個人主義

家計の役割


 家計は、生活の基盤である。生活は、消費の場である。消費は、需要の源である。需要は、景気を形作るものである。故に、その時の経済は、消費に規制されている。その割に、消費経済が確立されていない。
 現代社会は、生産ばかり重視して、分配や消費を軽視してきた。それが現在の経済を歪める結果を招いているのである。

 あたかも、現代社会は、消費を奨励しているように見える。しかし、その本質は、生産者側の都合なのである。大量生産された製品の捌け口として消費を見ているからにすぎない。それが環境保護や資源の浪費を招いている。決して、消費者側に立って消費を奨励しているわけではない。

 また、消費者が何を欲しているかによって、商品を生産しているわけではない。例えば、テレビも、ビデオも、テレビゲームも、それが、必要だから、あるいは、子供達の為になるから生産しているのではなく。売れるから生産しているのに過ぎない。保護者が、望もうと望まないとそんなことは関係ないのである。

 その証拠に、以前、子供達に悪影響を与える映画だから規制をすべきだという意見に対し、メディアの答えは、その映画はヒットしたのだから正しいというのが大方の答えである。言い換えると、儲かる物は、正しい物なのである。子供達に与える影響は、二の次なのである。それは、良質な消費を前提としているわけではない。

 多くの場合、経済を生産面からだけ捉える傾向がある。しかし、生産するだけでは経済は成り立たない。かといって、消費するだけでも経済は成り立たない。経済をら成り立たせる為には、生産と消費、双方が必要なのである。つまり、生産力だけでは、市場は成り立たない。消費力も重要なのである。
 大量生産型経済は、経済を生産の都合からのみ捉えようとする。その為に、経済の実体を見失うのである。
 生産と消費は、経済を動かす両輪である。生産面ばかり重視すれば、自ずと経済は均衡を失ってしまう。
 また、生産力に依拠した経済体制は、大量消費型経済、浪費型経済に偏りやすい。つまり、消費の側の欲求や都合を無視して、消費を強要する体制になりやすい。それは、一種の麻薬的経済になりやすく、欲望や快楽を刺激する経済になりやすい。お祭り型、あるいは、宴会型経済である。
 その為に、何もかもが、過剰になり、経済は過熱し、市場は過飽和な状態になる。現に、バブル崩壊後の市場は、過剰債務、過剰設備、過剰雇用に泣いたのである。

 過飽和な市場というのは、買わなくても良い。買う必要がない、買わなくても良い状態な市場のである。つまり、買う物がない市場なのである。この様な市場は、何かのキッカケで急速に収縮する危険性を常に孕んでいる。つまり、急に物が売れなくなるのである。
 必要のない物は買わない。市場が過飽和になるという事は、消耗品を除いて、生活に必要な物は、あらかた、買いそろえてある状態である。買わなくてもやっていけるのである。それが消費者の側の都合である。生産者側は、時々、その当たり前なことを忘れてしまうのである。それが市場に対する過信を生み出す。

 市場が過飽和な状態に陥り、急に、物が売れなくなるのは、満腹な人間に無理をして食べさせようとした結果である。それは、経済は、生産者の思惑だけで制御できるものではない。
 別に買いたくなくて買わないのではない。買う必要がないからかうのである。それまでは、無駄遣いをしていただけなのである。お金があったからかったのであって、金がなくなれば買い控えるのが当然なのである。それが道理である。消費者の側の論理である。消費こそ、市場を牽引しているのである。消費を軽視すれば、当然、経済は見えなくなる。

 その消費の重要な担い手の一つが、家計なのである。

 現代は、消費を軽視している。特に、消費の質というものを忘れている。消費の質は、生活の質でもある。生活とは、生き様でもある。
 消費を美徳と言うが、欲望のおもむくままに貪欲に快楽を貪るような消費を美徳とは言わない。美徳というなら、美意識が根本になければならない。
 消費の質を表すのに、質素、清潔と言う基準がある。また、消費の効率を意味する言葉に、節約や倹約、勤倹という言葉がある。これらは、大量生産、大量消費を前提とした価値観とは、対極的な考え方である。使い捨ては、消費から見ると決して効率的なことではない。そして、それが資源の浪費、無駄遣いに繋がるのである。物を大切に、大事にする。それは、消費の価値観である。

 また、消費を軽視することは、家庭を軽視することにもなる。それは、家事を蔑ろにすることにもなる。
 よく外に働きに出るという。それは、仕事は外にあり、内にはないという意味にもとれる。つまり、家内労働の否定である。男女同権思想の中に、この家内労働の否定がある。しかし、それはかえって女性蔑視を招くだけである。なぜならば、家内労働には、それなりの意味があるからである。また、女性が家内労働を分担する場合が多いのは、出産・育児という女性固有の労働があるからである。

 家政という言葉が意味するように、家内を取り締まるという仕事は、経済の根本でもある。故に、家計は、経済の基本単位の一つなのである。

 家計は、現金出納会計である。現金出納会計は、単式簿記である。故に、家計は単式簿記の世界である。資産、負債、資本、収益、費用勘定はない。故に、利益の概念は家計にはない。

 複式簿記で言うところの赤字は、期間損益に基づいた概念である。利益という概念が現金主義にはないのであるから、現金主義、単式簿記上の赤字と実現主義、発生主義、複式簿記上の赤字とは、本質が違う。つまり、財政赤字と民間企業の赤字とは、本質が違うのである。同列には語れない問題である。

 市場が成立するためには、一定の条件、要件を満たす必要がある。市場を成り立たせる要件には、人的要件、物的要件、金銭的要件がある。これらの要件が物価を形成する。
 人的要件は、購買意欲であり、物的要件は、生産力であり、金銭的要件は、購買力である。購買意欲は、需要を、生産力は、供給力を形成する。
 物価は、購買意欲と供給力、そして、通貨量の関数だと言える。この三点が相互に作用して物価を決める。つまり、インフレーションやデフレーションを理解するためには、この三つの要素の動きを理解し、解明する必要がある。

 国民経済は、生産(付加価値)、所得(分配)、消費(支出)から考察される。この三つの側面は、一致していると仮定される。それを三面等価という。
 この事が何を意味するのか。それは、生産と所得と消費の均衡によって経済は成り立っていることである。
 この事は、経済を生産や所得という要素だけでなく。消費という要素も重要であることを意味している。つまり、消費経済と言う観点からも経済政策を立てる必要があるのである。

 三面等価を数式にすると
 国内総生産=国内総所得=国内総支出となる。
 その内訳は、
 国内総生産=産出額−中間投入
 国内総所得=雇用者報酬
        +(営業余剰・混合所得+固定資本減耗)
        +(生産・輸入品に課せられる税−補助金)
        =家計の取り分+企業の取り分+政府の取り分
 国内総支出=消費+投資(設備投資+住宅投資+在庫投資+政府支出+経常収支
        =家計支出+民間支出+政府支出+(輸出−輸入)
        =民間消費+民間投資+政府支出+(財貨・サービスの輸出-輸入)
 となる。

 付加価値というのは、産出額から中間投入と言う式で表される。付加価値の大部分は、民間の営利部門が生み出している。重要なことは、家計の家内労働と政府が生み出す価値が含まれていないことである。

 固定資産減耗というのは、減価償却費を言う。国内総生産では、この減価償却部分を控除しない。固定資本減耗を控除したものは、国民純生産という。また、国民所得は、国民純生産から間接税をひいて補助金を加えたものである。
 国民純生産=国内総生産−固定資本減耗
 国民所得=家計消費+家計貯蓄+企業貯蓄+政府収入となる。

 国内総生産と国民所得が等しいと仮定し、国内総生産を
 国内総生産=家計消費+企業投資+政府支出+経常収支とすると、

 経常収支=家計貯蓄+企業の投資バランス+政府の財政バランスとなる。(「日本経済の基本」小峰隆夫著 日経文庫)

 支出から見ると総需要と総供給は等しいと仮定によって成り立っている。即ち、
 総供給=総需要
 国内総支出+輸入=消費+投資+政府支出+輸出となり。更に、
 国内総支出=(消費+投資+政府支出)+(輸出−輸入)となる。
 内需=消費+投資+政府支出
 外需=輸出−輸入であるから
 国内総支出=内需+外需となる。

 消費=民間最終消費支出
 政府支出=政府最終消費支出+公的固定資本形成+公的在庫品増加
 公共投資は、政府支出に含まれる。

 三面等価で家計に関わるのは、雇用者報酬と家計支出である。つまり、所得と支出が基本であり、その根本は、資金と生活、そして、労働力である。
 故に、家計を考える上で重要なのは、資金と生活と仕事をどうするかなのである。金銭的な問題に収斂させるにしても、その根本は、生活であり、仕事なのである。それを忘れたら、生活、即ち、家計が成り立たなくなるのである。根本は、労働と分配なのである。

 資金は、所得と消費、及び蓄えからなる。家計の基本は現金主義である。
 所得=消費+貯蓄

 家計においては、雇用者報償の質が重要な要素である。雇用者報酬の質は、雇用形体に依拠している。雇用形体とは、長期雇用か一時雇用かが需要な要素となる。
 長期雇用は、一定の所得を安定的に支給されることを意味し、信用制度の確立の前提となる。雇用の不安は、必然的に信用制度を揺るがす。

 家計を考える上で重要なのは、可処分所得と消費性向である。
 狭義の可処分所得=所得−公的債務(税+社会保険料)
 広義の可処分所得=所得−公的債務(税+社会保険料)−私的債務(借金の返済等)
 貯蓄=可処分所得−消費

 家計支出は、人口構成と生活水準に依拠している。
 家計の支出構造は、長期と中期、短期、一時的支出から構成される。
 支出の形態は、財の先取り後払いか、後取り、前払いがあり、先取り後払いは借入、後取り、先払いは貯蓄によって対応する。
 長期的な資金需要には、住宅投資、教育投資、老後の蓄えなどがある。長期支出は、長期借入か長期貯蓄に対応している。
 中期的な資金需要には、耐久消費財である自動車、家庭電化製品、家具、調度品などがある。
 短期的な支出は、食費、光熱費、被服費などの消耗品がある。
 臨時的、一時的、緊急的資金には、病気、怪我、出産、家事、災害、失業などの他、冠婚葬祭の費用などがある。これらの費用は、リスクに備えたものであり、私的、公的な蓄えによって対応する。

 支出、消費は、需要を形成する。需要の有り様は、需要の周期を作る。需要の周期は、資金需要を構成する。資金需要は、所得に依存する。また、需要は供給を促す。供給は、生産に依拠する。即ち、生産基盤としての産業を成立させる。
 また、消費の形態によって産業や市場の性格が形成される。産業や市場の性格は、産業や市場構造の特性を生み出す。産業や市場の特性は、需要の周期による。周期は時間の関数である。それは速度の問題である。
 長期的な資金需要は、経済の長期的な周期の本となる。中期的な資金需要は、経済の中期的な周期の本となる。短期的な資金需要は、経済の短期的周期の本となる。これらの波動が重なり合って経済の波動を構成する。

 貨幣経済で重要なのは、流動性である。流動性は、速度の問題である。速度は、単位時間あたりの変化の量として認識される。
 価値の総量は、定数+変数(単位あたりの変化の量)×時間と言う式で表される。変数は、基数×率によって定まる。

 個人所得と家計は、表裏の関係にある。家計の構成は、国の経済状態、産業構造の縮図である。

 家計は、所得を基礎にして計算される。そして、支出によって構成される。つまり、家計は、家族の収支からなる。近代経済を支えているのは、安定した所得である。つまり、一定の所得が保障されたことによって近代経済の礎は築かれたのである。
 そして、この安定した所得が、家計の長期借入を可能としたのである。好例が住宅ローンである。
 しかし、長期借入は、一定の収入が長期間にわたって保証されていることが前提として成り立っている。つまり、信用制度を前提としている。この一定の収入が保証されなくなると成り立たなくなることをも意味する。

 経営主体は、所得を平準化する仕組みでもある。それは、支出の平準化を促すと同時に、長期の借入を可能とした。それが、現代の貨幣経済の前提条件を形作っている。

 家計は、安定を好む。安定というのは、波がないという事を意味する。一時的に多額の収入を得ても、それが恒常的な収入を保証するものでないとしたら、かえって、生活を破綻させる原因となる。所謂あぶく銭に過ぎない。金額の多寡よりも長期にわたって一定の収入が得られることが重要なのである。むろん、最低限の生活を保証できる額である必要はあるが・・・。逆に言うと、どれ程蓄えがあっても収入源を断たれることの方が不安を増幅させる。
 また、一定の収入が保証されることによって、借金の技術、即ち、信用制度は確立された。

 この事は、所得の源泉である経営主体の経営が常に安定していることをもって成り立っている。つまり、経営主体と家計は、表裏一体の関係にある。これは、所得と消費が表裏を為すことに対応している。

 日本の長期の経済発展の背後には、終身雇用があったのである。それを市場の原理によって切り崩したことが、現在の長期不況の要因の一つになっている。また、日本経済を衰退させる要因でもある。
 終身雇用は、文化を育む要因でもあり、思想でもある。それを生産効率を優先させることで切り崩したことは、日本の経済の変質、ひいては、日本の文化の変質を促すことになるであろう。

 一定の収入を保証する長期雇用は、長期借入金の前提となり、経済成長を保証してきた。それが短期雇用に構造的な変化が起きると社会不安が増大し、公的負担が大きくなる。最悪、社会の基盤が崩壊し、社会体制そのものが成り立たなくなる。

 長期雇用が崩壊し、安定した一定に平準化された収入が失われると忽ち信用は崩壊し、残されるのは、長期負債の残高である。この残高は、すぐに、不良債権化して社会全体に重い負担となる。

 収入の不安定性は、借金の不安定を招く。長期的に安定した収入が確保されなければ、短期的で高利の借入に頼らざるを得なくなる。それは、常に、家計の崩壊のリスクを背負わされる事を意味する。借りた金を返せなくなるのは、定職を持たない者が身を持ち崩す最大の要因である。

 経済の基軸に生涯賃金、生涯所得が暗黙の据えられ、それを前提として信用制度が組まれている。そして、その生涯賃金や生涯所得を基礎として長期借入金や年金、保険などが成り立っている。つまり、その信用制度を支えているのは、長期雇用制度なのである。
 この点を無視して、ひたすらに生産性を追求し、あるいは、過当競争を野放しにすると、長期雇用体制が崩壊し、信用制度の土台を切り崩す結果を招く。
 マスコミをはじめ、安売り業者をもてはやし、企業を目の仇にするが、その結果は、経済の崩壊という大惨事を招くのである。企業が適正な収益をあげられないと長期雇用は維持されないのである。
 長期雇用体制、正規採用体制から、一時雇い、派遣、パート、アルバイトなどの短期雇用体制への雇用形態の変質は、経済体制の変質を促すものであることを忘れてはならない。長期雇用体制を維持するためには、長期雇用が成立する前提を堅固なものにしておく必要がある。それは、消費の変質に対応することが可能な市場の仕組みを構築することである。
 もう一つ重要なのは、企業の共同体制を取り戻すことである。

 企業と家計と財政は、市場経済よらない部分を分担している。それが社会福祉である。たとえば、育児や介護、失業と言った部分を家族、国家、企業がそれぞれ分担している。その部分をどう分担し、どう評価するかが、重要なのである。

 その部分が、人道的といわれる部分である。そして、最も国家の思想が問われる部分なのである。
 福祉制度には、社会思想が隠されているのである。家族、企業、国家に国民は何を求めているのか。それを明らかにすることが経済体制を構築するための前提なのである。それが思想の役割である。

 家計は、根本的に家族という共同体、人間関係を下敷きにして成り立っている。現代の社会制度は、個人ではなく、世帯を基本単位にして組み立てられている。世帯というのは、住居及び生計を共にする集団である。(広辞苑)つまり、共同体である。故に、世帯の構成や構造が重要となるのである。

 世帯の構成は、一組の夫婦を核として構成されるものやまた、一組の親子を核として構成されるものの他に、複数の夫婦や家族の集合体、個人を核とした場合などがある。何れにしても何等かの人間関係によって構成される集合体である。そして、その構成によって所得の在り方が違ってくる。つまり、主たる稼ぎ手が一人の場合と複数いる場合、また、家族が生産拠点である場合などである。

 共稼ぎ夫婦のように収入源が複数ある家族がある。かつて、日本は、大家族主義だった。大家族主義というのは、何世代かの複数の家族が一つの集合体を構成することである。
 家族の一員には、扶養家族というのもある。

 三世代住宅のように物理的な空間に仕切られた関係もある。

 家族の定義が重要になる。つまり、どの様な関係を家族の単位とするかである。何れにしても、家計は、一つの経済単位である。それが原則である。個人を経済単位としているわけではない。

 内という言葉がある。内は、家ともかく。つまり、家とは内側にある者という意味である。自分が属する側の者という意味である。つまり、家族という境界線で内と外とが区切られている。それが家族である。そして、内と外とでは、経済の原理が違うのである。そして、この内と外との境界線が、共同体と市場との境界線なのである。

 この様な市場と共同体の問題は所得の問題である。
 所得を問題でありながら、所得の本質が理解されていない。故に、先ず所得とは何かを明らかにしておく必要がある。
 所得とは、何か。第一に、対価である。第二に、現金収入である。

 市場や経済の規模を確定するのは、総所得である。総所得は、総生産、総支出と対応する。それを三面等価というのである。

 現金収入と言うが、現金とは何かである。現金というのは、現在の貨幣価値を指し示した物である。物と言っても、貨幣価値を表象した物であって、厳密に言うと、物としての実体を持たなければならないと言うわけではない。我々は、現金というと、紙幣やコインのような物を思い浮かべるが、あれは現金を表象した物であって、現金そのものを指すわけではない。
 極端な話し、現金という物はない、現金というのは、情報である。その証拠に最近は、自動振り込みで現金を支払うことが可能なのである。つまり、その場合の現金というのは、情報ないし、信号なのである。

 所得税法では、所得を第一に、利子所得。第二に、配当所得、第三に、不動産所得、第四に事業所得、第五に、給与所得、第六に、譲渡所得、第七に、一時所得、第八に、雑所得、第九に、山林所得、第十に、退職所得に十分類している。

 家計を例にとると所得の本質が明らかになる。そして、所得を土台とした経済体制も見えてくる。

 家計とは何か。家計とは、家族の生計である。つまり、家族の生活、暮らしが土台にある。
 そして、家計は、収入と支出からなる。
 収入は、所得によって、支出は、消費、貯蓄からなる。所得は、労働力の提供、あるいは、地代、家賃、金利、配当、資産の売却などによって得られる。

 また、財は、所得だけに限定されていない。この事が重要なのである。家庭内労働によって生産された財がある。しかし、家庭内は、市場ではないために、この家庭内労働というものは、貨幣的に換算されるわけではない。つまり、貨幣価値がないのである。貨幣価値がないから価値がないというのは、間違いである。しいて、貨幣価値に換算すれば、所得に相当する。所得を折半したものというのは、間違いである。なぜならば、所得と消費は、作用反作用の関係にあり、所得は、共同体が相対として受け取ったものだからである。 家計や家事を全て外注した場合を考えればわかる。家事を全て外注した場合、所得だけで賄える者は限られて居るであろう。今日では、ただでさえ、共稼ぎの家庭が増えているのである。しかも共稼ぎと雖(いえど)も、全ての家庭内労働を外注化しているわけではない。

 支出の項目は、衣食住が基礎となる。それに、自動車や教育費、通信費、光熱費などが近代以降加わった。

 家計の土台は、家族の生活である。故に、家族の定義、在り方によって必然的に家計の在り方も定まる。
 では、家族とは何か。家族というのは、共同体である。家族とは、生計を伴にする集団である。基本的には、婚姻関係を核とした血縁関係であるが、血の繋がりは、絶対的要件ではない。血縁関係によらない、法的関係による家族もあるのである。

 今日、人々の生活は、現金収入を常に前提として成り立っている。しかし、つい最近まで、現金収入だけで家計は成り立っていたわけではない。

 江戸時代、武士に対する報償は、現物支給が原則であった。また、農家でも、産物の多くは、自家消費用である。生活に必要な物の多くも自家製であった。糸より、機織り、裁縫と昔は、自分の家できものまで作った。味噌、醤油も自家製が多かった。
 生活必需品を市場から調達するというのは、近年に至って、市場経済が確立されてからである。

 現代社会は、生産が牽引している。消費は、生産の都合によって決められている。大量生産は、大量消費を可能とした。その結果、量が重んじられ、質が軽んじられるようになった。質より量なのである。必然的に消費の質が低下したのである。その様な社会では、内容よりも外見が重要なのである。

 見せかけの生活水準は、上がった。しかし、この様な外見的な生活水準は、上げるのは容易いが、下げるのは大変なのである。一度贅沢の味を覚えたらそれを忘れるのは難しい。見栄や外聞に囚われるからである。つまり、虚栄心によるからである。

 消費の悪質化は、生産の質も悪くする。特に、サービス業において顕著である。

 野生の鷹は、食べ過ぎると絶食して体調を整えると聞く。現代日本の自由は、家畜の自由に過ぎない。無為徒食。自分の力で自分を護る力がなければ本当の自由は、手に入れられない。消費には自制心が要求されるのである。
 消費こそ規律が必要なのである。消費は、抑制が求められる。消費こそ道徳が必要なのである。
 貪欲を戒め。強欲を疎んじた。浪費や無駄遣いは、悪徳だったのである。しかし、今は、消費や浪費は、美徳となった。市場では、我慢は、愚か者、臆病者がすることなのである。
 消費の場こそ道徳的な場なのである。その為には、消費経済を確立する必要があるのである。





                    


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano