時    間


歴史観、世界観


 歴史は、壮大な交響曲のようなものである。歴史には、旋律、拍子、和音となる事象がある。音楽は時間の芸術だと言われる由縁である。

 歴史には、旋律と、拍子と、和声がある。さらに、指揮者と演奏者の技能と統制がある。それらが一体となった時、はじめて調和する。個々の部分が自分勝手な動きをすれば、全体の調和は乱れ、破綻する。

 経済は歴史的所産である。故に、歴史の乱れは、経済の乱れでもある。

 日本の経済は、鉄鋼や自動車といった重厚長大から、流通、サービス、ITといった軽薄短小の時代へと質的な変化をしたとみなされる。これは歴史的な問題である。そして、この様の歴史的な変化がその背後にある経済構造に対し、どの様な作用、影響を及ぼし、また、どの様に変革をしていくかを考えるべきなのである。経済は、歴史の産物であり、自然科学のように普遍的な法則によって支配されているわけではない。

 現代社会は、歴史的産物である。歴史を理解しないと現在生起している現象の根因を理解することはできない。貨幣の機能を明らかにするためには、貨幣の生成期の歴史的背景を調べることが有効である。
 特に、紙幣の起源となった物には、手形、債権、証券、預金、金の預かり証、借金、国債保証書、担保などがある。そして、これらは、紙幣の性格を形成した。

 要するに、紙幣は、何等かの債権や債務を基とした証券なのである。

 資本は、元手、信用取引における委託保証金のようなものである。つまり、資本主義というのは、レバレッジ効果によって成立したとも言える。レバレッジというが紙幣は、そもそも預かり証や借用書のようなもの。貨幣は、その裏側に金という担保保証があった。紙幣は、金の預かり証が始まり。つまり、紙幣は、金や国債を担保とした借用書のような性格を持っている。
 現に、紙幣は、国債を担保とした借用書から生まれたものもあるのである。

 発券したのも政府、中央銀行、一般の民間銀行、君主だったりする。しかし、基本的に近代的紙幣は、国民国家が成立することによって普及した。国民国家は、通貨によって統合されたと言っても過言ではない。

 両替屋というように銀行業の始まりは、両替と為替である。両替や為替は、内部貨幣と外部貨幣を変換する仕組み、装置である。

 時間に対する捉え方に、時間を直線的な変化として捉える考え方と循環的なものとして捉える考え方がある。また、時間の変化を可逆的な変化として捉える考え方と不可逆的な変化として捉える考え方がある。時間の変化が可逆的であるか、不可逆的であるかは、現象を決定論的なものとしてなものとして考えるのか、不確定論的なものとして捉えるのかの前提となる。また、変化は連続的なのか、不連続なのかの問題の前提ともなる。それ故に、これらの考え方の違いは、人間の死生観や人生観、歴史観の基礎となる。故に、時間に対する考え方が重要であり、思想や哲学に決定的な影響力を及ぼすのである。

 経済に対する考え方も時間をどの様なものとして捉え、どの様な前提とするかによって違ってくる。
 ただ、私は、時間に対する認識は、認識、即ち、相対的なものであり、認識の前提によって捉え方にも、違いが生じると考える。故に重要なのは、どの様な前提に立って経済の時間的変化を認識するかを常に明らかにすることである。

 近代経済は、普遍性を追求している。近代経済学は、変化を前提としているようで、変化を前提としていない。変化を前提としているようで、実際は、単一の方向性しか持っていない。即ち、成長である。近代経済学は、時間的には、不変的な原理、空間的には、普遍的な空間を前提としている。しかし、市場は、偏りがあり、変化もする。

 歴史を事実として考えるのか、それとも、ある種の思想と考えるか。歴史をどう捉えるかは、認識の問題である。故に、相対的なものである。時代や立場によって歴史に対する捉え方は違ってくる。ただ、生起した事象は、事実である。また、現在は、過去の延長線上にある。現在生起している現象の原因は、過去にある。それが因果関係である。現在生起している現象から過去を推測することは可能である。また、未来は、過去と現在とを結んだ変化の流れの延長線上にある。過去を解析することによって未来を予測することに繋がる。故に、歴史は常に検証され続ける必要がある。

 歴史観は、世界観の前提ともなる。世界観は、歴史観の基礎となる。それは、時間と空間の問題である。

 企業収益が悪化した時、カンフル剤的に公共事業を増やす。しかし、公共事業の投入も度重なると効果が薄くなる。

 公共投資は、景気対策を目的として為されるものではない。根本は、世界観、国家観である。国家の目的、公の目的を実現する為に行う事業が公共事業なのである。そして、公共事業は、歴史の所産でもある。

 景気対策で公共事業を活用するにしてもそれは速度の問題である。公共事業を前倒して実施して景気を刺激するのか、先送りして財政を立て直すかの問題である。景気対策のために新規の公共事業を後先も考えないで行うのは、国家事業としてはむしろ弊害が多い。
 国家事業というのは、根本が長期的事業なのである。短期的視野で考えるべき性格の事業ではなく。それ以前に国民滝合意と手続を必要としているのである。

 公共投資は、市場の構造に影響を与え、変化させる場合にかぎって経済効果を期待できる。公共投資そのものに経済効果があるわけではない。景気対策と言うだけで闇雲に公共事業をしても、公共債務を増大させるだけである。つまり、公共投資事態だけではなく。公共投資によって国家経済をどの様に変革するのかが重要なのである。

 手段は目的に従属し、規制される。目的のために、手段を選ばずと言う事はあり得ても、手段のために、目的を選ばずと言う事はあり得ない。それは、順序が逆転しているからである。

 経営主体の収益を向上させるという目的で補助金を出すのは、見当違いである。補助金は、収益に間接的に貢献することはあっても、直接的には貢献していない。補助金のようなものは、資金繰りを楽にしても、利益には反映されない。故に、景気には、直接的には結びつかない。補助金は、企業を継続させるための資金繰りには貢献する。ただ、収益が向上しなければ、与信を高めることにはならない。むろん、補助金の出し方や会計上の処理の仕方によっては違ってくる。目的を達成するためには、手段とその効果を考慮しなければならない。
 同様なことは、再投資を伴わない公共事業にも言える。故に、公共投資は、構造的に考える必要があるのである。その根本は、世界観であり、歴史観である。

 先ず、何を大前提とすべきなのかである。それは、経済とは何かの根底をなす。経済というのは、基本的に分配と労働の仕組みなのである。つまり、いかに、分配と労働を公平に、かつ、効率よく行うかの仕組みなのである。その為に、時間的変化を、そして、社会構造をどの様にするのが最適なのかを解明するのが経済学の役割なのである。それが構造経済である。

 経済制度や経済機関というのは、任意な設定条件に基づく。所与の条件が与えられているわけではない。設定条件は、条件を設定するための前提条件によって成り立っている。故に、経済の歴史的変化を理解するためには、この設定条件と前提条件を確認する必要がある。つまり、初期設定が重要になるのである。

 歴史を考察する上での前提には、制度的前提、原理的前提、物理的前提、環境的前提、主体などがある。制度的前提には、会計制度や為替制度、金融制度、貨幣制度、市場制度、法制度、経済体制、政治体制などがある。
 原理的前提には、会計公理や会計原則、複式簿記の原則、市場原則、取引原則などがある。
 物理的前提としては、人口、資源、気候、交通、インフラストラクチャーと言った前提がある。

 陰謀史観みたいなものは、無意味である。無意味というのは、陰謀史観的な事実が存在しないと言うのではない。むしろ、陰謀的な事象、事実は常に存在するものと言うことを前提とすべきなのである。そう言う意味で、無意味だと言っているのである。
 国家には、主権者が居て、常に、国益を計っている。そして、主権者は権力者であり、常に、何らかの意図を持って行動している。それらは、政策や国家戦略に反映されている。その政策や戦略の情報の全てを公開しているわけではなく。また、全ての情報を公開することは現実的に不可能である。何も、秘匿しておこうとしなくても結果的に情報が公開されていない、出来ない場合も無数にある。むろん、意図的に情報を操作することは、状態である。手の内を全て公開したらスポーツもゲームも成り立たないのと同じ事である。更に言えば、情報の公開を迫る者は、敵対者か、反対陣営に多いと言えるのである。
 それを陰謀とするか、否かは、それぞれの立場に依ることである。
 何よりも、危険なのは、目先の現象に目を奪われてその背後に在る、何者かの意図を見失う人である。何が是であり、何を非とするかは、自分が決める事なのである。
 例えば、多国籍企業が気に入らないからと言ってやる事、為す事、全てを否定したところで、問題の解決にはならない。問題は、それが何をもたらすかである。
 大事になのは、当事者の意図であり、是とするものがあれば是とし、非とすべきものがあれば非とすべきなのである。つまり、是々非々の問題である。
 どの様な国に、また、経済状態にしたいのかを明らかにしないで、お互いの利害を正当化することだけに終始したら、問題の本質的な解決は出来ない。

 国際陰謀論は、最後に何のためにと言う命題が残る。世界を支配するためにと言ったところで、世界が混乱と無秩序に陥ってしまえば意味がない。世界中の人間を隷属しようとしたところで、その結果、人々から主体性が失われ、生産性がなくなったら元も子もないのである。
 見えざる手は確かに存在する。しかし、それは神の手ではなく。人間の手である。ただ、それを陰謀に結び付けるのは短絡的である。

 陰謀は、表に現れないから効果があるのであり、表に現れてしまったら陸に上がった河童同然である。

 陰謀がないとは言わない。しかし、陰謀が全てだとは思わない。なぜならば、陰謀など神の意志の前では無力だからである。所詮、人間は、いつか、皆、死ぬのである。死んだ後の世界まで、財産も権力も持っていくことはできない。所詮は、陰謀によって得た物など虚しい物なのである。

 日本人が、日本をよくしようと考えること、中国人が国益のために働くこと、アメリカ人が、アメリカのために戦う事、ユダヤ人がユダヤを守ろうとする事、キリスト教徒やイスラム教徒が、キリスト教やイスラム教を広めようとする事は、陰謀なのか。結局、何を是とし、何を非とするのかの選択に過ぎない。それが民主主義の大前提のはずである。
 問題は、自分達の権益のために、他国を侵略したり、他国の権益を侵すことである。自国の繁栄のために、他国民を隷属したり、支配したり、隷属化したりすることである。

 現代人は、闇雲に争いや差別は悪い事だと決め付ける。しかし、悪い事だと決め付けるだけで、争いや差別はなくなるだろうか。争いや差別は、頭から悪い事だと決め付けながら、その一方で競争を煽り、学歴や収入で人に差を付ける。それで本当に争いや差別をなくすことができるのか。争いや差別とは、どの様なことを指して言うのか。また、争いや、差別のどこが悪いのかを明らかにしないで、ただ悪い事だと喚き立てても、争いや差別はなくならないのである。
 大体、個人主義や民主主義は、人々の違いを前提として成立している。差が前提なのである。
 生まれも育ちも違い。信じる神が違う。文化も、歴史も違う。言葉もマチマチである。肌の色も違う。体制によって教えられることも、法も違ってくる。風俗や習慣も違う。食べる物も違う。生まれ、育った環境や時代が違えば、考え方も違ってくるのである。能力も、性格も、体格も同じ者はいない。身長や体重が違えば、当然、着る服も食べる量も違うのである。寒い国と暖かい国では、家の構造は服も違うのが当然である。趣味も違えば嗜好も違う。
 大体、何を正しいとするか、何を悪とするかは、個人の判断に委ねられる。つまり、善は、自己善であることを前提とするならば、全ての人間の価値観を統一しようなどと言うのは、絵空事である。幻想に過ぎない。
 だとしたら、法や制度と言った社会の仕組みによって争いを抑制し、格差を是正するしかない。それが、民主主義の大前提である。そして、それが民主主義の大前提のはずであり、大前提だった。だから、絶対的な善というものは、存在しないか、不可知なものとするのである。
 しかし、民主主義が、一旦、確立されると、民主主義がいつの間にか、絶対的な価値観にすり替わってしまった。民主主義というのは、あくまでも前提であり、絶対的な価値観ではない。民主主義というのは、民主主義という仕組みなのである。
 民主主義は善悪ではなく。働きである。つまり、民主主義という仕組みが機能しているかどうかが前提なのである。
 そして、その根底は、民主主義という仕組みを機能させている力関係によるのである。その点を理解しないと民主主義という仕組みの長所、欠点も見えてこない。民主主義というのは、機械と同じ仕組みなのであるから、良いところもあれば悪い所もある。その欠点を補い、長所を生かすのは、民主主義という仕組みではなくて、民主主義を操る人間なのである。
 絶対的な善がないとしたら。また、超越的で、絶対的な力を前提とでくないとしたらならば、残されたのは力関係でしかない。ならば、正義はないのか。それは違う。善は、自らの内にある。そして、内なる善を外部に主張していく過程で正義は姿を現すのである。それが民主主義の大義である。故に、民主主義とは過程にある。
 経済を考える時、見落としてはならないのは、経済の目的、機能、働きである。この世には、無秩序と秩序しかない。無秩序な状態を容認するのか、秩序を受け容れるかの二者択一である。無秩序な状態を容認すれば、自力で他者の暴力と戦う覚悟必要となる。秩序を是認するならば、権力に従う覚悟必要である。いずれの覚悟もないままに、無秩序も秩序も否定すれば、結局は、自分の身すら護れなくなる。
 争いは、見方を変えれば、競技、競争になる。差は、活力となる。それを前提として成り立っているのが、スポーツである。つまり、スポーツというのは、社会の一つの在り方を示しているのである。スポーツを成り立たせているのは、ルールであり、ルールを成立させている仕組み、手続である。そして、そのルールを尊重できる内は、公正や自由、平等が成り立つのである。それが民主主義の大義である。

 国家が、国民の生命財産を守り、福利厚生を実現するために国益を主張することは当然のことと受け止める。しかし、それが、暴力や不正な行為によって実現されることを防ぐことが民主主義の大義なのである。

 ただ国際社会の力関係を知らずに経済を語ることほど愚かなことはない。また、歴史を忘れて経済を語るのも馬鹿げている。

 結局は、何を是とし、何を非とするかの問題である。一番問題なのは、無自覚に、自分の意志もなく、是々非々を明らかにできないで、いつの間にか人に隷属することである。我のみを高見において、中立的、客観的立場で、他国の批判ばかりをしていても国を保つことはできない。誰に味方し、誰と敵対するかは、自国の意志で決するしかない。誰の支配も受けないというのは、結局。我のみが正しいとすることに相違ない。
 所詮、民主主義においては、正義とは、自分の力によって勝ち取るものなのである。

 競争や差を付けることに目的があるわけではない。世界の調和と平和を保つことに目的があるのである。陰謀史観の根底にあるのは、他人による支配や抑圧である。しかし、陰謀史観では、誰が、何のために、どの様に支配しようとしているのか、また、抑圧しようとしているのかが明らかにされないということである。
 それ以前に、自分がどの様な世界をどの様な社会を望んでいるかが重要なのである。結局、自らの正義を明らかにしないで、他人の正義をとやかく言ってもはじまらないのである。要は、志すところの問題であり、志を同じくするか、否かの問題なのである。





                    


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