価  格


 市場を重視し、自由競争を市場の原理とする市場原理主義者が跋扈している。しかし、その割に、自由競争とは何かについて、明解に述べられたものは少ない。
 要するに、自由競争というのは、国家や行政府の介入を極力なくし、市場の成り行きに任せておけば、なんとなるという思想である。
 故に、規制や制度のような煩わしいものはなるべく緩和し、場合によっては、撤廃してしまえばいいと言う考え方である。金融は、金庫番に徹していればいいのである。それは、無政府主義的経済である。

 しかし、自由という概念と、無政府という概念は、全く異質なものである。法治主義と自由は背反的な考え方ではない。

 市場で決定的な役割を果たしている要素の一つに価格がある。価格決定の仕組みは、市場の本質をよく表している。
 価格は、自由な競争だけで決められるわけではない。価格を決める手段は、競争だけではないのである。価格の決定手段を競争だけに特化したら市場本来の意味は見失われ、市場の機能は、働かなくなる。

 経済現象は、複数の制約の相互作用によって起こる。
 価格を決定するのは、市場における制約条件である。市場における制約条件の均衡が価格を決定する。人的市場には、手持ち資金や調達力と支出による制約がある。物的市場には、生産手段や生産量と消費手段と消費量による制約がある。貨幣には、信用力と流通量による制約がある。市場価格は、単純に需要と供給だけで決まるわけではない。

 競争という手段を活用するにしても、それは、制約の中の競争を意味するのである。また、制約をなくしてしまったら、競争も成り立たなくなる。制約をなくしてしまったら、競争ではなく、闘争になってしまうからである。

 TPOという言葉がある。TPOというのは、時と場所と場合のことを意味し、物事を判断する上での基本的な要素を指して言う。

 値段には、このTPOが重要な働きをしている。TPOの意味を良く知ることが値段の仕組み、価格の仕組みを理解することにも繋がるのである。

 値段というのは、時、場所、相手、物、状況によって決まる相対的価値である。絶対的な価値、基準ではない。値段、価格を絶対化しようとするのは、共産主義的考え方である。もっと極端に言えば価格その物を共産主義は、最終的にはなくそうとしている。それが、自由経済と、共産主義経済の決定的違いである。

 価格とは、絶対的な価値ではない。相対的な価値である。
 相対的であるから、生産や供給や分配を調節できるのである。そして、この機能こそが価格に求められる機能であり、市場に求められる機能なのである。
 逆に言うと価格を絶対化するとこれらの働きが機能しなくなる。

 価格は、第一に、時間に左右される。時間の影響には、一つは鮮度がある。時間とともに腐敗したり、劣化する品物がある。また、流行や相場の動きにも影響される。旬のものは高いと相場は決まっている。
 第二に、価格は、場所に影響される。産地から離れている場合は、費用に差がでる。また、国家の制度、即ち、税法や商法、会計制度によって価格は違ってくる。関税や国家の助成金によっても違ってくる。当然、自由主義か共産主義かによっても違ってくる。風俗習慣の影響も受ける。
 第三に、相手によって違ってくる。大口の需要家か、不特定多数かで価格は違う。情報の非対称性によっても違う。
 第四に、品質によって価格は違ってくる。品質によって商品の多くは格付けされる。また、ブランドの生むも価格には影響する。
 第五に、価格は、状況に左右される。価格は、需要と供給によって影響を受ける。為替の変動の影響も受ける。その国の政治状況にも左右される。農産物であれば、作柄のような出来、不出来や生産量の影響も受ける。金利差にも影響される。

 この様に、価格は、相対的な価値である。
 価格を決定する要素は、市場の働きや仕組みを構成する要素でもある。
 競争の原理とは、価格を構成する要素によって成り立っている。故に、競争の原理を定義する上では、市場の働きや仕組みを構成する要素に基づく必要がある。
 即ち、市場の競争は、第一に、競争の時間的制約。第二に、競争の場。第三に、競争の相手。第四に、競争する物。第五に競争の前提条件、状況を前提として構成されている。

 価格を決めるのは、市場である。
 市場に競争の原理が必要だとされる。では、なぜ、市場では、競争の原理が必要なのかである。その必要性が、市場の在り方を規定する。
 市場の原理を必要とするのは、第一に、労働の成果と報酬、即ち、分配とを結び付けることである。それによって経済の因果関係を明らかにし、個人や組織、社会にフィードバックすることである。
 競争がなくなると労働の成果と報酬とが結びつかなくなる。つまり、遣ってもやらなくても同じという状況を生み出す。会社が儲からなくても、国家財政が赤字でも、働く者には関係ないという状況を生み出す。
 2008年の金融危機の際、資本を注入された金融機関や企業の経営者の高額な報酬が問題となった。これなどは、経営結果は、経営結果。報酬は報酬という考え方の典型である。
 競争が労働と分配を連動しているという要素は、重要である。競争、競争といってこの原則を忘れてしまうと、競争本来の機能を失ってしまう。そして、寡占独占の原因となる。
 第二に、道徳、モラルの維持である。競争相手がいなくなれば、報酬に対する監視機構が働かなくなる。それは、モラルハザードの原因になる。相互牽制が働くことによってモラルは維持されるのである。
 第三に、意欲の向上である。競争のない社会において意欲が低下し、社会が成り立たなくなることがある。
 第四に、格差の是正である。競争がない事は、過剰利益を蓄積する動機になる。
 第五に、生産性と効率の向上である。競争によって生産性や効率は向上する。
 第六に、品質の維持である。サービスの向上である。競争のない社会では、サービスが悪くなるのは証明済みである。消費者に丁寧に接しようと接しまいと結果が同じなのでは、客あしらいがぞんざいになるのは当然の帰結である。
 競争がなくなり、独占的になると消費者不在、消費者無視が横行する。それは、自分の仕事に対する報酬と自分の行為が結びつかないからである。
 第七に、技術革新の促進である。競争がなくなると技術革新の動機が失われる。
 第八に、適正な価格の維持であり、価格が相対的な価値だからである。競争がなくなると価格を抑制する違約条件がなくなる。その為に、価格は、売り手によってどの様にも操作されることになる。
 価格は、相対的なものである。競争は、消費者の選択肢を増やすことである。複数の商品を競わせることによって消費者は適正な価格を選択することが出来るのである。

 競争は価格に還元される。競争の必要性は、価格を成立させる要因に求められる。つまり、競争の目的は、価格を成立させている要因、時間、場所、相手(対象)、物、状況から求められる。

 反対方向に働く作用を検討する必要がある。良い働きには、悪い働きも同時に作用していると考えるべきなのである。前に進むためには、後ろ向きに働く力が作用しているのである。

 競争を成り立たせているこれらの要素は、競争を阻害する要素でもある。競争を成り立たせている要因は、競争を成り立たせなくなる要因でもある。
 競争を成り立たせている要因が、逆に、競争を阻害する要因に変質するのは、競争を成立させている要因が変質するからである。
 競争を成り立たせているのは、競争を成り立たせている仕組みや状況である。

 また、競争を必要とする目的も一つではない。競争の目的は、市場の状況によって決まる。
 故に、競争を有効に成立させるためには、市場の状況の変化に合わせて市場の仕組みや政策を変える必要がある。

 競争の目的に反する競争は、無意味であり、逆効果になる。
 例えば、第一に、競争の成果と評価とが結びつかない競争である。
 競争の結果を、働きと報酬に結び付けるためには、ゴール、即ち、結果を清算する時と仕方が重要となる。
 過剰な競争は、寡占独占を生み出す原因となる。寡占、独占は、労働と成果を切り離す、結果を招く。
 第二に、道徳やモラルを損なう競争である。
 即ち、競争は、競争を成り立たせている前提によって成り立っているのである。
 競争は、スポーツマンシップのような精神を育む。競争には、規律が必要とされるからである。しかし、過剰な報酬は、かえって倫理観の崩壊を招く。また、過当競争は、不正を招く温床となりやすい。金儲けのためならば、何でもするという風潮や目的のために手段を選ばないと言う状況を生みからである。
 第三に、意欲を低下させる競争である。
 競争は、意欲を生むが、競争が激しすぎるとかえって意欲を低下させる。競争が激しく体力の消耗が限界を超えれば、急速に意欲も低下する。何事にも限界があるのである。
 第四に、格差を増長させる競争である。競争は、実力に基づくかなければ公正ではない。それ故に、公平なのである。しかし、最初から何等かの差が付けられていた場合、格差をかえって増長させてしまう。
 第五に、生産性や効率を悪化させる競争である。競争は、生産性や効率を向上させるとは限らない。サービス合戦や意味のない競争は、体力を消耗させかえって生産性や効率を低下させる。
 第六に、品質の低下に繋がる競争である。競争が激化し、価格にのみ収斂すれば、品質に対する管理が疎かになる。直接、製品に結びつかない保全や保安という業務が疎かになる。それが財の品質を低下させることに繋がる。
 第七に、技術革新を損なう競争である。
 急速な技術革新は、技術力や資本力のない競争相手を市場から駆逐してしまう。
 第八に、適正な価格を形成させない競争である。
 適正な価格と言って不当の廉売は、基幹業務の手抜きを招きやすく真面目な業者を潰してしまう。安く売るには安く売れるだけの要素がなければならないのである。

 定価が決められていると競争が成立しないと言うわけではない。定価が決められていても競争は行われる。書籍が良い例である。
 メディアの多くは、定価が決められている。それなのに、他の産業が価格に対する取り決めをしようとするとそれを極悪非道のような騒ぎ立てる。
 問題は、価格を固定するか、変動させるかではなく。固定させた方が、公正な競争が実現するか、どうか。又は、変動させた方が公正な競争になるかの問題である。それは、製品、市場に対する思想に基づくのである。

 競争は、競争を成立させている条件、前提が重要なのである。それによって、競争の目的が決まる。
 適正な競争を実現するためには、適正な競争を成立させている前提条件が重要なのである。
 そして、その前提条件は、時間と、場所と、相手と、物と、状況に支配されているのである。
 また、市場の状況は一定ではない。成長、成熟、衰退と変化を繰り返している。その市場の変化に応じて競争の有り様も必然的に変化する。
 競争を規制するのが悪いのではなく。規制が硬直的になって時代や状況の変化に対応できなくなることが悪いのである。闇雲に規制をなくしてしまえと言うのは暴論である。また、状況を見ずして、画一的に規制を緩和しろと言うのも乱暴な話である。

 経済政策とは、競争をいたずらに煽ることではない。
 競争の在り方というのは、画一的なものではない。競争ができると言うことは、制約条件がない状況を前提としているのではない。むしろ、制約条件によって仕切られた場を前提としているのである。それはスポーツを見れば解る。スポーツは、ルールのない空間を前提としているのではなく。ルールに基づいて制約されている場和前提として成り立っているのである。
 問題は何を競うかなのである。

 競争力は、競争条件に依拠している。競争条件は、収益構造に現れる。収益構造は、競争の前提条件が統一化されていることによって成立する。競争条件が違えば、競争は成り立たないのである。競争条件は、適用範囲を特定することによって統一化される。
 競争条件の適用範囲には、第一に、物理的、空間的範囲。第二に、人的範囲。第三に、金銭的範囲、時間的範囲がある。これは市場の場の範囲と重複している。

 市場経済を前提とするならば、市場取引に参加するものが利益を得られるようにしなければならない。市場取引に参加するものが利益を得られるような市場の仕組み、環境を整備する必要がある。それが市場経済における経済政策の大前提である。

 労働意欲が低下したら、意欲が上昇するような施策が必要である。
 品質が劣化してきたら、品質を向上させるような競争が成立する環境を整備する必要がある。

 経済的には、経営主体は、利潤を追求する事を目的としている。それなのに、経営主体が利潤を上げられないような仕組みを多くの為政者は、構築しようとしている。それは、経済行為を蔑視する倫理的傾向によっている。元々、経済的規範と倫理的規範は、次元を異としている。その点を前提としていなければ、社会構造は築けないのである。
 利潤が上げられないのには、利潤を上げられない理由、原因がある。その中で経営責任に帰す部分と経営責任に帰せない部分がある。その点を見極め、切り分けて対策を立てる必要がある。

 異質な要素が混在しているから市場は、機能するのであって、同質な要素だけに占められ純化されると市場は偏ってしまう。定常的状態に陥り活動が停止する。

 市場の取引は、取引が成立した時点時点で均衡している。故に、放置すれば、市場は、定常的状態に陥るのである。それ故に、市場を活性化するために、競争は不可欠な要件である。市場が成り立っているのは取引が成立しているからである。
 取引は、競争によって成り立っている。競争のない取引は、選択肢のない取引であるから取引自体が成立しない。交換は、力関係によってのみ成立し、強制でしかない。
 競争があるから、相対的な基準が成立する。比較対照する物がないところでは相対的価値は成立しないからである。

 競争を成立させてきた条件が変化すれば、その変化に合わせて市場の仕組みや政策を変化させる必要があるのである。

 重要なのは、競争条件の均一化である。多くのマスメディアは、安売り業者を称賛するが、安売りが出来るには安売りが出来る要因がある。その中には、正当的ではない手段も含まれているのである。
 掟破りの安売りが市場を土台から破壊してしまうこともある。

 労働条件が劣悪な上に低賃金で働かされている国と労働者の権利が、目一杯、認められている国とが同じ条件で競争をして、労働条件が劣悪で低賃金にで働かされている国の製品に労働者の権利が守られている国の製品が市場から駆逐された場合、それを公正な競争の結果といえるであろうか。
 必要な品質管理や規格を維持しようと努力している国と品質管理や安全性、環境汚染を無視している国が同じ条件で競争をしている場合はどうであろうか。消費国は、生産国に公害と貧困、環境汚染を輸出していると非難されるのは、競争条件が前提となっていないからである。

 競争の場ではなく、闘争の場と化している。市場は、お互いにお互いを競い合い、磨き合う場ではなくなり、弱肉強食の場になっているのである。競争を原理とするならば、競争が成り立つ場を実現しなければ、それは欺瞞である。

 閉鎖された市場ならば、競争条件の均質化は、保たれる。しかし、現在の市場は、開放されている。
 どこからでも廉価で高品質の製品や資金が流れ込んでくる。、そうなると雇用や産業が危機に陥る。かといって閉鎖的な保護主義は、各国の報復を招いて、経済を根本から破綻させてしまう危険性がある。
 だからこそ、構造的に市場や産業を保護する必要があるのである。つまり、前提条件をどう統一するかが問題となるのである。
 市場を閉ざせと言っているのではない。競争条件を同じにしろと言っているのである。

 規制は、合目的的な仕組みである。個々の条文や規定を取り上げてその是非をとても意味がない。規制というのは、ある目的に基づいた全体があり、個々の条文や規定は、全体を構成する部分に過ぎないのである。
 また、規制の目的は、前提にある。前提は、現実の経済状態、情勢に依拠し、導き出される。
 また、規制の目的は、前提にある。前提は、現実の経済状態、情勢に依拠し、導き出される。つまり、前提となる経済の現状や状態をどう認識し、将来の経済情勢や状況をどう予測し、どの様な経済情勢にしたいのかによって規制は、設定されるべき決まりなのである。

 私の子供の頃は、何でも定価があった。それ故に、私には、長い間、価格というのは一定であるような錯覚があった。しかし、実際には、価格は、絶え間なく変動をし続けてきたのである。そして、価格の変動には、波や傾向がある。
 しかも、価格は、一律に変化しているわけではない。個々の財によってそれぞれ固有の変化をしている。それを物価として一括りに考えるのは危険である。
 市場は、価格の変化に合わせて変貌している。価格は、市場を写す鏡でもある。
 価格は、価格を構成する要素に連動して動いている。原材料や商品を輸入に頼っている製品の価格は、為替の動向に左右される。石油製品は、石油価格の踊らされる。技術革新の激しい産業の製品は、設備投資の動向に影響される。農作物の価格は、その年の天候や作柄によって決まる。流行物は、消費者の嗜好、人気に支配されている。
 価格というのは、相対的な基準である。絶対的な尺度ではない。前提や状況によって絶えず変化し続けているのである。
 そして、価格を決定付ける要因は単純ではない。複雑な要素が絡み合って、価格は決定されている。価格を、ただ安ければいいとすれば、結局、商品は標準化されてしまう。それは、消費者の選択肢を狭めるだけである。
 市場は、単一でないから成り立っているのである。その為には、廉価ではなく。適正な価格を実現する事なのである。
 その為にも適正な価格は何かという問い掛けを絶えず忘れてはならないのである。





                    


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