市場経済

市場経済


 かつて市場は、化外にあった。市場は、祭りのように非日常的な場にあった。それを忘れてはならない。
 つまり、市場というのは、生活空間の外に形成される空間、場だったのである。それ故に、自由な空間であった。つまり、共同体の掟に縛られていなかった。しかし、それだけ、危険も伴う場所だったのである。安全な場所は、窮屈でも共同体の内部にあった。それが家族であり、村であり、一族だったのである。その代わり、共同体の内部は、掟によって守られていた。つまり、倫理的空間だったのである。
 今は、外にある物は、尊くて、内にある仕事は、賤しいという発想があるが、昔は、逆であった。内は、尊く、安全で、外は怖い世界だという。
 鬼は外にいたのであり、災いの種になる者は、外に追い出すべき存在だったのである。。

 現行の市場経済体制最大の問題点は、市場を制御できない点にある。なぜ、市場経済は、市場経済の根底にある市場を制御する事が出来ないのか。その原因を明らかなしていきたい。
 現在の市場経済が市場を制御できない理由を明らかにする為には、市場の機能を明らかにする必要がある。それは、市場とは何かを明らかにすることでもある。

 自由主義経済の根本は、市場経済である。しかし、市場経済というが、全てが市場に支配されているわけではない。市場というのは、分配構造の一部である。経済の根本は、労働と分配である。故に、市場は、経済の仕組みの土台にあることは確かである。しかし、市場は、経済機構の一部に過ぎない。市場経済といっても市場が全てではないのである。

 市場は、分配構造の一部である。分配は、共同体(組織的)と市場によって為される。現実の分配は、共同体や組織のほうがより深く関わっている場合も多い。ただし、市場は、分配という機能だけでなく。需要の供給と貨幣価値の創造という機能を併せ持っている。故に、自由経済の根幹を握っているのである。

 かつては、度重なる大洪水に、人類は、悩まされ続けてきた。洪水の災害から人類が開放されたのは、人々が灌漑設備や治水工事を積み重ねてきたからである。市場も同様である。市場を自然の力に任せておけば、災害から逃れることは出来ない。それなのに、人間の力を市場に加えてはならないと言う思想が跋扈している。

 市場は制御されなければならない。市場は、自然にできた仕組みではない。市場は、自然界の仕組みでもない。市場は、人為的に作られた仕組みである。これが大前提である。そして、人為的に作られた仕組みである市場は、合目的的な仕組みである。ならば、市場を形成するための目的は何かである。そこから、要求される仕様、機能を導き出すのである。
 先ず、市場に要求されるのは、流通機能、あるいは、情報伝達機能である。次ぎに、分配機能である。それから、裁定機能である。そして、決済機能である。これらは、貨幣経済下では、貨幣価値の創出を意味する。それから、需要と供給の調整機能である。これらが、市場の基本的目的であり、機能である。
 これらの目的・機能から市場の有り様仕組みが考えられなければならない。目的や機能に対して、その目的や機能を発揮するための市場の制御機能が重要となるのである。

 スポーツを例にとるとよくわかる。スポーツには、構造がある。先ずスポーツが成立する人為的空間が設定されている。人的空間は、範囲が特定されている。次ぎに、スポーツには明確なルールがある。このルールは、何等かの公開された第三者機関によって制定される。第三に、審判がいる。
 それに対し現代の市場経済は、第一に、閉鎖された空間ではない。公開された協議機関がない。第三者による調停、決済機関がない。
 この様な市場は、立法、司法機関の存在しない無法地帯と同じである。市場は、競技、競争の場ではなくなってしまう。仁義なき争いの場、喧嘩、闘争の場、戦場と化してしまう。

 市場は一様でも一つでもない。市場というのは、複数の場の集合体である。市場は、市場全体を構成する個々の市場の位置付けや働き、関係を理解して組み立てられなけれはせ成らない。また、個々の市場は、市場を構成する要素や取引の形態、成熟度、開放度によってもその特性に違いが生じる。しかし、その違いは、人為的に生じるものであることを忘れてはならない。それは機械の性能のようなものである。

 価格の決定方法は、一律一様に決まるものではない。例えば、市場の占有率を高める事に対する決定的な要因となることもある。
 単純に需給だと考えるにしても、設備の更新には時間と資金がいる。需要が豊富だと言っても設備が稼働した時には、市場が飽和状態に陥っていないとは限らない。
 需給関係だけに価格決定の仕組みを求めると思わぬ落とし穴に嵌る。市場は、多様性を好むのである。
 市場では、競争の原理だけが働いているわけではない。競争を抑止する働きもある。

 市場は均一化される機能が低下する。ところが生産性や効率性から言えば、平準化、標準化、均一化の方向に進む。

 人的市場、物的市場、貨幣的市場を構成する要素は、各々、違う。必然的に場の働き各々違ってくる。人的な場を構成する要素は労働と分配であり、物的場を構成する要素は、生産と消費である。貨幣的市場を構成する要素は、債権と債務、貨幣の働きである。

 貨幣的市場の動きと物的市場、人的市場の動きに整合性がある場合は良い。しかし、これらの市場は必ずしも整合的な動きをするとは限らない。
 例えて言えば、物的市場に多くの財がありながら貨幣市場が資金不足に陥ることで、物量が滞るといった事態がよく起こるのである。

 物的な市場には、自ずから物的な限界がある。人的な市場には、人的な限界がある。それに対し、貨幣市場は、貨幣市場自体を制限する限界がない。貨幣市場を抑制するのは、物的、あるいは人的な実態に連動させる以外にないのである。

 消費される量は、生産される量に規制される。つまり、消費量は、生産量を上限としているのである。

 消化器系や呼吸器系、循環器系が同じ機構で動いていないようにである。故に、経済政策は、個々の市場の状態に合わせて対処すべき事柄である。経済政策は、一律に立てられるべきではない。

 近代資本主義は、商業資本主義から、産業資本主義を経て、金融資本主義へと変化してきた。これも進化論的に発展してきたのではなく。環境に適合する形で変質してきたという方が妥当である。そして、それぞれが市場を形成し、発展させてきた。

 多くの人は、利益は、収益から費用を引いた余りだという思い込みがあるが、利益は、収益と費用、資産と負債、の均衡と、更に、資本の在り方から導き出された結果である。
 経営者は、利益を上げるのにあたって、まず最初に、収益の向上を考える。収益が頭打ちになると費用の削減を考える。次ぎ、資産を見直し、その上で、負債の圧縮を図り。そして最後に、資本の活用を検討するのである。資産や負債資本という段階において、重要な役割を果たすのが金融である。また、最終的に鍵を握るのが資本であるが、資本という実体は、収益と費用、資産と負債の差額であるという事である。その資本が商品価値を独自に持っているというのが資本主義の特徴である。また、資本主義固有の特性、本質でもある。

 収入や資産価値が上昇している時は、費用や負債を吸収することが可能である。
 こう言うときは、競争の原理は有効である。借金してでも積極的に早く行動を起こした者が勝つ。しかし、収入や資産価値が頭打ちになると費用や負債を吸収しきれなくなる。資金繰りも悪くなる、金融機関も融資を渋るようになる。

 収益構造と費用構造とは一体ではない。収益は変動的なのに対し、費用は固定的なのである。

 収益が頭打ちになると費用の削減を考える。費用を削減しようとした場合、費用が何に連動して動くかを明らかにする必要がある。例えば、輸入原材料は、為替と原材料相場に連動して動く。人件費は物価の上昇率と賃金の世間相場に連動する。この様に費用や原価の構造は単純ではない。

 費用を思うように削減できないと資産の見直しにはいる。資産の見直しは、一つは流動性の問題である。もう一つは、含み益、未実現利益の問題である。三つ目は、税金の問題である。
 資産を見直しと負債の圧縮を考える。そして、最後に資本の問題に行き着く。この様に、収益、費用、資産、負債、資本は、相互に関連しながら利益を生み出しているのである。

 経営実体を知るための資料には、この様な損益、貸借関係以外に、収支関係がある。ただ、収支によって経営の実態を把握するためには、かなりの熟練が必要である。なぜならば、収支というのは、経営の実体と言うよりも資金の流れを表したものであるからである。
 それは、期間損益と貸借関係が確立された経緯を見れば理解できる。

 資本主義の大前提は、資本の成立である。資本がどの様にして成立したかは、資本の持つ作用を形成するための決定的要因である。それは、近代会計制度の成立と不可分な関係にある。

 先進国の市場は、成長の限界に達し、成熟したのである。とくに、伝統的産業や基幹産業、必需品産業の市場は、成熟している。また、金融業界の中でも銀行は、成熟した産業である。その結果、伝統的産業や基幹産業、必需品産業、銀行業は、構造的不況に陥りやすいのである。

 産業が成熟すると市場は飽和状態、過飽和状態に陥る。需要は、更新需要、買い換え需要に限定されるようになる。そうなると収益は、横這い、悪くすると下降することになる。それに対して、費用、中でも人件費は、基本的に上昇し続ける。人件費は、基本的に共同体の原理に従い。市場の原理だけによって決まるものではないからである。人件費を変動費化するためには、常雇いから臨時雇いの様に、雇用形体を見直さなければならない。その場合、人間としての属性は一切無視されることになる。時間と単位あたりの労働量か労働の成果によってでしか計れなくなる。その場合、労働者の人間としての属性、年齢とか、勤続年数、家族構成というのは、まったく無視される。
 また、経費は固定的で収益は変動的である。それ故に、費用を平準化する必要が生じるのである。収益が横這いか、下降しているのに、費用が上昇してくれば、当然利益は圧迫されることになる。市場が成熟すると企業経営は、圧迫されるようになる。かといって技術革新だけでは、対応するのに時間が掛かる。
 
 なぜ、先進国の経済が停滞するのか。そして、それは、本当に停滞といえるのであろうか。逆に言えば、現代の経済は、余りにも成長に依存しすぎてはいないか。成長というのが、当て嵌まらないとしたら変化である。つまり、現代の経済はあまりに変化に依存しすぎてはいないかである。

 人間は、市場を無限なものと思い込み、永遠に成長できると決め付け、また、資源は無尽蔵にある事を前提とした。故意か、無意識かは別である。

 需要が増え続けると考えることこそが異常なのである。需要が増え続けることを前提として生産をするから過剰生産、大量生産になる。また、浪費、大量消費を促すことになる。

 先進国の市場は、成長の限界に達し、成熟したのである。成熟に達した市場は、飽和状態、過飽和状態にいたり、財や貨幣を吸収しきれなくなる。しかし、それは悪い事であろうか。豊かになることが悪いと言っているようなものである。

 高級品、ブランド品、贅沢品の需要が伸びている。一家にテレビや自動車は一台どころか、二台も三台もある。
 その反面で、食料やエネルギーと言った必需品が品不足に陥りつつある。この不均衡が何よりも証拠である。食料やエネルギー、必需品は、コモディティ産業である。

 石油や資源、食料に代表されるコモディティの価格の高騰が昨今問題となっている。価格の高騰の原因は、いろいろと取りざたされている。一つは、実際に、新興国の経済の台頭によって需給が逼迫してきたという見方、もう一つは、資源量がピークに対する不安や思惑が価格を先取りしているという見方、更に、投機筋の資金がサブプライム問題を嫌って現物市場、先物市場に流れ込んだという見方などが有力である。
 しかし、いずれも決定的な理由には至っていない。コモディティ産業の逆襲なのか、それとも一時的な現象なのかが明らかになるのは、まだ先のことである。
 ただここで問題なのは、貨幣的な問題か、実需的な問題かである。実需的な問題であれば、今後の経済に決定的な影響を与えることとなる。
 何れにしても、市場を制御する必要が高まることだけは確かである。

 これまで、コモディティ化した産業は、利幅が圧縮された上にコストの上昇に苦しめられる傾向にある。製造技術や販売技術が革新されつつある産業は良いが、技術が確立され、固定的になった産業は、利益が慢性的に圧迫されるようになる。その多くがコモディティ化した産業である。
 この様に成熟した市場は、成長期の市場とは違う政策が必要となる。
 また、市場が成熟化した産業には、旧産業や基幹産業に多い。故に、多くの旧産業、基幹産業の構造不況業種化してしまう。この様な産業はある程度、競争を抑止しする必要がある。
 さらに、金融機関の中でも、旧産業や基幹産業に依拠してきた銀行の衰退が取りざたされるようになる。
 元々、適正な利潤を上げる事が必要な条件なのであり、効率化も、合理化も手段に過ぎない。
 基幹産業や銀行のように国家経済の基礎となる産業が適正な利潤をあげられない様な状況が問題なのである。停滞していても、それが社会的に不可欠な産業であれば、適正な利潤をあげられる仕組みを構築しておく必要があるのである。それが構造経済である。

 飛行機の計器の動きが、空港に駐機されている時と、離陸し、上昇している時と違うというのは、明白なことである。それを異常だとする者が異常なのである。更に、計器の動きが違うとからとエネルギーの供給を断ったり、エンジンのスイッチを切ったり、高度を下げ、あるいは減速するのは狂気の沙汰である。
 しかし、経済になると経済学者も、経済官僚も、金融機関も同様の馬鹿げた行為をとる。巡航状態の時計器の動きが正常だとして離陸時も、着陸時も、同じ動きをするように操作すれば飛行機が墜落するのは目に見えている。

 同様に成長期の市場と成熟期の市場の制御の仕方はまったく異質なものなのである。大切なのは、市場の置かれている状況や段階を見抜くことである。そして、市場の仕組みがどの様に作用するかを理解する事が肝心なのである。

 成長段階の市場と成熟段階の市場が混在している状態が、常態だと思うべきなのである。それ故に、市場の状況や段階に応じて市場の構造や基準が変わるような仕組みが必要なのである。

 産業というのは、必要性から考えられるべきであり、成長性で判断すべきではない。根本は、国家構想であり、国家理念である。
 国内の産業を保護し、経済の安定を保つのは、国家の使命である。必要に応じて国家が、市場に介入するのは悪い事ではない。むしろ、市場が荒廃しているのに放置するのは、国家的犯罪である。

 神の手が原理的に働くほど、市場はフラットにできてはいない。神に市場の制御を委ねるべきではない。神の原理は、神の世界へ。人間の世界は、人間の責任よって、人間の手で築き上げていかなければならない。
 もはや、伝説や神話の時代ではないのである。また、市場は、神に委ねるには、あまりにも生臭い場所である。







                    


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