産とは違う。財産というのは、実体的な物である。それに対し、資産は、会計上の概念である。
 資本金というと、なんだかどこかにお金があるのではと考えている人がいる。しかし、資本金と言っても金があるわけではない。資本金というのは、会計上の概念である。内部留保は、資本に含まれる概念である。故、会計上の概念である。

 会計上の概念というのは、必ずしも貨幣的な実体を持たない。会計上の概念というのは、基本的に、均衡と差を基本としている。故に、比率の問題なのである。特に損益は、現金を土台にした概念ではない。資本も内部留保も資産と負債、資本の均衡の中に埋没しているのである。その多くは、未実現利益であり、実現しようとすると目減りするものなのである。また、内部留保というとあたかも内部に蓄積された貯金のように見えるが実際は、何等かの準備金として将来の支出の為に用意されているものなのである。

 会計上で想定される資産価値は、当初は、清算価値だったのである。資産というのは、清算を前提として資本財だったからである。

 しかし、今日、言われる資本の概念は、必ずしも、元手のような資金をさしているわけではない。
 重要なのは、資本それ自体が商品だと言う事である。
 資本は、それが売買の対象とされると収入をもたらす。それは、本質的に収益に相当する。しかし、収入という性格と債務という性格も併せ持つのである。そこに、資本の特殊性がある。
 多くの投資家は、キャピタルゲイン、つまり、資産としての価値を問題として、債権としての価値を認めない。つまり、売買価値を認識しているだけなのである。

 見返りがないことに人間は基本的に投資をしないものである。見返りのない事に何かを費やすというのは、投資とは別の行為である。それは、奉仕である。つまり、返済される可能性のないものに資金を提供することは、基本的にあり得ない行為である。それは、投資ではなく、募金のようなものである。つまり、資本に対する投資というのは、返済ではなく、違う何者かを期待して為されるものである。
 資本を考える場合、投資家は、何を期待して投資をするかが重要なのである。それがある意味で資本の機能を意味していると見なせる。

 つまり、資本の機能を知るためには、投資家は、見返りとして何を期待しているかを明らかにすればいいのである。
 投資家が、見返りとして期待しているのは、一つは、配当である。もう一つは、キャピタルゲインである。そして、今一つは、経営権である。
 資本が譲渡可能だという点が重要なのである。そして、資本市場の成立が、資本の性格を形成していく。
 資本は、当初は、配当を目的で売買されたものである。現実に、高額の配当を出していた。しかし、予定した配当が期待できなくなると、株は、売買益に重点が置かれるようになる。つまり、株そのものが商品としての価値を持つのである。
 商品としての価値とは、売上と同質の価値である。しかも、基本的には、税の対象外である。ただ、資本取引は、損益上には現れない。
 そしてまた、商品としての企業の価値は、市場価値が決める。しかし、それは、必ずしも企業実体を反映したものではなく。需給のによって決まる。

 ITバブルは、所謂(いわゆる)現物の市場による収益ではなく。資本市場の評価によっていた。つまり、貨幣価値という虚の部分に依存していたのである。売上の数十倍、場合によっては数百倍の株価を作り出し、その株価を収益に取り込むことによって成り立っている企業は、企業としての実態は持ち得ない。虚業である。虚業によって産業が、取って代わられれば、実業としての産業は市場から追い出されてしまう。

 今盛んなM&Aの多くも同様の理由による。資本や資産を操作して収益をあげた方が見かけ上は、効率的なのである。

 資本市場が情報に踊らされるようになれば、資本市場は、賭博場と化してしまう。それは、自由主義経済、資本主義経済の堕落である。

 本来は、本業で利益が上がらなければ、経営は、成り立たない。ところが、投機で利益を上げた企業だけが生きのび。本業をしっかり守っていた企業が淘汰されれば、実業が廃れるのは必然的帰結である。
 実業より投機で利益を上げる。投機でしか利益が上げられなくなる。そうなると実業、実物市場から投機的市場、資本市場へと資金が吸い上げられ。実業に資金が廻らなくなる。株で手っ取り早く儲けた方がいいのである。
 だいたい、本業で利益を上げられなくなったから財テクに走るのである。最初から好き好んで博打のような投機にのめり込んでいく経営者は稀である。結局、本業で収益があげられなくなったことが根本原因なのである。それを経営努力の不足として断罪すれば、経営者は投機に走らざるを得ない。それは、社会の責任でもある。
 市場が成熟してくると企業は右肩上がりの収益をあげられなくなる。それに対し、費用は右肩上がりに上昇し続ける。天井が低くなり、床が上がってくるのである。そうなると、資本や資産を活用して収益をあげようとする。それが財テクと言われる手段である。

 情報は、見る者にも責任がある。当然、情報は、それを提供する者に重大な責任がある。有名なコメディアンやキャスターが、自分達が流す情報に対し責任を持つ必要がないと放言している。それを許す言論界も問題である。
 情報を開示する以上、情報の信頼性、品位が特に要求されるのである。

 経済情報の多くが、情報が作り出した幻想であることを忘れてはならない。実体は、情報の背後にある。情報とは、実体、対象から抽象された事象に過ぎないのである。

 貨幣は、仮想的な価値である。つまり、貨幣は、それ自体だけで存在する物ではなく。何等かの貨幣以外の対象を必要としているという事である。資本は、この貨幣価値が指し示す実体が不明瞭なのである。そして、この不明瞭さが資本主義の実体でもある。

 株式投資は、本来の投資という意味からはかけ離れてきている。資本は、投機の対象となり、それ自体が価値を持つようになったのである。そして、企業が本業での利益が頭打ちになった時、資本をいじくることによって収益をあげようとせざるを得ないからである。成長期と違い。成熟期では、技術革新にも限界が生じる。その限界を前提として産業構造を組み立てる必要があるのである。
 そして、それを見極めるために情報の開示がある。決算書は、企業の成績表ではなく。経済の指標となるべきなのである。 

 近代経済が成立する要因となったのは、借金、レパレッジ効果、証券化、会計である。つまり、これらの要素は、現代でも基本的要素であり、サブプライム問題を発生させた要因でもある。
 そして、これらの要素が凝縮されることによって資本の概念は形成された。つまり、資本こそが、資本主義を混乱させている元凶だと言えるのである。
 ただし、これらの要素に共通しているのは、債務としての性格である。

 資本の働きを理解するためには、資本の性格を明らかにする必要がある。資本というのは、返済する必要のない資金というふうに考えられているが、資本は、本来、負債と同じ構造を持っているのである。負債は、元本と金利からなる。資本は、資本と配当からなっている。そして、この元本の部分が、清算時に返済することを前提として資本は形成されたと考えるべきなのである。つまり、返済する必要のない元本が資本なのである。
 しかし、金融危機において最大の負担は、元本の返済である。だからこそ、負債を資本化する必要があったのである。

 資本は、利益の集積という見方もできる。その意味では、資本から派生する金利や配当は、利益によって決済、清算されるべきものだと言えるのである。

 企業経営というのは、儲かるようにしないと儲からない。つまり、仕組み、構造の問題である。企業を取り囲む仕組みが儲かるように出来ていないと企業は収益をあげられないのである。なぜならば、企業というのは、外部環境、外部要素に依存しているからである。企業は、内部構造と外部構造の相互作用によって成り立っている。
 そして、企業が利益を上げられなければ景気は良くならない。企業だけでなく。国家も家計も利益を上げ所得を得られなければ、経済はよくならないのである。
 借金も収入である。故に、無限に借金が続けられるならば、企業も、家計も、国家も継続できる。しかし、冷静になればその様なことが続くはずがない事は誰にもわかる。利益を上げなければ、借金地獄から抜け出せないのである。その為には、利益を上げられる社会構造を築き上げることなのである。





                    


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