普遍主義・一般化


経済は金が全てではない

 宗教団体は、儲かるという理由の一つに人件費の問題がある。宗教団体やボランティア人件費を計算しないでいい。それは、宗教団体というのは、典型的な共同体だと言う事がある。

 人件費とは何かなのである。即ち、人件費の持つ意味である。人件費というと自明な事のように考えがちだが、実際は、単純明快な概念ではない。いろいろな意味がその中に含まれているのである。
 人件費の持つ意味は、人件費の価値とそれを貨幣価値にどの様に換算し、変換するかによって決まるのである。
 我々は、経済的費用の中で人件費という貨幣価値が常に存在していると錯覚している。しかし、人件費という価値は意識の中に存在するのであり、人件費という物は、実際には存在しないのである。つまり、労働の対価として貨幣が支払われた時、その行為によって発生する概念なのである。いわば、労働を貨幣によって意味づけしているのである。
 経済的価値というのは、認識によって生じるのである。つまり、相対的なものであり、経済価値そのものが最初から存在するのではない。経済的行為によって発生する価値なのである。故に、ないと言えばない。

 宗教的奉仕活動には、最初から労働の対価という思想はない。だから経済的価値が認められない。だから、宗教的な活動には、人件費が発生しない。
 つまり、宗教団体では、損益勘定の中で一番比重の大きい人件費がかからないのである。だから、安定的に利益が上がる。そして、これは共同体内部の経済なのである。かつて、育児や介護にも経済的価値を見出さなかった。それは、母の愛情であり、親孝行であり、倫理的価値であって経済的な価値とは別だと考えられていた。
 こういった共同体内部の経済も徐々に市場化されつつある。その為に、費用が嵩み、経済主体が儲からなくなってきたのである。その点を度外視すると今日の経済状態を理解することは出来ない。
 企業も、家計も、財政も赤字であり、それが、市場経済を停滞させ、破綻に導いている。

 経済社会には、目に見えない世界がある。しかし、外側に現れた経済現象ばかりにとらわれとその目に見えない部分が忘れられてしまう。しかし、経済現象はその目に見えない世界に支配されている部分が結構大きいのである。故に、その目に見えない部分が忘れられてしまうととたんに経済が機能しなくなる。
 心を込めた贈り物というフレーズがよく使われる。贈り物というのは、贈り手の身持ちや心があってはじめて成立する。つまり、贈り物という意味は、贈り手の気持ちや心にあるのである。価値の持つ意味は、価値を認識する主体があってはじめて成立する。そうでなければ、贈り物は、ただの物にすぎない。
 そして、経済は、貨幣経済が全てではない。
 経済とは、合理的な部分と不合理な部分が共存しているものである。合理的一辺倒でも経済は理解できないし、不合理なものだと決め付けるのも極端である。ただ、合理的といっても、市場的合理性と共同体的合理性には違いがある。

 経済的価値には、貨幣に換算できない部分が必ず含まれている。と言うよりも、経済的価値そのものが、貨幣価値ではないのである。貨幣価値というのは、財の交換価値を貨幣に写像したものだからである。
 そして、貨幣価値に換算されない部分に本来の価値がある。貨幣価値というのは、その本来の価値、使用価値とか、希少価値と言ったものを、一旦、交換価値に変換してそれを貨幣に換算したものをいうのである。

 鏡があってこちら側に実物があり、あちら側には、写し出された像がある。それなのに、実物を直接見ることが出来ないで、写し出された像しか見ることが出来ない。物自体と貨幣価値とは、そう言う関係なのである。

 それ故に、貨幣価値によって経済的価値全てを網羅しているわけではなく。また、網羅できるものでもない。
 故に、全てを貨幣価値に換算すると経済は成り立たなくなる。つまり、儲からなくなるのである。
 その最たるものが家計である。家庭内労働を貨幣化する、即ち、市場化してしまったら家計は破綻する。即ち採算がとれなくなるのである。共同体が経済の一つの単位だから経済は成り立っているのである。
 だから経済主体の規模には、一定の限度が生じるのである。

 共同体が確立していた時は、家族の面倒は、家族が見る。また、地域コミニティでは、お互いが助け合って暮らしてきた。それこそ、金の問題ではなかったのである。だからこそ家計は、経済的に成り立ってきた。それを金の問題に置き換えたら家計が成り立たなくなるのは火を見るより明らかである。

 本来共同体内部の仕事だった事が市場化されてしまう。それは共同体そのものを破壊することをも意味する。その為に家族は崩壊し、会社も分裂し、地域コミニティも解消され、国家も機能しなくなる。

 昔は、村中総出でやった仕事を市場化する。例えて言えば、農作業や屋根の葺き替え、子供の教育や育児と言った仕事を商業化する。
 また、租庸調と言うように、税も実物や用役を拠出する事だったのである。税の金納は、日本においては、明治以降のことである。つまり、貨幣経済が確立したのも明治以降である。それまでは、報酬や納税において物納が一般に行われてきた。
 その結果、家族や職場、地域社会の絆が失われてしまうのである。特に教育が家族や職場、地域社会から分離すると価値観のズレが生じてしまう。そうなると共同体は維持されなくなる。教育の専門化は、市場化は意味する。現代の学校教育の最大の問題点である。それは、教育の経済的効果が問われなくなったからである。教育本来の目的と教育の経済的効果が結びつかなくなったからである。
 経済というのは、合目的的なものであり、効果は、その目的から測られるべきものなのである。

 同様に、報償を単純に労働の対価として捉えてしまうと経済は見えなくなる。報酬は、所得であり消費の源泉でもある。そして、生活費でもあるのである。つまり、生活の原資なのである。故に、報酬に対する評価、即ち分配の基準にはどうしても属人的な要素が含まれることになる。それは、職場が共同体であることの証左である。故に、単なる生産性だけでは、利益は計られない。分配という点からも報酬は考えられなければならないのである。

 貨幣価値に全てを換算してしまうと経済価値本来の持つ密度が失われてしまう。経済的価値を経済的価値たらしめていた本質が失われるのである。

 共同体とは、公である。個人とは、私である。共同体内部は公的場でありと、市場では、私的な場である。共同体の崩壊は、公的な部分の消失を意味する。

 共同体内部の基準は、損得ではない。真善美である。その意味で、市場は不道徳な場であるのに対し、共同体は、道徳的な場である。

 極端な話し、完全に自給自足が出来る共同体が存在したら、貨幣は必要となくなる。今でも、家族に守られていれば幼児は、せいぜいいって小遣いがもらえれば生きていけるのである。

 共同体が崩壊し、共同体的論理が失われると、個人の欲求は、私的利益に偏るようになり、公的利益が失われる。それが貧富の格差を生み出す原因となるのである。

 格差は、富や財の分配に偏りを生じさせ、配分の密度、ひいては経済密度を薄くする。経済の密度は、労働、生産、消費の量と質から構成されるものである。

 経済的密度は、質と量という観点から言うと住宅を例にとると解りやすい。住宅の価値は、ただ価格という貨幣の額からのみ計られるものではない。敷地面積、建坪、建物の質、件数といった質的な要素を合わせてみないと比較できない。そして、価格だけで判断するとこの住宅の質は疎になる。つまり、密度が薄まるのである。それは貨幣に換算されない部分が手薄になるからである。住宅の質は、作り手の技能、熟練度によるが、その技能、熟練度に対する評価は質的なものだからである。

 市場も同様である。金銭的な尺度だけで質的な尺度が失われると市場の密度は疎となる。それが市場の寡占、独占状態である。
 自動車業界は、規模が大きくなりすぎた。その為に効率が低下しているのである。
 メジャーリーグが好例で、リーグには最適なチーム数がある。スタープレーヤーを集めてオールスター戦のような試合ばかりしても人気は長続きしない。
 日本のことをオーバーカンパニー状態と言うが日本は、狭い市場の中で多くの企業が競争し、切磋琢磨しながら競争力を高めてきたのである。組織の規模には限界があり、ある一定規模の限界を超えると企業の効率は極端に悪くなる。
 組織は、大きければいいと言うわけではない。もはやスケールメリットを追求する時代ではない。適切な数と適切な規模の企業が市場に存在する事が要求される。

 料理屋を考えればよく解る。郷土料理と言うぐらい以前は、地域・地域に特色のある料理屋が主流であった。現在は、東京や海外に本部を置いたチェーンストアに市場は席巻されてしまった。その結果、ニューヨークでも、東京でも、日本の片田舎の街でも同じ味の料理が提供されるようになった。しかも、作業は標準化され、専門的な知識や技能を必要としなくなった。その結果、若年労働者で低賃金の雇用しかなくなり、料理の熟練者、技能者は、駆逐されてしまい。深刻な雇用問題を引き起こしている。手に食のある職人が育たなくなってしまったのである。
 この様な状況が市場が疎となった状況である。質的な部分が欠落してしまったのである。

 格差の拡大、二極化は、市場の分離を意味している。つまり、密度の問題である。格差が拡大したり、二極化するのは、中間層、中間部分の密度が、薄くなっていることが考えられる。この中間層を厚くすることが市場の分離を解消するためには、重要となる。
 市場の密度を保つためには、市場内部に適度な規模の経営主体が、適正な数、存在していることが前提となる。
 また、吸収合併は、市場の密度を薄くする。中間層、また市場という空間の密度を高めるためには、経営主体が市場内部にコロイド状に散在している必要がある。大きな塊が、市場を占有するようになれば、市場は不活性化してしまうからである。寡占、独占の弊害は、経営主体が媒体としての機能を果たせなくなるからである。
 市場においては、雇用面から見ても中小企業や個人事業主の存在とその役割が重要な意義があるのである。

 生産性の効率と分配上の効率は、本質的に違う。早い話、百人で一千万円の利益を上げるのと千人で一千万円の利益を上げるとしたら生産性から見た効率性は、前者だが、分配から見た効率は後者である。

 こういった効率性に対する錯誤も合成の誤謬の原因となる。前提が間違っているのである。

 現代社会は大量生産、大量消費社会であり、物が溢れている。それなのに不景気となり、貧困が蔓延する。
 現代、アメリカを中心にして生起している金融危機の本質も同様である。金も物もあり余っているのである。住宅の在庫が積み上がっているのに、もう一方で、家が不足し、ホームレスが町に溢れている。これは経済の仕組みの根本がおかしいからである。アメリカは、物質的には豊かなのである。なのに、貧困層が拡大し、経済状態が悪化しているのである。生産力にも、消費力にも、問題がないのにである。
 それは、経済は金であり、金が全てだと考えているからである。だから、金に振り回されるのである。それが豊かさの中の貧困なのである。

 結局、貨幣経済が、格差を生みだし、貧困を生み出しているのである。現代の貧困は、豊かさの中の貧困であり。貧困の中の豊かさなのである。

 人生の最後に求めるのは、金かそれとも人の愛か。
 現代人は、経済というとすぐに金の問題だと片付けてしまうからその本質が見えなくなるのである。それが、貧しさである。
 たしかに、人間は、晩年、金さえあれば、贅沢な環境を享受できるかもしれない。しかし、それは物質的な意味においてでしかない。
 人生の晩年において大切なのは、目に見えない価値、貨幣に換算できない価値である。逆説的かもしれないが、だから、年をとると貨幣に執着するようになるのである。家族と言った共同体が崩壊した今日金しか頼ることが出来ないからである。それも、豊かさの中にある貧困である。

 豪華な施設で医者に看取られのが幸せなのか。それとも、家族に看取られるのが幸せなのか。結局、経済の本質は、幸せをどの様な物に考えるかにある。そのことを忘れて短絡的に金銭的利得を追求するのは、経済の本質をただ見失っているのに過ぎない。だからこそ、金銭だけの経済は、破綻する運命にあるのである。







                    


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