時    間


金利は、時間的価値である。


 時は金なりという諺があるが、現代社会においては、時間は経済的価値を持っている。この時間の経済的価値こそ現代経済を成立させるための重大な要素の一つなのである。

 時間は、価値なのである。時間が価値を持っているのである。そして、時間が価値を生み出す社会なのである。

 そして、この時間的価値の有り様が、市場経済を成長を前提とした仕組みにならざるをえないようにしているのである。

 時間的な価値が組み込まれたことによって、経済的価値は、実質的価値と名目的価値に二分化されることになる。実質的価値と名目的価値の二分化は、経済に見かけ上の変化と実質的変化の別を生じさせた。つまり、認識と実体との乖離現象である。

 現代経済は、成長を前提とせざるを得ない。しかし、では成長と言っても単純ではない。例えば、成長にも名目と実質がある。仮に、物価の成長率を差し引いてみると表面的、即ち、名目的には上昇しているように見えても、実質的には、下降しているという事がよくある。

 経済上における時間的価値は、一つは、金利である。今一つは、利益である。もう一つは、物価である。つまり、経済的な時間的価値とは、時間の経過が生み出す価値である。

 この時間的価値を生み出すのは、金利、利潤、所得、物価である。現代経済体制は、この金利、利潤、所得、物価は、時間と伴に増大することを前提としている。

 市場取引は、基本的にゼロサムで均衡している。利益を生むのは、空間的差、時間的差である。例えば、買った場所や時間と売った場所と時間の差である。

 時間的価値の代表は、金利と利益である。そして、現代の市場経済体制では、金利と利益が確保できない状況というのは、時間的価値が働いていない状況である事を意味する。

 金利は時間的価値である。金利が時間的価値であるという事が重要なのである。現代の市場経済は、債務を基礎としている。つまり、金利が時間的価値を誘導していると言えるのである。それ故に、時間的価値基準は金利に求められる場合が多い。

 金利に対する考えは、長いこと封印されてきた。時間が価値を生むと言う事は許されなかったのである。
 期間損益が確立する以前は、儲けというのは、目の前に見える財宝以外の何ものでもなかったのである。そして、その財宝は、本来独り占めできるはずの物のようにみなされていたのである。しかし、その分け前をもらうのは当然の権利だと考える者も少なくなかった。だから、現物としてある財宝をどの様に配分するかが重要な問題だったのである。そこには、利益という発想は入り込む余地はない。しかし、使い切れないほどあるように見える財宝も実際に使ってみると瞬く間の内に減って、なくなってしまう。ただ消費するだけなら、増えることはないのである。そこで、財宝を減らさずに増やすことを考えるようになったのである。そこに資本という思想が生まれる。手持ちの財宝を人に貸す変わりに一定の期間が過ぎたら、増やして返してもらうのである。それが時間的価値を生み出したのである。
 しかし、この考え方は、長い間、宗教的に不道徳なこととされてきた。その呪縛が解けるのは近代になってからである。

 経済的価値には、長期、短期の別がある。また、固定、変動の別がある。これは、金利にも長期、短期の別を生じさせる。また、固定、変動の別を生じさせる。

 貨幣が生み出す、債務と債権は、常に均衡している。それが複式簿記の大前提である。

 金利は会計に反映される。

 会計上は、一年、あるいは会計期間を一つの単位としてみるのが基本である。また、一連の取引の始まりから終了までを指す場合もある。つまり、経済上の時間の定義は、要件定義によって為される。

 会計において重要なのは、速度の違いである。一定の運動をするのに必要な時間の単位によって仕分ける場所が違ってくる。時間の単位が多いものを長期といい、少ないものを短期という。
 基本的に、負債、資本、収益が収入を意味し、資産と費用が支出を意味する。資産と費用を分けるのは、速度の問題である。
 速度が価値を変化させる。この場合の変化とは、変質である。速度とは、流動性である。流動性の目安の一つは、会計期間である。つまり、会計期間を超える価値は変質する。
 会計期間を超える債権・債務を固定的と判断し、それ以外を変動的と判断する。同様に、固定的な債権、債務を長期とみなし、変動的な債権・債務を変動的とみなす。

 債権は、資産的価値であり、債務は、負債的価値である。即ち、債権は、物的な価値であり、債務は、貨幣的価値である。
 故に、債権は、物的価値の変化に依拠し、貨幣は、貨幣的価値の変化に依拠している。

 負債は、バブルやインフレの原因となることを注意する必要がある。

 借金をすると多くの人は、一時的な金持ちになって様に錯覚する。それは、価値の中に時間軸が加算されることによって価値総体が増加するからである。つまり、何十年分の価値を一時的に支払う額に、見かけ上、圧縮することが、可能となるのである。
 一月の支払額の十二倍の財産の購入が可能となり、十年割賦であれば、年収の十倍の財産が購入できる。
 しかし、それは、その間の所得の相殺勘定であることを見落としてはならない。費用の後払いに過ぎない上に、それは固定的なのである。資金が寝るとか拘束されることを意味する。

 金利というのは、時間軸によって生じる価値ではない。時間の経過は、価値の上昇をもたらすという思想から発生する。それは市場価値である。逆に言うと、この市場価値に金利という時間的価値が加算される。これが金利の問題をより複雑にしている。

 2008年12月16日、アメリカは、ゼロ金利政策に踏み切った。それ以前に日本は、実質的なゼロ金利政策を採り続けてきた。

 キリスト教やイスラム教、また、社会主義者から金利は悪だとして、金利をなくそうという努力が為されてきたが、現実化することは難しかった。ところが、金融危機が起こるとあっさりとゼロ金利政策が実現してしまった。皮肉なことである。

 ゼロ金利は、危険な賭である。ゼロ金利というのは、経済の時間的価値をなくしてしまうことを意味する。ゼロ金利にすることよりも、ゼロ金利にならざるをえない状況を問題とすべきなのである。つまり、適正な金利をとれない状況が問題なのである。それは適正な利益を上げられない状況なのである。

 ゼロ金利になったとして、その効果は一時的なもので終わる可能性がある。なぜならば、現在、金利をゼロにする目的は、借入をしやすくする効果を狙ったものである。しかし、資金を必要とする者は多くいる。それなのに、資金が循環しないのは、借入側の問題ではなく、貸出側の問題なのである。資金需要がないのではなく。融資する側の問題だからである。







                    


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