機能主義


会計思想


 会計制度は、現代経済において基盤的な役割を果たしている。それなのに会計制度の基幹、中核となる思想が明らかでないことが問題なのである。会計制度の位置付けや働きが明らかにならなければ、現在の市場制度や貨幣制度は、その目的や機能を明らかにすることは出来ない。問題はそこにある。
 そして、会計制度を成立させている個々の要素、即ち、経営主体、利益、収益、費用、資産、負債、資本、収入、支出、資金、金利、税金と言った要素の定義、働き、相互に及ぼしあう関係を明らかに出来なければ、経済現象を制御する事は出来ない。

 会計というのは思想なのである。しかも、実務的な思想である。それだけに実効力のある思想である。それでいて、所謂、思想として認識されにくい。それが現代経済の問題点を不明確にしている原因でもある。

 現代の経済体制において問題なのは、会計という言語を用いて、思想を語ろうとしない事が問題なのである。

 無形固定資産、知的所有権の問題、営業権、暖簾、ブランド、未実現利益、償却費、法人、これらは、思想である。これらの意味や役割をどの様に定義するかによって経済の有り様が違ってくる。これは、観念的な哲学よりも、ずっと人々の生活に密着した思想なのである。

 市場経済や貨幣経済は、資本主義固有の存在ではない。社会主義や、共産主義にも、市場や貨幣は存在しうる。社会主義や共産主義の中には、市場や貨幣を否定した形態もある。しかし、それは、市場や貨幣の働きや意味に対する解釈の相違からくるものであり、社会主義や共産主義の本質に関わることではない。問題は、市場や貨幣の有り様、また、働きなのである。特に、純資産に対する考え方が経済体制の根本的な差を生み出す。

 資本主義制度というのは、会計と言う言語で書かれた、思想である。一口に資本主義というが、資本の有り様によって、経済体制は決まってくる。必ずしも、社会主義や共産主義と資本主義とは背反的な関係にあるわけではなく。資本に対する考え方によって私的資本主義と社会主義的資本主義の差が生じるだけである。
 逆に、資本主義体制と言っても必ずしも会計的な用語が通用するとは限らない。例えば、経済主体の中で、企業は、実現主義、発生主義に基づいて、複式簿記の世界であるのに対し、家計と、財政は、現金主義であり、、単式簿記の世界である。
 また、企業会計は、決算主義(結果主義)、期間損益主義なのに対して、財政は、予算主義であり、単年度均衡主義である。

 財政は、なぜ、予算主義を採るのか。また、採らざるをえないのかである。予算主義を採るのか、また、予算主義を採らざるをえないのかは、それなりの理由がある。

 予算主義と決算主義の違いは、先ず予算主義は、第一に、前決めだと言う事である。第二に、支出を前提とした予算になるという事である。第三に、裁量権が狭いという事である。それに対して、決算主義は、第一に、結果責任主義、実績主義だということである。第二に、収益を基礎としたものだと言うことである。第三に、裁量権を大幅に与えられている問い事である。
 予算が前決めというのは、それは、公共事業は、あくまでも公共の福利を目的としたものという前提によるからである。国民の負託によって行う事業であるから、事前に国民の代表者たる国会の承認を得る必要があるというのが財政の原則とされている。それに対し、民間企業は、経営者が株主の委託によって事業経営をしている故、株主総会に経営の結果と実情を報告する義務があると考えるのである。
 また、公益事業は、民間のような収益、利益を目的としていないと言う認識を前提としている。しかし、それは民間事業に対する偏見である。私的事業と言えども、事業には固有の目的があり、利益はその指標に過ぎない。民間企業は、利益だけを目的としているわけでもなく。公益事業は利益を上げる必要がないという口実にはならない。
 また、単年度均衡主義というのは、基本的に繰越金を認めないという事である。それに対して、期間損益主義というのは、利益を前提とした思想だという点である。繰越金を認めないと言うのは、税収というのは基本的に納税者の付託によるものだという思想である。故に、納税者から得た収入は、年度内に使い切るというのが建前である。ただしこれは、あくまでも思想なのである。所謂、法則のような絶対的原則ではない。

 なぜ、財政は、予算主義、また、単年度均衡主義でなければならないのか。それは、責任の所在と取り方の問題でもある。つまり、財政というのは個々の支出に対して個々の部署が責任を持つが財政全般に対しては責任を持たないという事であり、企業経営は、事前の承認は得ないが結果に対して責任を負うと言う事である。故に、財政は、現金主義であり、民間企業は、期間損益主義なのである。
 それは、人事制度に顕著に現れている。民間企業は、実績に応じて報酬が支払われるが、公共機関は、役割に応じて報酬が支払われるのである。
 民間企業では、所有と経営が分離したところから発し、公共事業は、政治権力と官僚制度の分離したところから発したところに起因がある。

 また、財政は、儲けることより、使うことに重きを置いており、民間企業は、使うことより儲けることに重きを置いている。

 ただ今日、財政で問題となっているのは、国家構想の欠如である。国家構想がないままに、金を使う目的ばかりを問題としている。その為に、公共事業が本来の目的を見失って利権化したり、また、景気対策という目的だけが先行する結果を招いている。
 それが経済危機や財政危機を袋小路に追い込み、泥沼化させる原因なのである。馬鹿げているのは、経済対策のために戦争をすると言ったようなことである。
 財政の目的は、国民の福利の向上にあることを忘れてはならない。

 バブル崩壊によって発生した不良債権の問題は、単なる不良債権処理の問題ではなく、政策の不在の問題である。
 つまり、国民の住宅問題をいかに解決するかという延長線上で不良債権問題を捉えるのではなく。ただ、不良債権をどうにしかしなければならないから、問題とするという発想では、不良債権の抜本的解決はできないのである。

 財政と家計は、現金出納会計である。現金出納会計は、単式簿記である。故に、財政と家計は単式簿記の世界である。財政や家計には、資産、負債、資本、収益、費用勘定はない。故に、財政にも、家計にも、利益の概念は家計にはない。あるのは、収支だけである。

 財政赤字が問題になる時、赤字の意味が、企業の赤字と混同される場合がある。複式簿記で言うところの赤字は、期間損益に基づいた概念である。利益という概念が現金主義にはないのであるから、現金主義、単式簿記上の赤字と実現主義、発生主義、複式簿記上の赤字とは、本質が違う。つまり、財政赤字と民間企業の赤字とは、本質が違うのである。同列には語れない問題である。

 現金主義と発生主義、実現主義の違いは、財政赤字と企業の赤字を比べてみると明らかになる。

 企業は、赤字が続くと経営破綻する。しかし、経営が破綻する直接の原因は、赤字ではなくて、資金繰りがつかないなることである。
 よく負債と資本の違いは、資本は、返す必要がない資金であるのに対し、負債は、返さなければならない資金だと説明される。
 その返さなければならないと言う意味は、金利を指して言うわけではなく。元本部分を指して言っているのである。
 ところが、元本の返済に相当する部分が利益計算の上には出てこない。その為に、問題が顕在化しない。原因が掴めないのである。それによって黒字倒産、資金繰り倒産などと言う事態が発生する。

 現金主義の場合、逆に、この元本の返済が顕在化する仕組みになっている。つまり、会計上は、表に出ない問題が表面化し、事態を深刻にするのである。つまり、会計と財政は、対極に位置することになる。
 現金主義では、現金収支が前面に出てしまうのである。それは、会計と思想が違うからである。もし、同じ視点で考えようとするならば、財政を会計に変換するか、会計を現金主義に変換するしかない。

 金融政策を問題とする際、金利のことばかりが言われるが、現実は、資金不足が最大の懸案事であり、問題なのは資金の確保、つまり借入なのである。資金繰りがつかなくなればどんな高利でも手を出しがちなのである。故に、資金繰りがつかなくなる原因は、元本の返済なのである。つまり、急に元本の返済条件を変えられたり、借り換えができなくなったっり、運転資金の手当てができなくなることなのである。新規投資の資金に困るからではない。経営活動のベース、基盤にある資金が不足することなのである。だから、貸し渋りであり、貸し剥がしなのである。

 しかも、返済に充てる資金は、市場から調達するのが原則である。その市場が、バブル崩壊時や恐慌時は、機能しなくなっているのである。

 個々の企業で言えば、不良債権を処理をしても、借金は、残るのである。しかも裏付けのない借金である。
 その為に、借金の返済に負われて、新規投資の資金の余力がなくなる。更にそれに追い打ちを掛けるのが、景気の悪化に伴う収益力の低下である。
 収益によって借金を返済しなければならない時に、市場環境が悪化し、競争が激化する。或いは、市場が飽和状態になり、売上が減少する。
 それが企業の体力を徐々に奪っていくのである。
 金融機関にしてみれば通常の状態では融資を渋る対象ばかりになる。つまり優良な融資先が減少することになる。
 その為に、金融市場や資本市場、先物市場、商品相場において、手っ取り早く利益を上げようとする傾向が強くなる。それが、次のバブルの種になるのである。

 もう一つ、会計思想を語る上で重要な課題がある。それは、時価主義と取得原価主義の問題である。

 時価主義が近年、話題になっている。しかし、なぜ、時価主義でなければならないのか。時価主義とは一体何かについては、あまり、語られていない。時価主義にせよ、取得原価主義にせよ。また、現金主義や実現主義、発生主義にせよ、認識の問題である。つまり、思想の問題である。そして、何れの主義を採るかによって経済の有り様が違ってくる。

 取得原価主義とは、財を取得時点でま現金価値を基にして貸借の均衡を評価する考え方である。それに対し、時価主義とは、決算時点で、その時点その時点で更新された現金価値を基にして貸借の均衡を評価する考え方を言う。取得原価主義によるか、時価主義によるかによって企業評価は大きく別れる。必然的に景気の状況も変化する。

 経済体制の違いは、資本の在り方によって変わる。資本の有り様は、資本を支配する存在によって規制される。つまり、経済体制の有り様は、資本、即ち、経営主体の所有者は誰かの問題に還元できる。
 資本をどうするのかは、第一に所有権の問題である。第二に、経営権の問題である。第三に事業継承の問題である。
 社会主義か、資本主義かといっても、基本的には、国営か、民営かの違いであり、誰が、経営主体を支配しているかの問題に還元される。つまり、経済主体の所有権の問題である。

 経営主体の所有権を、第一に、私的(経営者個人等)なもの、第二に、国家的なもの、第三に、ある種のコミニティ、社会的なもの、第四に、消費者のもの(生協)、第五に、同業者組合(協同組合、農協、漁協、プロリーグ等)のようの機関のもの、第六に、従業員、労働者(労働組合)のもの、第七に、株主の様な投資家のもの、第八に、金融機関のような債権者のものに帰すのかによって経済体制は違ってくる。

 現代の資本主義は、混合型資本主義であり、純粋の資本主義ではない。

 人間は、経済に何を求めているのか。経済の役割を理解するためには、それを明確にする必要がある。つまり、経済の目的である。不況も、貧困も、戦争も、人間の強欲の結果である。それは、経済に何を求めているかが、ハッキリしていないことが原因なのである。
 経済に何を求めているのか。例えば、利益、何を期待するのかである。また、経営主体とは何かである。

 利益は、経営状態を表す目安に過ぎない。その証拠に、企業は、赤字だという理由だけで潰れるわけではない。資金の供給が断たれることによって潰れるのである。赤字というのは、資金を供給するか、否かの判断を促すだけである。第一、公共事業や財政には、利益という概念そのものが欠落している。故に、民間企業では、利益が出せなければ、責任が問われ、資産、財産を没収されるのに、公務員は、責任を問われるどころか、同情され、高額の退職金を保証される。思想が違うのである。
 問題は、利益が何を意味しているかである。利益を上げる目的も、利益の働きも解らずに、闇雲に利益を追求している。それが、現代経済の姿なのである。本来は、赤字だから悪いというのではなく。赤字の原因なのである。原因次第では、資金を余分に供給する必要も生じる。善悪の問題ではない、事業の有益性と状況の問題である。つまり、企業に何を我々は求めているのかの問題なのである。
 また、経営主体は、機関なのか、それとも、共同体なのかである。企業というのは、たんに生産をし、利益を上げるための機関なのか。それとも、人間の生活を支える共同体なのかである。現代社会は、企業から、人間性をとことん削除してしまっている。それこそ、企業は、唯物的存在でしかない。最近では、物的要素まで失い、唯金的存在に堕しつつある。
 経済は、人間の営みである。単に、労働をコストとしてしか認識できなくなった時、経済は、人間の営みを排除してしまうことになる。それは、経済にとって自滅的な事柄である。
 会計制度、道具、手段に過ぎない。道具、手段である会計制度に支配された時、人間は、経済の本来の目的を見失うことになる。会計制度、人間の生活をより良くするための手段、道具であるうちは、有効に機能することが出来る。しかし、一度、金儲けの手段・道具にだした時、会計制度は、両刃の刃となって人間を破滅へと導くであろう。

 経済体制も、政治体制も原理に基づくものではない。思想に基づくものである。そこに現れる現象は、人間の為せる所業の結果に過ぎない。神の摂理でも、自然の法則でもない。故に、人間が改めない限り、改まらないのである。

 経済的な成功者は、評判が悪い。経済的な成功者に対して形容される言葉は、破廉恥とか、強欲、冷血漢、計算高い、狡猾、悪辣、狡賢い、と言ったものが多い。それは、嫉妬や羨望、妬み、やっかみだけとは言えないだろう。
 現在の市場の仕組みには、そうしなければやっていけない。そう言う人間しか、生き残れないと言う状況があるからといえるのである。

 投機が悪いとしても、皆が、投機的なことをやっている時に、同じ事をやらなければ、生き残れなくない状況になることがある。
 良いも、悪いも、やらなければ生き残れないならば、多くの者は、悪いと知りつつもやらざるを得なくなるだろう。そして、実行した者だけが生きのびるとしたら、結果的に、生き残った者は、実行した者だけと言うことになる。
 それがモラルハザードを引き起こす。特に、善悪の判断が曖昧な時に、この様な状況は起こりやすい。






                    


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