相対主義

対象の存在は絶対であり、認識は、相対的である。

 対象の存在は絶対であり、認識は、相対的である。
 相対的と言った時、多くの人は、絶対的なものを否定する事によって相対的という概念が成り立っていると誤解している。相対的と言う概念は、絶対性を否定しているのではなく。絶対的な存在を前提としている。つまり、絶対と相対は、背反的な概念ではなく。補完的な概念である。全てが相対的だと言っているのではない。認識が相対的だと言っているのである。

 絶対的な存在は神の下へ。だから残された認識上の問題は、相対的なものになる。人間の意識は、不完全なものである。完全無欠な意識は神の意識である。人間は、分別を付けなければ対象を識別できない。それ故に、意識が働いた瞬間から対象の認識は相対化する。故に、絶対的な物が存在しないのではない。意識の働きが、対象を相対化しているのに過ぎない。それを前提として、対象を相対的な物として捉えていくのが相対主義であり、科学的認識の大前提である。故に、科学は相対主義なのである。

 経済的現象は、認識の問題である。
 経済の原則にしても、自然の法則にしても、仮に、こうだ、あるいは、そうあると定めた命題や方程式に基づいているに過ぎない。科学は、仮説を基として組み立てられている論理体系である。命題も定義された言葉によって成り立っている。そして、自明とか、所与、任意という前提に基ずくのである。

 経済は、観念が生み出したものである。人為的な世界である。貨幣経済下にあると貨幣価値は絶対的価値、全てに優先する価値のように見える。恐慌も、株の下落も、あたかも自然災害のように見える。しかし、暮らしの実体というものには、根本的な差はない。物の生産力や消費、必要性というものには、大きな差はないのに、景気だけが良くなったり、悪くなったりする。それは、貨幣の振る舞いが景気を操っているのである。物が溢れているのに、人々の暮らしが貧しいというのは、なぜなのか。よく考えてみよう。それを解明するのが経済学の仕事である。

 まるで、好況も不況も夢のようである。しかし、その白日夢が現実となり、戦争や内乱、革命、貧困の素となるのならば、事は深刻である。

 なぜ、貧困が生まれるのか。貧困とは何か。それは、人間の意識の深層にある。貧困や戦争の根本原因は、真理の側にあるのではなく。人間の側にあるのである。
 貧困を生み出すのも、差別を生み出すのも、人間の意識、即ち、認識の結果である。そして、その認識が分配に影響を与えるのである。それは、人間の制度を作るのも運用するのも人間であり、人間の意識だからである。貧困を生み出す仕組みも差別を生み出す仕組みも本を正せば人間が創り出したものである。自然に出来上がったものでも、神が創りだしたものでもない。いうなれば人間の失敗なのである。それを正せるのも人間なのである。貧困もまた相対的なものである。

 経済にも、絶対的な力というものは、少なくとも認識できない。経済的な力、及び、力が生み出す作用は、相対的なものである。

 現在の経済を動かしている原動力は差が生み出しているのである。差というのはどこから生じるか、それは位置から生じるのである。つまり、相対的なものである。
 差が生み出し位置が、ここの要素間の関係を決める。関係が決まると相互の作用、働きが明らかになる。ただし、これは認識上の問題である。実際にその認識が正しいかどうかは、現象に照らし合わせてみないとわからない。これが論理実証主義である。

 位置が関係を成立させ、関係が運動、働きを生み、運動は位置を変える。

 対象の運動は、単独で認識することはできない。対象の運動は、他の対象と関係付けられて認識される。その際、ある対象の動きに球対象が影響していると認識された場合、対象間には何等かの力が働いているとするのである。

 そして、相対的認識とは、対象間を関係付ける事によって成立するのである。特に、基本や原点を定めると基準が設定される。

 経済的価値は、相互に関連している。人間は一人では生きられない。人間は、お互いに助け合わなければ生きていけないのである。その人間関係こそ、経済の在り方を方向付ける。個人の生き様を決めるのである。

 人と人との関係には、父と子があり、母と子があり、妻と夫があり、友があり、同僚があり、仲間があり、同志がいて、仇がいて、敵がいる。人と人との間に働く力には、愛があり、憎しみがあり、恨みがあり、信頼があり、情があり、敵意がある。しかし、関係は相対的であり、絶対的な関係は誰にもわからない。それは神の領域である。

 資産と負債は相互に関連している。資産は負債の裏付けになり、負債は、資産を購入する原資となる。資産の時価と負債が微妙に影響し合って経営を下支えする。資産と負債の危うい均衡の上に経営は成り立っているのである。

 位置と運動と関係が定まると対象や現象は、空間的位置と運動と関係の問題に還元される。更に、時間的位置と運動と関係に還元される。時間的な位置と運動、関係に還元されると変化が明らかになる。変化によって空間を支配する法則や構成する構造が解明される。

 位置を定め、関係をつけ、運動を起こすのは、前提条件である。位置も、関係も、運動も相対的なものであり、認識上の問題であるから、前提が変われば違うものになるからである。故に、何を前提とするかが、決定的な要因となる。それが相対主義である。

 前提条件は、命題として表現される。前提条件は、命題によって定義される。前提条件は定義である。

 中流も上流から見れば、下流であり。下流から見れば上流である。全ては相対的位置によって定まる。問題は、何を前提とするかである。それは自分の立ち位置が決める。

 位置を構成するのは、要素間の差や距離である。運動は、動き、働き、変化である。関係には、支配、従属、対等、相互牽制、反発、斥力、引力、結合などがある。
 運動や関係には、力が働いている。力は、作用や働きになる。作用や働きは、機能、役割から生じる。この様な力も認識の問題であり、相対的である。絶対的な力というものは、認識できない。それは神の領域である。

 運動は変化である。時間は、変化の単位である。故に、運動は、時間の関数である。運動に対する認識も相対的なものである。故に、相対的な認識には、時間的変化も含まれる。

 不易、変わらないところと、変易、変わり続けるところがある。変わらないところと変わり続けるところを分かつのは、易簡、即ち、意識である。不変も変化も所詮は、認識の問題である。それが相対の問題である。

 変易、即ち、変わり続ける部分、不易、変わらない部分、易簡、それを意識する者がある。物事には、陰陽がある。何を陰とし、何を陽とするかは、認識の問題である。

 経済にも、変わり続ける部分がある。変わらない部分がある。しかし、それをどう受け止めるかによって経済に対する解釈が変わってくる。解釈が違えば対策も違ってくる。

 時間は、因果を生む。つまり、時間的関係は、原因と結果という関係を成立させる。

 現代の経済は、変化を前提としている。万物流転。諸行無常。永遠不滅。完全無欠。全知全能、無限、不変は神の領域である。
 現代経済は、変化を前提とし、相対的な価値に基づいている。現代は、経済を動的な現象として認識している。そして、その変化は、時間的価値を構成する。時間的価値は、変化を意味し、拡大、発展、成長を前提として経済は成り立っている。
 しかし、その発展、成長も相対的である。つまり、何を前提とするかによって拡大成長の意味も違ってくる。
 例えば、名目、実質の違いである。仮に、外見的数値、名目的には成長しているように見える経済でも物価上昇率を勘案、差し引くと横這いであったり、場合には下降していることもある。この様に、経済の変化は、相対的なものである。

 経済発展や成長は、相対的なものである。つまり、絶対的な成長も発展もない。成長や発展は、前提条件によって違ってくる。
 現代経済で問題なのは、成長、発展、拡大を自己目的化し、それが経済の本質、摂理、原理だと決め付けていることなのである。
 現代の日本のように、成長段階から成熟期に移行しつつある国では、むしろ、経済成長が止まり、成熟した市場、経済にどう対処していくかの法が重要なのである。

 市場が成熟期に至ったら、問題となるのは絶対数ではなく。相対数である。つまり、獲得量よりも、分け前が重要になるのである。絶対量や絶対額よりも配分、比率が重要となる。

 変化は、格差を潜在化させ、停滞は、格差を顕在化させる。変化は、運動に基づき、停滞は、位置を固定するである。






                    


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