構     造

市場に対する経済政策


 2008年に端を発する金融危機も背景には、サブプライムローンや証券化に対する規制の問題がある。規制を問題とする時、どの様な目的で何を規制するか、あるいは、したか、また、どの様な手段を用いたかが問題なのである。それを実証的に分析することである。ただ、規制をなくして市場の原理に任せてしまえと言うのは、一種の宗教的信条に近い。

 かつて、外資の圧力で市場開放を多くの市場で行った。その結果、企業収益が悪化して結果的に進出した外資も撤退を余儀なくされた。それは、目的と手段の不適合が原因である。市場を開放する事と規制を緩和することは必ずしもイコールではない。

 経済的現象は、時間の関数である。経済現象は、経済の表層に現れてくる動的な現象と深層にある静的存在によって引き起こされる。例えば金利は、元本と時間の関数である。また、償却資産の価値も資産価値と償却費とによって計算される。
 経済政策は、この動的(流動的)部分と静的(固定的)部分に対するどう働きかけによって為される。そして、その手段は、経済の仕組みが、どう動的な部分や静的な部分に作用するかによって決まる。

 また、動的な部分を基礎とするか、静的な部分を基礎とするかによって現象の捉え方かが微妙に違ってくる。なにが正しいかは、状況や事情、前提、目的に従って任意に決める事である。

 動的な部分や静的な部分の働きをみる上で重要になるのは、個々の要素の有り高、残高の水準である。

 ストック(固定)部分の水準が重要な意義を持つ。例えば、為替の水準、在庫の水準、失業者の水準、人口の水準、年齢構成の水準、生産量・収穫量の水準、通貨量の水準、金利水準、国債残高水準といった水準である。
 水準には、失業率のような人的な水準、生産量、収穫量などの物的水準、為替の水準や金利水準のような貨幣的水準がある。また、名目的水準と実質的水準がある。
 また、これらの水準は、絶対量の水準と相対的率の水準の両面から考える必要がある。
 相対的水準というのは、第一に、時間の経過に基づく推移を表したもの、第二に、ある全体に占める割合を示した割合、第三に、何等かの対象と比較し、その基準や対象に対する比率を示したものがある。第四に、何等かの基準を設けて指標化、指数化することである。
 これらの水準は、一つの目安となり、また、経済政策を執行していく上での計器の役割を果たす。
 水準をみることによって変化しない部分(不易)、変化する部分(変易)をよく見極め。それを単純化、法則化すること(簡易)が肝心なのである。
 経済的現象は、単価×数量×時間で表される。即ち、貨幣価値と数量(物・人)と時間の関数である。貨幣価値と数量と時間の、何を基数とし、何を変数とし、何に働きかけるかが経済政策の要点である。

 経済は、人為的な空間に生起する現象であるから、経済制度や経済機関というのは、任意な設定条件に基づいている。
 市場や経済の仕組みは、所与の条件が与えられているわけではない。経済制度を設定した時の条件は、条件を設定する上での前提条件によって成り立っている。故に、経済政策の働きを理解するためには、この設定条件と前提条件を確認する必要がある。つまり、初期設定が重要になるのである。そして、合目的的である経済政策は、その目的が決定的要因となる。

 経済政策は、何を前提とするかによって違ってくる。経済政策を立案する上での前提要因には、制度的前提、原理的前提、物理的前提、環境的前提、主体などがある。制度的前提には、会計制度や為替制度、金融制度、貨幣制度、市場制度、法制度、経済体制、政治体制などがある。
 原理的前提には、会計公理や会計原則、複式簿記の原則、市場原則、取引原則などがある。
 物理的前提としては、人口、資源、気候、交通、インフラストラクチャーと言った前提がある。
 この様な経済の設定条件を左右するのは、経済に対する思想である。

 保護主義的な政策は、間違っているというような意見がみられる。しかし、その場合、何が何でも保護は悪いと言っているような者も見受けられる。しかし、問題は、何から、何を保護するかであって、消費者保護や金融制度の保護まで保護主義的だと断罪するのは行きすぎである。
 ただ言えることは、保護すべきなのは、市場であって、特定の企業だったり、産業ではないという事である。

 今の日本は、何でもかんでも、基本的に安いことはいいという前提に立っている。しかし、ただ安ければいいと短絡的に考えるべきであろうか。価格を維持するための努力は、社会悪と決め付けていいのであろうか。安く売るという事は、安くできるという事である。ところがこの安くできると言うところに落とし穴がある。ある限界を超えて安くするためには、何かを犠牲にしなければならないという事を忘れてはならない。

 製品と貨幣を生み出して、ただ、流せばいいと言うような経済構造になっている。それが問題なのである。そこには、経済とは何か。経済本来の目的や機能が忘れられている。

 なぜ、安売りが横行するのか。それは、現在の産業構造が原因である。多額の設備投資をし、その投資を回収するためには、設備の稼働率を高めるのが最も効果的だからである。つまり、巨額の投資と生産性の向上が至上命題となるから、安売りが横行することになる。いわば、大量生産によって安売りが横行し、大量消費を促すという構図になる。
 この様な安売りは、巨額の設備投資を前提とする。故に、設備投資に必要な資金を調達できない企業は淘汰されていく。しかし、何でもかんでも大量生産がいいというわけではない。大量生産は、財の質を同質化する特徴がある。その為に、消費者にとって選択肢が狭められる結果を招くことになる。また、市場の独占や寡占をもたらす。また、巨額の初期投資は、巨額の負債を前提とし、長期の返済、費用の固定化を意味し、廉価販売は、恒久的な収益の低下をもたらす。それが実物市場を衰退させる原因ともなる。つまり、構造的不況の要因となるのである。

 安ければいいではなく。あくまでも、適正な価格を維持することが重要なのである。

 この世の中には、金で片付かないことはいくらでもある。金に代えられないものもいくらでもある。また、金に換算できないものはいくらでもある。一番、良い例が、愛情である。親子や恋人の愛情を金に換算するほど野暮なことはない。
 金は、相対的な基準である。絶対的なもの、つまり、比較対照する物がない物の価値は、計れないのである。神への信仰心は計れない。愛国心も計れない。友情も金に代えられる物ではない。つまり、基準が違うのである。市場は、貨幣によって支配されている。故に、不道徳な世界なのである。不道徳だから、法によって規制するのである。
 逆に、家族や仲間、地域コミュニティ、学校という共同体は、道徳的世界である。だからこそ、法以外の基準に拘束されるのである。
 この世の中には、共同体的世界と市場的世界がある。つまり、金銭的な世界と、金銭的でない社会とがある。それぞれの世界が共存することによって世界は成り立ってきた。その境界線を超えて市場が全てを支配しようとしている。それが、現代社会の問題の根底にある。
 妻の作る料理とレストランで作る料理とは別世界の料理なのである。家庭内の労働を市場の基準や論理で金銭に換算することは不可能ではないが、意味のないことである。心を込めて作った料理と高価な料理を比較したところで何の意味もない。要は、どちらを選ぶかに過ぎない。ただ、家庭と言った共同体、人間関係を頭から否定してしまうとただ技術的な、人間性を否定した価値しか残らないと言うだけである。むろん、一方的に家庭内の労働を押し付けるのは問題である。ただ、それは家庭内の問題であって、市場の問題ではないという事である。
 主婦は、売春婦ではない。快楽を目的としただけの人間関係ではない。家庭内の労働は、金に換算できる性質の物ではない。
 年老いた両親の世話は、金でできるものできない。肝心な事は、誰が、最後まで面倒を見るのかの問題である。設備や施設を整えることではない。設備や施設は金で買えても愛情は金で買うことができないからである。そのことを議論しないで、ただ、施設や設備を整えればいいと言うのは市場の論理に毒されているからである。
 子供の世話を誰が見るのかである。金を出して施設に預けることが良いのか。自分が外に働きに出て、後の世話は金で片付けるのが良いのか。それとも、自分の両親に頼むのが良いのか。地域社会で面倒を見るのが良いのか。それとも母親が世話をするのが飯野かの議論が先ずあるべきなのである。その後で、それを税金で賄うべきか、否かの問題が議論されるべきなのである。ところが今は、何よりも先に金の問題が先行する。それは、共同体の論理が崩壊した証拠である。
 この世の中には、金に代えられない物がある。金で片付かない世界がある。それを前提として、経済は成り立っている。もし仮に、全てを市場の論理で計算したとしたら、経済的には成り立たないであろう。利益は、望めないであろう。共同体内部の労働には、制限時間がないからである。時間に換算できないからである。
 税という制度を考える時、税のことを考えるのではない。どの様な社会を、どの様な国を造るために、どの様な税が必要かを考えるべきなのである。経済は、国民生活の結果に過ぎない。経済のために、税という制度があるわけではない。国民の生活、もっとありていに言えば、国民の幸せを実現するために税制度はあるのである。
 我々は先ず何を護らなければならないのかを明らかにしなければならない。守るべき仕組みが自由主義体制なら自由主義体制を守るための規制をすべきである。確かに、規制によっては、自由主義体制を崩壊させるものもある。だから、一律に規制は悪いというのは、短絡的すぎる。自由主義体制を崩壊させる規制が悪いのであって、全ての規制が悪いわけではない。
 同様なことは、税制度にも言える。酷税と言い、税によって国民が苦しむのは、税が悪いのではなく。税の在り方が悪いのである。税は本来、国民の福利を実現するために徴収され、使われるのである。税のために、経済が悪化したり、国民生活が成り立たないとしたら、税の在り方を改めなければならない。しかし、だからといって税をなくせと言うのは乱暴な話である。
 国民の生命と財産を守るために、軍や警察があるのである。軍や警察のために、国民生活があるわけではない。

 経済とは何か。経済の目的は、国民生活の安寧にある。必然的に、経済政策もその延長線上にある施策でなければならない。経済政策によって国民生活が圧迫されたり、極端な偏りが発生したらそれは、明らかに、経済政策が破綻したのである。
 その根本には、国民生活をどの様なものにするかという考えがなければならない。

 現代経済は、大量生産、大量消費を前提としている。そして、その為に、巨額の初期投資を行い、それを長い時間かけて償却する方式を採用したのである。その為には、設備の稼働率を一定に保つ事が大前提となる。稼働率を保つ、操業度を保つと言う事は、製品を絶え間なく続けることを意味する。それは、大量に商品を製造する結果を招き。対極に、それを捌く、つまり、大量に消費し続けることを意味する。それが大量生産、大量消費型経済である。
 この大量生産、大量消費型経済は、ただ、大量に生産し、大量に消費すればいいと言う単純な考え方を基本としている。この大量に作ればいいという考え方に落とし穴がある。余剰生産物の処理が問題なのである。

 余剰に生産された物は、価値が低下し、やがては無価値になってしまう。そこには、その生産財が社会にとって有用であるか、否か、また、どれ程、それに労働力が費やされたかは問題とされない。生産に費やされた労働とそれに対する対価という思想は入り込まない。

 必要以上に生産された商品は、洪水のように他の国に押し寄せ、状況によっては、その国の経済構造、経済体制を根刮(ねこそ)ぎ破壊してしまうのである。

 国内で捌ききれないほど大量に製品を製造してしまえば、必然的に海外市場で製品を捌かなければならなくなる。そして、それが相手国との間に、重大な摩擦を引き起こすのである。

 相手国の経済が何を必要としていて、何を目的としているのかなどお構いなしである。とにかく、大量に生産した以上生産物を捌く必要がある。要するに売れればいいのである。その為に相手国の雇用がどうなろうと、消費者の倫理観がどうなろうと関係ないのである。
 これは、市場の問題であり、経済の問題ではない。それを勘違いしてはならない。

 もう一つ忘れてはならないのは、経常収支は、世界全体では均衡しているという事実である。どこかの国が黒字になれば、他のどこかの国が赤字になる。それを総合的に見て判断しなければ経済の実体は理解できない。

 ただ安ければ善いとマスコミは、悪徳業者をのさばらしておいて、市場が荒廃してから、商業道徳が廃れたと言ってもはじまらないのである。それ以前に、マスコミのモラルが問われるべきなのである。悪貨は、良貨を駆逐するという言葉が示すように無原則な競争は、悪徳業者を蔓延らせ、良質な業者を市場から駆逐してしまう。限界以上に価格を下げるのには、それだけの根拠があるのである。大切なのは適正な価格である。不当廉売ではない。

 空気は、必要な物資ではあるが、市場価値はない。それは、空気は、人間が生存するのに必要な量が、自然の状態で確保されているからである。しかし、空気が希少価値な場所、例えば、水中では、空気も市場価値を持つ。そうなると空気を製造しようと言う業者が現れる。それが市場経済である。市場価値は、空気が必要か否かではなく。空気が有り余っているか否かの問題に矮小化されてしまうのである。空気に市場価値があるか否かと空気そのものの価値とは違うのである。空気に市場価値がないからといって空気を無価値なものとして大気を汚染し続ければ、我々の生活、即ち、経済は立ちいかなくなる。

 大量生産、大量消費というのは、あらゆる生産財を過剰に生産してしまう。その一方で、雇用の不足を引き起こす。物は沢山あるのに、働く場、即ち、所得を得る場がなくなることを意味するのである。それによって、労働と分配の仕組みが上手く機能しなくなる。それは、必要性という要素が介在しなくなるからである。

 現実に、多くの人は、自分は、社会から、誰からも必要とされていないのではないのかという強迫概念に悩まされている。それが疎外である。

 経済政策の本質というのは、国民の生活に何が必要で、どの様な環境を必要としているかを、貨幣の振る舞いに惑わされることなく、見極めることにある。その上で、どの様な対策を貨幣を用いて行うかを考えるべきなのである。

 バブル後の長期不況の前提となっているのは、過剰債務、過剰設備(投資)、過剰雇用、つまり、全てが過剰なのである。そこから派生するのは過当競争であり、安売り合戦である。その結果市場が荒廃し、個々の企業が利益を上げられなくなっているのである。不必要な競争を抑止し、企業が適正な利潤をあげられるようにすれば、不況から脱出できる。そうなれば、必要以上の生産を抑止することも可能となるのである。また、企業が収益をあげられれば資金が金融市場に滞留することもなくなるのである。

 バブルというのは、局所的なストックインフレである。原油や食料、貴金属価格の異常な高騰は、狭い市場の中に大量の通貨が流入したことが原因である。しかし、それは物的な市場と貨幣的市場の双方が作用していることで、過剰流動性が、即、インフレに結びつくと考えるのは、短絡的である。

 余剰資金が経済の質的な面に向かうか、量的な面に向かうかによってインフレの有り様も変化する。

 重大な問題は、なぜ、何のために利益を上げる必要があるのかが判然としていないと言う点にある。

 経営は、合目的的な行為であると言う事を忘れている。それ故に、企業評価、実績の全てが利益によって計れる事になるのである。
 経営分析が企業の経済的機能に結び付けられていないことが問題なのである。何に対する利益なのかが、利益を考える上で重要となる。
 利益は何に連動して生み出されるのかを考える必要がある。

 利益を上げる目的が明らかでないから、利益その物を罪悪視する傾向が生じるのである。そして、何でもかんでも安ければいいという事になる。重要なのは、適正価格であるか否かであって、安いか高いかは表面的な問題に過ぎない。
 安ければいいと言う発想の最たるものは、金利である。金利は、安ければいいからなければいいと言うところまで来てしまった。利益も何れはそうなるのであろう。それが市場原理主義というものの正体なのである。収益を否定する事は、市場経済、ひいては、市場を否定する事である。市場を否定する者が否定市場主義を標榜するのだから、これ以上の皮肉はないであろう。お陰で金利生活者など絶滅してしまった。金利だけでは生活ができないのである。

 負債は、元本の部分と金利の部分から成り。金利は、変動的なものと固定的なものの二種類がある。元本というのは静的の部分であり、金利というのは、動的な部分を指す。
 静的な部分は、いわば力を蓄えておく部分であり、動的な部分は、力を放出していく部分、活躍している部分とも言える。元本は、金利を計算する基となる数字であり、金利は、元本によって導き出される価値でもある。金利を元本に組み入れるか否かによって価値を生み出す構成が変わってくるのである。

 利益にも、同様な構造がある。つまり、資産に投資した部分とその資産が生みだした価値とから収益構造は構成されており、生み出された価値が利益だと言えるのである。

 この利益や金利は、時間と伴に圧縮されていく傾向がある。

 故に、会計上の勘定は、基となる数値の残高水準が重要になる。残高が外部要因に連動して伸縮する勘定と外部要因に影響を受けない勘定、連動しない勘定がある。
 外部の影響を受けない勘定、連動しない勘定の典型が借入金である。

 担保は、この基となる物に対して掛けられる。この担保される物は、質権に端を発している。担保される物は、長期的な借入物件、差し押さえ物件である。
 担保された物の貨幣価値は、時価で変化する。それに対し、担保する債務の貨幣価値は、額面によって変化しない。

 担保権の行使や元本の一括返済は、通常では、余程のことがない限りありえない。特に、ノンリコースの場合は、担保物件を回収すれば取り引きが終了するのであるから、返済が余程滞らない限りありえないのである。
 ところが、外部環境の変化によってこの原則が破られる。貸し手の都合で返済に滞っていないのに、担保割れしたという理由で不良債権視され回収圧力がかかるのである。これは当初の目論見と違うのである。
 金利は、信用収縮には結びつかない。なぜならば、金利は費用処理されるからである。信用収縮を引き起こすのは、負債である。故に、元本の返済圧力が信用収縮を引き起こしていると言えるのである。

 また、返済に上限が設定されていないのも現在の負債の特徴である。その為に、返済能力にお構いなく、返済額が膨張する。極端な話し、天井知らず、無限大なのである。

 サブプライム問題にもこの担保する価値と担保される物の価値の間に生じる乖離がある。サブプライム問題の根底には、住宅問題がある。そして、雇用問題がある。住宅も、雇用も、不足しているという現実がある。その為に、無謀な住宅ローンが組まれ、証券化され、それが破綻した結果、金融市場が大混乱をきたしたのである。その前に、なぜ、住宅もあり、仕事もあるのに、住宅不足が生じ、失業が蔓延したかである。それを突き止められれば解決の糸口が見つかるはずである。






                    


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