現実主義
経済における現実とは
あらゆる思想も哲学も現実から乖離したらその存在基盤を失う。実体は存在であって観念の所産ではないからである。
経済は、現実である。仮想的な世界の空想的な出来事ではない。
知覚できる対象や現象、了解可能な存在しか前提としない。翻って言えば、知覚できない、了解できない存在は前提としない。それが現実主義である。
あるがままの事実を前提とする。それが現実主義である。ただし、人間が個人で認識できる範囲は限られている。それ故に、現実主義というのは、極めて主観的で、個人主義的なところに立脚している。
あるがままの対象を受け容れるという点では、現実主義は、自然主義にも通じている。ただ、自然主義とは、あるがままに受け容れるだけでなく。それを積極的に肯定し、維持しようとする点において現実主義とは一線を画している。
我々は現実を直視すべき時に来ている。現実は、美しいところばかりではない。と言うよりも、美は醜によって成り立ち。醜は美によって成り立つ。美も醜も認識の問題であり、相対的なものだからである。認識の上では、美しい物があれば醜い物があり、醜い物があるから、美しい物が成り立つのである。
善のあるところ、悪があり。悪のあるところ善がある。
現実を直視するというのは、現実を、先ずあるがままに認識することを意味する。それが現実主義である。ただ、現実をあるがままに認識すると言っても、認識という行為そのものが、主観的なものなのであるから、認識した時点で自己の価値判断が働いていることを、自覚する必要がある。
経済は、現実である。仮想の世界で起こっている現象ではない。戦争や災害、また、国家間の力関係やエネルギー政策が重大な影響を与えている。それなのに、学問としての経済学には、現実に起こっている事象や歴史、地理、そして、政治が軽視されているように思える。
経済学者は、経済現象を、事後的に仕組みについて説明するが、現象面でしか判断していないから、事前に予測がつかない。予測が立てられないから対策も立てられない。重要なのは、その現象の背後にある構造である。仕組みがわかるから対策が立てられるのである。
経済のように、人々の暮らしに直接に結びついている問題は、現実に役立ってこそ理論の価値がある。その意味では、現実主義、実用主義でもある。必然的に、生々しいものになる。予測が外れれば信用も失う。それが経済に携わる者の宿命である。しかし、経営に携わる者は、それが当たり前なのである。学者だからと言って責任を逃れることはできない。
経済と政治とを結び付けないのは、欺瞞である。現実の経済は、政治によって動かされている。そして、政治家は、利益代表になりがちなのである。なぜならば、支援者の多くは、現実の生活に根ざしているからである。生活の根源は経済である。だからといって理想や、志を捨てれば、その瞬間から政治家は、政治でなくなり、経済は、破綻する。支援者達の利益を代表しつつ、いかにして理想を実現するかが政治家の現実なのである。
現実の世界は、利害関係によって成り立っているのである。それが経済の現実である。理想や夢についてかたっている時、よく現実的になれと言われる。その場合、現実的と言う意味は、理想に対して否定的な意味で使われる場合が多い。しかし、現実は、理想に対し否定的であろうか。
政治も、経済も現実である。しかし、政治や経済から理想を、もっと有り体に言えば、信念を取り除いたら成り立たない。政治や経済は、理想や信念があるから成り立っているのである。だから、現実と理想は、背反的なものではなく。むしろ、補完的なものである。
経済の問題は、最終的には、認識の問題である。それ故に、相対的問題である。つまり、経済をどの様に認識するかの問題である。だからこそ、現実を現実として受け止めなければならない。その上で、その背後にある仕組みを明らかにする必要があるのである。
現実とは生々しいものである。ただ、結果だけを問題にしてその背後に隠されている原因を明らかにしようとしなければ、闇雲に、犯人探しを始めてしまうのがオチである。闇雲に犯人探しをするのは、現実を見ているようで、現実から目を背けているのだけである。問題は、経済現象を引き起こしている仕組みなのである。仕組みがわからなければ、対処の仕方がないのである。
政治も、経済も、所詮は、人の世の出来事なのである。それが現実である。経済も政治も人と人との関係の上で成り立っている。人間が関係していない経済は、経済ではない。虚構である。金が主となり、人間が従となったら経済はお終いなのである。
国家は、自国の利益を優先する。これも現実である。それが大前提である。だからこそ、歴史を無視しては経済は語れないのである。
現在の経済は、成長と拡大を前提としている。
その為に、成長が鈍化すると矛盾が噴き出してくる。また、経済が成り立たなくなる。しかし、成長は絶対ではない。市場は停滞し、また。景気は、後退することもある。その時こそ、人間の叡智が試されるのである。
市場の飽和や成長の鈍化は、想定されていない。しかし、市場は、一定の水準に達すると飽和状態に陥る。飽和状態に達した市場は、停滞する。つまり、取引の数が減るのである。
一見、成長や拡大は、華やかで明るさに満ちている。それに反し、停滞や衰退は暗い印象が先行する。しかし、成長にも光と影がある。成長が良くて、停滞は悪いと決め付けるのは短絡的である。停滞も見方を変えれば安定なのである。
現代の日本人は、高度成長を前提として人生設計をしてきた。しかし、高度成長は、常態ではない。永遠に成長し続けることはできない。
永遠に成長が続くと思い込むのは危険である。
成長とは、必ず、今より明日は良くなるという事を前提に考えている。今日より明日の方が悪いという事を想定しないのであるから、経済が停滞状態に陥ったら市場は混迷が始まる。
ピーク、即ち、天井も底もあると考えるべきなのである。良い時も悪い時もある。と言うより、良いも悪いも相対的なのである。
いずれ成長は、頭打ちになると認識しておくべきである。しかし、それは停滞と言うべきか安定と見るかによって捉え方に違いがでる。
成長が頭打ちになったら、成長期と同じ事をやっていても駄目なのである。成熟期には、成熟期のとるべき政策がある。現実をどの様に認識するか、見抜くかが鍵となるのである。
生病老死。諸行無常。それが現実である。若く、美しく、逞しい時は、過ぎ去り。老い衰えていく。そして、病や死が訪れる。それが現実なのである。その現実を受容した時、より豊かな行き方が約束されるのである。見たくないからと言って現実から目を背けてばかりいたら、本当の幸せな土手に入れることはできない。
ありもしないものは、ないのである。不老不死の妙薬も永遠の生命もないのである。
市場原理主義者の言うように、競争の原理を万能と見なす事は現実的であろうか。頭から、規制や話し合い、協定を否定する事は現実的であろうか。
競争の原理を働かせれば、市場は上手く機能すると多くの識者は言う。競争の原理は、万能のようなことを言う。そして、市場を神の手に委せれば、公正な競争が行われ、予定された調和が実現するとする。しかし、未だかつて、公正な競争など市場で行われたことはない。市場は、競争の場ではなく。闘争の場なのである。有利な条件を手にした者が勝ち残る戦場なのである。競技場ではない。
現在の市場は、スポーツとは明らかに違う。大体スポーツは、人間が創り出したものであり、自然に出来上がったものではない。成るものではなく。為すものなのである。市場は、競技、競争の場ではなく、喧嘩、闘争の戦場なのである。
現実を受け容れるというのは認識の問題である。無為という意味とは違う。現実を先ず受け容れ、その上で、その背後にある法則や仕組みを明らかにし、それを目的にあった構造に組み立てていくことである。それが構造主義である。
神の手が原理的に働くほど、市場はフラットにできてはいない。もはや、伝説や神話の時代ではない。神の原理は、神の世界へ。人間の世界は、人間の責任よって、人間の手で築き上げていかなければならない。それが現実主義である。つまり、現実主義は、世俗主義でもあるのである。
競争の原理と言い。競争をあたかも絶対的な法則だと決め付けるのは間違いである。それが、単なる決めつけだけならば、実害も小さいが、為政者となると話は別である。甚大な被害が生じる。競争を促すのが良い場合もあれば、競争を抑制すべき場合もあるのである。一概に、競争は正しいとは言えない。
だいたい、公正な競争など市場経済にあり得るのであろうか。市場で行われているのは、競争と言うよりも生存闘争である。
競争は、良くて、話し合いは悪いというのは、話し合いを前提とした民主主義体制を頭から否定していることである。
もう一つ、我々が直視しなければならない関係に、血縁関係がある。現代人は、この血縁関係を公的関係から極力排除しようとするきらいがある。しかし、血縁関係を見落とすと基本となる人間関係が見えてこないことが多々あるのである。つまり、情としての人間関係である。情もまた、排除すべき要素だと現代人は考えている。つまり、唯物的な関係のみしか認めようとしない。しかし、人間は情によって動かされる生物であることを忘れてはならない。感情は、最も人間らしい、要素でもあるのである。
血縁的、あるいは、情的関係に否定的である反面、現代人は、金の切れ目が縁の切れ目と言った言葉に象徴されるように、何でもかんでも、金銭的関係で済まそう、割り切ろうとする傾向が高い。しかし、現代社会の根底を成す関係は、金銭的関係だけに限定することは、不可能である。
人間関係を形成する関係には、少なくとも、人の関係、物の関係、金の関係の三つの関係がある。
人間関係の中には、土地や財、製造と言った物を介した物的関係と報酬や税金と言った金銭を介した金銭的関係がある。
しかし、なんと言っても、人間関係の根本は、当然、人の関係である。そして、人間関係を構成する要素には、契約や規則の様な社会的規範と親子、兄弟と言った血の繋がりによる関係とがある。
現代社会の根底を成す不文律に血縁関係の否定がある。血縁関係の否定は、人種差別や封建制度と同様に、前時代的として否定的な扱いを暗黙的に受けている。
しかし、人の関係は、血縁関係が基本である。即ち、人と人とを結び付ける直接的な関係が血縁関係だからである。故に、いくら否定してもこの人間関係をなくす事とは出来ない。
血の繋がりは、人間関係の基礎を形成する。それも現実なのである。人間の有り様というものを直截的に認識し、それを基礎として、その上で、善し悪しを、考えていくことこそ現実主義なのである。
都合が悪いことを否定したり、認めないのではなく。現実を現実としてあるがままに受け容れ、その上で、是々非々を論じるのが現実主義である。汚いことや醜いことから目を背けるのでもないが、かといって、汚いことや醜いことだけが真実だとするのも間違いである。いやな世の中だけど仕方がない。俺なんてと諦めるのは、ただ、ただ、怠慢なだけである。それを現実主義とはいわない。
血縁関係には、親子と言った縦関係と婚姻による横関係がある。これによって閨閥や親族が形成される。家族が経済の基本単位であれば、必然的にこの関係は、経済構造の基盤に存在することになる。
また、血縁関係以外に仕事場の人間関係、生活の場、地域社会の人間関係、学歴によって形成される人間関係などがあり、実際的には、これらの人間関係が経済の底辺を形作っていく。
その是非を論じる前に、現実を直視すべきである。現実を正しく認識した上でその長所弊害を論じるべきなのである。臭い物に蓋をしろ的な発想では、現実の問題に対処することは出来ない。
かつて、共産主義には、売春はないという前提によって売春を取り締まる法がなかった。しかし、現実には、売春という行為は存在したのである。しかし、法が存在しないために取り締まることが出来なかった。この様なことを科学的とは言わない。前提が間違っているのである。そして、その間違った前提は、現実を正しく認識しようと言う姿勢にかけていたからである。
現実をあるがままに認識する事とそれを容認することとは違う。現実主義というのは、先ずあるがままに対象を認識し、その上で、それをどの様に評価し、対処するかを決めようと言う思想である。最初から何等かの基準を当て嵌めることは、偏見や先入観で対象を認識している事とするのである。しかし、それは認識上の前提であり、判断上の前提ではない。
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