時    間


成長の限界


 量的な変化は質的な変化を引き起こす。変化は、時間の関数である。

 市場は、成熟するに従って質的な変化をする。それに従って大量生産から多品種少量生産へと生産体制は移行していく必要がある。

 量的変化が質的変化を引き起こし、最終的には密度に影響する。これら一連の変化を決定付けるのは速度である。

 市場は、拡大成長するにつれて質的な変化を起こす。その変化に応じて市場の仕組みや会計制度と言った構造を変化させる必要がある。

 :現代の経済は、生産の時間軸を基礎として構築されている。しかし、経済には、生産とは違う時間軸が存在する。つまり、消費の時間軸である。そして、生産と消費の時間軸が生産と消費の質に関わっていることも見落としてはならない。

 生産と消費は、時間の関数である。そして、生産と消費が時間の関数だという人は、生産と消費の速度の問題だという事である。生産と消費の速度は、生産と消費の質の転化をもたらす。それは、市場の質的な変化を促す。
 市場が成熟化すると消費の速度が低下する。それに伴って生産の速度も遅くする必要が生じる。それが市場を、単品種大量消費社会から多品種少量消費へと変質させるのである。それが、多様化、高級化である。
 この様な市場の転化は、技術や文化の成熟化をもたらし、労働の質的変化をももたらしてきた。そして、社会や市場に規律を生み出したのである。近代は、この市場の質的な変化に対し、否定的な見方が強かった。その為に、市場の質的変化に合わせて構造的な変化を促すことが出来なかったのである。
 大量生産大量消費型市場から多品種少量生産型市場への転化を阻害してきたのである。その為に、過剰生産、過剰消費状態に陥るのである。全てが過剰になる。そして、市場の密度が薄くなる。

 消費の速度が変化すれば必然的に市場の質も変化する。それに合わせて生産の速度も調整すべきなのである。
 また、資金の流れの速度も調整する必要がある。速度は、量と時間の関数である。そして、それを決定付けるのは、質である。

 例えば、自動車や家具と言った耐久消費財である。自動車も最初は動けば良しとする。しかし、そのうちに動くだけでは飽き足らなくなり、性能を追求するようになる。また、一台で満足していた者が、二台、三台と欲しくなる。そして、それに従って要求も多様化する。
 また、食料にも質的な変化は現れる。最初は、食べることに精一杯だったのが、生産力に余力が生まれ、多少余裕が持てるようになると味にこだわるようになる。やがて高級な食材がもてはやされるようになる。そして、それは文化となり、爛熟する。
 高級化は、細分化でもある。つまり、量的な問題から、質的な問題へと移行した結果、商品を細分化する傾向が生じるのである。
 自分の物に愛着も生まれ、良い物を、修繕したり、手入れをして長く使うという思想も生まれる。生産の質的の変化に伴って商品も長持ちするようになり、また、長く使うようになる。それが本来の姿である。

 しかし、今日の使い捨て社会は違う。大量生産、大量消費型経済は、この質的転換が上手く機能しないのである。

 本来、質的な変化に伴って雇用体系も変化すべきなのであるが、その変化が抑制されると、雇用も標準化され、属人的要素が削ぎ落とされ、量的な面だけが残ることになる。

 新製品も一巡すると購買意欲は減退する。買わなくて済むのである。ところが大量消費を前提としている経済体制では、市場は、買わなくていい物まで、無理して買わせようとする。それが大量生産、大量消費型市場経済の仕組みなのである。この様な大量消費を前提とした体制では、多品種少量生産型市場経済になかなか切り替えられないのである。
 市場が過飽和な状態になったら、量より質に転化する必要が生じる。市場の在り方も市場に対する政策も変える必要がある。
 例えば保守、修繕業を発展させ、また、一方で高級化を進める必要があるのである。それによって市場の密度を高めるのである。
 大量生産、大量消費型市場経済は、過当競争を引き起こし、慢性的な不況、即ち、構造不況業種へ産業を堕落させてしまう。
 大量生産型社会は、画一的で没個性的な社会である。標準化され、均一化された財を機械装置によって大量に生産することを前提としている。
 それは、安価で、速く、そして、単純さによって基本的に成り立っている。この様な生産方式は、労働をも規制する。標準化された、単純、反復、繰り返しの作業によって労働を画一化し効率を上げるのである。それが疎外の原因にもなる。仕事が自己実現から切り離されてしまうからである。疎外感は、その人の生き方と仕事とが切り離され、無縁となることによって人生の時間が浪費されることに原因がある。生きる価値が見いだせなくなるのである。

 成長を前提とし、競争だけを市場の原理とし、そして、市場を成り行くに委せてしまったために、市場の仕組みに適合力がなくなってしまった。
 まともな人間なら、ハンドルもクラッチもブレーキもないような自動車の運転を、神の意志に委ねるなんて馬鹿げた発想はしない。
 自動車のように物理的な仕組み、機械は、人間が創り出した人工的な物である。魔法で出現した物とは違う。山から掘り出すような物でもない。人間の手で作り出す仕組みである。
 運転は、運転である。いくら、信仰心が強くても運転まで神に委せたりはしない。しかし、それでも、事故は起こる。だから、神に祈り、神を信じるのである。
 ところが市場に関しては、何もかも神に委ねるべきだという。市場は観念的な装置である。市場という仕組みを構築し、制御するのは人でなければならない。
 人事を尽くして天命を待つのである。最初から市場という装置の制御を神に委ねるべきではない。また、市場を生み出したのは、神ではなく。人間だと言う事も忘れてはならない。市場は、どの時代、どの世界にもあったのではなく。市場経済が確立されたのは、そう昔の話ではないのである。
 我々は、市場の環境の変化、状態の変化に合わせて市場を操作し、場合によっては、市場の仕組みを変えていく必要があるのである。
 それは、意識や価値観もである。成長段階では正しくても、成熟段階では間違っていることもあるのである。その逆もまたある。

 生産も、消費も、時間の関数である。生産にも、消費にも、何等かの周期がある。景気に影響を与えるのは、生産の周期よりも消費の周期である。そして、消費の周期は予見が難しい。

 収益が不安定であるのに対し、費用は下方硬直的である。

 生産から費用が見積もれる。消費から売上が予測される。一方は、見積もりであり、一方は、予測である。生産にかかる費用は見積もれるが、消費から確実な売上は、計算するのが難しい。

 時間と伴に上昇する費用に対して、収益の上昇には限界があり、ピークがある。為替の変動や過当競争、市場の飽和と言った市場環境の変化によって市場は成長から、停滞、収縮へと変化する。この様な変化は、技術革新だけで対応できるものではない。

 それならばなぜ、所得の上昇に対応することができたのかである。それは紙幣だったからである。実物貨幣では、所得の増大に対処しきれなかったであろう。紙幣だったから、所得の増大に対応し切れたのである。

 市場が過飽和状態になっているのに、貨幣市場が見かけ上の拡大を続けた事によってバブルが発生し、そして、崩壊した。

 この様に考えるとただ、成長を前提とした構造では、早晩成り立たなくなる。市場は、瓦解する。

 時間価値が作用すると現状維持と言う事は下げを意味するようになる。つまり、常に、上昇し続けなければ現状を維持出来ない体制なのである。現状維持は、停滞なのである。立ち止まることは許されない。
 しかし、停滞は本当に悪い事なのであろうか。

 停滞しているように見えても必ずしも停滞しているとは限らない。根本は、認識の問題なのである。コモディティと言われる多くの産業は、長期停滞ではなく、成熟しているの場合が多い。成熟というのは、実り豊という意味もあるのである。停滞としてしまい、無理に成長を促すのは、必ずしも正しい選択とは言えない。

 現代経済は、変化を前提として成り立っている。変化が、経済的価値の本源でもあるのである。

 変化を成長と置き換え、成長こそ経済の絶対的前提としている経済学者もいる。同様に、成長は進化だとするものもいる。変化と成長は同一のものではないし、成長と進化も同一ではない。

 そして、この時間的価値が経済成長を前提としたと言うより、前提とせざるを得なくしたのである。市場経済を支えているのは変化だからである。

 現代社会は、成長を止めたとたん破綻する。走り続けなければならない。そう言う仕組みになっているのである。つまり、経済が成長を前提としているのではなく。現在の経済体制が成長を前提としているのである。結局、自転車操業にならざるをえない。それが、成長を前提とした社会である。しかし、成長には必ず限界がある。故に、本当に大切なのは、成長が限界に達した時にこそある。

 なぜ、成長し続けなければならないのか。それは、時間的価値を正しく認識していないからである。同時に時間的価値を制御する術(すべ)を持たないからである。つまり、時間的価値を前提とせずに、又は、時間的価値を理解せずに、時間に追われているから休むことも出来ないのである。時間的価値を正しく理解すれば、ゆとりの持てる社会が築ける。

 時間価値を考慮に入れるならば時間を絶対的なものとせず、相対的なものとして考え、変化の実相に会わせて、市場や産業構造を考える必要がある。 

 成長が止まり、期間利益を上げることが困難な状況に陥ると、企業は、債権や債務、資本を活用して利益を上げることを画策するようになる。それが金融技術を発展させる。その場合、規模が大きい企業の方が有利に働く。
 それに会わせて、会計制度に対する考え方も損益ベースから貸借ベースへ、動態から静態へと移行してきた。そして、損益でも、貸借でも合わなくなってきたので、収支で合わせようとしているのである。
 この様に、会計制度は、会計制度の内的整合性によって変遷しているのではなく。外部からの要請によって変遷している。つまり、その時点における経済情勢に適合することが困難になったから、会計制度は、改訂されるのである。会計制度があって経済があるわけではなく。経済があって会計制度がある。しかし、会計制度が一度確立されると、会計制度によって経済は、規制され、変化する。経済情勢の変化によって会計制度は変革される。経済と会計制度は、この様な弁証法的関係にある。
 それ以前に期間損益の確立があり、貸借ベースから損益ベースへ、静態から動態への移行があった。即ち、静から動へ、動から静へと言うように会計の考え方は変遷してきた。その原因は、経済の時間的価値にある。

 なぜ、現代の経済体制は、成長を前提とせざるを得ないのか。それは、経済の時間的価値が常に上昇することを前提として構築された体制、仕組みだからである。

 好、不況の波。高度成長と、その後の経済の行き詰まり。経営や財政の破綻。市場の寡占化、独占化。それは、経済に時間軸が組み込まれた時から、運命付けられていたのだ。時間軸は、経済成長と市場の拡大を不可避の前提としている。しかし、経済成長や市場の拡大にも、自ずと限界がある。だからこそ、経済学が取り組まなければならないのは、市場の拡大が限界に達し、成長が止まった時に、どの様に対処すべきかなのである。







                    


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano