場の理念


経済に与える場の作用


 場の力は、抗しがたい強さがある。株の値動きは、資本市場の場の力の方向によって左右される。この場の力に逆らうことは、かなりの勇気が必要である。百戦錬磨の相場師でも、相場に働く力を支配することは出来ない。結局、相場に働く力の方向性を読み、将来を予測して、場の力に従う以外にない。資本市場に働く力を制御しなければ、経済の安定はない。そして、資本市場を制御できるのは、個人の力ではなく。市場の仕組みなのである。

 所謂、コモディティ、成熟期に達した産業に対する安売りの圧力というのは強烈である。世論まで安売り業者の味方をする。何でもかんでもやすければいいという事になる。その商品の適正な価格というのはどこかへ行ってしまう。マスコミも、適正な価格ではなく。企業努力の不足の結果だと言う事になる。
 この様な価格圧力は、産業から収益力を奪い、構造不況業種へと転落させてしまう。最後には、産業そのものが成り立たなくなるか、寡占、独占体制に陥る危険性が高い。

 景気に対する認識に誤解がある。それは、経済に対する認識の間違いから来る。経済を単なる現象とみなし、合目的的な仕組みと考えないことに原因がある。そして、産業を構成する企業の目的を生産性や効率、競争力に置いていることである。
 その為に、場の力を制御できない。典型的なのは、市場である。市場は常に制御不能な状態に陥り、暴走する。それをあたかも神の仕業と考える学者が多くいる。その様な学者は、市場が荒れるのにまかせ、ただ、祈祷や雨乞いのようなことで市場が正常な機能を取り戻すのを辛抱強く待てばいいと考えている。市場の原理は、競争だけにあるわけではない。競争は、市場を制御する一手段に過ぎない。競争だけにしか、市場の機能、目的を置かないのは、アクセルだけでブレーキもクラッチ、ハンドルもない自動車のようなものである。市場を制御するのは仕組みなのである。その仕組みの部分的な働きが競争なのである。それは、ブレーキが車の速度を制御するための部品であるのと同様である。ブレーキだけが自動車ではない。アクセルだけが自動車ではない。ブレーキも、アクセルも、重要ではあるが、自動車という機械の全体の中の部分、部品に過ぎないのである。
 景気が悪いのは、企業が収益をあげられないからである。そして、家計を維持するだけの所得が確保されないからである。また、財政が収益を無視しているからである。
 つまり、エンジンだけが突出している車のようなものであり、均衡が悪いのである。
 景気を回復するためには、企業が適正な収益をあげ、適正な賃金を支払い、金利を支払い、しっかりと納税をすることが大事なのである。そして、それが、企業の目的であり、役割なのである。
 また、財政は、社会資本を充実させ、所得の再分配をし、公共の福利を実現し、社会の治安と国家の独立を守るための資源を確保できればいいのである。
 家計は、生活を維持し、家族を養い、社会に労働力を提供できればいいのである。つまりは、財政も、家計も、企業も国民を幸せにするための環境を整備することが経済の目的なのである。
 その様な企業活動や家計活動、財政活動が維持されるような市場環境を整えるのが国家の役割なのである。

 よく市場の失敗と言うことを言う者がいる。市場の失敗というのは、自動車事故は、自動車の失敗というような詭弁である。事故を起こすのは、人間であって自動車ではない。自動車には、意志はないのである。自動車事故を引き起こすのは、運転手か、それとも、自動車の仕組みに何等かの欠陥があるからである。自動車の仕組みに欠陥があるとしてもそれは自動車の責任ではない。自動車を設計した者や自動車を組み立てた者、製造した者の責任である。自動車が間違ったわけではない。それを自動車の失敗というのは、責任逃れの口実である。市場の失敗も同様である。
 市場を生み出したのは、人間であり、市場の仕組みを構築したのも人間である。そのことを忘れてはならない。

 競争の原理と、競争する事は何等かの法則、摂理のように言われている。競争は、万能の原理であり、競争さえしていれば、全ては解決するように言われている。それでありながら、競争の効能、意義について何ら語られていない。
 なぜ、競争が正しいのか明らかにされないまま、競争の原理が一人歩きをはじめている。

 競争の原理と言っても予定調和ぐらいが根拠であり、その根本は、神の手である。ある意味で信仰に近い。こうなると、競争の在り方を客観的に分析することが許されなくなる。市場原理主義者の中には、とにかく何でもかんでも競争さえさせていればいい。競争を阻害するものは悪だと決め付けている者さえいるぐらいである。

 第一に、競争が成り立つには、競争が成り立つような前提がある。それを無視しては競争は、成立しない。例えば、競争は、一人ではできない。この当たり前なことさえ、理解していない者が、市場原理主義者の中にはいるのである。

 競争が成り立つ前提を明らかにする前に、競争の意義や働きを明らかにする必要がある。
 競争の意義とは、第一に、競争には、合理化や効率化を促す働きがあることである。第二に、技術革新を促進する。第三に、相互牽制作用によって不正を明らかにする働きがある。第四に、調整機能を円滑にする。第五に、価値の流動性、変動性を高める。第六に、価値を相対化する。第七に、市場価値を均衡させる。第八に、市場価値の適正化がある。

 気を付けなければならない競争の問題点は、競争というのは、競争を抑止し、競争関係を解消する方向に働く特性があるという事である。つまり、競争を放置しておくと、競争は解消される方向に状態は向かうのである。競争状態を維持するためには、競争状態を維持する仕組み、装置が必要となる。それが市場の仕組みである。

 つまり、競争が成り立つ前提には、競争を成り立たせている仕組みが必要なのである。また、競争は、ルールによって成り立っている事を忘れてはならない。

 競争の持つ弊害には、第一に、競争は、手段であるのに、競争自体が目的化する危険性があるという点である。第二に、競争は、価値を流動化させ、不安定にする働きがあるという事である。第二に、競争は、価値を均質化、均一化させてしまう傾向がある。第三に、競争は、価値観に偏りや歪みを生じさせてしまうことがある点である。第四に、競争は、暴走を引き起こす時がある事である。

 現在は、価格、即ち、貨幣価値に競争の目的を収斂させてしまう傾向がある。つまり、競争を量によって判定しようとする事である。しかし、競争にも、質的側面がある事を忘れてはならない。例えば、品質や嗜好による競争である。質的な側面を競争に取り込むためには、先ず、何を、どの様に競争させるかの問題を明らかにする必要がある。
 ただ競争をさせればいいと言うわけではない。スポーツで言えば、陸上競技や水泳競技のように、ただ、記録を競うことだけがスポーツではないという事である。サッカーのようにチームワークをどの様に評価するかによって競争の有り様も違ってくるのである。






                    


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