自由主義


なぜ、企業は儲からないのか。

 なぜ、企業は、儲からないのか。これは、多分に思想的な問題があると思われる。一つは、市民、小市民という存在が、否定的にとらえられてきたという事がある。市民、小市民は、時代の担い手でありながら、常に否定的存在として扱われてきた。
 そして、地代、利子、利潤に対しても否定的だったという事である。
 また、経済は、常に、成長し、市場は常に拡大するという事を前提としている。その上で、物価、所得を常に上昇するものとして設定している。

 自由は、私的所有権の裏付けによって成り立ってきた。そして、その担い手が、個人事業者や中小企業、自作農達であった。ところが現在、個人事業者や中小企業、自作農達の経営が成り立たなくなりつつある。

 市場とは、適正な利潤、適正な利子、適正な所得、適正な税収を実現できる場でなければならない。
 ところが、利子や利潤に対する、一種の罪悪感が市場の機能を誤らせることになっている。我々は、市場に何を求め、何を期待しているのかを明らかにする必要がある。

 なぜ、企業は、儲からないのか。なぜ、儲かっていないのに、企業は経営を継続できるのか。その謎を解き明かす為には、先ず儲けの源泉である利益とは何かを明らかにする必要がある。
 ただ、儲けと利益とは必ずしも同じではない。なぜならば、儲けは、収支からきた概念だからである。しかし、今日では、儲けというと利益を基本的にして考える。また、利益の意味がわからないと、儲けの意味もわからなくなる。故に、儲けの意味を考える時、何れにしても儲けは、利益を下敷きにしているために、利益という概念を明らかにする必要がある。

 利益は、創られた概念である。利益というのは、所与の概念ではない。儲けを明らかにするために創られた概念である。費用も、創作された概念である。それを先ず念頭に置く必要がある。利益というのは最初から決まっているように多くの人は錯覚をしている。しかし、最初から利益というのは決まっているわけではない。例えば、何等かの数学の試験の答えのように、数字を当て嵌めれば、自動的に答えが導き出されるようなものではない。条件や、設定が違えば、導き出される答えは違ってくる。その証拠に、日本の会計基準に従ったら、黒字なのに、アメリカの会計基準に従ったら赤字になったなどと言う例は、往々にして起こる。つまり、利益は創られるのである。

 では、利益は、何のために、創られた概念なのか。それは、収支では説明が付かない事態が発生したことによる。収支では説明が付かないと、投資家に説明が付かない。だから、利益という概念を作って、儲けを説明したのである。と言うよりも、収支は合っていないが、儲かっていると説明がしたかったのである。だから、儲からなくなると、経営者は、利益の意味を少しずつ変えて説明しようとする傾向がある。つまり、利益という概念は、恣意的な概念なのである。
 恣意的という事は、思想だと言うことである。利益とは思想である。だから、現金主義とか、実現主義とか、発生主義だとか、債務者主義、債権者主義、取得原価主義などというのである。つまり、利益に対する考え方は、主義なのである。儲かっているか、いないかは主義の違いなのである。

 利益とは、会計上定められた原則に基づいて計算された収益から会計上定められた原則に基づいて計算された費用を差し引いた差額である。利益とは、会計の原則によって作られた差額である。故に、何を収益とし、何を費用とするかが重要なのである。この収益と費用の概念が、利益計算の基礎である。そして、収益は、実現主義によって、費用は発生主義によって決まる。

 近代になり、運河や鉄道、鉄鋼、電力と巨額の資金を必要とする事業が勃興してきた。この様な事業は、初年度でにおける支出が巨額すぎて収入には見合わない。短期的な収支が均衡することもない。それでは投資家を納得させることができないので、期間損益計算を成立させ、利益概念を確立する必要があったのである。
 つまり、利益概念、同様、費用の概念も創作されたのである。

 つまり、短期的には、収支は均衡しないからである。そこで、支出を費用に置き換え、時間的に平均化、標準化しても期間損益を確立した結果、利益概念が生じたのである。

 利益とは、ある意味で便宜主義的な考え方である。

 利益が資金調達に関わっているからである。つまり、利益は、資金を調達するために発生した、言い換えると方便なのである。
 この点を忘れてはならない。利益は概念であり、何等かの実体があるものではない。だから、利益は、会計的に作られた概念であり、会計的に作られる概念なのである。

 儲かったと言って土地を設備を購入しても結局次期以降の負担を増やすのがおちである。その期の利益から控除できるのは、その期に発生する償却費と金利だけであり、次期以降に、費用負担や資金負担を増やすだけである。不動産は、もっと深刻で、金利部分しか費用化できない。返済資金や維持費が、経営負担として重くのしかかることになる。売却しない限り利益には関係ないのである。しかも、収益は一定しているわけではない。次期以降、儲からなくなると償却費や金利、元本の返済資金が、逆に、収益や資金繰りを圧迫することになる。しかも、売却すると利益の部分は、収益勘定となり、税金が課せられてしまう。
 かといって儲かったからと言って借金を返済するとその期に費用化できるのは金利部分だけでかえって元本を返済すると費用は削減されてしまう。その上、元本の返済は、損益計算上に現れないために、利益は減らない。利益が減らなければ、利益には税金が課せられる。つまり、元本の返済に充てた資金と納税資金が余計な資金負担となり資金繰りが苦しくなる。つまり、借金を返済したが故に、資金繰りが悪くなり、下手をすると資金繰り倒産を招く。

 好、不況は、波のように押し寄せる。景気は良い時ばかりではない。好況時に信用枠一杯に借金をすると不景気に転じたとき、忽ち、逆資産効果が働いて、企業の首を絞める。ところが時価会計は、強制的に信用枠を限度額一杯に使い切ることを強要する。そうなると一旦、景気が後退局面に入ったとたん、負債圧力が産業を押し潰し、反発力を奪ってしまう。

 だから、昔は、景気が良い時は、商売に専念し、不景気な時こそ、設備投資を更新しろと言われたものである。
 つまり、力を蓄える時は、力を蓄えさせるべきなのであり、内部留保に課税したり、また、配当や多額な役員報酬によって社外流失を促すことは、産業の潜在的能力を奪うことなのである。

 儲かっても利益に課税される上、未上場会社は、内部留保にも課税される。それは、未上場会社、同族会社は、悪だという発想に基づいている証左である。

 自前の資金で事業を興した場合と借金、負債によって事業を興した場合、費用的には、金利分しか違いが生じない。償却資産は、自前であろうと、借金であろうと資産計上された上で、その期に発生する償却部分だけが強制的に費用化されるからである。また、非償却部分は、売却されない限り、貸借上で処理され、元々、費用化されずに、損益上には、現れないからである。長期借入金の元本部分は、費用化されないため損益上には現れてこない。費用として損益に関わるのは金利部分だけなのである。

 なぜ、負債の元本の返済を費用化しなかったのかというと、それは、負債の性格による。第一に、負債を貸借上に載せた段階で負債は、金利と切り離さざるを得なくなったのである。第二に、負債は、資産の対極に位置する性格を持っているからである。第三に、資本と同質の性格を持つからである。負債部分の返済は、資本への転化を意味すると認識される。また、負債と金利を明確に切り離し、区分することで費用の性格を確定する意味もある。つまり、資産と負債は、時間の関数であり、現金化するのに時間を要するからである。資産の売却益は利益として処理されるのと同じ意味である。

 自己資本でも、他人資本でも、損益上に大差がなければ、初期に資金を多く集めて、大規模な設備投資をし、ランニングコストを抑えて、単価を切り下げた者の方が事業を有利に展開できる。その前提は、大量生産、大量販売である。

 ただ、大量生産、大量販売型産業は、償却を遅らせる事によって固定費を下げて単価に掛かる原価を切り下げることが出来る。また、量を売り上げることによって固定費の負担も切り下げられる。そうなると利益を度外視した乱売合戦を引き起こす危険性を孕んでいる。

 また、初期に多額の資金を集めると言っても資本にはそれなりのコストが掛かる上、集めた資金の金利に相当するだけの経営実績を上げることが要求される。

 投資家は、キャピタルゲインを目的とするようになると事業の内容でなく、短期的な株の値動きを注目するようになり、長期的な展望を欠くようになる。資産や資本(純資産)と利益とを比較するようになると、必然的に株主の取り分を重視し、内部留保の還元や資産の圧縮を求めるようになる。それは長期的視野を企業経営から奪い、企業の基礎体力を無意味に消耗する。

 本来金融機関の役割は、長期的な展望に立って、事業資金が不足している企業に資金を補充し、経営資金の長期的平準化をすべきなのだが、自己資本規制のようなもので、短期的、単年度の実績だけで企業評価をするようになり。結果的に業績の良い、即ち、資金の余っているところに資金を貸し、業績の悪い、即ち、資金が不足しているところから資金を引き揚げるようになる。また、必要としない時に貸出、本当に必要な時に資金を引き揚げることになる。晴れた時に傘を貸して、雨が降り出すと傘を取り上げる。これは、合成の誤謬であって、景気が悪いときに景気を更に悪くする働きをする。

 長期的展望が立たなければ投資は期待できない。

 借入もレバレッジを効かせれば増殖することが可能だが、それは、単に信用枠を大きくしているだけで、信用の裏付けとなる資産価値が低下すると、レバレッジを効かせれば、それだけリスクも高くなる。これは、資本にも言える。過大な資本は、それだけ、企業負担を増加させる。

 こうなると、企業にとっては、資産価値の上昇によって資産に含みが生じる、即ち、余剰価値が生じることが救いである。逆に言えば、資産価値が、大幅に下落すると、資産は、忽ち不良債権に変質し、資金繰りを圧迫する。バブル崩壊後の日本企業が陥ったのも、アメリカのサブ、プライム問題の根底にあるのも資産価値の下落である。
 バブル崩壊以前の日本では、資産価値の右肩上がりの上昇が大前提だったのである。

 この様に、未実現利益、即ち、資産の含み益を利用して資金調達をせざるを得ない企業に対し、未実現利益、含み益を利益として課税するのは、狂気の沙汰である。体力の弱った企業にとどめを刺す結果になる。その意味で、時価会計は、資産価値が上昇している局面では、利益に貢献する反面、一旦下落すると損失を拡大し、通常の経営実績を帳消しにしてしまう。
 未実現利益というのは本質的に架空利益であり、資金的裏付けのない利益なのである。

 会計には、静態論、動態論の議論がある。本来の静態論、動態論は、利益計算の基盤を貸借に置くべきか損益におくべきかの議論であった。
 実際、実務的には、静態論、動態論どちらに立つかではなく。どちらの方が説明しやすいかである。つまりは、どちらが有利かにすぎない。それは、利益というのは、本質的に資金を調達するために、投資家や金融機関に対する説明をする目的で考えられた概念だからである。
 利益は作られるものなのである。ところが、現在の市場経済では、この利益が上がらなくなる。そこで、今日の動態面、静態論は、時価会計を絡めて金融資産をどの様に評価するかに変質している。
 根本にあるのは、現在の仕組みでは、企業が適正な利益を上げることが出来なくなってしまうということである。だから、金融資産を操作して利益を上げざるを得ないようなところまで企業が追い込まれているのである。

 この様に考えると、現在の企業は、資産として何かを残そうとしても何も残せない仕組みになっているのである。

 そうなるとひたすら企業は経営を継続して所得を生み出し続ける必要がある。しかし、ただ、目先の利益を追いかけていけば、償却もままならなくなる。継続し続けるためには、償却が終わっても、設備の更新をしなければならない。






                    


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano