開放主義

開放主義

 自由主義社会は、情報を公開することを前提としている。自由主義社会は、情報を開示、共有することで成り立っている。それらは、言論の自由の根拠ともなっている。
 科学も、民主主義も、スポーツも、情報を開示することが大前提であり、その最たるものが会計制度である。会計制度は、情報を開示することによって成り立っている。情報を開示するための制度だと言っても過言ではない。

 開放というと、無制限、無限を前提としているように思われる。しかし、開放と言う事は、無制限、無限を前提としているわけではない。自ずとそこには、制限がある。その制限を定めるにあたって、必要な手続があることを前提としているのである。
 情報は、その前提によってその意味するところが違ってくる。情報を開示する場合は、その情報が成立した前提も合わせて開示する必要がある。

 市場経済の大前提は、情報の開示と情報の共有である。それは、報告制度、説明(アカウティング)として現れる。即ち、会計制度である。

 開放主義というと、あたかも市場や世界を無限としているように思われる。しかし、対象の範囲は、前提条件によって違ってくるのであり、開放的だからと言って無限を前提としているわけでもない。
 開放主義は、無限、有限のいずれも前提としない。無限か、有限かは、対象に対する認識上の問題であって、対象の側の問題ではないからである。つまり、対象を認識する上での条件によって無限とするか、有限とするかは決まる。
 開放主義というのは、市場の無限であるか、有限であるかを前提としているわけではない。前提となる対象によって無限か、有限かを条件としているのである。

 会計上における期間は、一定の期間を前提として成立している。つまり、会計上の期間は有限なものである。無限ではない。それ故に、一定期間におさまるように会計上の取引を規制し、定義する必要がある。それは、認識上の問題であり、経営上の問題ではない。ところが基準が定まると、それが、経営実体そのものであるように錯覚を起こす。そして、基準に合わせて経営をするようになる。また、評価する者も、基準によって経営を判断するようになり、それが、時として経営を歪める結果を招くことがある。

 不良債権の多くは、金融機関が生み出している。不良債権として認識されることによって不良債権化する。不良債権として認識することによって不良債権化していく性格がある。不良債権であるか否かの判定は、基準によって違ってくる。不良債権か否かは、その資産の働きによって判断されるわけではなく。あくまでも、帳簿価格によって判断される。土地を例にしてみれば、いかに有効利用されている土地でも、一時的に地価が下落し、帳簿価格、担保されている価格よりも低く査定されると不良債権とみなされる可能性が高い。
 一度、不良債権だと判定されるとなかなか、その判定を覆すことが出来ない。

 期間損益が確立された理由の一つは、収支では、説明が付かない部分があるからであるが、それは、収入の中に、負債や資本による収入が含まれるからである。そして、その収入は、損益計算に反映されない。逆に、資産の購入や負債の返済などの支出は、損益計算に反映されない。
 もう一つ重要なことは、これらの貸借上の取引による収支は、損益上に現れない限り税はかからないのである。

 元本は、長期負債として貸借対象上に現れる。しかし、この返済原資や実際の返済額は、貸借上にも損益上にも現れない。本来、返済原資は、費用性資産と資本、利益であり、返済額は、減価償却費であるが、償却資産ではない不動産は、これに該当しない。不動産に対する借入は、税引き後利益か、新たな借入に頼るしかないのである。つまり、企業は、長期債務の返済に相当する税引き前利益を上げ続ける必要があり、それが出来なければ、新たな借入によって長期債務の返済に足りない部分を補填し続けなければならないのである。

 土地に対する借金の元本を返したくても収益の中から返済資金を捻出することは出来ないのである。税引き後の利益か、資本からしか非償却資産の返済原資はないのである。つまり、経営の内部資金から元本は返済できない。そう言う仕組みなのである。
 一度、地価が下落すると担保価値を失い資金調達が困難になる。これが不良債権である。こう言ったことが経済に影響しないはずがない。現実に、不良債権の存在がバブル崩壊後の日本の経済の足を引っ張ったことは明白な事実なのである。

 この様なことは、決算書からは理解できない。キャッシュフロー計算書からある程度読みとれるが、だからといってそれが企業業績に結びつくわけではない。また、経営者でもこの様な仕組みを知っている者は少ない。そこから、資金繰り倒産がでる。

 問題なのは、借金を基礎とした経済体制なのに、負債処理の流れが決算処理上において保証されていないという点である。
 また、もう一つ重要なのは、利益は、最初から経営資源としては除外され、別枠で考えられているという点である。

 何にでも費用がかかると言う事を認めるべき時代にある。政治にも費用がかかるのである。公正であるか、否かは、その費用を社会が容認するか否から過ぎない。動いた金が多額だから問題なのではなく。明らかでないことが問題なのである。つまり、資金の動きが一般に認識できるようにすべきであり、それが情報の公開の動機である。それが、妬みややっかみから金額の多寡のみを問題にすることが悪いのである。金額の多寡ではなく。その妥当性であり、妥当性を計る基準は、金の使途と目的と相手である。

 今の言論界は、政治家にだけ清廉潔白を求め。自分達はやりたい放題やっている。一国の宰相の収入が、金融機関やスポーツ選手を大幅に下回っていたとしても痛痒とも感じない。何十倍もの収入を得ているニュースキャスターが政治家や官僚は金に汚いと非難する資格があるのであろうか。無責任な人間が責任ある立場の人間を無責任だと罵倒する。不道徳なコメディアンが、まともな仕事を営む者を馬鹿だと罵るのは、犯罪的行為に等しい。それを民主主義とも、自由、言論の自由とは言わない。






                    


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