個人主義
所有権
所有権は、支配権から派生する権利である。
近代的個人は、私的所有権によって確立される。私的所有権が確立されることによって個人の経済的自立が保証されるとし、不可侵な権利とする。ただ、今日では、若干の制約が認められる。
私的所有権を、なくすことが出来るか、否かは、現代思想上重要な意味がある。それは、国家体制の根本的意義を明らかにする大事だからである。結論から言うと、私的所有権を一切認めないという事は、不可能だと私は、思う。なぜならば、私的所有権は、経済活動の前提となっているからである。特に、市場経済や貨幣経済の大前提である。私的所有権が確立されなければ、市場経済も貨幣経済も成り立たない。
貨幣は、私的所有権から生じる。なぜならば、貨幣は、財の交換のための媒体である。交換は、所有権の移転を意味する。故に、貨幣は、所有権から生じる。即ち、貨幣経済は、所有権を基盤として成立する。
私的所有権を奪うことは、経済のエネルギー、活力を奪うことになる。所有権は、所得や財産の差を生み出す。所有権をなくすと言う事は、差が解消されることを意味する。即ち、差がつかなくなる。差がなくなれば、位置が確定せず、運動が意味がなくなり、関係が喪失する。何よりも、相対的な基準が設定できなくなり、全体の中に自分を位置付けられなくなる。結果的に、自己を見失い、存在意義が確立できなくなる。自分がなくなるのである。
つまり、自己実現が出来なくなる。自己実現は、経済の推進力である。また、生きる目的でもある。それ故に、所有権を否定する事は出来ない。問題は、私的所有権を無条件に認めるかの問題であり、私的所有権の範囲の問題である。
社会主義は、私的所有権を全て否定している。あるいは、否定するとする考えがある。しかし、それは、極端な考え方である。所有権というのは、オール・オア。ナッシングの発想では成り立たない。所有の範囲と対象に依るのである。全ての私的所有権を否定すると言う事は、実際的に不可能である。社会主義の根本は、生産手段の共有であり、私的所有権を必ずしも否定しているわけではない。
所有権は、経済の最小単位に帰属する。即ち、第一に個人、第二に、家計主体、第三に、経営主体、第四に財政主体である。
経済的自立は、政治的自立を保証する。経済的自立は、所有権によって裏付けられる。故に、政治的自立は、所有権によって裏付けられる。また、経済的依存度は、経済の基盤の中心を何処に置くかによって決まる。経済的依存度は、個人、家族、経営主体、国家の順で高くなる。つまり、個人に近づくほど私的所有権の度合いは高まる。一番、依存度が低い、即ち、私的所有権の度合いが強いのは個人である。そして、経済的に自立した個人は、市民である。故に、近代革命は、市民革命を端緒とするのである。
所有権の依存度が高まれば、差は少なくなる。相対的に私的所有の度合いが低くなる。即ち、経済的基盤が個人から、家族、家族から経営主体(職業集団)、経営主体(職業集団)から国家へと移行するにつれて、経済的依存度が高まる。それにつれて格差が解消される変わりに、政治的な自立、選択しも狭まることになる。
所有権は、所得の範囲によって決まる。つまり、所有権の獲得は、所得に依存するからである。所得には、地代・家賃、利子・配当、贈与・相続、譲渡、労働の対価などがある。
所有は、権利である。所有が権利で在れば、必然的に義務も生じる。それは、他人に対する所有権を認めるという義務である。
所有権とは、対象を支配する権利である。対象の象とは、形象です。つまり、人間によって認識された事物の像である。(広辞苑)形象の中には、無形な物も含まれる。
所有とは、その財の使用、処分、独占、占有する権利である。
本来、自然状態には、所有物という物は存在しない。
人間の社会における所有権は、社会的権力、公的権力に依って公認され、保証されることによって成立する。即ち、所有は、公権力があって成り立っている。
所有の概念は、縄張り、テリトリーからきている。一定の範囲の物的空間を占有することから所有の概念は、始まっている。つまり、一定の範囲の範囲の空間が物にまで拡大され、それを占有、支配する意味になったと考えられる。
所得は、私的所有権に基づく。私的所有権は、経済単位に帰属する。この経済単位を個人に帰すのか。共同体に帰すのかによって、私的所有権の在処にも相違が生じる。
私的所有権の確立と言うからには、私的所有権以外の所有権、即ち、公的所有権を前提としている。
私に対して公とは何か。それは、何等かの社会的存在を指して言う。社会的存在とは、人間集団、つまり、共同体である。共同体の典型が、家族と国家、そして、職業集団である。私というのは、自己を客体化した存在、個人である。これらは、最小の経済単位である。
資本主義経済では、共同体にも所有権を認めている。好例が法人である。法人というのは、法的に人格を与えられた集団であり、法的に人格を与えられることによって所有権が法的に認められる。
所有は、交換を前提とした概念である。故に、共有の概念の範囲外の概念である。つまり、所有の範囲は、共有の範囲と一線を画する必要がある。所有権が認められた範囲と所有が認められていない範囲の一線は、市場の境界線を意味する。
つまり、市場経済と経済単位からなる。経済単位は、基本的に共同体である。そして、所有の概念は、市場の成立によって成り立っている。市場が成立していないところでは、所有の概念は成り立たない。市場以外にところで、成り立つ所有の概念は、経済単位と個人との合意の下に成り立つ関係であり、法的関係であっても経済的関係ではない。なぜならば、交換を前提とした物ではないからである。
所有の概念は、全てを個人の所有に還元するものではない。所有の概念は、あくまでも経済的概念であり、故に、経済単位に帰属する概念である。
公的な所有と私的な所有とは、完全に分化していない。未分化な状態で混在している。と言うよりも、私的な場と公的な場が一つの空間を形成し、それを個人と言う存在が結び付けていると考えるべきである。
所有権の中には、物件がある。物件とは、物に対する所有権である。同一内容の物権は、同一物に対して一つしか成立しない。同一の物に対して同一内容の物権が複数成立すると、物への直接的な支配が失われるからである。このような性質を物権の排他性、一物一権主義と呼ぶ。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
それに対して、債権は、同一の対象に対して、複数発生することがある。抵当権などが好例である。
所有権の確立は、市場経済が成立するための大前提である。市場価値は、交換価値である。故に、市場は、交換が前提である。交換を前提とするためには、自分の物を前提としなければならない。つまり、自分の物と他人の物との区別があってはじめて交換という行為が成立するからである。故に、交換を前提とした市場経済が成立するためには、所有の概念が確立されなければならない。
所有権は、取引によって市場に顕現する。市場経済における取引は、貨幣を介して成立する。
貨幣は所有権から発生する。貨幣は、取引を媒介する手段だからである。取引が成立しなければ、手段としての貨幣は、生じない。取引は、所有を前提として成り立つ行為である。故に、貨幣は、所有権を前提として成立している。つまり、貨幣経済、市場経済は、所有権を前提としている。
負債も資産も所有権から生じる概念である。負債も資産も貨幣経済、市場経済を前提として成立している概念である。貨幣経済も市場経済も所有を前提としている。故に、負債も資産も所有を前提とした概念である。
取引を成立させている土台は、信用取引であり、その信用を形成させているのは、その債権、債務を成立させているのが所有権である。また、信用制度が生み出す、信用力の量は、債権、債務の量に依存する。
債権というのは、将来、予め決められた価値と同等の給付、あるいは財を受け取る権利であり、債務というのは、将来、予め決められた価値と同等の給付、あるいは、財を与える義務である。
市場は、取引によって成立している。取引は、それが成立した時点では、債務、債権、現金が均衡している。
社会全体が生み出す実質的価値の増減は、債権債務の増減と付加価値の増減によって決まる。名目的価値の増減は、市場に流通する通貨の量は、社会全体の価値の増減に対応する必要がある。
貨幣は、信用という裏付けがあってはじめて機能する。それは、貨幣が何を担保するかによって決まる。
貨幣が何を担保するかは、貨幣の起源による。例えば、金本位制度の紙幣は、金を担保していた。金本位制度の紙幣の起源は、金の預かり証である。その後、国債を担保とした紙幣も成立している。金は、資産であり、国債は、国家にとっての債務であると同時に、紙幣の発行者から見ると債権である。つまり、国家の負債を担保して信用が成立している。
債務は、資金を生み出す信用の元となり、債権は、債務の支払い能力を保証する。これは、消費と負債と資産の関係に対応し、所得を生み出す。所得と消費の差が利益となり、資本へ転化する。
現在的価値とは、その時点において貨幣価値が指し示している価値、あるいは、実現している価値である。
陰陽で言うと、債権は、陽である。債務は陰である。債権は、変易であり、債務は、不易である。そして、資金は、易簡である。
債権、債務、現在的価値の関係をサブプライム問題を例にとると、次のようになる。
債権は、住宅価格の問題であり。債務は、住宅ローンの問題である。そして、現在的価値は、返済資金の問題となる。
サブプライム問題を解決するためには、返済資金、つまり、現在実現しうる貨幣価値を債権、債務の両面から捉える必要がある。その時、債権の裏付けである資産の変動性と負債の固定性をどう調和させて現在価値に集約するかが鍵となる。
不良債権と、債権処理だけで解決しようとしても解決できるものではない。
銀行の持つ債権の問題は、相手にとっては、債務の劣化の問題であり、債務の劣化は、債務を保証している資産の劣化の問題である。そして、資産価値が劣化することによって資金調達に支障をきたし、返済資金が滞っているのである。つまり、所得、返済能力の問題である。その返済が滞るのは、負債、債務の価値や返済手段が硬直的であることが一因である。つまり、不良債権の背景には、不動産価格の下落、借金の硬直化、資金調達の障害と言った問題が構造的に存在するのである。構造的というのは、それぞれの問題がお互いに作用しながら、一つの方向に螺旋的に向かっているという事なのである。
債務、債権の量は、社会全体では均衡している。
利益は、社会内部で生み出す、付加価値である。付加価値は、市場取引によって現金として、市場に現れる。取引には、時間が関係している。取引によって生み出される価値と消費される価値の差である。
貨幣経済下における市場取引は、物的取引と金銭取引がある。貨幣経済では、物的取引の間に、金銭取引が介在する。
物的取引、物的受け渡しと金銭的取引、金銭の受払、決済の間には、時間的な差が生じる。それが、利益の微妙な影響を与える。
市場取引には、売買取引と貸借取引がある。市場経済、貨幣経済は、売買取引のみを前提としてみなされがちである。市場経済が確立される以前は、むしろ、貸借関係の方が中心だったと思われる。(「中世の借金事情」井原今朝男著 吉川弘文館)
取引は、基本的に交換である。売買取引というのは、財の最終的交換であり、貸借取引というのは、財の一時的交換である。
損益取引は、所得と消費を基礎としている。所得、消費とは、現金の決済、即ち、現在的貨幣価値を実現し、清算することである。所得、消費とは、貨幣価値が実現されることを意味する。貨幣経済下において消費を実現させる要素は、支払手段、決済手段である。支払や決済には、支払者側と受取者側がある。これは、消費と所得は、作用反作用の関係にあることを意味している。
貸借取引によって債権と債務と現金を生じる。現金とは、現在的貨幣価値の実現を意味する。
負債・資本・資産は、貸借関係、、損益は、売買関係を基礎として成り立っている。資本や費用性資産は、貸借と売買の中間に位置する関係といえる。
内部取引は、常に均衡している。内部取引と外部取引が均衡するように内部取引は、変動する。その変動によって損益が発生する。故に、未実現利益は、内部取引と外部取引の歪みを生み出す原因となる。時価会計と言って未実現利益を表面化させることは、内部取引を歪める原因となる。
内部取引、外部取引がある。利益は、外部取引と内部取引が変換される過程で発生する。
取引の最終目的は、取引の現金化にある。それ故に、資金が企業活動を最終的に決定する。それが決済である。
取引が停滞し、成立しなければ、現金として生み出される付加価値は、失われてしまう。
取引は、現金の流通を促進する。現金は、取引を促進する作用がある。
貨幣は、社会的分業を促進する。所有権が確立することによって余分な財と不足した財との交換が円滑に行われるようになるからである。交換が常態化することによって特定の財の生産に専念することが可能となる。所有権の移転を促す、貨幣が市場に流通することは、交換を常態化することである。結果的に貨幣は、社会的分業を促進することとなる。
国家財政の健全化を図ろうとするならば、国家が生み出す信用価値のみでなく、市場が生み出す信用価値をもっと重視した施策を採るべきなのである。貨幣制度は、信用制度の上に成り立っているからである。ただし、信用の創出は債務と債権を生じさせることを忘れてはならない。
債務、債権は、作用、反作用の関係にあり、量的に均衡している。それが複式簿記の基礎を形成する原理である。
作用、反作用という事は、認識上生じる概念である。故に、債権、債務というのは、相対的概念である。
それは、不良債権問題の処理に端的に現れる。
不良債権問題と言うが、実際は、不良債権、不良債務問題である。つまり、不良債権を解決するためには、債権だけではなく、債務の問題も同時に解決しなければならない。不良債権は、同量の不良債務を持っているからである。
ところが、不良債権問題とすることによって、債権処理ばかりが課題となる。それ故に、不良債権は、解決できないのである。同様なことは財政にも言える。
日本のバブルの崩壊もサブプライムの問題も根底には、不良債権問題が隠されている。そして、不良債権の解決が鍵を握っているのである。
不良債権問題で考えなければならないのは、債権、債務の現在的貨幣価値の不均衡である。現在的貨幣価値は、現金として顕現する。ここで注意しなければならないのは、資産は、実質的価値によって変動するのに対し、負債は、名目的価値によって固定されているという事である。また、所得も実質的価値に連動して変動する。
負債は、元本部分と金利部分から成る。また、負債の返済は、所得による。所得が返済額に見合っていれば、不良債権は、発生しないはずなのである。つまり、本来は、金利の返済が滞らない限り、問題は表面化しないはずなのである。それがなぜ、表面化するのかというと、所得の限度を超えて負債の圧力が大きくなるからである。
その要因の一つが、返済額の中に元本の返済が含まれているからである。本来、貸借関係で見ると債権と債務は均衡していなければならない。ところが、債務の裏付けとなる資産価値が下落しているのに、債務の名目的価値が減らないために、債権を担保する価値が不足することにより、債権が不良化するのである。そうすると、債権を回収しようと言う動きが活発化する。これは、債権者保護が優先され、債務者保護が見落とされるからである。債権と債務は、本来、貸借取引を基礎としているのに、突然、売買取引の論理が割り込んでくる。それによって貸借関係の原則がうち破られ、資産が不良債権化するのである。
この様な場合は、返済に置いて、元本と金利とを切り離して考えるべきなのである。なぜならば、元本というのは、長期的な均衡を前提とし、金利は、消費を前提とした費用だからである。
その上で所得の範囲内に返済額を押し詰めることを考えるべきなのである。債務と債権は、実質的には均衡していなければならないものであり、債務の健全さが保たれなければ、債権の保全もままならないからである。(「中世の借金事情」井原今朝男著 吉川弘文館)
債務と債権は、常に均衡しており、利益に見えるのは、時間差、即ち、財の価値の時間差、時間的価値にすぎない。
国債も市場取引を経由しないと社会全体の価値を増減しない。市場取引を経由することによって信用価値を創造し、信用量を増加させる事が可能となるのである。
財政赤字や財政破綻によって通貨の一部、あるいは、全部の機能が障害を受けるか、停止することが問題なのである。
問題は、財政機能の破綻が通貨の機能のどこに影響を及ぼすかなのである。その第一がクラウディングアウトである。もう一つがハイパーインフレである。また、恐慌である。財政が赤字、極端に言えば、破綻してもクラウディングアウトやハイパーインフレが起こらなければいいのである。逆に言えば、財政が健全でもクラウディングアウトやハイパーインフレ、恐慌が起こると拙いのである。
何が問題かを見極める必要がある。
世の中には、「金が全てではない。」「金に替えられない物がある。」と言う人が結構居る。これは一面において正しく。一面において正しくない。社会は、金が全てだという空間と金だけではないと言う空間が混在して構成されているのである。金を媒体としている空間、場が市場である。そして、非貨幣的空間が共同体である。ただ、この境目が段々と判然しなくなりつつある。そして、それが社会問題の根底にあるのである。
非貨幣的空間の典型が家族である。そして、金銭的空間と家族との間を結んでいるのが所得である。故に、市場と共同体との境界線の問題は、所得の問題でもある。
この市場と共同体の境界線が不明確になってきたのである。つまり、親子の間や兄弟、夫婦の間にも金銭的な問題が入り込みつつある。
自分達が住んでいた土地もいつの間にか債務になり、何もしないで居ると相続することもでなくなって、国に取り上げられてしまうのである。
近代税制度が確立される以前は、潜在的資金効果を計算してこなかった。自分達が住んで生活している土地に税金がかかるなんて思いもよらなかったのである。況や、税金が支払えなかったら、召し上げられるなんて考えも及ばなかった。その上に、近代税制には、潜在的な貨幣価値を顕在化する働きがある。この様な潜在的な価値が顕在化する過程で債務と債権が形成されるのである。
大地主というと、かつては、大変な資産家とみられてきたが、現在は、大変な債務者なのである。資産は、債務の塊と言っていい。
私的所有権と言っても債権に過ぎない。権利に過ぎない。本当その人の物になっているわけではない。ある意味で、使用する権利を持っているに過ぎない。その所有権も三代でなくなると言うくらい、現代社会は、私的所有権を認めていながら、私的所有権に対し、否定的な社会なのである。
これは思想であり、大前提である。この点を明確にしておく必要がある。何人も、先祖代々伝わる土地だと主張しても相続税が支払えなければ、その土地の所有権は消滅するのである。つまり、債権であり、債務なのである。
つまり、近代税制というのは、私的所有権に対し否定的な税制、又は、否定的に作用する税制と言っていいのである。ただ、この思想は、国民の合意に基づいているのかという点に関し、甚だ、心許ない。この点が重要なのである。制度は、実質的にその根本にある思想を実現してしまう。
経済は、貨幣に支配された世界と、非貨幣的な世界が混在して成立している。市場と共同体が混在しているのである。市場の機能を理解するためには、非貨幣的空間を理解しておかなければならない。
その非貨幣的空間の典型は、家族、家計である。家族関係は、本来金銭的関係が入り込まない世界である。愛情は、金銭には換算できない。親子関係は、金銭で割り切れる関係ではないのである。人間性は、貨幣に換算できない。だからこそ、家族関係から市場をみると経済の側面が明らかになる。
現代人の最大の過ちは、個人も、家計も、経営主体も、国家も生産性や効率でしか計れなくなったことである。しかも、貨幣価値に全てを還元した上でである。それでは、個人や、家計や、経営主体や、国家の存在意義は、貨幣価値で、効率性や生産性を基準にしてでしか評価されない。しかし、人間の幸せは、効率や生産性、貨幣価値になじまないものである。
多くの人達は、人間の幸せは、金で買えない物だと言うことを知っている。自分にとって一番大切な物も金銭には代えがたいものであることも知っている。しかし、自分のとってお金が大切なのも知っている。現代人は、常に、金か、それとも金では買えないなにものかなのかの選択を迫られている。それでいて、誰も、貨幣の本当の価値を知らない。それが問題なのである。金は、人間が生み出した手段であり、道具である。手段であり、道具として大切なのであり、目的にはなりえない。それを忘れてはならない。
産業や一企業を保護するのではなく。市場を保護するのである。個としての部分の有り様は、市場とい空間の仕組みによってのみ全体を制御することが可能なのである。
我々は、個人の果たしてきた役割を過大評価しすぎてはいないだろうか。反対に、過小評価しすぎているのかもしれない。一人の人間が全てを支配することは出来ない。しかし、一人一人の持つ個性は侮れないのである。一方に侮蔑をもって、一方に憧れをもって我々は先人達や過去の英雄の業績を評価している。しかし、経済の本質は、全体と個人の調和にある。
一人一人の幸せが国家の栄光であり、国家の繁栄は、一人一人の働きに掛かっている。
個人と全体、国家と国民とは、対立関係にあるのではなく。協調関係にあるのである。助け合うべき存在なのである。
個人主義こそ、国民国家の礎である。それは国民一人一人が自らの意志と責任をもって国家に参画することを前提としているからである。
自分の家族が、自分企業が発展することを意味し、自分の会社が発展することは、国家の繁栄を招く。その様な関係が構築された時、経済は、一つの方向によって調和するのである。
部分と全体が、背き合い、反発しあい、排斥しあったら、部分も全体も調和せず、統一性を維持することは出来なくなるのである。その時、部分は離れ、全体は破綻する。
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