法治主義

景気に対する法の働き


 なぜ、景気が良くならないのか。その原因は、企業が適正な利益を上げられず。家計が適正な所得を得られないからである。そのうえ、財政が赤字であるために機動的な施策が打ち出せないことである。

 経済主体を動かす力には、内的な力と外的な力がある。公共投資にせよ、金融政策にせよ、経済主体から見ると外的な力、作用である。それに対して、内的な動機に基づく働きが内的な力である。この様な働きは、内的な規範によって制約されている。
 公共投資や金融政策は、内的な動機に呼応することによって効用を発揮することが出来る。単純に、公共投資や金融を緩和しても企業が適正な利益を上げられるようになるとは言えないのである。
 金融を緩和したら、即、設備投資に結びつくわけではない。結局は、収支と損益に還元される。収益が改善される見込みがなければ、いくら金利が低いと言っても、投資も、雇用も伸びるわけにはいかない。儲かるあてもないのに投資したり、人を雇う馬鹿はいないのである。金融を緩和するのは、あくまでも資金の調達能力を改善することが目的なのである。
しかし、損益、貸借が改善されなければ、企業の資金調達力は改善されないのである。
 何れにしても適正な利益を企業が上げられることが前提となる。しかし、市場原理主義には、適正な利益という考え方はないのである。市場競争を絶対的な法則とみなす市場原理主義者は、予定調和という発想はあっても適正な利潤という考えはない。

 公共投資も金融政策も経済主体の内的動機、仕組みに反映されてはじめて効用を発揮する。

 マスコミには、企業が適性な利益を上げる事にすら反対する傾向がある。特に、自由主義経済に否定的なものや市場原理主義者には、その傾向が強い。しかし、企業は、適正な利益を上げることにより、継続的に、人を雇い、賃金を支払い、金利を払い、物品を調達し、納税をすることが可能なのである。つまり、景気を支えているのは、企業の利益である。景気を良くし、維持するためには、企業が適正な利益を確保できる環境を維持することが肝心なのであり、それは、国家の重要な役割の一つである。
 ただ競争を促し、安売りを奨励すればいいと言うわけにはいかない。

 利益とは何か。儲けるためには、利益という思想を理解する必要がある。我々は、利益という言葉を安直に使うが、利益という言葉の意味を正しく理解しいるとは限らない。利益とは何かと問うと利益は利益だよと答えるのが関の山である。

 利益というのは、自明な概念、所与の概念ではない。人為的、人工的概念である。つまり、これが利益だという定義に基づく。その定義は、会計的定義である。故に、今日の経済は、会計制度に則った体制だと言える。それなのに、経済問題を会計的に解き明かしたものが少ない。それが経済を不透明なものにしてしまっているのである。

 利益というのは、意図しないとあげられないものなのである。なぜならば、利益は、人間が創りだした概念に過ぎないからである。物理学的な世界に利益という概念はない。損得は、あくまでも、人間の世界の尺度なのである。むろん、擬人的に損得の概念を物理学的世界に持ち込むことは可能であるが、それはあくまでも、借りてきた概念に過ぎない。

 そして、利益という思想は、会計的な概念である。ある意味で会計制度が利益を生み出しているとも言える。そして、利益は、一足す一は二のような、唯一絶対な数値ではない。相対的な数値で、計算方法や基準を変える幾つも算出される値である。
 ところが多くの人は、利益は、与えられた値と方程式よって導き出される唯一の値だと錯覚している。

 企業は、基本的には、努力しないと儲からないように出来ているのである。人間は、働かないと生きていけないようになっているようにである。それ以上に、利益は、作られるものなのである。

 人間の経済的行動を律するのは内面の規範である。つまり、道徳である。企業の行動を決するのは、企業内部の基準である。特に、会計基準である。つまり、会計の基準は、企業行動をあたかも道徳のように規制する。しかし、会計基準は、道徳と違って相対的な基準なのである。
 この様な会計基準には、内部会計基準と外部会計基準がある。内部会計基準は、管理会計であり、外部会計基準は、財務会計基準と税務会計基準である。そして、それぞれが導き出す値は、違う値なのである。

 民間企業でも上場企業と未上場企業、同族企業では、行動規範が違う。必然的に経営の方向性、活動も違ってくる。それは、上場会社と未上場会社では、会計制度に対する考え方が違うからである。

 上場会社は株主利益を最優先にして、増収増益を至上命題とするのに対し、未上場、同族会社は、資金の流出を嫌がり、利益を最小限に留めようとする。反面、黒字でなと金融機関から融資を受けられないので、黒字を維持するように努める。上場会社は、赤字だからと言って必ずしも資金が調達できないわけではないから、必要とあれば一時的に赤字になることも拒まない。

 この様に、利益の捉え方は、一様ではない。

 金利や儲けを、罪悪視する考え方は、長く市場経済や貨幣経済の発展を阻害してきた。いまだに、金利は、悪だという発想は拭いきれない。士農工商と商人が最下層にあげられたのも、利益を専らにするからである。
 しかし、利益は、時間的価値である。時間的な価値があるから、貨幣も財も流通する。それを否定してしまえば、流通そのものを否定する事になる。
 適正な利益と金利を維持することこそ経済の構造を維持するのに不可欠な要素である。その為の決まりが経済法である。

 利益を上げることは悪い事ではなく。当然の権利である。ただ、それが偏ることが問題なのである。格差の素になることが問題なのである。

 成功者に対して、成功した事が間違いの元だというのは、妬みでしかない。成功者が富を独占した時にこそ、堕落が始まるのである。なぜならば、格差は相対的であり、成功者が成功を分かち合えば、格差は小さくて済むからである。それが経済である。そして、法の根源である。

 モラルハザードは、儲けすぎるから発生するという考え方がある。利益は、人間を堕落させるという考え方である。しかし、モラルハザードは、往々にして追いつめられることによって生じる。むしろ、苦し紛れに法を犯すことの方が多い。背に腹は代えられないのである。一概に、利益は、人間を堕落させるとは言い切れない。
 肝心なのは、適正な利益を上げられる環境である。儲けすぎるのも問題ならば、儲からないのも問題なのである。

 法とは規制である。法治国家というのは、規制を前提とした国家である。何でもかんでも規制を緩和すればいいと言うのではない。適正な規制であるか、否かの問題なのである。大体、市場参入できない外資による外圧に負けて、規制を緩和したら、儲からなくなって、日本から外資は撤退していったのである。

 現行の法は経営を目的としたものではない。取り締まるもの。

 法というのは、してはならないことを規定する傾向がある。反対にやっていいことは規定しない。なぜならば、法には報奨制度がないからである。

 経済犯罪とは何か。それを見極めることである。収益が上がらなくなってきたために、会計を操作することが間違いだとしたら、全ての企業は該当するであろう。経済犯罪というのは、自己の利益のために、市場の規律を破壊する行為である。つまり、市場を欺いたり、騙したり、破壊する行為によって不当に利益を得る事である。
 市場のルールに従っていながら、利益を出せなかったからと言ってそれを犯罪とするのは間違いである。ただ、不当に高い報酬得るのは、犯罪行為に近い。結局最後は人間性の問題である。人格の問題である。
 公の利益を度外視したところに、個人の利益は成り立たない。

 法が犯罪を作る。特に、経済法は、刑法と違い。人間の本源的な倫理というのとは、性格を異にする。人間が生きていく為の生業が根源にある。生きていく為の約束、決まり事である。故に、契約がある。
 それだけに、何が、経済にとって悪い事なのかを明らかにする必要がある。ある意味で思想的なものである。
 ところが、簡単に、また、善悪という基準で物事を決めてかかろうとする。儲けることは悪いことであるとか、商売は、人を欺くこと、金銭は賤しい、贅沢は敵だといった具合にである。しかし、経済法は、日々の生活や取引を洗練したところになりたつ掟である。それだけに、どの様な社会、どの様な生活を営むべきかについてよくよく話し合う必要があるのである。世俗的であるからこそ、大切なの取り決めなのである。

 今、企業に対する評価が、収益性に偏りすぎるきらいがある。どんなにあくどいことをしても儲けている企業が善であるという思想である。しかし、企業の存続を決めるのは、最終的には、収益性ではなく、必要性である。その国や社会にとって必要であることが企業存続の大前提なのである。その大前提の上に、適正な収益をあげ、金利を支払い、配当をし、納税し、賃金を支払えるような環境を整備することが重要なのである。

 問題は、方向性にある。常に、成長や発展を前提とし、競争を普遍的な市場の原理だと決めてかかり、その事で法を固定的に定めてしまうことである。そして、何が何でも規制を緩和すればうまくいくと思い込むことである。

 生産性や効率性が要求されるのは、競争力の必要性においてである。つまり、成長や競争を基本的に前提としているからそうなるのである。

 何も、競争や成長を私は、否定しているわけではない。競争や成長が全てではないと言っているのである。

 競争や成長を前提とする前に、どの様な社会を築きたいかを明らかにすべきなのである。競争や成長は手段に過ぎない。手段は合目的的なものであり、目的に合致した時はじめて有効なのである。

 効率を追求すると言う事は、例えて言えば、失業者が溢れている反面、大きな倉庫のような量販店しかないような街を理想としているようなものである。確かに、効率は良いかもしれないが、それが理想的な街とは思えない。景気対策の根本に失業対策があることを忘れているようである。もう一つあるのが、収益性の問題である。生産性や効率性の問題ではない。収益性をあげるために、生産性や効率性を考えるべきなのであり、収益性を犠牲にしてまで、生産性や効率性を計るのは、本末の転倒である。
 なぜ、儲けてはいけないのであろうか。小さな商店が成り立たないような経済がいい経済とは思えない。結局、無原則な効率化は、シャッター商店街を増やしているだけである。

 ある意味で暴力団が一番、資本主義の本質をついているかもしれない。しかし、一番肝心な本質を除いてである。その一番肝心な本質とは、資本主義を支えているのは、モラル、商業道徳だと言う事である。道徳がなくなれば、市場の規律は、失われ、最終的には、市場も資本主義も崩壊してしまう。目先の利益という観点からすると暴力団の行動は、まとえているように見える。しかし、長い目で見ると最も危険な存在である。では、暴力団のような組織のどこが資本主義の本質をついているのかというと、市場における金の働きに関してである。つまり、貨幣の働きを純化しているという事である。そして、金を得るために、手段を選ばないという点である。だから、彼等は、不況期にも金の儲け方に長けているのである。それだけに、危険なのである。

 重要なのは、どの様な国造りをするかの構想なのである。それこそが夢である。夢が失われたから、人々の意欲や道徳が失われたのである。






                    


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