公 と 私

 個人にも、私的な部分と公的な部分がある。もっと厳密に言うと、個人は、私的な場と公的な場、両方に属している部分がある。私的な部分というのは、自己の内面の世界に属する場であり、公的な部分というのは、自己の外界に存在する対象との関わり合いによって生じる場である。

 公というのは、外界に存在する対象との関わり合いに依って成立している場であるから、客観的な位置と運動、関係が重要となる。

 私というのは、自己の内面に属す問題だから、主観的なものであり、自己の認識に依拠する。

 つまり、個人において公的な部分は、社会的な位置や運動や関係から発する部分であり、私的な部分は、自己の内面の認識から発する部分である。

 私的な部分、公的な部分というのは、明確な境界線が画定しているわけではない。故に、私的な問題か、公的な問題化の区分においてその範囲を特定することが前提となる。

 公的な場にある場合を公人といい、私的な場にある時は、私人という。公人として扱うか、私人とみなすかは、情報の開示等、情報の取り扱いにおいて重要な要件となる。
 それは、公というのは、外に開かれた場であるのに対して、私というのは、内に閉ざされた場だからである。
 故に、公的な部分は、外部に顕現される必要があり、私の部分は、内部に保護される必要がある。
 陰陽で言えば、私は陰であり、公は陽である。個人には、光と影がある。外に向かって発せられる陽の部分と、内に向かって秘匿される陰(かげ)の部分があるのである。

 私的か、公的かは、所有権の問題、そして、所有権から派生する問題、例えば課税対象と言った問題において決定的な要因となる。
 私的。公的の区分の延長線上に私有、公有の区分がある。私有は、自己の内側から発生する所有権であり、公有は、自己の外側から発生する所有権である。つまり、私有は、自己の直接的支配権の範疇に属し、公有は、自己の間接的所有権の範疇に属する。直接的支配権には、必然的に、直接的な所有から派生する直接的な権限、権利と管理責任や管理義務が生じる。間接的な支配権には、間接的な所有から派生する権限、権利と管理責任、管理義務が生じる。

 一般に、自分が支配できる範囲内を私的空間とする。即ち、自己が所有する範囲内が私的空間の境界線とみなす。私的空間の範囲は、基本的に、家内を指して言う場合が多い。即ち、経済の最小単位の一つである。家計の内が経済で言う私的空間である。

 経済は、共同体と市場が混在した体制であり、共同体の内部と、共同体外部とで経済の在り方が違ってくる。経済の基本単位は、共同体と個人に置き、その共同体を家計主体と経営主体と財政主体に三つに分類する。共同体というのは、個人の集合体である。その中で私的空間というのは、家計主体の内側を指して言う。

 共同体である経済主体の内部は、不文律、即ち、道徳や掟、礼儀、作法に依って統制されている社会であり、原則的に、非貨幣的、非成文法の空間である。それに対し、市場は、非道徳的空間であり、成文法的空間である。

 かつて、市場は化外の世界にあった。つまり、世俗的な掟の外にあった空間である。故に、自由な空間であった。また、平等な空間であった。そこでは、遊郭や酒場、賭博場、遊園地、即ち、非道徳的な空間が拡がっていた。
 家庭内においては、労働や食事、性は、金銭取引の対象にはならない。それに対して、家庭外では、労働や食事、性は、金銭取引の対象となる。金銭取引を土台として成立したのが市場である。
 外に働きに出る。また、家内労働の外注化というのは、労働の基盤を共同体の外部に求めることを意味している。労働そのものがそれによって優劣を付けるようなものではない。外の仕事は、有意義で家内労働は低級だというのは間違いの元である。あるのは、所得の有無に過ぎない。むしろ労働の起源は家内労働、生産にあり、金銭による所得は補完的な収入にすぎなかったのである。

 市場には、市場の機能があり、共同体には、共同体の機能がある。現代社会で問題なのは、共同体と市場との境界線が曖昧になってきたことである。それによって共同体の崩壊が始まり、倫理観が失われつつあることである。

 実際に所得や消費を創出するのは、経済単位であって市場ではない。市場は交換の場であって生産や消費の場ではない。むろん、交換が即消費に結びつく場合はあるが、その場合も、一旦交換という行為が完結し、所有権の移転が確認された後に行われる。それは、市場ではなく、私的空間において行われる行為である。

 所有権が発生するのは、経済単位である。即ち、家計主体か、経営主体か、財政主体か、あるいは、個人である。
 つまり、企業を所有できる主体は、家計主体か、経営主体、財政主体、個人である。この中で家計主体は、私的空間という意味で個人に還元することが出来る。故に、企業を所有できるのは、個人か、経営主体か、財政主体である。

 この問題の根本には、所有権が持てるのは、個人に限定されるのか。それとも個人以外の共同体も含める、即ち、経済単位全般に認められる権利なのかの問題である。
 これは、法人格の問題にも収斂される。つまり、人間以外にも人格を認めるかの問題である。また、資本は、個人の権利の集合体としてみなすのか、企業の統一的権利としてみなすかによって意味が違ってくる。これは思想である。

 資本主義を成立させた重大な要因の一つに所有権と経営権の分離にある。そして、経営主体の所有権は、誰に帰属するのかは、思想的問題である。

 所有権は、支配権を意味する。つまり、経営主体に対する所有権は、経営主体に対する支配権をである。つまり、経営主体に対する所有権とは、経営主体を誰が支配するかの問題である。経営主体を誰が支配するかは、思想的問題である。つまり、所有権は、思想的問題である。
 所有権には、物的所有権と人的所有権、貨幣的所有権がある。出資者の権利は、物的所有権なのか、人的所有権なのか、貨幣的所有権なのか、又は、全部なのかは、思想的問題である。

 経営主体には、人的実体、物的実体がある。それらの実体を前提とした上で金銭的所有権が成立する。人的実体というのは、金銭的支配権に隷属、従属した物ではない。故に、経営主体を金銭的な所有権によって支配できるのは、物的実体の範囲内に限定されると解釈できる。

 所有権から売買取引と貸借取引が生じる。所有権は、売買関係から生じ、経営権とは、基本的に貸借関係、あるいは、雇用関係から生じる。要するに、所有者から経営主体を借りて経営して得た利益を所有者と分配するか、所有者に雇われて経営する。所有者と経営者の基本的関係である。

 賃貸関係と言う事は、経営権には、経営の結果に対する請求権か附帯的に派生することを意味する。

 ただ言えることは、所有権と経営権が分離したことによって企業の所有権の問題がより鮮明となったことである。

 法にも、私法、公法の違いがある。私法、公法は、所有権の延長線上にある。所有権は、支配権から生じる。つまり、私法、公法は、所有権の範囲によって確定する。

 現代人は、公と私とを対立したものとして捉える傾向がある。しかし、これは、思い違いである。

 しかし、儒教文化に根ざす東洋においては、それを一体とみなしていた時代がある。

 個人と全体、個人と個人の間には、引力と斥力が働いている。どちらの力も強すぎると位置も関係を維持することがでなくなる。

 戦後の知識人は、統制や規律をきらい。ただひたすらに、反抗や叛逆を煽る。マスコミにとって反体制、反権威、反権力は、結論なのであり、反骨精神は、美徳なのである。しかし、最初から、反体制、反権威、反権力を求めるのはおかしい。結果的に、時の権力や権威と衝突することはあってでもある。

 個人の幸せは、家族の幸せとなり、家族の幸せは、事業の発展であり、事業の発展は、社会を繁栄させ、社会の繁栄は、国家経済を安定させる、国家経済が安定すれば、世界は平和に治まる。そう言う関係こそ求めるべきなのであり、ひたすらに叛逆、反抗を繰り返すことは、何の実りももたらせない。





                    


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