構     造

内部構造と外部構造


 構造には、内と外とがある。外部の動きは、構造内部に影響を与える場合がある。とには、構造そのものを破壊することもある。故に、外部の動き、運動、働き、力が内部のどの部分に作用、関係付けられているかを把握する必要がある。

 貨幣にも内的貨幣と外的貨幣がある。例えば、日本では、円が内的貨幣であり、ドルや元、ユーロ等は外的貨幣である。
 銀行業務の始まりは、為替と両替だと言われている。両替や為替は、内的貨幣と外的貨幣を変換する仕組み、装置である。この事は、銀行の役割を考える上で重要な意味がある。近代的な金利も為替業務の中で形成されたと言われている。(「知っておきたい「お金」の世界史」 宮崎正勝著 角川ソフィア文庫 )

 例えば為替の変動が国内の経済要素のどこに連動しているかを認識し、為替の動きに併せて内部の仕組みを変化させる必要がある。変わる部分と、変わらない部分を見極めることである。ただし、内部から見て変化がなくても外部から見て変化する部分があることも忘れてはならない。

 為替も、物価も、問題は水準である。
 経済主体、即ち、企業、家計、国家の内側に働く経済を内部経済と言い。外側で働く、経済を外部経済という。基本的に共同体や組織内部に働く経済を内部経済と言い、市場経済を外部経済と言うが、国家や企業は、一部市場を内包している。
 外部経済の水準に変動が、内部構造の変化を誘発する。急激な為替や物価の水準の変動は、産業構造や家計構造に打撃を与える。物価の水準の変化に所得の水準の変化に追いつかなくなり、蓄えがなければ家計は、破綻する。家計の場合、所得と支出によってしか家計の状態は理解できない。

 為替の変動は、基本的には国家の外部経済の変動を内部構造がどこまで耐えうるかという問題である。国家の内部構造には、企業、家計、財政があるが、為替の変動がどの部分にどの様な影響を与えるのかを見極めない限り、是か非かを明らかにすることは出来ない。しかも、変化のタイミングや個々の要素間の変化の時間差、速度が重大な要因となる。

 経済単位は、基本的に共同体である。経済単位を結び付けているのが市場という場である。逆に言うと、市場という場があり、市場という場を結び付けている媒体が経済単位だとも言える。
 この様な経済単位には、内部構造と外部構造がある。そして、共同体の内部構造は、外部構造とインターフェース、接続部分によって繋がれている。

 外部構造と、内部構造とを調節するための変圧器のような仕組みを必要とするのは、内部経済や構造を保護するために当然なことである。

 為替相場の急激な変動に対し、国内の市場を保護するための、仕組み、装置、制度を設けるのは、当然の権利であり、義務である。また、何等かの政策や行動をとるのも国家という共同体を守るためには、必要な処置である。

 国家というものを一個の共同体と見る。その共同体内部の生産、分配、支出から市場の貨幣的規模を計算したのが、国民計算である。
 生産、分配、支出の額は、基本的には一致する。これを、三面等価の原則という。つまり、生産、分配、支出は一つの経済を三面の側面を現しているのに過ぎないという事である。
 生産は、国内の消費財の生産額と国内の投資財の生産額からなる。
 所得(分配)は、付加価値、即ち、賃金、地代、利子、利潤からなる。付加価値は、即ち、賃金を除く、地代、利子、利潤は、時間的価値の素となる。また、賃金と物価上昇分も時間的価値を構成する。
 支出は、消費と投資からなる。投資は、設備投資、住宅投資、公共投資があり、それぞれ投資主体の違いによる。投資主体は、家計、民間企業、公共機関からなる。

 国民総生産は、一国における一定期間の経済活動規模を貨幣価値で表した指標の一つで、国内総生産(GDP)に海外からの純要素所得を加えたものである。日本では、経済企画庁が、2000年の国民所得総計から、GNP(国民総生産)をGNI(国民総所得)に変更している。
 GNIは、GNP(国民総生産)を分配面から見たもので、GNP(国民総生産)を支出面から見たものは、GNE(国民総支出)となる。また、これらは等価であり、これを「三面等価の原則」と呼ぶ。

 この様な、経済の三面等価は、経済構造を現している。
 また、三面等価というのは、経済の三次元性を示しているといえる。これに時間軸を加える時空間が構成される。即ち、経済的運動は、三方向のベクトルをもっているとも言える。

 国民総生産は、国内の生産に国外からの流出入を加えたものである。国外からの流出入は、輸出が超過している場合は、プラスになり、輸入が超過している場合は、マイナスになる。

 賃金は、定昇分の上昇を常に見込んでおく必要がある。そして、少なくともそれは物価上昇分に見合うものである必要がある。

 物価は、時間軸の基準でもある。実質と名目という形で物価変動は、時間軸の中に取り込まれる。

 人件費が、単なる賃金として割れきれないところが問題なのである。人件費は、賃金であると同時に、生活費であり、その人に対する評価でもあるからである。
 それは、経済単位が共同体であることを意味している。かつては、経済単位である共同体が内部で生活に必要な物を生産し、足りない物を外部から調達していたのである。ところが今は、生活や活動に必要な物、全てを外部から調達しなければならないようになっている。その為に、物資が充分に行き渡らなくなってしまったのである。

 所得と支出は、作用反作用の関係にある。収入と支出は作用反作用の関係にある。受取側の収入は、受け渡し側から見ると支出であり、受取は、必ず受け渡し側の存在を前提としている。この様に収入という行為は、反対側に支払と言う行為が伴っている。そして、この二つの行為は均衡している。
 支出は、消費と投資に分配される。投資とは、将来の支出の繰延である。
 所得と消費、所得と投資は作用反作用の関係にある。投資は、債権と債務になる。債権と債務は、作用・反作用の関係にある。

 家計も基本的に共同体である。つまり、市場とは違う原理が作用している。夫と妻、母親と父親の関係は、貨幣的、雇用的関係ではない。
 家計は、経済構造の縮図である。つまり、家計は、産業構造の鏡である。また、市場構造や構成の鏡でもある。
 第一に言えるのは、消費性向は、産業構造を反映しているという事である。衣食住と言った生活の基盤にかかる出費、それから、教育と言った未来への投資、また、遊興費や小遣いと言った使い道とその占有率が経済の軌跡を現している。
 第二に、貯蓄と借金の比率である。貯蓄と借金の混在は、違和感を覚えるかもしれないが、それは、貨幣の現在価値への嗜好を現しているとも言える。即ち、流動性の問題である。何れにしても、国民の経済感覚を如実に現していると言える。

 アメリカ人と日本人の違いとして預金率のことが言われる。日本人は、貯金を好み、アメリカ人は、借金を好むと・・・。しかし、それは、消費性向と流動性に対する考え方の違いであり、貯金と借金というのは、費用の前払いか、後払いかの違いに過ぎない。貸すか、借りるのかである。問題は、現在の状況をどう捉えるかの違いなのである。ただ、預金と借金では、経済に対する働きが違うのである。それ故に、それぞれの位置が重要となる。

 家計の構造的変化は、産業の構造的変化を促す。家計は、家族の有り様によって決定付けられる。つまり、生活様式の変化が決定的要因となる。その根本は、国民の価値観の問題に還元される。故に、経済は文化なのである。

 人間関係なき社会。人間関係が築けない社会。その様な社会において経済の根本を考えてみたところで何もならない。経済というのは、人間関係の中で成立するものなのである。人間関係が成立しないところで、いかに、効率性や生産性を議論しても経済的には何の意味もないのである。

 経済主体が経済的に成立するためには、収入と支出が均衡している必要がある。それは、収入と支出の水準の問題である。損益は、それを一定の期間の収益と費用の問題に還元したものである。基本的に、会計上においては、負債、資本、収益が収入を意味し、資産と費用が支出を意味する。資産と費用を分けるのは、速度の問題である。
 負債や資本の減少は資金の流出である。負債と資本、収益の増加は、資金の流入を意味し、逆に資産や費用の増加は、資金の流出であり、資産の減少は資金の流入である。これが重要なのである。
 同じ資金の流入でも負債や資本の増加は、債務の増加を意味し、収益は、債権の増加を意味する。逆に、資金の流出でも資産は債権の増加、費用は債務の増加を意味する。

 企業の収支と損益とを分離したのは、その様な水準の変化を直に企業業績に反映すると企業経営が環境の変化に適応できなくなるからである。会計は、資産や負債、収益、費用などを分離し、それぞれの勘定の仕方を変えることによって環境や状況の変化を緩和できるような仕組みになっている。収支というのは、収入と支出という現金の動きを時価に表したものであるから、環境や状況の変化に対応しきれないのである。収支と損益を切り離した理由も、収支だけでは、水準の変動を単純に説明が付かない事も一因である。

 資金さえ回っていればとりあえずは企業は、存続できる。問題は、企業活動の費用対効果の対比なのである。

 また、企業会計は、損益であるのに対し、家計や財政は、収支である。それ故に、国家全体の損益は均衡しないでいる。何等かの形で、企業、家計、財政の整合性をとらない限り、統合的計算に遺漏が生じてしまう。得に、公会計と会計制度の整合性がとられなければ、市場の基準を、損益によって統一する事が計れない。

 共同体内部で生産される生産財を貨幣換算し、費用化すると共同体全体としては、赤字なる。経済的価値は市場だけで生み出されるものではない。市場は、経済の仕組みの一部に過ぎない。市場に経済的価値の全てを還元しようと言うのは、最初から無理がある。強引にそれを行えば、経済は、破綻してしまう。
 共同体の働きを否定する事で、その兆候は現れている。市場価値だけで家計や企業、財政の収支を均衡させようとしたら、家計も、企業も、国家も全て赤字になる。市場の働きは、重要であるが、市場は経済の一部に過ぎない。一部である市場を経済全体に替えることには、最初から無理がある。本末転倒である。

 経済を市場だけで限定的に捉えていると経済の本質を見誤ることになる。また、経済そのものは、合目的的なものである。そして、経済の目的は、本来共同体の側にある。つまり、内側にある。市場は、その為の媒体に過ぎない。その為に、市場で問題になるのは、市場の機能である。市場の働きである。故に、市場経済だけで限定的に経済を捉えようとすると目的が見失われ、機能的なものに陥りがちである。しかも、貨幣経済体制下では、市場の機能は、貨幣によって実現する。その為に、貨幣が必要以上に力を持つことがある。状況によっては、貨幣が絶対的な力、全てであるような働きをする場合すら生じる。
 貨幣は、経済目的を達成するための道具に過ぎない。また、その為だけに働きを限定すべきなのである。

 金儲けを悪い事のように言うが、企業が利益を上げなければ、所得も、納税も増えないし、金利も支払えないのである。増えないどころか、減る。下手をすれば、企業は倒産し、失業者が増える。経済は悪循環に陥る。また、家計が消費しなければ、企業は儲からない。国庫も豊かにならない。要するに、企業は利益を上げることが経済を活性化し、安定化させることに繋がるのである。
 不当に暴利を貪ることは許されない。しかし、企業が、適正な利益を上げることは、経済を安定させることである。それはひいては、民生を安んじることである。企業が適正な利益を上げられるような施策や仕組みを作ることが国家の役割なのである。










                    


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