構 造
税制度と構造
税制は、思想である。それは、何に対して税を課すかという事は、国家論の本質に関わる問題であるからである。しかも実利的な問題でもある。それ故に、税制度の本質は、国家観、国家思想に根源がある。
ところが、世間一般の認識では、実利に直結している事を、思想としない傾向がある。それが、思想や哲学を不毛としているのである。人間の生き方に何の影響も与えないような思想や哲学は、研究するのに値しない。そう言う意味では、税制を考えることこそ最も思想的行為であり、哲学的行為である。
税を考える場合、まず、国家観を明らかにする必要がある。階級的国家を前提とするのか。平等を前提とした国家にするのか。自由主義的国家にするのか。国民とは何か。私的所有権を認めるのか。私的所有権を認めるとしても、私的所有権をどの様な範囲で認めるのかと言った点を国家を建設するにあたって定義する必要がある。その上で、どの様な国家を目指すのかを明確に定義する必要がある。そして、国民国家においては、それが憲法として明文化されることを原則とするのである。
今日の国民国家は、自由と平等を原則とする。
この様な国民国家においては、自由とは何か、平等とは何かを制度を持って定義することを前提とする。いくら観念的な美辞麗句を並べても、制度的に矛盾していれば、それは、国家体制が国家の思想に矛盾することになる。言葉よりも法や制度の方が、その国家の思想を体現することになる。
特に、税制は、国家の基盤となる思想を形成する。
税制は、国民国家の有り様を規定する。故に、何が平等か。また、どの様な状態にしたいのかを明らかにする必要がある。
その根本は、課税対象を何にするのか、課税者は誰なのかが、決定的な要因になるという事にある。
課税対象には、フローに対するものと、ストックに対するものとがある。
フローに対するものは、生産(付加価値)、分配(所得)、消費を課税対象とする。ストックな対するものは、所有と存在に対するものである。基本的に、ストックに対する課税は、受益者という事が、フローに対する課税は、経済の実体を反映しするという事が根本にある。
課税対象を何にするのかは、本来、思想である。その思想を構成する意義は、対象の働きによるものである。つまり、課税となる対象が国家理念に対してどの様な働きをするかが重要となる。
平等を国是としていながら、税が不平等を増長したり、格差を制度化する働きがあれば、それは国家理念に反することとなる。
私的所有権を肯定し、組織的な働きや市場の自由の活動を前提とするならば、個体差を受け容れる必要がある。
また、経済的自由は、私的所有権を前提とする。自由と平等を両立させるためには、個体差の中の何を受け容れ、何を認めないかを制度的に明らかにする必要がある。それが思想なのである。哲学なのである。そして、思想や、哲学の使命なのである。
自由と平等を実体的にする制度の一つが税制度である。
企業と家計と財政は、何れにも明確に属さない境界線的部分がある。それを何等かの形で分担している。たとえば、育児や介護と言った部分である。家族、国家、企業が、育児や介護といった公と私が重なる部分を何等かの形で分担している。その部分をどの様に考えどの様に分担するかが、重要なのである。その境界線の部分に税と給付金のような福祉制度が入り込むのである。それによって、私的所有制度や所得の差によって依って生じる経済的偏りを是正するのである。
財政と、企業と家計の分担を明らかにするためには、国家、経営主体、家族の有り様を明確にする必要がある。
国家とは何か。仕事とは、何か。婚姻とは何か。家族とは何か。親子の絆とは何か。産まれると言うことは何か。病むとは何か。老いとは何か。死とは何か。人生とは何か。個人の幸せとは何か。それは思想である。自然の原理ではない。
故に、税の根本は、思想であり、国家の思想を体現化した制度が、税制度なのである。そして、広義の税制度とは、徴収から消費まで過程を指して言うのである。
企業に年金や医療保障を負担させるならば、税制度として、あるいは、福祉制度として、市場制度として、企業経営に反映できるようにしなければならない。一方的に企業に負担を押し付ければ、企業経営はなりたたなくなる。
多くのアメリカの企業は曲がり角に立たされている。かつて、多くのアメリカの企業は、理想を掲げていた。今日、アメリカの企業は、金儲けの手段にしかならなくなりつつある。投資家にとっては、企業は、金の卵を産む卵に過ぎない。世界一の自動車を作るとか、人々に快適な生活を提供し、その利益で、志を同じくする仲間の生活を保障すると言った事業本来の夢や使命は、色褪せ、衰退してしまった。
アメリカは、企業に理想を求めながら、企業の置かれている現実を直視してこなかった。多くのアメリカの企業が目指したのは、経済的に独立した運命共同体である。
アメリカの企業が苦況に追い込まれた背景は、夢や使命に裏付けされた実業の部分が失われたことにある。企業を成り立たせているのは、金だけではない。それを忘れると企業は、魂のない屍のような存在になってしまう。
企業は、貨幣的機関であると同時に、人的機関でもあり、物的機関でもある。人的機関だと言う事は、企業は、共同体である事を意味する。つまり、人間関係によって成り立っていると言う事である。
これは、家計にも言える。家族は、単なる同居人ではない。金銭的な関係だけで繋がっているわけではない。大切なのは、愛情である。家族の絆である。その部分を否定してしまったら、家族は成り立たなくなる。家計だけで家族は成り立っているわけではない。
公と私の問題もしかり。人間は、社会的生き物である。個人には、公の部分と私の部分がある。公が全てではなく。私が全てではない。公と私の均衡によって個人の立場は保たれているのである。税制度は、その公と私の間にあって公と私を成り立たせている仕組みなのである。
税の必要性と目的を明らかにする必要がある。その上で、税の働きを検討するのである。税の必要性は、国家目的から求められる。国家目的は、国家の存在意義から導き出される。国家目的の第一義は、国家の存在と独立である。故に、国家目的は、国民の生命財産の保障にある。つまり、治安と国防である。つまり、これが税の使い道の第一義である。その上で、民生の安定と国民の福利である。その為に、社会資本の充実と維持がある。そして、国家の存立意義、即ち、建国の理念である。これらが、税の使い道である。
そして、税の問題は、必然的に歳入と歳出の問題になる。つまり、国家目的を実現するための資金をどの様に調達するかの問題である。それは、必然的に貨幣制度の問題に転化する。なぜ、国家は、税に頼らず、必要な資金を必要なだけ発行しないのかである。それは貨幣の働きにあるからである。
貨幣は、市場における財の総量に規制される相対的価値基準である。故に、貨幣の総量は、市場から切り離されると成り立たなくなるからである。通貨の発行は、現実の経済と実態的に関連付けられていなければならない。それが、税と貨幣制度を規制しているのである。それ故に、税として回収され放出されることによって市場と通貨の流量は規制されるのである。この点をよく考慮しないと公共事業の効用は理解できない。問題は、税の波及効果の範囲なのである。
故に、税の働きは、貨幣の働きに連動している。また、必然的に財政機能をも規定する。
市場や経済を反映するというのならば、税でなくて、収益でもかまわないのである。要は、経済に連動していれば良いのである。何が本質かを常に見極める目を養わなければならない。
税の機能は、税を徴収する目的と税の使い道双方から、検討されなければならない。税というのは、ただ闇雲に徴収して良いというのでもなく。無目的に使われて良いというものでもない。不必要に税を徴収するのも、税の無駄遣いも国家社会の在り方を歪める原因となる。税は、納税者、徴税者、双方から厳しく監視される必要がある。
税の働きというのは、重要である。需要であるという認識はあるが、増税、減税論議が先行してしまい。税の機能や働きというのが見逃されている場合が多い。増税や、減税は目的ではない。また、税は、利権に結びつくと始末が悪い。税は、国民のために活用されるべきなのである。その本質を忘れると、税は、国民に負担を強いるだけの制度になる。大切なのは、税の働きである。
税は、税が掛けられる対象や考え方によって、その働きに大きな違いが現れる。そして、それは、経済全般に多大な影響を与えるのである。
また、税の活用方法も然りである。税は、納税者にとっても徴税者にとっても重大な意義があるのである。
その意味では税制そのものが思想だと言っても過言ではない。
税のために、企業が倒産したり、成り立たなくなったり、継承できなくなったり、利益が上げられなくなったら、本末転倒である。税は、納税者を、生かさず殺さずといった発想が封建時代にはあった。しかし、国民国家においては、国民を生かすことが税の目的である。国民生活や企業、そして、国家財政が成り立たなくなるような税の在り方、使い方は、封建時代よりも猶、質が悪い。税は、国民にも、企業にも、財政にも負担に働くことがあることを忘れてはならない。逆に、税は、その在り方によっては、国民の為にも、企業の為にも、国家の為にもなるのである。
何に対して税を掛けるべきかなのである。また、税とは何か。税にどの様な働きがあるかである。その働きも、税を納める側と、税を徴収側それぞれのどの様な作用を及ぼすかが重要なのである。また、経済全体にどの様な作用を及ぼすのか。税の性格は、どの様なものなのか。それは、税の種類によって違ってくるのかである。
税は、利益に対して掛けられるべきなのか。それとも、資産に掛けられるべきなのか。企業の存在や外形に掛けられるべきなのか。また、税は費用なのか、利益処分なのか。
税は何等かの対価を伴うものかである。経済効果というのは、基本的に作用反作用の働きを持つ。例えて言えば、納税者側に対しても、徴税者に対しても作用反作用間の働きがある。つまり、納税という行為は、常に、それの伴う反対側の作用がある。その双方の作用、働きを見極めることが重要なのである。
税は、資産を対象とすべきか。個人を対象とすべきなのか。それとも、所得や利益を対象とすべきなのか。消費を対象とすべきなのか。外形を対象とすべきなのかそれは、税の目的によって変わる。税の目的とは、税に期待すべき役割、機能、それから使い道である。つまり、税に期待されているのは、本質的にその機能、働きなのである。どの様な働きを税に期待するのかが明らかにされてはじめて、増税や減税の議論が成立する。ただ、政治家の人気取りや選挙対策として税が用いられれば、最悪の結果がもたらされる。それは、国民の生活を根底から覆してしまうのである。景気対策と言うだけで、公共事業を発動するのはリスクが大きすぎる。問題は、公共事業の内容であり、波及効果の範囲の大きさである。また、その効果の持続力である。
税というのは、制度の在り方そのものが思想なのである。
経済の実体が問題なのである。一方に、家のない人間がいて、もう一方に家が余っている。それが、現実である。なのになぜ、家が分配されないのか。それは、経済の仕組みがおかしいのである。
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