機能主義
会計思想
会計制度は、現代経済において基盤的な役割を果たしている。それなのに会計制度の基幹、中核となる思想が明らかでないことが問題なのである。会計制度の位置付けや働きが明らかにならなければ、現在の市場制度や貨幣制度は、その目的や機能を明らかにすることは出来ない。問題はそこにある。
そして、会計制度を成立させている個々の要素、即ち、経営主体、利益、収益、費用、資産、負債、資本、収入、支出、資金、金利、税金と言った要素の定義、働き、相互に及ぼしあう関係を明らかに出来なければ、経済現象を制御する事は出来ない。
会計というのは思想なのである。しかも、実務的な思想である。それだけに実効力のある思想である。それでいて、所謂、思想として認識されにくい。それが現代経済の問題点を不明確にしている原因でもある。
現代の経済体制において問題なのは、会計という言語を用いて、思想を語ろうとしない事が問題なのである。
無形固定資産、知的所有権の問題、営業権、暖簾、ブランド、未実現利益、償却費、法人、これらは、思想である。これらの意味や役割をどの様に定義するかによって経済の有り様が違ってくる。これは、観念的な哲学よりも、ずっと人々の生活に密着した思想なのである。
市場経済や貨幣経済は、資本主義固有の存在ではない。社会主義や、共産主義にも、市場や貨幣は存在しうる。社会主義や共産主義の中には、市場や貨幣を否定した形態もある。しかし、それは、市場や貨幣の働きや意味に対する解釈の相違からくるものであり、社会主義や共産主義の本質に関わることではない。問題は、市場や貨幣の有り様、また、働きなのである。特に、純資産に対する考え方が経済体制の根本的な差を生み出す。
資本主義制度というのは、会計と言う言語で書かれた、思想である。一口に資本主義というが、資本の有り様によって、経済体制は決まってくる。必ずしも、社会主義や共産主義と資本主義とは背反的な関係にあるわけではなく。資本に対する考え方によって私的資本主義と社会主義的資本主義の差が生じるだけである。
逆に、資本主義体制と言っても必ずしも会計的な用語が通用するとは限らない。例えば、経済主体の中で、企業は、実現主義、発生主義に基づいて、複式簿記の世界であるのに対し、家計と、財政は、現金主義であり、、単式簿記の世界である。
また、企業会計は、決算主義(結果主義)、期間損益主義なのに対して、財政は、予算主義であり、単年度均衡主義である。
財政は、なぜ、予算主義を採るのか。また、採らざるをえないのかである。予算主義を採るのか、また、予算主義を採らざるをえないのかは、それなりの理由がある。
予算主義と決算主義の違いは、先ず予算主義は、第一に、前決めだと言う事である。第二に、支出を前提とした予算になるという事である。第三に、裁量権が狭いという事である。それに対して、決算主義は、第一に、結果責任主義、実績主義だということである。第二に、収益を基礎としたものだと言うことである。第三に、裁量権を大幅に与えられている問い事である。
予算が前決めというのは、それは、公共事業は、あくまでも公共の福利を目的としたものという前提によるからである。国民の負託によって行う事業であるから、事前に国民の代表者たる国会の承認を得る必要があるというのが財政の原則とされている。それに対し、民間企業は、経営者が株主の委託によって事業経営をしている故、株主総会に経営の結果と実情を報告する義務があると考えるのである。
また、公益事業は、民間のような収益、利益を目的としていないと言う認識を前提としている。しかし、それは民間事業に対する偏見である。私的事業と言えども、事業には固有の目的があり、利益はその指標に過ぎない。民間企業は、利益だけを目的としているわけでもなく。公益事業は利益を上げる必要がないという口実にはならない。
また、単年度均衡主義というのは、基本的に繰越金を認めないという事である。それに対して、期間損益主義というのは、利益を前提とした思想だという点である。繰越金を認めないと言うのは、税収というのは基本的に納税者の付託によるものだという思想である。故に、納税者から得た収入は、年度内に使い切るというのが建前である。ただしこれは、あくまでも思想なのである。所謂、法則のような絶対的原則ではない。
なぜ、財政は、予算主義、また、単年度均衡主義でなければならないのか。それは、責任の所在と取り方の問題でもある。つまり、財政というのは個々の支出に対して個々の部署が責任を持つが財政全般に対しては責任を持たないという事であり、企業経営は、事前の承認は得ないが結果に対して責任を負うと言う事である。故に、財政は、現金主義であり、民間企業は、期間損益主義なのである。
それは、人事制度に顕著に現れている。民間企業は、実績に応じて報酬が支払われるが、公共機関は、役割に応じて報酬が支払われるのである。
民間企業では、所有と経営が分離したところから発し、公共事業は、政治権力と官僚制度の分離したところから発したところに起因がある。
また、財政は、儲けることより、使うことに重きを置いており、民間企業は、使うことより儲けることに重きを置いている。
ただ今日、財政で問題となっているのは、国家構想の欠如である。国家構想がないままに、金を使う目的ばかりを問題としている。その為に、公共事業が本来の目的を見失って利権化したり、また、景気対策という目的だけが先行する結果を招いている。
それが経済危機や財政危機を袋小路に追い込み、泥沼化させる原因なのである。馬鹿げているのは、経済対策のために戦争をすると言ったようなことである。
財政の目的は、国民の福利の向上にあることを忘れてはならない。
バブル崩壊によって発生した不良債権の問題は、単なる不良債権処理の問題ではなく、政策の不在の問題である。
つまり、国民の住宅問題をいかに解決するかという延長線上で不良債権問題を捉えるのではなく。ただ、不良債権をどうにしかしなければならないから、問題とするという発想では、不良債権の抜本的解決はできないのである。
財政と家計は、現金出納会計である。現金出納会計は、単式簿記である。故に、財政と家計は単式簿記の世界である。財政や家計には、資産、負債、資本、収益、費用勘定はない。故に、財政にも、家計にも、利益の概念は家計にはない。あるのは、収支だけである。
財政赤字が問題になる時、赤字の意味が、企業の赤字と混同される場合がある。複式簿記で言うところの赤字は、期間損益に基づいた概念である。利益という概念が現金主義にはないのであるから、現金主義、単式簿記上の赤字と実現主義、発生主義、複式簿記上の赤字とは、本質が違う。つまり、財政赤字と民間企業の赤字とは、本質が違うのである。同列には語れない問題である。
現金主義と発生主義、実現主義の違いは、財政赤字と企業の赤字を比べてみると明らかになる。
企業は、赤字が続くと経営破綻する。しかし、経営が破綻する直接の原因は、赤字ではなくて、資金繰りがつかないなることである。
よく負債と資本の違いは、資本は、返す必要がない資金であるのに対し、負債は、返さなければならない資金だと説明される。
その返さなければならないと言う意味は、金利を指して言うわけではなく。元本部分を指して言っているのである。
ところが、元本の返済に相当する部分が利益計算の上には出てこない。その為に、問題が顕在化しない。原因が掴めないのである。それによって黒字倒産、資金繰り倒産などと言う事態が発生する。
現金主義の場合、逆に、この元本の返済が顕在化する仕組みになっている。つまり、会計上は、表に出ない問題が表面化し、事態を深刻にするのである。つまり、会計と財政は、対極に位置することになる。
現金主義では、現金収支が前面に出てしまうのである。それは、会計と思想が違うからである。もし、同じ視点で考えようとするならば、財政を会計に変換するか、会計を現金主義に変換するしかない。
金融政策を問題とする際、金利のことばかりが言われるが、現実は、資金不足が最大の懸案事であり、問題なのは資金の確保、つまり借入なのである。資金繰りがつかなくなればどんな高利でも手を出しがちなのである。故に、資金繰りがつかなくなる原因は、元本の返済なのである。つまり、急に元本の返済条件を変えられたり、借り換えができなくなったっり、運転資金の手当てができなくなることなのである。新規投資の資金に困るからではない。経営活動のベース、基盤にある資金が不足することなのである。だから、貸し渋りであり、貸し剥がしなのである。
しかも、返済に充てる資金は、市場から調達するのが原則である。その市場が、バブル崩壊時や恐慌時は、機能しなくなっているのである。
個々の企業で言えば、不良債権を処理をしても、借金は、残るのである。しかも裏付けのない借金である。
その為に、借金の返済に負われて、新規投資の資金の余力がなくなる。更にそれに追い打ちを掛けるのが、景気の悪化に伴う収益力の低下である。
収益によって借金を返済しなければならない時に、市場環境が悪化し、競争が激化する。或いは、市場が飽和状態になり、売上が減少する。
それが企業の体力を徐々に奪っていくのである。
金融機関にしてみれば通常の状態では融資を渋る対象ばかりになる。つまり優良な融資先が減少することになる。
その為に、金融市場や資本市場、先物市場、商品相場において、手っ取り早く利益を上げようとする傾向が強くなる。それが、次のバブルの種になるのである。
もう一つ、会計思想を語る上で重要な課題がある。それは、時価主義と取得原価主義の問題である。
時価主義が近年、話題になっている。しかし、なぜ、時価主義でなければならないのか。時価主義とは一体何かについては、あまり、語られていない。時価主義にせよ、取得原価主義にせよ。また、現金主義や実現主義、発生主義にせよ、認識の問題である。つまり、思想の問題である。そして、何れの主義を採るかによって経済の有り様が違ってくる。
取得原価主義とは、財を取得時点でま現金価値を基にして貸借の均衡を評価する考え方である。それに対し、時価主義とは、決算時点で、その時点その時点で更新された現金価値を基にして貸借の均衡を評価する考え方を言う。取得原価主義によるか、時価主義によるかによって企業評価は大きく別れる。必然的に景気の状況も変化する。
経済体制の違いは、資本の在り方によって変わる。資本の有り様は、資本を支配する存在によって規制される。つまり、経済体制の有り様は、資本、即ち、経営主体の所有者は誰かの問題に還元できる。
資本をどうするのかは、第一に所有権の問題である。第二に、経営権の問題である。第三に事業継承の問題である。
社会主義か、資本主義かといっても、基本的には、国営か、民営かの違いであり、誰が、経営主体を支配しているかの問題に還元される。つまり、経済主体の所有権の問題である。
経営主体の所有権を、第一に、私的(経営者個人等)なもの、第二に、国家的なもの、第三に、ある種のコミニティ、社会的なもの、第四に、消費者のもの(生協)、第五に、同業者組合(協同組合、農協、漁協、プロリーグ等)のようの機関のもの、第六に、従業員、労働者(労働組合)のもの、第七に、株主の様な投資家のもの、第八に、金融機関のような債権者のものに帰すのかによって経済体制は違ってくる。
現代の資本主義は、混合型資本主義であり、純粋の資本主義ではない。
人間は、経済に何を求めているのか。経済の役割を理解するためには、それを明確にする必要がある。つまり、経済の目的である。不況も、貧困も、戦争も、人間の強欲の結果である。それは、経済に何を求めているかが、ハッキリしていないことが原因なのである。
経済に何を求めているのか。例えば、利益、何を期待するのかである。また、経営主体とは何かである。
利益は、経営状態を表す目安に過ぎない。その証拠に、企業は、赤字だという理由だけで潰れるわけではない。資金の供給が断たれることによって潰れるのである。赤字というのは、資金を供給するか、否かの判断を促すだけである。第一、公共事業や財政には、利益という概念そのものが欠落している。故に、民間企業では、利益が出せなければ、責任が問われ、資産、財産を没収されるのに、公務員は、責任を問われるどころか、同情され、高額の退職金を保証される。思想が違うのである。
問題は、利益が何を意味しているかである。利益を上げる目的も、利益の働きも解らずに、闇雲に利益を追求している。それが、現代経済の姿なのである。本来は、赤字だから悪いというのではなく。赤字の原因なのである。原因次第では、資金を余分に供給する必要も生じる。善悪の問題ではない、事業の有益性と状況の問題である。つまり、企業に何を我々は求めているのかの問題なのである。
また、経営主体は、機関なのか、それとも、共同体なのかである。企業というのは、たんに生産をし、利益を上げるための機関なのか。それとも、人間の生活を支える共同体なのかである。現代社会は、企業から、人間性をとことん削除してしまっている。それこそ、企業は、唯物的存在でしかない。最近では、物的要素まで失い、唯金的存在に堕しつつある。
経済は、人間の営みである。単に、労働をコストとしてしか認識できなくなった時、経済は、人間の営みを排除してしまうことになる。それは、経済にとって自滅的な事柄である。
会計制度、道具、手段に過ぎない。道具、手段である会計制度に支配された時、人間は、経済の本来の目的を見失うことになる。会計制度、人間の生活をより良くするための手段、道具であるうちは、有効に機能することが出来る。しかし、一度、金儲けの手段・道具にだした時、会計制度は、両刃の刃となって人間を破滅へと導くであろう。
経済体制も、政治体制も原理に基づくものではない。思想に基づくものである。そこに現れる現象は、人間の為せる所業の結果に過ぎない。神の摂理でも、自然の法則でもない。故に、人間が改めない限り、改まらないのである。
経済的な成功者は、評判が悪い。経済的な成功者に対して形容される言葉は、破廉恥とか、強欲、冷血漢、計算高い、狡猾、悪辣、狡賢い、と言ったものが多い。それは、嫉妬や羨望、妬み、やっかみだけとは言えないだろう。
現在の市場の仕組みには、そうしなければやっていけない。そう言う人間しか、生き残れないと言う状況があるからといえるのである。
投機が悪いとしても、皆が、投機的なことをやっている時に、同じ事をやらなければ、生き残れなくない状況になることがある。
良いも、悪いも、やらなければ生き残れないならば、多くの者は、悪いと知りつつもやらざるを得なくなるだろう。そして、実行した者だけが生きのびるとしたら、結果的に、生き残った者は、実行した者だけと言うことになる。
それがモラルハザードを引き起こす。特に、善悪の判断が曖昧な時に、この様な状況は起こりやすい。
会計を構成する要素
会計制度は、通貨によって動いている仕組みである。資金は、会計制度の動力、エネルギーだといえる。エネルギーは力であって無形な働きである。
通貨の力、即ち、資金力は、電力と言うよりも水力に似ている。水力発電機は、水の流れによって水力が生じ、発生した水力によって発電機を動かす機械である。
水力によって動く機械や仕組みは、水の流れによる力によって動くのである。仕組みや機械の中に水がなかったり、水が静止している時は、水力は生じない。
財務情報を視る時に注意しなければならないのは、財務諸表に表示されている数値は、実在する通貨の量を表してた数値ではないと言う点である。財務諸表に表示されている数値は、通貨が流れた痕跡に過ぎない。表示された数値だけの現金が用意されているわけではない。数値が指し示した対象の貨幣価値の水準を示した値に過ぎないのである。
会計制度、資産、負債、資本、収益、費用の五つの要素からなっている。これら五つの要素の働き、資産の働き、負債の働き、資本の働き、収益の働き、費用の働きが市場の動きを支配している。
そして、これらの五つの要素を機能させているのが貨幣の働き、即ち、機能である。
先ず総資産と総資本は、帳面上均衡していることが前提となる。帳面上均衡しているという事は、会計的に均衡していることを意味する。
資産には、事業用資産と金融資産がある。また、資産は、換金しやすさに対応して固定資産と流動資産に区分される。また、資産の貨幣的外形によって非貨幣性資産と貨幣性資産が分類される。
また、将来、損益上において費用化されるかどうかで、費用性(償却)資産と非費用性資産に分類される。
負債と資本によって総資本は成り立っている。負債と資本の違いは、負債でいえば元本、資本でいえば元金を返済するか、しないか問題である。資本というのは、永久に元本を借り続けている負債のようなものである。
この違いは、経営の安定性に重要な影響を与えている。景気が悪化した時、金融機関や債権者が資金の回収を測ると負債に依存している企業は資金に窮することになるからである。逆に、外部資本に頼っている企業は、経営権に影響がでる。
負債と資本のもう一つの違いは、金利と配当の違いであり、金利は元本に関連付けられ、配当は、利益に結び付けられている点である。
利益は、会計的にいうと収益から費用を引いた数値である。しかし、利益は一様ではない。何を収益とし、何を費用とするかによって利益は違ってくる。そして、利益を生み出すのは、人間の活動であることを忘れてはならない。利益は、社会的な産物であり、人間が、市場の活動を通じて作りだした会計的結果である。つまり、利益がでるでないは、社会の仕組みと人間の活動の相互作用によって決まるのである。利益は、自然に委せれば計上されるものではない。そして、利益は、会計的概念である。
ドクターヘリを運営している企業が赤字で存続が難しいというニュースをテレビの報道番組で取り上げていた。なぜ、有益だと社会的に認められている事業が成り立たないのか。それは利益にある。
現実よりも会計処理、つまり、観念、理屈が先行し、現実の経済を左右している。会計の論理が現実の経済を左右しているというのに、専門過ぎて会計の論理が問題にされることは稀である。わけの解らないことに、わけの解らないまま振り回され、的はずれな所を検討し、それでいて結局、出された結論に従わざるをえないことが問題なのである。
会計をあたかも所与の原理であるかのごとく錯覚していることが原因なのである。会計は、あくまでも人為的尺度である。重要なのは、その背後にある経済の有り様なのである。
社会に必要で有用な事業をただ儲からないからという理由だけで葬り去るとしたら、本末転倒なのである。それが社会にとって必要で、有益な事業ならば儲かるようにすればいいのである。
逆に、社会にとって悪影響しか与えないのに、儲かるからと言って繁盛させてしまうのもおかしな話である。最近のテレビが視聴率に振り回され、良質な番組が視聴率が低いからといって淘汰され、俗悪な番組を、視聴率が高いからと言ってもてはやしているのは、好例である。
根本に、公器であるテレビ放送を、どの様に社会に役立てるべきかという発想が欠如しているのである。結局、テレビ放送を私物化して儲けの手段にしているに過ぎない。
利益を上げることを、経営主体の至上命題と仮定するならば、企業や社会の有り様が悪くて利益が上がらないとしたら企業や社会の仕組みや経営の仕方を変革する必要がある。重要なのは、事業の存在価値、効用なのである。
利益を評価する場合、赤字だから良いか、悪いかの問題ではない。
利益には、いろいろな意味がある。赤字にも、いろいろな理由、原因がある。経営者の不可抗力による利益や損失もある。為替の変動によって利益がでたり、赤字になったりもする。また、生鮮食料のようなものを扱う産業は、災害やその年の作柄に利益は左右こされる。待て、石油産業のような原産地が限られている産業は、政治的なリスク、地政学的リスクに収益は影響される。
損失も、一時的な赤字なのか、それとも継続的な赤字なのか。赤字になるのは、産業の構造的な問題なのか。それとも、経営者の能力の問題なのか。
なぜ、何の目的で、何を基準にして利益を上げるのか。利益の元は何かを明らかにしないで利益ばかりを追求しても経済をよくしていることにはならない。それは、意味もなく働いているだけである。何のために、利益はあるのか、それが重要なのである。
利益もただ上げればいいというわけではない。過剰な利益は、かえって弊害を引き起こす素となる。
利益は、結果というより目的、目標であり、多くの場合、結果が出た時は手遅れである。利益は、経営を継続するための一つの指標である。だからこそ、企業は、赤字でも継続できるのである。その為の利益である。
元々、経営状態を、現金収支から判断していた。しかし、それでは、投資と費用の関係が掴めない。だから、現金収支から期間損益、主体の会計になったのである。
キャッシュフローが流行っているが、その辺の事情をよく理解しておく必要がある。利益を客観的事実であるかのごとくいうのは間違いである。利益をどう設定するかは、経営の実体をいかに反映するかの尺度の問題なのである。
利益によって経営の実体が理解できなくなってきたのは、利益が経営の実体そぐわなくなってきたことが原因なのである。それは、何に利益を求めるかを明らかにしていないからである。
そして、為替や石油価格の高騰のような経営上の不可抗力から生じた損失にどう対処するか、また、過大な利益をどう社会に還元するのかの方がより本質的な問題なのである。その為に、利益をどう定義し、どう設定するかが重要なのである。
何が、何でも増収増益でなければならないと言う考え方が危険なのである。減収や減益でも、赤字だったとしてもその原因が明らかであれば対策の建てようがある。
目的があって利益は、人為的に計上される。つまり、目的に応じて、利益の計算の仕方は決められるべきものである。
重要なのは、企業業績は、基本的には、長期的に見て事業が成り立つか否かが重要なのである。また、事業が成立しないとしてもその原因が何かである。
事業というのは、単に採算性だけが問題なのではない。利益が上がらなければ、上がらないなりの原因がある。その原因を明らかにすることが重要なのである。
利益は、拡大均衡によってのみ得られるものではなく、縮小均衡によっても得られる。問題は、利益を上げるために、何が作用し、何が犠牲になったかである。問題なのは、拡大均衡によって得られた利益が妥当なのか。縮小均衡によって得られた利益が妥当なのかである。その妥当性は、その利益を計上する上での前提に関わる。つまり、市場の状況、景気の動向、その産業の社会的有用性などである。また、その産業の社会的働きも重要である。社会的働きは、生産性だけで測られる性格のものではない。
金融機関が目先の利益ばかり問題として事業の将来性を見誤れば、経営は、成り立たなくなる。
流行の産業ばかりをもてはやし、社会に有用な産業を軽んじたら、その国の未来はない。
会計的な位置と運動と関係から働きは生じる。それは構造的な働きである。構造的な働きとは、複数の要素が、相互に影響することによって生じる作用である。
働きは、時間の関数であるから、会計にも時間は関係してくる。
位置は、価値を定め、運動は、価値を変化させる。運動には、外部運動と内部運動がある。位置エネルギーは価値を持ち、運動エネルギーは、価値を生み出し、関係は、位置や運動の働きを明らかにする。
位置によって示される価値は、静的な価値である。それが変化するのは、市場に現れる事によってである。静的価値は、潜在的な価値を持つ。その価値は、貨幣価値が成立することによって債権と債務の関係によって生じる。貨幣価値を顕在化するという事は、資金力、資金調達能力である。
会計において、重要な概念に時間の概念がある。会計は、会計期間を定め。その期間内で損益を決算する。
家計を損益、貸借によって管理しようとしても現実的ではないであろう。会計で一番問題になるのは、月々の収支であって損益ではないからである。この事は、ある意味で期間損益の意義、意味を表している。また、企業経営のわかりにくさの一因でもある。しかし、期間損益が確立されたからこそ、経営の長期的均衡が可能となったのである。
貨幣経済で重要なのは、流動性である。流動性は、速度の問題である。速度は、単位時間あたりの変化の量として認識される。
価値の総量は、定数+変数(単位あたりの変化の量)×時間と言う式で表される。変数は、基数×率によって定まる。
期間損益が確立されることによって、会計的な位置と運動と関係が定まる。それが会計的機能の起源である。
そして、利益は、期間損益に基づいて導き出される数値である。つまり、利益は、時間の関数である。つまり、利益というのは、元々会計的操作によって導き出された概念なのである。
時間は、変化の単位であり、変化は、速度が重要であるから、期間損益では速度が重要な要素なのである。
故に、期間損益では、速度も重要な要素の一つである。会計制度において、時間の概念は、重要な意味を持っている。そして、時間の概念は、速度に還元される。速度は、流動性と固定性の概念を構成する。
貨幣経済下において市場価値を仲介する物は貨幣である。故に、市場価値は、貨幣価値と言っていい。貨幣は、交換価値を表象したものであり、交換の目的は、所有権の転移と消費である。つまり、取引の目的は、所有権の転移と消費である。所得の転移は、資産と負債、消費は、収益と費用の概念を生み出す。
さらに、所得の移転と消費は、現金化される速度に関係している。所得の転移と消費が取引の基準だと言う事は、資産と負債と収益と費用が、現金化される速度の問題なのである。
基本的に変化が表面に現れない勘定科目に属する部分、時間が陰に作用する部分を貸借対照表上にあらわし、変化が表に現れる勘定科目を様に表した。それが固定という概念で、流動性に対応している。
流動性というのは、その物や権利が持つ現在的貨幣価値の変化の速度を言う。即ち、現金化される速度を流動性という。現金は、その時点における貨幣価値を実現した数値、あるいは、数値を公式に表象した物である。
現金化されるという事は、その時点で消費されることを意味する。消費されるという事は、費用化されるという事である。つまり、資産や負債というのは、現金化されるの留保した状態、又は、待機した状態と言える。
時間が陰に作用しているか、陽に作用しているかが重要になる。
現金は、時間的価値は、陰に作用する。つまり、時間的価値は、表面的なは現れない。
その物や権利は、資産及び負債である。資産、及び、負債は、債権や債務を派生させる。債権と債務は、時間的価値が陽に作用する。故に、その速度が問題になるのである。
速度の速い物や権利を流動的といい。速度の遅い物や権利を固定的という。
貸借の均衡は、資産、負債の時間価値の均衡によって保たれている。それは、資本(純資産)の増減として現され、最終的に現金の過不足に還元され、清算される。
資産には、費用として消費されるのを留保した状態の財と取得した時点で費用化する権利を取得した財との二種類がある。前者を費用性資産、あるいは、償却資産と言いい。後者を非費用性資産、非償却資産という。
資産に掛かる費用というのは、基本的に、所有に掛かる費用という性格を持つ。つまり、維持費+時間的価値なのである。時間価値は、見かけ上の利益や損失を生み出す。それが未実現損益である。
負債は、負債が成立した時点の現金価値から返済された額を引いた数値として表れる。また、負債は、時間的価値として金利を派生させる。金利は、発生した時点で現金化され、費用化される。
費用とは、現金化され消費された財を言う。費用化された部分には、時間的な価値も含まれる。
負債から派生する時間的価値は、金利である。これは貨幣が生み出す時間的価値である。それに対して、資産が派生する時間的価値には、二種類ある。一つは、資産が直接的に生み出す収益である。典型的なのは、不動産が生み出す地代、及び、家賃に相当する価値である。それから、装置、設備から間接的に派生する償却費である。
また、資本から派生する費用が配当である。
この様に、資産や負債、資本コストは、費用化されるのを待機した状態にある。つまり、費用は、事後的に発生する。
その為に、費用対効果は、必ずしも現金の収支を基としているわけ費用ではなく、発生が認識した時点で換算される。それに対し、収益は、収益が実現したと認識された時点における現金価値を指して言うのである。それが発生主義である。つまり、発生主義は、現金化されたとされる時点、その時点での現金価値をどう評価するか、その認識の仕方で費用や収益の現金価値に差が生じるのである。必然的に利益にも差が生じる。この差を利用すると合法的に利益を操作することが可能となる。
つまり、利益は、会計上創られた概念なのである。
成長が止まるとそれまでの債務の残高や償却費用、資本費用が期間損益に対して圧迫要因となる。また、資産価値の低下は、資金調達の裏付けを崩壊させるために、それだけで収益の圧迫要因になる。成長から停滞への変化は、必然的に市場の質を変化させるのである。
返済資金と賃貸料、所得にかかる費用の長期的均衡と短期的均衡をどう調整するかが、重要になる。そして、それは、経済全体にも重大な影響を及ぼすのである。その典型がサブ・プライム問題である。
この様に、期間損益とは、収益と費用、資産、負債、資本、それぞれの要素に働く時間の作用と個々の要素がどの様に関わっていくかによって決まる。
それは、所有と金銭の借入、物的の借入の何れを選択するかの問題なのである。つまりは、人、物、金の関係によって利益は創作されるのである。
利益は、会計上、中軸となる概念であり、会計制度を基盤とする経済体制では、経済の動向に決定的に影響を及ぼす概念である。会計基準の変更や経済政策を立案する際、この事を念頭に置いておく必要がある。
損益は、本来、変動、即ち、運動を基として、貸借は、固定、即ち、位置を基とする。資金は、原因と結果であり、軌跡である。そして、原動力となる価値には、潜在的な価値、潜在的な力と顕在化した価値、即ち、顕在的な力があり、潜在的な力と顕在的な力とでは働きが違ってくる。
動的なものは、流動資産、流動負債、変動費となり、静的なものは、固定資産、固定負債、固定費となる。
費用の働きは、変動費と固定費によって違う。また、費用としてみなされるか、資産としてみなされるかによっても違ってくる。
支出を考える場合、投資か、消費かも重要な要素である。投資であれば資産に振り分けられ、消費であれば、費用に振り分けられる。
支出を伴わない費用、例えば減価償却費、また、収入を伴わない収益、例えば、売掛金などがある。
費用性資産は、期間損益を成立させた重要な要因の一つである。費用性資産とは、費用の塊のような資産である。また、清算時点において価値があるかどうか判明しない資産である。
この費用性資産の存在と働きが、期間損益に重大な意味を持たせている。何を費用性資産とするか、どの様に処理するのかによって期間損益が大きく変化するからである。そして、その処理の仕方が任意であることによって利益に対する解釈がいかようにでも出来るのである。
現実の資金と損益の動きを結び付け、実際の資金の過不足を計るためには、減価償却費+税引き後利益で長期借入金を割った値の変化が意味することを知る事である。それは、債務の実質的な変化を意味するからである。
それに、固定資産、流動資産、固定負債、流動負債、純資産、収益と費用にそれぞれの割合が示す値が重要となる。
もう一つ重要なのは、税は、利益に対して課せられるという点である。しかも、税というのは、収支に関わりなく資金の流出をもたらすという点である。
会計的均衡
財務諸表は、計算書に過ぎない。問題は、何を計算するかである。
何を計算するのか。それは、裏付けである。つまり、会社が破綻した時に債権者に対してどの様な裏付けがあるか。また、資本家に対してどれくらいの配当が妥当か。経営者にどれくらいの報酬を支払うべきかを計算するために、財務諸表は生まれたのである。つまり、単に利益を計算する目的で生まれたわけではない。
先ず目的や動機が肝心なのである。
先に述べたのは、計算書を見る側の目的と動機である。逆に賛成する側の動機とは何か。この様に二元的に考えるのが、複式簿記の考え方である。
計算する側の動機は、資金の調達である。この点を誤解しない方が良い。事業の継続にせよ、報酬を得るにせよ、資金が必要なのである。
会計というのは、「ある」から出発するのではなく。「ない」から始まるのである。いわば最初マイナスからの出発である。だから外部より資源を内部へ取り込む手続から開始される。それが資本の原点である。
決算書の入り口と出口は、現金である。即ち、現在の貨幣価値を実現した物である。つまり、経営とは、調達された内部に蓄積された現金によって調達した財を内部で変換して再度現金化していく過程である。
そして、その働きは、前期末残高、入りと出、そして当期期末残高で表される。この位置と運動と関係が作用反作用と結びついて決算書を成立させる。
取引の作用反作用は、複式簿記が好例である。つまり、一つの取引は、同量の貨幣価値を持つ二つの作用によって認識されるのである。そして、これらは、基本的に資産と費用、負債と収益に分類される。負債と収益は、入力であり、資産と費用は、出力を意味する。そして、資産と負債の差は、純資産、収益と費用の差は、利益を形成する。純資産と利益は、同じものである。
また、一つの取引は、内と外で同量の貨幣価値を持つ二つの作用となる。つまり、売上は、買上になり、貸し付けは、借り付けになる。売掛金は、取引相手にとっては買掛金となる。受取手形は、取引相手にとっては、支払手形となる。
取引の作用、反作用には、売り買い、貸し借り、と言ったものが代表的である。ただ、売りと買い、貸しと借りと一対一に、又は、形式的に対応させがちである。売りと貸し。売りと貸しという組み合わせや買いと借り、買いと貸しという組み合わせもある。つまり、作用反作用の組み合わせは、その時の取引の形態に準じて決まるのである。
個々の企業の市場での働きは、企業間の取引によって成り立っている。そして、企業間に働く作用は、取引が成立した時点、時点では均衡している。この企業間で働く作用によって市場の状態や経済の状況は決まる。個々の企業の内的な働きだけでは、企業の社会的働きは見えてこない。
決算書の分析において、内的均衡ばかりを見るために、外的均衡、さらには、経済全体の動きと企業経営が結びつかないのである。
故に、企業の経済的働きを分析するためには、個々の取引が市場全体に及ぼす影響を明らかにする必要がある。その上で、企業収益が適切なものであるかどうかを判定するのである。
不良債権を問題とした場合でも、資金の供給者側の問題と需要者側の問題があると言う事である。そして、どちらの側の問題がより深刻か、あるいは、どこからその問題は、発生し、その根源は何かである。不良債権問題の根源には、貸し手側から見ると地価の問題があり、同時に、借り手側から見ると資金不足の問題がある。地価の問題はどこから来ているのか。そして、資金不足は何が原因なのか、双方の事情を照らし合わせてはじめて不良債権問題は片付くのである。
一口に、不良債権というが、不良債権は、不良債務の問題でもある。負債には、貸し手と借り手がいる事を意味している。そして、誰が貸し手で、誰が借り手かが重要なのである。つまり、全体的には、貸した金と借りた金は社会全体の負債の総額において均衡しているのである。また、貸し手側、借り手側双方に問題が生じることを意味する。貸し手側、借り手側、どちらか一方の問題を解決しても片手落ちになる。貸し手、借り手双方の問題点を解決してはじめて不良債権は解消されるのである。
作用、反作用は、量的には均衡しているが、質的には、非対称性がある。作用は、量的には、同量の貨幣価値でも、質の違いが生じるからである。
質的な違いというのは、作用の性格を意味する。例えば、債権と債務である。また、売上と費用などである。売上は、同量の費用を発生させる。売上の性格は、収入であり、価値の実現であるのに対し、費用は支出であり、価値の消滅を意味する。また、売上は、費用だけではなく。資産を発生する場合もある。その場合は、価値の留保を意味する。この様に作用も一律ではない。
収益と負債、又は、資産と費用の違いは、貨幣価値が生じた時点でその価値を実現できるか否かの問題である。実現できなければ、債権と債務が派生する。収益と費用は、貨幣価値が成立した時点で実現する。それに対し、資産と負債は、その貨幣価値が成立してから実現するまでに、時間が掛かる。その間、債権と債務が派生する。その債権や債務は、譲渡することが可能であれば、貨幣と同じ効果を発揮する。
所有権は、交換価値を発生させる。交換価値から貨幣が創造されると貨幣価値から債務と債権が生じる。債権と債務は、等価で作用反作用、即ち、逆方向の働きがある。そして、債権と債務は、一度成立すると、それぞれが独自の運動をする。運動とは、変化である。貨幣価値を実現した物が現金である。収支というのは、現金の動きの軌跡であり、損益は、債権と債務の働き言った結果である。
貨幣価値は、価値するものと価値されるものの二つからなる。ここから貨幣は、二つの作用が生まれる。この二つの作用は、負の作用と正の作用でもある。故に、貨幣経済の拡大は、負となる部分の拡大をも意味する。
相対的な現象には二面性があるのに、日本人は、表面に現れた一面しか見ない。例えば、借金をしたら、借金をしたことしか見ない。しかし、表面に現れた働きと反対の働きがあってはじめて均衡するのである。その二つの作用を媒介するのが貨幣の働きである。
例えば、借金をして土地を購入した場合は、土地と負債の関係が、現金と負債、土地と現金と表現されるのである。
我々は、借金をしたとか、土地を買ったという具合に、貨幣の動きから一面しか見ない。それが現金主義である。しかし、借金をして現金を手にしたという事であり、現金で土地を買ったという事なのである。その媒体が現金なのである。
つまり、本来は、債権と債務という反対方向の働きがあるのである。その働きが、同時に発生するとは限らず、ある程度の時間をおいて発生することがある。その働きを媒介する媒体が貨幣なのである。そこに貨幣の本質的な働きがある。
現金収支だけでは、この債務・債権関係が認識できない。それ故に、期間損益が始まったのである。
期間損益を確立した意義が理解できなければ、キャッシュフローの意味も理解できない。
収入に関しては、負債も、資本も、収益も、基本的に収入を基礎としている事に、変わりはない。ただ、返済する必要があるかどうかの問題なのである。
もう一つ、重要なのは、元本の返済は、費用として期間損益上はみなしていないという事である。つまり、損益の均衡は、費用に対応する部分、金利に対応する部分を指して言っているのである。元本を含めるのは、収支上の問題である。
要するに、資産、負債、資本、収益、費用を構成する個々の要素が、それぞれどこに対応しているかが重要なのである。
企業は、儲かっている時、業績がいい時、いろいろな物に投資をする。ところが業績が悪化してそれらを維持できなくなると、結局、借金だけが残ったという事にもなる。
企業は、年々、利益を上げているのだから、しっかり儲けを溜め込んでいるものと思いこみがちである。しかし、それは、一面しか見ていないからそう思うのであり。収益が上がっり金が一見余っているように見えても、それによって資産を買えば、結局、債務を増やすだけなのである。借金を返済しても負債が減り、金利負担が軽減するだけで、収益には、金利以上の影響がでないのである。つまり、債権と債務は常に均衡している。
では、儲かった金はどこへ行くのかというと、消費である。消費は何かというと一つは、費用である。もう一つは、配当である。そして、税金と金利である。つまり、分配に廻されてしまい残らないのである。それが期間損益の本質である。勢い、儲かったら、儲かって分、使ってしまえ、消費してしまえとなる。
利益は、累積・蓄積が難しくできているのである。
それは、収益と費用、即ち、所得と消費は、常に均衡させるべきだという発想に基づいている。これは、思想なのである。債務と債権、収益と費用は均衡させるべきだと言う思想なのである。
会計制度の働き
会計で問題なのは、現代の会計制度が利益や収益を管理する目的で構築されていないという点である。現代の会計制度は、企業を監視し、債権を確保する目的で設定されている。その為に、市場は、企業が利益や収益を上げられない仕組みに陥りやすいのである。
市場経済が成り立つためには、経営主体が収益や利益を継続的に計上し続けることが前提なのである。
ところが、会計制度を管理する者は、経営主体が利益を上げるのに無関心である。会計制度から見ると利益は結果でしかない。会計制度が利益に貢献できるとしたら、それは、結果を開示することにだけだと決め付けている。経営主体の上げる利益に対して責任を持つのは、経営者だけであり、会計を司る者は、利益を監視する事だけが任務だというのである。
しかし、利益は、純粋に会計的概念なのである。故に、会計制度は利益を算出する上で重大な役割を果たしている。また、適正な利益を実現するため決定的な働きを持っているのである。
利益の幅は、一般に考えられているより、薄く、尚かつ、不安定なものである。ちょっとした環境の変化によってあっという間に消し飛んでしまう。
しかも、物価や所得、負債は、年々上昇し、しかも下方硬直的に出来ている。企業が、利益によってこの時間的価値を、吸収し続けなければならない仕組みに市場は、なっている。企業は、成長し続けなければならないのである。
市場の拡大が止まり、収縮に転じると競争から奪い合いに変質し、企業は、お互いに収益を食い合うことにならざるをえないのである。その結果、利益は、どんどんと圧縮されてしまうのである。
その時に、市場の外から競争条件が違う相手が出現すれば、あっという間に市場は席巻されてしまう。
収益が圧縮されるのは、金融市場も同じである。むしろ、金融市場の基本は利鞘、鞘取りであるから、収益が圧縮される速度は速い。そして、レパレッジを効かせている分、リスクも高くなる。
無原則な競争が道徳観は破綻させる場合がある。土台、競争にルールがなければ、道徳など持ちようがない。最初から守るべきものがないのだからである。それは、競技ではなく、戦争である。しかし、その戦争でも、掟や協定は存在する。自然界でも掟はある。自由原理主義者の言う市場を放置すべしと言う論拠が理解できない。
私的所有権を尊重するというのは建前であって、結局、資本主義でも生産手段は、公的な財であって、私的には、借り物に過ぎないと言う前提に立っている。だからこそ、事業継承や相続、同族経営に否定的なのである。
資本主義思想では、経営主体は、機関であり、それ自体が何等かの財を所有し、蓄積する存在ではないと言う思想が根底にある。
そして、この思想は、会計制度に色濃く反映している。清算された時に明確になるが、企業というのは、企業自体が何等かの財を所有すると言う事は、あまり意味ない事なのである。
企業に期待されるのは、継続であり、継続することによって、市場において、一定の働きをする事なのである。その働きの一番重要な部分は、財の分配と生産、そして、雇用である。そして、この働きを継続的に維持させることが会計本来の目的なのである。
企業が粉飾や脱税をしなければ、経営を維持できないような仕組みでは、経営者も、会計士も不正に手を染めなければ生き残れないのである。しかも、それが公然として事実ならば、市場の規律は保たれない。既に、その様な体制は崩壊していると言っていい。
適正な価格が維持されなければ会計制度も機能しなくなる。
真っ当に事業をしても利益を上げられない仕組みならば、不正は防げない。どんなに、汚い手段、あくどい手口をしても金を儲けた者の天下になれば、悪は栄えることになる。しかも、あくどい手口で金儲けをした者をメディアが英雄扱いすれば、世の中の腐敗は防げない。バブルが起こる背景には、社会の、所謂、躁な状態がある。金に人々が踊った直後に破局は訪れるのである。
2008年に襲ったサブ・プライム問題の背景にもモラルハザード、倫理観の崩壊がある。それは、倫理観を保てないような仕組みが背景に隠されていることを見落としてはならない。正直者が馬鹿を見るような体制は、結局、不正や悪を蔓延らせる結果を招くのである。
市場には、規律が求められるのである。市場は、管理されなければならない。
そして、市場が適正な価格を維持し、必要な利益を確保できるかにある。なぜならば、収益を保つからこそ、所得を分配し、金利を払い、仕入れ業者に代金を支払い、更に、税金を納めることが可能だからである。その為には、市場には規律が求められるのである。その前提が会計制度がもたらす情報なのである。
自由放任と言うが、無邪気に神の力に全てを委ねられたのは、市場の発展や技術革新が無限に続くと信じられた時代だからである。しかし、市場の発展にも技術革新にも限界がある。
だからといって、保護主義に走れば、市場は、飽和状態なのだから、かえって市場を狭くし、信用収縮を引き起こすだけである。何もかもが過剰なのである。その余剰の捌け口をなににすべきかが、解決のため糸口なのである。
市場の原理主義者は、売春も、麻薬も、武器も、密輸品も、取り締まらない方が良い、それが、自由なのだと言い出しかねない。とにかく彼等から見れば規制は、罪悪でしかないのである。
利益は、創られた概念である。利益の基となる会計の基準は、自然の法則のようなものとは違う。言わば、スポーツのルールのようなものである。それでいて、スポーツのルールほど厳格ではない。それが大前提である。
利益が創られた概念なのが問題なのではない。利益は、どんな目的で、なぜ、必要なのかについて明確にされていないことが問題なのである。そしてそれは、思想の問題である。
その為に、利益は、それを利用する者に良いように解釈され、創作されていると言う事である。それが市場の混乱を招き、結果的に、経済に混乱を引き起こしている。それが問題なのである。
会計の基準の妥当性が、会計の専門家、プロに委ねられている。それは、スポーツで言えば、選手と審判を同じ人間が兼ねているような事である。それでは、導き出された利益の質に対する信任は得られない。
しかも、会計や金融という貨幣経済や市場経済の基盤は、信用という制度の上に成り立っている。利益の質が信用できなければ、信用制度は根底から覆されてしまう。
経済に携わる者の多くは、経済が、経済学で教わるような教条主義的な法則によって動かされているわけではないことを知っている。経済の世界は、資金力にものを言わせる帝国のような企業集団や、利権に群がる実力達が存在していることを誰でも知っている。また、権力者に取り入った者が、成功しているという事実もである。それが商売なのである。経済において巨大な利権の存在を無視しては、経済は理解できない。重要なことは、現実や事実を直視できない学問は、実体化できないという事である。虚構である。それを科学と言うのは欺瞞以外の何ものでもない。
利益とは、何か。それが、特定の既得権者のみを利するものであるならば、利益そのものが悪である。また正当な努力によって利益が得られないとしたら、利益を得る手段は不当なものにならざるをえない。その様な利益は、追求する事自体が悪行である。
義のない行いは罪である。道徳観もなく、ただ、金儲けを目的とした利益の追求は、それ自体が罪作りな行為である。利益には、国家経済の安定と国民の幸せがたくされているのである。それを忘れた時、経営は、悪徳へと堕落する。経営者は、経営に何を求めのかが肝心なのである。事業を通して何を実現しようかが事業の本質なのである。
サブ・プライム問題に端を発した2008年の金融危機は、企業が単なる金儲けの道具に過ぎなくなったことが最大の原因なのである。
本来の利益は、公共の利益、国民の利益を基礎としなければ成り立たないものである。利益を追求する事と、公共の利益や国民の福利を追求する事は、一致していなければならない。それが本来の利益の意味である。利益の意味が本来の意味で使われない限り、経済の安定、ひいては社会の安寧を実現する事はできない。
間違えてはならない。会計士というのは、不正を摘発することが仕事なのではない。経営者が、真っ当な経営努力をすることによって利益が上げられるように指導するのが責務なのである。その為には、真っ当な努力をすれば利益が上がる会計の仕組みであることが前提となる。そうでなければ会計士も、経営者も、自分の良心に恥じることなく任務を全うすることは出来ない。
アメリカの多くの企業は、ユートピアを目指した。そして、自分達のコミュニティーを形成したのである。中には、学校や病院まで完備したものまであった。
当時のアメリカ人は、企業が金儲けの手段だけではない事を理解していた。アメリカ人にとって事業は、夢や理想を追い求める手段だったのである。根本は、夢であり、理想だった。夢や理想が失われた時、企業は、利益を追求するだけの機関に成り下がってしまったのである。
伴に働く仲間、従業員に対して責任を持たない経営者、経営に責任を持たない従業員、売った物に責任を持たない販売員、使用することに責任を持たない消費者、その様な無責任体制こそ経済を破綻させる原因なのである。
何のための利益なのかが見失われているから、その様な無責任な体制が放置されるのである。利益を上げる事だけが目的なのではない。体制なのは、その利益を成り立たせている思想、哲学なのである。
バブル崩壊後、日本の多くの企業は、過剰債務、過剰設備、過剰雇用に陥ったと言われる。しかし、これは結果論である。資産価値が下落すると相対的に債務は、過剰になる。なぜならば、債務は名目的な価値で表示され、資産は、実質的価値で表示されるからである。
物価の上昇は、名目的価値を押し上げ、物価の下落は、実質的価値を押し下げる効果がある。
実業にとって資産は、本来潜在的価値である。多くが売りたくても売れない物、即ち、流動性が低い物である。例えば、都心に工場があって工場の敷地の土地が高騰したとしても操業を止めるか、違う場所に移転でもしない限り、営業には無縁である。かえって、資産にかかる税や相続税の負担が増すだけである。逆に、地価が下落すると含み損になりかねない。
営業収支は、常に、釣り合っている限らない。むしろ、釣り合わないのが常態である。営業収支がプラスの場合はいいが、マイナスになると資金が廻らなくなり、経営を継続することが困難になる。故に、営業収支がマイナスし、資金が不足した場合は、資金を新たに調達し、資金の不足を補う必要が生じる。その調達の主たる手段は、借入、即ち、借金である。
なぜ、期間損益が確立されたのか、それは、収支が釣り合わないからである。収支が釣り合わないという事は、現金主義的に見ると儲けがないことを意味する。
要するに儲かっていない。まともにやっていたら儲からないのである。と言うよりも、会計というのは、通常の計算方法では、儲けが出ないから生まれたのである。だから、利益という概念を創作する必要があったのである。故に、現在の企業は、会計上利益が上がっているように見せ掛けているのに過ぎない。それにたとえ、儲かっていたとしても。儲けを蓄える術、手段が、今の会計制度では、限られているのである。
例えば、土地を購入しても土地の代金は、購入する際にかかった費用の一部しか計上することができない。土地の代金は、土地を手放す時に、清算するしかない。しかも、土地を手放した時に利益が生じれば、その利益に税金がかかるうえ、利益処分の項目の主たる部分は、株主への配当と経営者への報酬によって占められている。
つまり、企業は、いざという時の為に、資金を内部に溜め込むことが許されてないのである。故に、リーマンやGMのような巨大な企業でも環境、状況が変化すると一瞬で立ち行かなくなる。
結局、現在の経済は、誤魔化し、まやかしの上に成り立っていると言える。言うなれば、砂上の楼閣に過ぎない。だとしたら、経済が誤魔化し、まやかしの上に成り立っていることを認めるべきなのである。認めてしまえば、まだ、やりようがある。認めずに、さも、実体があるように見せ掛けているから、問題が解決されないのである。最後には、一人一人の道徳観、倫理観までおかしくしてしまう。それが問題なのである。会計上の真実とは、認識上の真実に過ぎない。絶対的なものではなく。相対的なものである。利益や金は命をかけるほどの物ではない。
では、経済の実態はどこにあるのか。それは、人々の現実の生活にある。
人々が生きていく上に必要な物資を調達し、生活ができるようにすることが、経済の役割なのである。そして、穏やかな手段で必要な物資を調達できる仕組みを構築するのが政治の役割なのである。
なぜ儲からないのか。儲からない仕組みになっているからである。では、どうしたら儲かるようになるのか。儲かるような仕組みに組み替えればいいのである。
アメリカの自動車産業が再興するためには、良い自動車を作り事に極まるのである。良い自動車を作り、社会に貢献することが利益に結びついてこそ、利益は有意義なのである。良い車を作ることが利益に結びつかなくなったら経済は成り立たなくなる。それは堕落である。会計のために自動車会社があるわけではない。利益のために、自動車会社かあるわけではない。利益はあくまでも結果なのである。根本は、なぜ利益を上げなければならないのかである。それに会計が明確な答えができなければ、会計は存在意義がない。
手段が目的化する。会計制度が会計制度のための会計制度に堕落してしまう。企業の業績を測る尺度である会計基準が企業の目的や存亡を左右するようになる。経営者や従業員の行動規範や人生を支配するようになる。また、企業や産業の在り方や方向性まで決めてしまう。そうなると事業目的が会計の目的に変質してしまうことになる。
忘れてはならないのは、会計は手段だと言うことである。本来の目的は、事業にある。そして、その事業を成り立たせている社会や国家、人々の生活に根ざしたものである。なぜ、何のための利益かの答えは、会計にはない。しかし、その答えがなくても利益を計算する手段は成立してしまうのである。そして、一度、利益に対する計算式が出来上がるとそれが独自の意味を持ってしまう。忘れてはならないのは、会計は、人々を幸せにするための手段だと言う事であり、事業を成り立たせるためにあるという事である。会計制度によって本来、成り立たなければならない事業が、成り立たなくなるとしたら、社会や国家に有用な事業が成り立たなくなるとしたら、それは、会計の仕組みのどこかに欠陥があるのである。また、地道な努力をする者が報われずに、会計の技術や知識に熟達した者だけが恩恵を受けるとしたら、それは、会計本来の機能が失われている証拠なのである。
人は、市場や貨幣の恩恵に浴しながら、市場や「お金」を卑しむ風潮がある。いわば恩知らずである。心の底では卑しんでいる癖に、逆に、「お金、お金」とか「市場の原理は絶対」とか言って崇めている者もいる。だから、市場も貨幣も正常に機能しなくなるのである。
市場も「お金」も大切な存在である。しかし、神のごとく崇める存在でもない。市場も「お金」も人間が創り出したものにすぎないのである。
忘れてはならないのは、企業に何を求めるかである。家族に、また、国家に何を期待しているのかである。それがあってはじめて制度は正常な機能を発揮することが出来る。
ただ競わせればいいではなく。競争に何を求めているかである。
会計も、経済問題も、思想として語られていないことが問題なのである。
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