平等主義
極端な格差は、経済に偏りを生む。
自由と平等とは、近代社会を支える根源的な思想である。自由という概念は、間違って捉えられることが多い。同様に、平等に対しても間違った認識がある。中には、自由と平等を背反的な概念として捉えている者すらいる。
自由も平等も、自己という存在を根本として成立している思想である。その点をよく理解すれば、自由と平等は、表裏を為す概念であることが解る。
同等と平等は違う。人間は、人間として平等である。しかし、人間には個性があり、同じ人間はいない。人間は、生き物として平等である。しかし、人間の肉体は、同じではない。皆、違う。必然的に身体的能力も違う。人間は生きることにおいて平等である。しかし、人間が生きている環境は同じではない。皆、違う。また、人間が必要としているものの量も質も同じではない。人間は、対象を認識することにおいて平等である。しかし、認識の仕方は、同じではない。人間が何を信じ、何を好むかは、同じではない。
人間は、食べなければ生きていけない。しかし、何を食べるかは、同じではない。好き嫌いがある。食べる量も違う。食べ物に対する良くも、執着心も違う。
人は、恋をする。しかし、恋をする相手も趣味も違う。人は、何かを信じなければ生きていけない。しかし、信じるものが、金か、神か、国か、権力か、それは同じではない。平等と同等とは違う。
人間は、存在において平等である。しかし、人間の認識は同じではない。
差を付けることが悪いのではない。差というのは、社会における自己の位置付けや働き、関係を認識する上で不可欠な要素である。ただ、その差が不合理な根拠にのっかていて、解消することが不可能な場合が問題なのである。
不合理な理由というのは、例えば、人種、階級、民族、性別、家柄と言った事柄である。
また、その差が、自分が生きている内に解消することがほとんど不可能である場合は、社会的にも、経済的にも、いろいろな問題を引き起こす。
逆に、極端な同等主義は、経済の活力を喪失させる。経済的位置エネルギーが失われるからである。丁度、熱力学におけるエントロピーのようなものである。
市場に、経営主体が、散在している状態が望ましいのである。つまり、コロイド状態がいいのである。市場の規模や次元に応じて適正な規模の経営主体が、適正な数、市場に存在することが前提なのである。経営主体が凝固している状態は、市場の機能が低下している状態である。公正であるか否かは、力関係の問題である。
経済的な構造の全体は、経済を構成する個々の要素の経済的な位置、経済的な働き、経済的関係から成り立っている。この様な位置と働きと関係から生み出される格差は、経済を有効に機能させるための前提条件でもある。
問題は、経済の構造を破壊してしまうような偏りである。そして、この様な偏りを生み出す構造的な格差である。つまり、格差は、構造を有効に機能させる前提であるだけに、健全な構造を歪めるような構造的な格差が危険なのである。
経済的な場は、人的な場、物的な場、貨幣的な場からなる。そして、これらの場を結び付けているのが、経営材主体である。経営主体は、基本的に、共同体と個人である。共同体には、家族、企業、国家がある。そして、貨幣経済では、貨幣を媒体として財の分配が行われる。その前提は、貨幣の分配であり、それは、共同体内部で労働に対して行われるものと市場において財との取引によって行われるものの二つがある。この二つの場が有機的に組み合わされることによって経済の仕組みは形成される。
その根底には、所有の概念がある。所有の概念は、所得と消費と貯蓄に結びつく。この所得と消費と貯蓄に偏向が生じると経済の仕組みに歪みが生じる。経済の仕組みの歪みは、極端な格差として現れる。
経済の仕組みに歪みを与えるような偏りは、主として貨幣制度や貨幣市場の偏りによる。それは、物的市場や人的市場の働きが貨幣市場に、又は、貨幣制度に有効に反映していないことの証拠である。
資産の社会的遍在や通貨の過剰流動性、負債と資産価値の不均衡から生じる不良債権問題、これらは、貨幣制度の歪みが生み出したものである。そして、その根底にあるのは、会計制度や法制度(商法や会社法、証券取締法等)、金融制度、為替制度、税制と言った制度的歪みである。また、市場の歪みである。
この様な制度、また、市場の歪みを是正するのが、所得の再分配構造なのである。
極端な格差は、経済の構造を分裂してしまう。つまり、構造内部に亀裂を作り出し、相互の交流が阻害されるような状況をつくの出す。
極端な場合、二極に分裂させてしまう。また、幾つかの階層を形成する場合もある。
サブ・プライム問題においても問題が発生したのは、高所得者層と低所得者層である。重要なのは、健全な部分は、中間にあり、その中間の層が薄くなってきたことなのである。中間層は、比較的健全なのである。つまり、格差の拡大による社会の分裂が市場を引き裂いているのである。
アメリカの医療制度の仕組みが好例である。助けを求める病人がいて、優れたい施設と医者がいるのに、どちらも窮乏する。それは、両者を結び付ける仕組みが機能していないからである。そして、利用者を結び付ける仕組みには、市場と共同体があると言うことである。市場は、金の仕組みであり、共同体は、人の仕組みである。この両者が上手く機能していない、関連付けられない。それが問題なのである。
物も在れば、人もいる。最新の設備もある。需要もある。なのに経済が機能しない。一方で、ホームレスが溢れ、家が不足しているはずなのに、他方で、家が余っている。
アメリカの老舗の大手新聞社、トリビューンが破綻した。優秀な人材も設備も温存されている。つまり、新聞を発行する要素は揃っているのである。なのになぜ、新聞が再生できないのであろうか。
つまり、金の問題なのである。金が機能していないから問題なのである。問題なのは、金の働きなのである。金額の大きさに幻惑されて貨幣の働きを見落としている。貨幣は、本来、労働と分配とを結び付ける働きが要求されてきたのである。つまり、新聞を発行し、読者に送り届け、その仕事の評価をする。また、その仕事の必要度によって仕事を評価する。その手段、道具として貨幣は用いられた。そして、それは価格によって維持されてきたのである。しかし、今は、株価のと言った財の価格以外の要素や、また、市場の論理の方が優先され、適正な価格が維持できないのである。
重要なのは、経済にとって金は道具に過ぎないという事である。極端な話し、貨幣がなくても経済は機能する。しかし、経済がなければ貨幣は、機能しないのである。本来、貨幣は、手段、道具である。つまり、経済においては、補助的手段、従なのである。それが経済を牛耳っている。そして、貨幣の振る舞いによって実体経済が機能不全に陥りつつある。貨幣の動きを抑制できないからである。
つまり、資金が余剰な所から資金を調達し、資金を必要としているところに資金を融通するのが、金融本来の機能だったのが、資金が余剰な所に、資金を供給し続け、反対に資金が不足しているところから資金を引き揚げたのである。それが資金の流れに偏りを生み出したのである。それを抑止できるのは人でしかない。
ただ生産性の効率ばかりを求めて分配上の効率を忘れれば、分配はアンバランスらになる。効率というのは、その仕組みの目的から判断されるべきものである。
プロ野球にしても極端にチームの数を減らせばチームの生産性は、上昇するだろう。しかし、それで市場の効率が上がったと言えるだろうか。
あまりにも選手間の所得の格差が広がれば、プロ野球の健全な発展が阻害されるのは明らかである。
日本が最も成長した時代は、皆、中産階級だと自覚していた時代です。中小企業に活力があった時代です。
偏向的な格差は、所得や所有の偏りを意味する。所得の偏りは、経済の不活性化を意味する。一人の人間の消費よりも多くの人間の消費の方が市場を活発にするからである。
自己を社会の中に位置付けられる幅の格差の範囲で労働と分配の仕組みを構築するのが構造経済である。
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