機能主義
会計で問題なのは、現代の会計制度が利益や収益を管理する目的で構築されていないという点である。現代の会計制度は、企業を監視し、債権を確保する目的で設定されている。その為に、市場は、企業が利益や収益を上げられない仕組みに陥りやすいのである。
市場経済が成り立つためには、経営主体が収益や利益を継続的に計上し続けることが前提なのである。
ところが、会計制度を管理する者は、経営主体が利益を上げるのに無関心である。会計制度から見ると利益は結果でしかない。会計制度が利益に貢献できるとしたら、それは、結果を開示することにだけだと決め付けている。経営主体の上げる利益に対して責任を持つのは、経営者だけであり、会計を司る者は、利益を監視する事だけが任務だというのである。
しかし、利益は、純粋に会計的概念なのである。故に、会計制度は利益を算出する上で重大な役割を果たしている。また、適正な利益を実現するため決定的な働きを持っているのである。
利益の幅は、一般に考えられているより、薄く、尚かつ、不安定なものである。ちょっとした環境の変化によってあっという間に消し飛んでしまう。
しかも、物価や所得、負債は、年々上昇し、しかも下方硬直的に出来ている。企業が、利益によってこの時間的価値を、吸収し続けなければならない仕組みに市場は、なっている。企業は、成長し続けなければならないのである。
市場の拡大が止まり、収縮に転じると競争から奪い合いに変質し、企業は、お互いに収益を食い合うことにならざるをえないのである。その結果、利益は、どんどんと圧縮されてしまうのである。
その時に、市場の外から競争条件が違う相手が出現すれば、あっという間に市場は席巻されてしまう。
収益が圧縮されるのは、金融市場も同じである。むしろ、金融市場の基本は利鞘、鞘取りであるから、収益が圧縮される速度は速い。そして、レパレッジを効かせている分、リスクも高くなる。
無原則な競争が道徳観は破綻させる場合がある。土台、競争にルールがなければ、道徳など持ちようがない。最初から守るべきものがないのだからである。それは、競技ではなく、戦争である。しかし、その戦争でも、掟や協定は存在する。自然界でも掟はある。自由原理主義者の言う市場を放置すべしと言う論拠が理解できない。
私的所有権を尊重するというのは建前であって、結局、資本主義でも生産手段は、公的な財であって、私的には、借り物に過ぎないと言う前提に立っている。だからこそ、事業継承や相続、同族経営に否定的なのである。
資本主義思想では、経営主体は、機関であり、それ自体が何等かの財を所有し、蓄積する存在ではないと言う思想が根底にある。
そして、この思想は、会計制度に色濃く反映している。清算された時に明確になるが、企業というのは、企業自体が何等かの財を所有すると言う事は、あまり意味ない事なのである。
企業に期待されるのは、継続であり、継続することによって、市場において、一定の働きをする事なのである。その働きの一番重要な部分は、財の分配と生産、そして、雇用である。そして、この働きを継続的に維持させることが会計本来の目的なのである。
企業が粉飾や脱税をしなければ、経営を維持できないような仕組みでは、経営者も、会計士も不正に手を染めなければ生き残れないのである。しかも、それが公然として事実ならば、市場の規律は保たれない。既に、その様な体制は崩壊していると言っていい。
適正な価格が維持されなければ会計制度も機能しなくなる。
真っ当に事業をしても利益を上げられない仕組みならば、不正は防げない。どんなに、汚い手段、あくどい手口をしても金を儲けた者の天下になれば、悪は栄えることになる。しかも、あくどい手口で金儲けをした者をメディアが英雄扱いすれば、世の中の腐敗は防げない。バブルが起こる背景には、社会の、所謂、躁な状態がある。金に人々が踊った直後に破局は訪れるのである。
2008年に襲ったサブ・プライム問題の背景にもモラルハザード、倫理観の崩壊がある。それは、倫理観を保てないような仕組みが背景に隠されていることを見落としてはならない。正直者が馬鹿を見るような体制は、結局、不正や悪を蔓延らせる結果を招くのである。
市場には、規律が求められるのである。市場は、管理されなければならない。
そして、市場が適正な価格を維持し、必要な利益を確保できるかにある。なぜならば、収益を保つからこそ、所得を分配し、金利を払い、仕入れ業者に代金を支払い、更に、税金を納めることが可能だからである。その為には、市場には規律が求められるのである。その前提が会計制度がもたらす情報なのである。
自由放任と言うが、無邪気に神の力に全てを委ねられたのは、市場の発展や技術革新が無限に続くと信じられた時代だからである。しかし、市場の発展にも技術革新にも限界がある。
だからといって、保護主義に走れば、市場は、飽和状態なのだから、かえって市場を狭くし、信用収縮を引き起こすだけである。何もかもが過剰なのである。その余剰の捌け口をなににすべきかが、解決のため糸口なのである。
市場の原理主義者は、売春も、麻薬も、武器も、密輸品も、取り締まらない方が良い、それが、自由なのだと言い出しかねない。とにかく彼等から見れば規制は、罪悪でしかないのである。
利益は、創られた概念である。利益の基となる会計の基準は、自然の法則のようなものとは違う。言わば、スポーツのルールのようなものである。それでいて、スポーツのルールほど厳格ではない。それが大前提である。
利益が創られた概念なのが問題なのではない。利益は、どんな目的で、なぜ、必要なのかについて明確にされていないことが問題なのである。そしてそれは、思想の問題である。
その為に、利益は、それを利用する者に良いように解釈され、創作されていると言う事である。それが市場の混乱を招き、結果的に、経済に混乱を引き起こしている。それが問題なのである。
会計の基準の妥当性が、会計の専門家、プロに委ねられている。それは、スポーツで言えば、選手と審判を同じ人間が兼ねているような事である。それでは、導き出された利益の質に対する信任は得られない。
しかも、会計や金融という貨幣経済や市場経済の基盤は、信用という制度の上に成り立っている。利益の質が信用できなければ、信用制度は根底から覆されてしまう。
経済に携わる者の多くは、経済が、経済学で教わるような教条主義的な法則によって動かされているわけではないことを知っている。経済の世界は、資金力にものを言わせる帝国のような企業集団や、利権に群がる実力達が存在していることを誰でも知っている。また、権力者に取り入った者が、成功しているという事実もである。それが商売なのである。経済において巨大な利権の存在を無視しては、経済は理解できない。重要なことは、現実や事実を直視できない学問は、実体化できないという事である。虚構である。それを科学と言うのは欺瞞以外の何ものでもない。
利益とは、何か。それが、特定の既得権者のみを利するものであるならば、利益そのものが悪である。また正当な努力によって利益が得られないとしたら、利益を得る手段は不当なものにならざるをえない。その様な利益は、追求する事自体が悪行である。
義のない行いは罪である。道徳観もなく、ただ、金儲けを目的とした利益の追求は、それ自体が罪作りな行為である。利益には、国家経済の安定と国民の幸せがたくされているのである。それを忘れた時、経営は、悪徳へと堕落する。経営者は、経営に何を求めのかが肝心なのである。事業を通して何を実現しようかが事業の本質なのである。
サブ・プライム問題に端を発した2008年の金融危機は、企業が単なる金儲けの道具に過ぎなくなったことが最大の原因なのである。
本来の利益は、公共の利益、国民の利益を基礎としなければ成り立たないものである。利益を追求する事と、公共の利益や国民の福利を追求する事は、一致していなければならない。それが本来の利益の意味である。利益の意味が本来の意味で使われない限り、経済の安定、ひいては社会の安寧を実現する事はできない。
間違えてはならない。会計士というのは、不正を摘発することが仕事なのではない。経営者が、真っ当な経営努力をすることによって利益が上げられるように指導するのが責務なのである。その為には、真っ当な努力をすれば利益が上がる会計の仕組みであることが前提となる。そうでなければ会計士も、経営者も、自分の良心に恥じることなく任務を全うすることは出来ない。
アメリカの多くの企業は、ユートピアを目指した。そして、自分達のコミュニティーを形成したのである。中には、学校や病院まで完備したものまであった。
当時のアメリカ人は、企業が金儲けの手段だけではない事を理解していた。アメリカ人にとって事業は、夢や理想を追い求める手段だったのである。根本は、夢であり、理想だった。夢や理想が失われた時、企業は、利益を追求するだけの機関に成り下がってしまったのである。
伴に働く仲間、従業員に対して責任を持たない経営者、経営に責任を持たない従業員、売った物に責任を持たない販売員、使用することに責任を持たない消費者、その様な無責任体制こそ経済を破綻させる原因なのである。
何のための利益なのかが見失われているから、その様な無責任な体制が放置されるのである。利益を上げる事だけが目的なのではない。体制なのは、その利益を成り立たせている思想、哲学なのである。
バブル崩壊後、日本の多くの企業は、過剰債務、過剰設備、過剰雇用に陥ったと言われる。しかし、これは結果論である。資産価値が下落すると相対的に債務は、過剰になる。なぜならば、債務は名目的な価値で表示され、資産は、実質的価値で表示されるからである。
物価の上昇は、名目的価値を押し上げ、物価の下落は、実質的価値を押し下げる効果がある。
実業にとって資産は、本来潜在的価値である。多くが売りたくても売れない物、即ち、流動性が低い物である。例えば、都心に工場があって工場の敷地の土地が高騰したとしても操業を止めるか、違う場所に移転でもしない限り、営業には無縁である。かえって、資産にかかる税や相続税の負担が増すだけである。逆に、地価が下落すると含み損になりかねない。
営業収支は、常に、釣り合っている限らない。むしろ、釣り合わないのが常態である。営業収支がプラスの場合はいいが、マイナスになると資金が廻らなくなり、経営を継続することが困難になる。故に、営業収支がマイナスし、資金が不足した場合は、資金を新たに調達し、資金の不足を補う必要が生じる。その調達の主たる手段は、借入、即ち、借金である。
なぜ、期間損益が確立されたのか、それは、収支が釣り合わないからである。収支が釣り合わないという事は、現金主義的に見ると儲けがないことを意味する。
要するに儲かっていない。まともにやっていたら儲からないのである。と言うよりも、会計というのは、通常の計算方法では、儲けが出ないから生まれたのである。だから、利益という概念を創作する必要があったのである。故に、現在の企業は、会計上利益が上がっているように見せ掛けているのに過ぎない。それにたとえ、儲かっていたとしても。儲けを蓄える術、手段が、今の会計制度では、限られているのである。
例えば、土地を購入しても土地の代金は、購入する際にかかった費用の一部しか計上することができない。土地の代金は、土地を手放す時に、清算するしかない。しかも、土地を手放した時に利益が生じれば、その利益に税金がかかるうえ、利益処分の項目の主たる部分は、株主への配当と経営者への報酬によって占められている。
つまり、企業は、いざという時の為に、資金を内部に溜め込むことが許されてないのである。故に、リーマンやGMのような巨大な企業でも環境、状況が変化すると一瞬で立ち行かなくなる。
結局、現在の経済は、誤魔化し、まやかしの上に成り立っていると言える。言うなれば、砂上の楼閣に過ぎない。だとしたら、経済が誤魔化し、まやかしの上に成り立っていることを認めるべきなのである。認めてしまえば、まだ、やりようがある。認めずに、さも、実体があるように見せ掛けているから、問題が解決されないのである。最後には、一人一人の道徳観、倫理観までおかしくしてしまう。それが問題なのである。会計上の真実とは、認識上の真実に過ぎない。絶対的なものではなく。相対的なものである。利益や金は命をかけるほどの物ではない。
では、経済の実態はどこにあるのか。それは、人々の現実の生活にある。
人々が生きていく上に必要な物資を調達し、生活ができるようにすることが、経済の役割なのである。そして、穏やかな手段で必要な物資を調達できる仕組みを構築するのが政治の役割なのである。
なぜ儲からないのか。儲からない仕組みになっているからである。では、どうしたら儲かるようになるのか。儲かるような仕組みに組み替えればいいのである。
アメリカの自動車産業が再興するためには、良い自動車を作り事に極まるのである。良い自動車を作り、社会に貢献することが利益に結びついてこそ、利益は有意義なのである。良い車を作ることが利益に結びつかなくなったら経済は成り立たなくなる。それは堕落である。会計のために自動車会社があるわけではない。利益のために、自動車会社かあるわけではない。利益はあくまでも結果なのである。根本は、なぜ利益を上げなければならないのかである。それに会計が明確な答えができなければ、会計は存在意義がない。
手段が目的化する。会計制度が会計制度のための会計制度に堕落してしまう。企業の業績を測る尺度である会計基準が企業の目的や存亡を左右するようになる。経営者や従業員の行動規範や人生を支配するようになる。また、企業や産業の在り方や方向性まで決めてしまう。そうなると事業目的が会計の目的に変質してしまうことになる。
忘れてはならないのは、会計は手段だと言うことである。本来の目的は、事業にある。そして、その事業を成り立たせている社会や国家、人々の生活に根ざしたものである。なぜ、何のための利益かの答えは、会計にはない。しかし、その答えがなくても利益を計算する手段は成立してしまうのである。そして、一度、利益に対する計算式が出来上がるとそれが独自の意味を持ってしまう。忘れてはならないのは、会計は、人々を幸せにするための手段だと言う事であり、事業を成り立たせるためにあるという事である。会計制度によって本来、成り立たなければならない事業が、成り立たなくなるとしたら、社会や国家に有用な事業が成り立たなくなるとしたら、それは、会計の仕組みのどこかに欠陥があるのである。また、地道な努力をする者が報われずに、会計の技術や知識に熟達した者だけが恩恵を受けるとしたら、それは、会計本来の機能が失われている証拠なのである。
人は、市場や貨幣の恩恵に浴しながら、市場や「お金」を卑しむ風潮がある。いわば恩知らずである。心の底では卑しんでいる癖に、逆に、「お金、お金」とか「市場の原理は絶対」とか言って崇めている者もいる。だから、市場も貨幣も正常に機能しなくなるのである。
市場も「お金」も大切な存在である。しかし、神のごとく崇める存在でもない。市場も「お金」も人間が創り出したものにすぎないのである。
忘れてはならないのは、企業に何を求めるかである。家族に、また、国家に何を期待しているのかである。それがあってはじめて制度は正常な機能を発揮することが出来る。
ただ競わせればいいではなく。競争に何を求めているかである。
会計も、経済問題も、思想として語られていないことが問題なのである。
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