自由主義

自由主義について


 人の世には、自由人か、奴隷しかいない。しかし、自由人か、奴隷かは、自分次第であることを忘れてはならない。だから、自由か、隷属かしかないのである。
 良い例が、金である。金を使うのか、金に使われるのかによって金に対して自由であるか、金の奴隷になるかが決まるのである。
 いくら金を貯めたところで、守銭奴は、金の奴隷に過ぎない。

 自分達の生活は、何も変わっていないはずなのに、株価の下落が、人々を奈落の底へ引きずりむ。
 真面目に、正直に働いているのに、何も報われない。その一方で、博打のような商売をして富を築く者もいる。何事も、金、金、金、金次第に思えて成らない。一体、何が、そうさせているのであろうか。
 金さえあれば、何でも自由に出来る気がする。しかし、金を手に入れれば、本当に自由になれるのだろうか。金で手に入れられる自由とは何なのだろうか。

 現代人は、真実を見抜く力を失っている。真実を見抜く力がなければ、自由などえる事は出来ない。いくら自由、自由とがなり立てたところで、それは、虚構に過ぎない。

 自由というと、権威や権力に囚われないことだと錯覚している者が多い。だから、自由人は、反権威、反権力でなければならないと決め付けている。しかし、その決めつけが、そもそも不自由なのである。
 反権威、反権力などと気取っていること自体、権威、権力に囚われているのである。

 人間は、社会的生き物である。社会にあっては、従うか、従えるかの選択しかない。ただ、自由は、従うか、従えるかの問題ではない。その点を誤解してはならない。人に従ったから、組織に従ったから不自由なのだというのは錯覚である。大切なのは自分の意志である。意味もなく逆らうのも不自由なことである。逆に、自分の意志に反して盲目的に従うのは、隷従である。
 忠誠、忠義というのは、自らの意志の問題であり、国家への忠誠と国家への隷従は全く違う。前者は、自由であり、後者は、奴隷である。だから、忠誠は誓いである。

 自由というのは、自己の主体性によって自己実現をする事である。つまり、自分の信じるところによって決断し、行動する事を意味する。
 肝心なのは、自分がどう思うかである。自分の判断が、たまたま、その時の権威や権力に反する場合もあるし、また、権威や権力に従う事になる場合もある。それは、権威や権力に逆らいたくて、あるいは、従いたくて従うのではない。自分の意志がそうさせているだけである。それが自由人である。先ず自分である。だから、自分のない人間には、最初から自由などないのである。

 従うのも自由。従わないのも自由。根本は、自らの意志である。

 良い例が金である。多くの人は、金を自由に出来ると思っていながら、金の奴隷になっている。守銭奴に成り下がっている。金さえあれば自由になれると思い込んで、金の魔力に支配されているのである。
 金は、手段である。金を手にして何をするかが、問題なのであり、金銭を馬鹿にするのも、金銭を崇拝するのも、金の奴隷であることに変わりはない。問題は、金を何に使うかである。そして、その為にどれ程、金が必要かである。幸せになるために、一所懸命働いて金を貯めたとしても、金のために不幸を招いたら意味がない。金を必要に応じて手段として適切に使えれば、その時、金に対して自由といえる。そして、金を大切にすることが、出来るのである。金に対して盲目になった時、人間は、金の奴隷になるのである。
 これは金融危機の根っ子にある。つまり、金融危機は、金に対して盲目になったが故に起こったのである。金が悪いわけではない。金の問題ではなく。人間の問題である。

 金は、贅沢な生活を保障してくれるかもしれない。しかし、ただ、金の力に護られて自分の力で生きられないとしたら、それは家畜と同じである。一見、なに不自由なく生活しているように見えて、それは家畜の自由に過ぎない。真の自由ではない。真の自由とは、例え飢えても自分の力で生きている者にしか与えられない時間である。

 自由を知るためには、真実から目を背けてはならない。目の前にある虚飾を剥ぎ取ると真実は見えてくるのである。
 市場の背後、貨幣の背後にあるものは何か。
 そこにあるのは、人々の生活である。ささやかな幸せを追い求める姿である。本当に自分は何を求めているのか。自分が本当に求めているものがわからなければ自由になりようがない。

 自由にとって不可欠なのは、意志である。意志は、自己善を基礎として発揚される感情である。意志の根源は、理想とそれを実現するのに必要な倫理観である。理想も、倫理観もないところに自由はない。あるのは、欲望であり、快楽である。

 自由とは高貴な精神である。自分の不正や悪逆非道を正当化するような横暴ではない。法を無視し、おのれの我を押し通すことではない。暴力で相手をねじ伏せることでもない。自由というのは、誇りである。制約を克服することにある。スポーツ選手が自由にプレーをするのは、ルールを無視することではなく。おのれの技と肉体を磨き、自分の内に取り込んでしまうことによって達成される。自由とは、スポーツマンシップでもある。

 制約があるから、自由は阻害されるのではない。制約を克服するから自由になれるのである。制約を制約として感じなくなるから自由なのである。
 スポーツは、ルールによって自由になれる。ルールがなければ、スポーツは、最初から成り立たない。自由にプレーをするためには、ルールを自分の内に取り込み、無意識に行動できるようにまでなることである。ルールがなければ、スポーツはただの喧嘩である。

 人は、一度ルールを作るとルールに縛られるようになる。それで不自由を感じたら世話はない。不自由だと思ったら、ルールを変えればいいのである。それがルールである。ルールがなくてもスポーツは成り立たない。しかし、ルールに縛られても自由は成り立たない。結局、その根本にあるのは、人間の意志である。ルールに従うのも人間の意志。ルールを変えるのも人間の意志。そう考えると、自由は人間の意志の中に存在する様に思える。

 日本の学校のように、成績が全てであるような社会では、人格も、何も、全て成績に基づいて判断される。こうなると、成績があって、人格があるようになる。しかし、本質は、その人にある。成績にあるわけではない。

 会計制度は、企業実績を写す鏡である。企業そのものではない。しかし、会計制度確立されると会計制度によって企業の生殺与奪が決められる。しかし、会計制度は、企業経営の実体とは無縁である。企業実体を測る尺度に過ぎない。
 優等生が、成績で人を判断するように、会計制度か定まると企業の実態がどこかへ消えてしまう。そして、決算をよく見せるために、企業経営を犠牲にする様なことが起こるのである。
 それでは、人間は規則に縛られて自由には慣れない。何のために、規則や法があるのか。それは人間を自由にするためである。

 自由は、その人の位置と働きと関係しだいである。お互いがお互いを制約と感じるか、仲間だと感じるかによって違う。

 そして、その位置と運動と関係を保証するのが、法と倫理である。

 人間は、一体何に、不自由を感じるのであろうか。物質的な欲求を満たされないことによるのか。自分の欲しい物が手に入らなかったり、やりたいことが出来ないことであろうか。確かに、物質的なことに不自由さを感じるかもしれない。しかし、本当の不自由というのは、自分の正義が阻害され、貫けないことである。根本は、自分の意志である。自分意志がない者、例えば、自分が何を目標としているのかが解らない者は、不自由を感じる余地が最初からないのである。

 政争に明け暮れている、政治家達には、国家観がない。思想がない。ただ権力を握ればいいと思っている。権力を握った後にどうしたらいいかなど考えてもいない。それは、自由ではない。権力欲に取り憑かれているのである。
 他人事である。商売人には、商業道徳も、道義心もない。金が儲かればいいと思い込んでいる。それも自由ではない。欲望の亡者である。欲望に操られているだけである。

 人間には、他人を騙したり、他人の者を奪ったり、他人を抑圧する自由はない。それは自由ではない。暴力である。

 ただ金儲けのために、道義心も法も無視して傍若無人に振る舞う事を自由とは言わない。それは、自由市場を破壊することである。規律のない市場に自由はない。自由市場は、無法地帯ではない。自由な場とは、無法、無頼が横行する場ではない。無原則な競争を奨励するのは、自由の原理を知らない者だ。市場原理主義者の中には、市場の原理に無知な者もいる。
 重要なのは、国や社会の在るべき姿である。国や社会に対する理想があってこそ、自由市場は成り立つ。

 特に、経済的に自由になろうとしたら、強い意志と信念が必要である。なぜならば、経済的に成功しようと思うならば、欲望と誘惑に打ち勝つ必要があるからである。
 考えようによったら、金の魔力にうち勝てなければ、真の経済的に自由にはなりえないのである。皮肉なことに金は最も強力な武器であると同時に、使い手にとって最も、危険な武器でもあるのである。

 市場経済で重要なのは、市場の規律である。しかも、その規律は、権力によって与えられるものでも保証されるものでもない。市場に参加する者全てによって守られるべき規律である。自由は、与えられるものではなくて、勝ち取るものなのである。名誉のために、名誉の名の下に・・・。

 我々、日本人は、自由か。それは、日本人、一人一人の生き様、意志によって明らかにされる。自らの意志というのならば、それは誇りである。誇りの持てる生き方をしているかによって自由であるか、否かは決まるのである。







                    


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