個人主義

個人における共同体の意義


 共同体では、多くは、自給自足だった。私が子供の頃ぐらいまでは、各家庭には、自家製の製品が良くあった。かつては、母親は糠味噌臭いと言われたものである。糟糠の妻という言葉すらある。また、農家では、味噌、米、醤油などは、自家製の物である場合が多く、鶏や豚なども飼っていた。また、織物なども自分の内で織り、余剰に物を市場で換金しり、租税として納めていた。
 本来の経済は、現金収入や支出だけを土台にした物ではなかった。現金によらない財も多くあったのである。それらは、市場経済とは無縁なものであった。その様な、貨幣価値とは、無縁な空間が存在し、その空間の方が大きかったのである。そして、市場も共同体も含んだ総体を経済空間としていたのである。

 市場経済が成立する以前は、現金収入が生計の全てを占めているわけではなかった。この時代の家族とは、一種の共同体だったのである。そして、この家族の在り方が、経営主体本来の在り方である。

 ところが今日、これら共同体が解体し、個人に還元されつつある。それが、いろいろな問題を引き起こしているのである。
 肝心なのは、共同体と市場が役割をどう分担するかなのである。それは、根本に社会思想がなければならない。親の面倒を金で済ませるのか、介護施設に預けてしまえば自分の責任は免除できるのか。育児の問題は、即ち、保育施設の問題なのか。結婚年齢は、保育施設の不足の問題なのか。愛情とか、思いやりのような物は金に換算できないから無価値なのか。法に違反していなければ何をしても良いのか。金儲けのためならば、何をしても良いのか。法に違反していなければ、どんな本を売っても良いのか。どんな情報を流しても許されるのか。根本は、人間を、人の一生をどう思うのかの問題なのである。

 市場の役割というのは、本来、物と物との交換である。ところが、交換よりも価値に重きが置かれるようになり、物と物との交換が二義的なものになりつつあるのが問題なのである。余剰な物と不足している者に交換を通して流通させることに意義がある。交換価値が主ではないのである。そして、その様な市場の役割は、経済の働きのごく一部に過ぎない。ところが、市場が、価値を支配するようになってしまった。

 現金は、現在的貨幣価値を現している。流動性がない財は、現在的価値を持たない。故に、流動性のないものは、現金化されないのである。そして、現金価値というのは、市場通じてしか現れないのである。これは不道徳なことである。例えば、母親の愛を現金化したり、妻の仕事を貨幣換算するというのは、不道徳な行為である。しかし、それを過激な男女同権論者の一部は、平然と行う。そして、遊女、配偶者を同列で扱う。遊女というのは、市場での話であり、配偶者というのは、共同体の話である。次元が違うのである。そして、市場を共同体よりも優位に置く。それ自体不道徳な行為である。性を商品化しているのは、市場であって、家庭ではない。そして、商品化する以上を性行為を特化しているのである。

 貨幣は、比較対照できない物に対しては無力である。 それは、貨幣が市場における相対的価値を表象した物だからである。神の値段を計るのは畏れ多いことである。母の愛を金で計ることなどできない。

 家事を全て外注化することを考える。家事を全て外注化し、扶養家族以外全て働きに出ることを想定する。食事は、全て外食にし、掃除は、家政婦を雇って対応する。そして、洗濯は、全てクリーニングに出す。されに、育児は、保育園にしてもらい。介護は施設に任せる。つまり、家事の外注化というのは、家庭内労働の一切合切を市場化するという事である。そして、家庭は、出産機能だけ残すことを意味する。現在進行している、市場経済化の行き着く先である。むろん、家庭の存在意義も薄れるか、なくなる。家族と言っても同居人にすきなくなる。その上で、家事の外注化が及ぼす影響を考えてみる。
 家事の外注化は、予想以上に可処分所得を圧迫す事が予測される。元々家庭内労働というのは、市場の原理にそぐわない要素がある。育児や介護と言ったところに愛情という要素をどの様に換算し、家族以外の存在にどの様に代償させるかが問題となる。また、全てを貨幣価値に換算し、市場経済に委ねると家計の収支が均衡しなくなってしまう可能性がある。つまり、家事労働を全て貨幣価値に換算すると支出が収入を上回る危険性が高い。大体、収入は、購買に対応するだけで、家事労働の対価としては対応していないのである。

 家族の持つ共同体制、また、共同体としての働きを否定しきるのは、人間性の否定に繋がる。先ず、経済的観点からだけではなく。社会的、文化的、道徳的観点からも考えなければならない問題である。特に、愛情問題を頭から否定してしまうような考え方は、人として問題がある。
 個人というのは、単体で存在するのではなく。人間関係の中に位置付けられることによって意義があるのである。理念だけで、人間関係を否定するのは、現実から目をそらしているだけである。

 生計の全てが現金となり、生計費となったことで、家計は、市場に依存することになる。そして、それを、税制が後押しすることになる。

 また、個人に還元される過程で私的所有権も個人に還元されつつある。この事も経済の根本に関わる問題である。

 人の一生の中で必要とする資金の三大資金と言われるのが住宅資金、教育資金、老後資金である。この他、人生には、結婚資金や出産育児資金、病気や災害のための準備資金などがある。これらは、長期運用資金によって対応される。長期運用資金は、貯金や借入によって賄われる。

 借入は、費用の後払いである。先払いは、貯金を取り崩すことによって支払われる。先払いは、後から費用が発生しない。故に、従来は、先払い、即ち、金を貯めてから購入するのが倣(なら)いであった。しかし、それでは、高額なものはなかなか手に入れることができない。そこで、借金をして後から費用を払うことが一般的になったのである。それによって、借金を多くの家が抱えることとなった。

 住宅は、生活の場である。それ故に、家族に不可欠な要素である。この様な住宅を所有したいと考えた場合、先に物件を手に入れ後払いにした方が、物件の使用期間は長くなる。これは、自動車のような耐久消費財も同様である。この様な財は、住宅ローンや自動車ローン、割賦販売の様な借金によったほうが得だと一般に考えられている。そこで、ローンのような借金の技術が開発され、住宅市場を潤したのである。

 最初から収支が合わないから、説明上、期間損益を設定し利益概念を創作したのである。それは、家計も同じである。ただ、家計は、現金主義だという違いがある。この違いは、大きい。しかし、現代の家計は、借金を前提として成り立っている事に変わりはない。

 そして、債務、負債が成立すると可処分所得が成立する。そして、所得の中に占める可処分所得の率が重要となるのである。

 この家族も三代で資産が清算されると言われている。それが現代経済の大前提なのである。そして、我々は先ずこの点に関して合意に達しておく必要がある。財産権、所有権は、保証されるべき者なのか。最終的に何に帰属するのか。相続することは是か、非か。

 所得、特に、可処分所得の構成、バラツキが、景気の動向を左右し、市場の規模や経済の成長力を抑制する。

 現代経済は、経済単位を前提として成り立っている。故に、所得も私的所有権も共同体に帰している。しかし、もう一方で個人を前提ともしている。その為に、共同体としての経済単位が崩壊しつつあるのである。

 現実の経済社会は、市場と共同体と個人が混在している。それぞれの領域の境界線も曖昧なのである。その境界線をどう画定するかが、ある意味で思想や哲学の役割の一つでもある。また、宗教が担っている社会もあるのである。

 ただ市場だとか、共同体だけとか、個人が全てという具合に割り切ることの出来ないのが現実の世界でもある。市場が悪い、共同体が悪い、個人が悪いと決め付けるのではなく。どう折り合いを付けていくかの問題である。

 個人と共同体が一体になれた時代と対立している時代の差である。

 敗戦直後の日本で、日産自動車は、鍋釜を作って社員の生活の糧を稼ごうとした。松下電器は、苦境に陥った時、人員削減はしない宣言することによって人心を統一し苦境を乗り切った。それは、その当時の企業が共同体の性格を残していたからである。現在、多くの産業は、苦境に陥ると真っ先に人員を削減する。それは、企業が金儲けの手段、機関でしかなくなったからである。助け合いの精神など陳腐でしかない。
 しかし、人間は一人では生きていけないのである。助け合いとか、精神とか言う言葉がうつろな時代では、人間は孤独にしかなれない。

 かつての日本の指導者は徳を求められた。現在の日本の指導者に人格を感じなくなった。それは、組織が単なる利害関係の集団になってしまったからである。

 ただ、人間の生活の基盤は、共同体にある。だからこそ、道徳が尊ばれるのである。市場は、不道徳な場である。個人は、単一存在である。道徳は、社会だからこそ求められるのである。つまり、共同体こそ、社会の基盤なのである。
 共同体を否定した時、その社会や組織は、凝集力を失うのである。

 かつて、修身、斉家、治国、平天下と個人の目的と共同体の目的は一貫していた。つまり、個人の目的は、家族の目的であり、会社の目的でもあり、国家の目的でもある。そして、この在り方こそ、民主主義の原点である。それを国家主義に置き換え、人々に間に不信感と争いの種が蒔いかられた。そこに私は、何等かの悪意を感じる。
 個人と共同体をどう一体化させていくか。そこに、経済を安定させる鍵が隠されているのである。





                    


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