現実主義
真 善 美
価値には、真善美の基準がある。真偽、善悪、美醜である。現実は、真偽の範疇にある。善悪、美醜は、認識した後の問題である。
真実だから善であるとは限らない。人を騙せば金が儲かるかもしれない。しかし、善であるとは限らない。
判断の基準には、正しいと思うけれど常識ではない。常識だとは思うけれど正しくないという事もあるのである。
金があれば、贅沢な生活が出来るかもしれない。しかし、美であるとは限らない。
真実だけど悪い事もある。真実だけど醜いこともある。事実だからと言って肯定できることばかりではないのである。
自分から見て現実に悪い事ばかりを誇張することは、現実主義ではない。況や、社会や環境の性にして自分の行為を正当化するのは、現実主義的ではない。第一、現実主義者は、解らないことはわからない、悪い事は悪いとした上で、確実なこと、正しいことを拠り所とするのである。
現実から目を背けては何も解決できない。自らの罪から目を背けたら、救済はない。確かに、醜い所も、悪い所もある。しかし、善い所も、綺麗な所もあるのである。未来を肯定的に捉えるか、否定的にとらえるかは、現実の問題ではなく。自らの問題なのである。理想も夢も現実的だからこそ理想であり、夢なのである。現実に立脚しているからこそ理想も夢を実現できるのである。それが可能性である。現実を直視することによって絶望し、可能性を捨てるは、諦めてしまうのは、自分なのである。
どうせ自分なんて、どうせ駄目だからというのは、現実主義的な態度ではない。それは現実逃避である。
現実は、坩堝のようにあらゆる価値観や規範を熔解してしまう。どんな理想も現実の前には、色褪せてしまう。しかし、それは現実が悪いからではない。現実の性にして高貴な精神を捨て去る者の問題なのである。
理想の問題は、必要性の問題でもある。しかし、必要性は、必ずしも現実的だとは言えない。では、理想は空想なのかと言えば、そうだとは言い切れない。なぜならば、理想にもそれなりの根拠があるからである。
空想が悪いのではない。空想と現実とを判別できずに、混同することが拙(まず)いのである。
現実主義というが、本当に現代人は、現実を理解していると言えるであろうか。目に見えない世界、自分が理解できない世界、不可知な世界をただ否定しているのに過ぎないのではないのか。
その反面で、ありもしない価値や架空の世界に踊らされているのではないのか。良い例が経済であり、金である。
そして、その非現実的な世界、仮想的空間、つまり、金融やインターネット上の出来事が現実の世界を大混乱に陥れている。それをただ、科学的とか、合理的だからと言う理由で現実主義的な出来事と言えるのであろうか。
我々は、現実に立脚した世界に住んでいると思い込んでいる。しかし、この現実が怪しくなり、また、仮想的な現実に取り込まれつつある。
インターネットやゲームの世界は、現実的と言いながら、実際は、非現実的な世界に惑溺している者が多い。仮想現実を現実と錯覚しているだけである。架空な世界を現実と錯覚し、逃げ込んでいるだけである。
経済主体は金を集めることが目的なのではない、分配が目的なのである。金銭上の利益は、その目的の延長線上で捉えるべきである。利益を上げることが目的なのではなく、利益を上げることで、継続的、安定的分配を可能とすることが目的なのである。故に、継続が一つの前提要素となるのである。
現実に多くの人が、何等かの産業に勤めて、そこから所得を得て家族を養い、生活しているという事が重要なのである。金儲けはその手段に過ぎない。手段に過ぎないが、その手段を失えば生活が出来なくなるというのが現実である。
貨幣主義的な世界というのは、本当に、現実主義といえるであろうか。我々は貨幣経済という虚構の世界にいるのではないだろうか。
金だけが現実なのではない。金をいくら稼いだところで、人生がなければ、意味がないのである。
本当に、現代人は、現実的といえるであろうか。現実を見ているであろうか。
それならば、なぜ、食料も自給でき、いろいろな物資も自前で生産できるというのに、生活が成り立たなくなるのか。また、一方で家が余っているというのに、もう片方で住宅が不足し、満足な家に住めない人達が溢れている。
経済は現実である。現実を生きることである。だからこそ、金儲けが全てだと経済は言い切れないのである。
昔は、生きる為には、食べる物を確保することが最優先であった。その次ぎに、住む場所と着る物である。逆に言えば、食べる物と住む場所が確保されれば、何とか生きていける。自給自足できたのである。そして、根本は自給自足であり、市場や貨幣は補助的な物だったのである。
本来社会は、食料の生産を基礎として、自給自足を目指すものである。アメリカへ欧米人が入植した際も、はじめにしたのは食料の生産である。
食料を生産できれば、かつては自給自足できたのである。現在、技術的には、少ない人手で大量の食料を生産することが可能である。食料を生産することが出来るのならば、自給自足できるはずである。
早い話、世間の景気がどうあろうと、生きていくことに事欠かないはずである。しかし、現在の農業は、自立できずに苦しんでいる。つまり、どれ程大量の食料を生産しても自足できないのである。
なぜ、自給自足できなくなったのかというと、それは借金があるからである。しかし、負債とは何か。それは、人間の意識が生みだしたものである。つまり、観念的所産である。負債のために、人間が生きられなくなったり、また、社会が成り立たなくなるとしたら、それは、虚構に現実が支配されていることを意味するのである。
現実とは何か。それは実物である。目で見て、触れる実体である。
例えて言えば、目の前に病で苦しむ人がいれば、それが現実である。家のない人がいるとしたら、それが現実である。放置すれば死んでしまうとしたら、それも現実なのである。その現実を直視するからこそ、貨幣の必要性も明らかになるのである。その現実から目を背ければ、いくら金儲けをしても非現実的なことしかできなくなるのである。
だからこそ、経済は現実だというのである。現実主義でなければならないのである。そのうえでの経済なのである。現実の上に立脚するから経済は成り立つのである。現実から乖離した時、経済は成り立たなくなる。
金融市場で起こっている混乱は、実物経済から金融市場が乖離したから起こったのである。それは金融は、実物経済との関連によって成り立っている。実体から離れた金融は、虚構なのである。ところが、貨幣は影である。媒体である。影は、実体があってはじめて成り立つ。その影が実体を支配してしまった。そこに混乱の原因が隠されているのである。
かつての銀行員は、謹厳実直の代名詞のようであった。仕事も用心深く、慎重なタイプが多かった。昨今のような投機的な行為は、厳に御法度だった。それは投資銀行といえども同様だった。
銀行員の価値観が変化したのは、銀行の業務の体質や収益構造、利益の質が変化したことによる。以前のような経営や仕事の仕方では、利益が上げられなくなってきたことに起因する。つまり、真面目にやっていたら、やってられないのである。
本来、銀行は、資金が余っている経済主体から、資金が不足している経済主体へ資金を融通するのが仕事だった。だから、金融機関というのである。しかし、適正な金利収入が得られなくなると、また、銀行から融資を受ける顧客が経ると銀行は、実物市場ではなく。金融市場から利益を得ようとするようになった。本来、金利は、収益をあげるための手段に過ぎない。ところがその手段が目的と化したのである。その時から、銀行員の価値観の質が変化したのである。
生業で利益が上げられなくなった時、銀行員は、自分達の道徳観を変質せざるを得ない環境に追いやられたのである。
アメリカは、サブプライム問題で大打撃を受けている。なぜ、この様な事態になったのか、それは、アメリカが金融という実体経済からかけ離れた市場にのめり込んだからである。金融市場というのは、本来、実物経済を補完する機能を持っている。実際的な利益を上げるのは、実物市場である。金融市場というのは、実物市場があって成り立っている市場である。いわば架空の市場である。その架空の市場が、実物経済以上の利益を上げるようになった。これは砂上の楼閣である。実体がない。激震に見舞われれば、土台から崩れ去ることは火を見るより明らかである。その結果、アメリカの製造業は、物造りを忘れてしまった。ゼネラルエレクトロニックGEは、世界最大の電機メーカーであったが、家電部門を売却することになった。今や、GEで最大の部門は、金融部門である。GMは、存亡の危機にあるが、GMの首脳は、株主利益を最優先すると言って憚らない。そこには、自分達の製品に対する誇りや顧客に対する配慮、従業員との一体感はない。
自動車産業や家電業界も然りである。本業の自動車や家電から利益を上げられなくなった時、アメリカの自動車産業や家電産業は変質した。アメリカの家電の雄だった、GEは、今や金融企業に変質してしまった。
かつて自動車産業を支えてきた人々は、自動車が好きでたまらなかった。同じ事は、家電メーカーにも言える。そう言った人々が近代産業を築き上げてきたのである。それがいつの間にか、金の好きな人達に入れ替わってしまった。そして、自動車という実体が価格という観念にすり替わってしまったのである。
そして、教科書でならった数式だけで企業価値を評価する。同じ教科書で、同じ理論で出される答えは、皆同じである。それが彼等の言う現実である。しかし、現実の商売は、机上で予測できることだけではない。そこには、現実の人間が居る。現実の企業を創業したのは、会計学ではない。本田宗一郎であり、松下幸之助であり、豊田喜一郎であり、彼等の才能を見抜いて支援した金融マンである。
彼等は、現実を見据えていた。
最初から儲かる商売はない。最初から採算が合うわけではない。ホテルの事業も最初の数年間は、赤字を覚悟しなければならない。人材も、ノウハウも長い時間を掛けて蓄積していくものなのである。それが現実である。ホテルのサービス一つとってもマニュアル通りには行かないし、また、それでは画一的なサービスしかできなくなる。
世の中は、多様であり、多様であるから成り立っている。現実は、単一な世界ではない。その多様性を前提として成り立っているのが社会なのである。
金が全て、金で何もかもが手にはいるというのは、現実的であろうか。金融の世界では、実体的経済から離れ、俗に、マネーゲームと言われる架空取引によって実物経済より以上の利益を上げている。
経済というのは、観念の世界の出来事である。我々は、一億円のダイヤを見ると目を見張る。しかし、ここで言う一億円という価値は、現実の価値ではない。市場経済、貨幣価値による価値である。何千年か以前には、この様なダイヤには何も価値がなかったであろうし、今でも、猫や犬から見れば、一億円と言われてもどのような価値なのか理解することは出来ないであろう。
経済学は、その前提からして非現実的である。それを現実主義として捉えていることが喜劇的であり、それを現実の政策としていることが悲劇的なのである。
例えば、人間は、功利主義的な存在といえるであろうか。経済的に功利主義的で合理的な選択をしていると言えるであろうか。
経済とは何か。目先の現象にとらわれずに、その根源を見ることである。経済とは、生きる為の生業である。金を稼ぐことではない。金のない世界でも、経済は成り立っていた。逆に、金のために経済が成り立たなくなることもあるのである。それが現実である。
現実に、住宅は不足し、一方で、住宅過剰になっている。なぜ、現実のこの問題が片付けられないのか。それは、経済が非現実的な世界に支配されているからである。
良い面であろうと、悪い面であろうと、現実を直視すべきなのである。それが現実主義なのである。必要以上に、美化することはないが、かといって卑下する必要もない。透明な目で事実を事実として受け容れることである。
現代人は、神を非現実的な存在として斥けた。その結果、現代人は、自らの存在という現実の基盤を見失ったのである。道徳心なき社会というのは、本当に現実的な世界であろうか。個人差を認めない社会もまたしかりである。現実主義というのは、現実を曇りのない目で見ると言う事である。現代人は、現実的という色眼鏡でまた現実を見るようになってしまったのではないだろうか。
参考文献
「強欲資本主義 ウォール街の自爆」神谷秀樹著 文藝春秋社 文春新書
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