現実主義


現実と理想の狭間で

 現代は、神なき世、神なき時代である。

 現実主義というのは、無神論的であり、唯物論的、科学主義的であり、写実主義的であり、自然主義的であり、合理的であり、相対論的、客観主義的、個人主義的だという思い込みがある。迷信や妄信、俗信の否定だという考え方である。また、荒唐無稽な理想を否定する事だという考え方である。

 しかし、現実主義というのは、神を否定する事によって成り立っているのであろうか。神は、非現実的な存在なのであろうか。

 現代人は、宗教を理屈で捉えようとする。しかし、信仰の根本は、死に対する本能的な恐怖心、驚きである。死という場面に遭遇し、人は必死に考える。そこから、宗教や哲学、文学、そして科学が生み出された。しかし、根本は、漠然とした恐怖や驚きであり。逃れられぬ死である。そこから生命の神秘に対する畏敬心が生まれる。
 何が現実かと言えば、死という現実であろう。
 死という現実こそが根本なのである。

 近代という歴史は、宗教革命に始まるとも言える。宗教革命そのものは、決して神を否定するものではない。宗教も時間が経つに従っていろいろな夾雑物がこびりつく。その夾雑物を剥ぎ取って、神を直に感じることにより真の信仰を取り戻すべきだという運動である。

 科学や経済学もいろいろな論理によって飾り立てられ、真実が見えなくなりつつある。現実主義というのは、自分が直に見て、さわれる物を前提として物事を認識する事を言うのであり、何事も疑ってかかり、信じないと言う懐疑主義的なものを指して言う者ではない。むしろ、現実を積極的に肯定することにこそ現実主義の真骨頂がある。

 現実主義者というのは、醒めた目で社会を冷ややかに見るものと思いこんでいる。彼等から言わせると「現実というのは、汚く、醜く、不完全で、偽善に満ちている。」「悪が栄え、正直者は馬鹿を見る。」「この世に正義など行われたことはない。」「所詮、力のある者が、理不尽に他を支配しているに過ぎない。」この世に神も仏もあるものか。」と言う事になる。だから、何をしたって無駄なのだと決め付け、自分が何もしないことの言い訳にする。

 しかし、現実とは、悪い事ばかりではない。汚い人間ばかりでもない。確かに、現実と言うものは、きれい事ばかりではすまされない。汚い事、いやな事、辛い事も多くある。だから、何もしないという事にはならない。むしろ逆である。住むにくく、いやな事が多い世の中だからこそ、変革し続ける必要があるのである。

 現実を見る目というのは、現実をねじ曲げ、ひねくれてみることではない。現実を見る目というのは、透徹した目であり、洞察力である。

 現実主義者は、冷徹な達観主義者に見られる。しかし、それは偏見に過ぎない。現実主義者は、現実を直視することによって志を持ったとき、狂おしいほどに行動的になるのである。それは、熱狂である。

 現実主義の対極によく理想主義が置かれる。そこでは、理想と現実とは、背反的な概念、対立的な概念として捉えられる傾向がある。
 本当に、理想と現実とは相容れないものなのであろうか。

 現実主義というのは、目の前の世界や出来事をあるがままに認識する。美化したり、卑下したりせずに、受け容れることである。そこから、写実主義が生まれる。つまり、あるがままに写し取るという事である。
 現実に立脚して自分達の理論を組み立てる。それが大原則である。それが現実主義である。しかし、そこに落とし穴がある。
 ただ、現実をあるがままに認識すると言う事と、現実を容認すると言う事や更に現実を無条件に肯定すると言う事とは違う。その点に対する錯覚がある。
 現実とは何か。近代以前では、現実を美化する傾向があった。権力者の多くは、現実を理想化し、それを民衆に押し付け、権力者を神格化することによって統治しようと意図した。
 その反動で、写実主義とは、人間の醜さを表現する考え方だという誤解が生じた。
 現実主義者の多くが、現実とは、汚くて醜いものであり、人間は、弱い者だという観念にとらわれている。また、現実主義と相対主義や科学主義が結びつき、この世には、完全無欠な存在はないとし、無神論的な発想になる。
 そこから、奇妙な、諦観や達観が生じ、どうせこの世の中は、と言った社会や人生を斜に見る虚無感や厭世観に結びついていく。しかし、これは、現実から目を背けているのに過ぎない。真の現実主義ではない。現実主義というのは、現実を直視することを意味するのではない。
 この様な現実主義者の中には、反倫理的な思想の持ち主が多い。世の中が悪いから、どうせ、自分なんてと、現実の性にして、自分の行為を正当化しているのである。
 欲望を認識する事と、容認することとは違う。まして、欲望を肯定することとは違う。それは現実主義ではなくて、快楽主義であり、刹那主義である。
 現実を認識する事と現実を否定する事も違う。それは現実主義の対極にあるものである。

 人間は、主体的な存在である。自分から見ると他人の行動は、身勝手で、不合理で矛盾に満ちている。自分が正しいと信じて行ったことでもなかなか理解が得られない。理解されないどころか悪意にとられることすらある。
 その典型は、イエスキリストである。全人類の救済を求めたイエスは、全人類のために働いたが故に処刑されたのである。しかし、イエスは、非現実主義者だったか。イエスこそ、真の現実主義者だったのである。
 人間はエゴイストばかりではない。多くの場合、エゴイストに見えるだけなのである。人間は、悪党ばかりではない。汚いばかりではない。理解されないからと言って人生を投げ出したり、世の中の性にするのは、自分なのである。現実は、自分なのである。
 人生の目的は、自己実現である。人間の善は、基本的に自己善である。何が善であるかは、その人の立ち位置、立場によって変わる。英雄も敵国から見ると悪人である。
 現実をどの様に解釈するかは、一人一人違うのである。現実をどう受け容れるかは自分の問題なのである。

 何でもかんでも、ただ黙って受け容れ、従えばいいのだという思想は現実主義ではない。現実主義とは、対象をあるがままに認識することを意味している。
 我々の観念というものは意識が生み出しているものである。しかし、その意識は、認識の作用によって形成される。認識は、対象を相対化することによって成立している。という事は、現実というのは相対的なものにすぎないのである。
 認識した上で、その現実をどう解釈し、また、どう対処するかは、別の問題なのである。認識は、相対的なのである。絶対的なものではない。また、認識は、範囲が限られている。必然的に不完全なものである。しかも、現実をどう解釈するかは、主観的なのである。つまり、現実が不完全なのではなく。認識が不完全なのである。

 何を現実とするかは、一人一人の認識の仕方によって違う。つまり、現実とは一つではないのである。
 人間一人一人の生き様が現実なのである。

 現実をどう解釈するかは前提の問題である。つまり、その人の立場、背景(思想、宗教、民族、人種、国籍、性別、年齢、家族環境等)によって現実に対する捉え方が違ってくるからである。それは、人間の認識できる範囲に限界があるからである。また、その根拠となる現実、事実は一つでも、それを認識した瞬間に相対的な概念、情報に置き換わるからである。

 現実の中には、受け容れがたい現実もある。また、逃れられない現実もある。その際たるものが死である。しかし、人間は、死という現実を現職に受け止める必要がある。
 人類は、進化し、文明は進歩したと言うけれど、生病老死と言う現実には変わりがない。これこそが真実なのである。例え受け容れがたいとしてもその現実を直視するからこそ人間は精一杯生きようとするのである。それこそが、現実主義なのである。

 理想とは空想なのだとも言われる。空想とは、可能性の様な制約を受けない、観念的な世界や事象である。しかし、理想は空想、夢想の産物なのであろうか。仮にまた、空想の産物だとしても、なぜ、非現実的だと決め付けられるのであろうか。

 政治も経済も現実主義的なものである。経済は、生々しいものである。経済は、現実の人間の葛藤の所産である。その本質は、生存闘争、生きる為の戦いである。

 理想と現実という。理想と現実は違うとも言われる。理想というのは、完全無欠であるけれど、非現実的なものという認識がある。しかし、理想を非現実的で、完全無欠な者と決め付けているものこそ先入観や偏見に囚われているのではないのか。

 現実とは何か、それは、実現の可能性の問題である。実現することが可能であるかである。だから、理想を実現するためには、現実と折り合いを付けなければならない。理想は、現実と葛藤することによって磨かれるのである。それが政治でもある。政治や経済は、現実だから、理想を捨てても善いというのは間違いである。政治や経済は、現実だからこそ、理想や信念が必要とされるのである。

 確かに、現実は、理想どおりには行かない。だからといって観念の世界に閉じこもっていたら何の解決にもならない。現実に立ち向かっていくからこそ、夢を実現することが出来るのである。夢は、思っているだけでは夢に過ぎないのである。夢の実現のために立ち上がるのである。それが現実主義的生き方である。駄目なものは駄目なのである。何もしなければ、何も変わらないのである。現実を直視し、現実の生涯にたつ向かっていく勇気こそが、現実主義者にとって最も尊重すべき事なのである。

 事業は、事業に携わった者達の夢の結晶である。事業家達の夢が堆積して産業は築き上げられた。夢と、技と、欲が結集して産業は成り立っている。だからこそ、産業は、人と、物と、金を象徴しているのである。その夢にも、人、物、金の要素がある。技にも、人、物、金の要素がある。欲にも、人、物、金の要素がある。

 夢を夢として終わらせるのではなく。夢を実現しようと努力するところに近代の事業は成り立っているのである。それが現実主義なのである。

 事業は、志があって成り立つものである。ただ、金儲けだけを目的とした事業は、それだけで、悪である。なぜならば、金儲けだけを目的とした事業は、他人の志を妨げるだけだからである。
 事業は、人が人の為に為す業(わざ)である。故に、志は、人の心の内にある。人は、誰でも事を為すに当たって志を持つ。しかし、長い年月が志を色褪せたものにし、忘れさせてしまう。そして、事業の目的が金儲けだけになってしまう。
 金儲けが悪いのではない。志をなくし、金儲けだけが全てになってしまうから、いけないのである。志がなくなれば、自らを律する力を失う。
 志があるからこそ事業の規律が守られるのである。そして、それが現実なのである。人間の現実とは、自分の心に写し出された世界なのである。






                    


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