論理実証主義


歴史は事実か


 歴史は、事実かというと、かなり微妙な問題である。更に言えば、科学は事実かと言う事も同様である。結論から言えば、歴史も科学も事実に基づいてはいるが事実ではない。フィクションである。この点を間違えてはいけない。歴史も科学も認識の所産なのである。つまり、相対的なものである。歴史に対する認識は、かなり主観に左右される。当事者の置かれている立場や時代によってかなり違った認識になる。歴史観に至っては、むしろ、思想信条に属すると言っていい。
 科学も同様である。科学万能主義者は、科学には、全知全能の力があるように錯覚している者がいる。科学は、認識の所産であり、認識の根源は、自己である。自己は人間である。つまり、科学を全知全能の存在とすることは、科学の根源にある自己、あるいは、人間を神とすることを意味するのである。
 しかし、科学は、認識によって成立する意識の上に築かれるものであり、意識は、対象を分別した時点で相対的で不完全なものになる。つまり、科学も歴史も相対的で不完全であることを前提に成り立っている。相対的で、不完全であり意識は、全知全能にはなりえない。
 また、科学は、相対的で、不完全であるお陰で、絶対的な問題から開放されているのである。絶対的な対立は、妥協のしようがないからである。つまり、科学も、歴史観も、妥協の産物だから共通認識に立てるのである。それ故に、常に検証し続ける必要があるのである。

 過去、現在、未来で一番不確かなものは何かと言われたら、過去だとも言える。
 なぜならば、過去は検証のしようがないからである。歴史を不変的真理だとするのは、間違いである。と言うよりも、重大な錯誤である。それが前提である。
歴史が、科学になりきれないのは、前提条件の曖昧さや独善によってである。
いきなり、前提を所与の命題として決めてかかる。
科学にとって一番この前提の立証が問題なのにですね。

 前提が違えば、前提以降の論証がいかに正しくても偽になる。それが、科学における大原則である。

 歴史ほど不確実なものはない。
 アメリカ大陸を発見したのは、コロンブスである。これは、そのままでは、事実ではない。
 第一に、これは、認識の問題である。
 第二に、これは、意味の問題である。
 第三に、これは、事象の問題である。
 第四に、これは、記録の問題である。
 第五に、これは、合意、了解の問題である。
 第六に、これは前提であり、前提条件である。
 そして、これは仮説に過ぎない。
 この一つ検証して始めて、認定されるべき問題です。
 この手続を無視したところに科学は成り立たない。
 今の日本の知識人の多くは、故意に、無意識かは別にして、この手続を無視して、高い合意を前提にして論理を組み立てる。そして、その合意を了承しないものを感情的に非難し、否定する。今の自称、日本の知識人の常套手段である。

 歴史は、時間の経過と伴に事実は不確かなものとなり、象徴的なものに置き換わっていく。それは、歴史の宿命でもある。問題なのは、対象、つまり、歴史の側にあるのではなく。歴史を認識する側にあるのである。歴史を絶対視するのではなく。歴史をいろいろな角度から検証し、それを現在の自分達の生活に結び付けることが大事なのである。

 当然、同様なことは、科学にも言えることである。歴史も科学も自分の意識の中に現実を写像した観念であることを忘れてはならない。

 だから歴史を軽視しろと言うのではない。むしろ、逆である。現在は、過去の延長線上にある。未来は、過去と現在の延長線上にある。歴史を検証することは、未来を予測し、また、展望を持つために不可欠なことである。歴史を未来に向かって活用するためには、歴史に対する自己の、そして、人間の限界をよく熟知する必要があるのである。それは、科学にも言える。歴史や科学を絶対視するのではなく。絶えず、検証し続けることが大切なのである。

 それこそが古きを温めて新しきを知るである。

 日本人は、一度こうだと決めてしまうとそれをあたかも自明な前提だと思い込んでしまう傾向がある。しかも、それを世間一般の常識だと敷延化する。事実だと言われると疑ろうともしなくなる。そして、それを不変的真理の様にしてしまう。

 特に、歴史的事実と言われると弱い。歴史的事実というのは、絶対不変の真実であるかのように錯覚する。それが、何等かの権威によって裏付けられ、学校の教科書に載ったりすると事実以上の事実になる。動かしがたい真実になる。なぜならば、試験に出るからである。学校の試験に出ることに間違いはないとしているのである。この様な考え方は、取りようによっては、哀れですらある。

 歴史的事実と歴史的認識は違う。認識というのは、主観的なものであり、相対的なものである。一つの事件でもその人立場や思想によって認識の仕方は違ってくる。歴史とはそういうものなのである。

 一例を上げれば侵略の問題である。侵略されたというのは、侵略された側の認識なのである。多くの場合、侵略した側に侵略したという意識はないものである。国際社会が成立した今日、大義名分がなければ他国を攻撃するなんて簡単には出来ない。だから、侵略したと言われた側は、侵略ではなく。開放だという口実を用いるのが常套手段である。しかし、侵略か、開放化は、立場の違い、認識の仕方の違いなのである。

 立場や考え方の相違によって認識に違いが出るのであるから、重要なのは、前提である。何を前提としているかが重要なのである。歴史的認識というのは、その上で成り立っている。歴史というのは、確かに事実に基づいている。しかし、その認識によって全く違った捉え方がされるのである。そして、認識の違いによって時には事実がねじ曲げられてしまうことさえあるのである。だから、歴史の問題は、事実の問題と認識の問題とを区分して考える必要がある。何が事実であり、それをどの様に認識したかである。そして、歴史的な事実といえるのは、究極的には物しかない。記録は、既に認識の範疇にはいるからである。

 歴史を探求するというのは、犯罪捜査に共通している。物証、動機、目撃者や記録、それから状況などから推理する事なのである。それでも推理の域をでない。確実なのは、物的証拠ぐらいしかないのである。

 歴史書は誰が書いたかによって違ってくる。歴史は、書き手によって違ってくるものだというのは、大前提である。中国の歴史でも、それが正史であるか、否かで捉え方がぢがってくる。歴史観は、世界観によっても違うのである。唯物史観と、皇国史観は、明らかに違う。唯物史観から見れば皇国史観は、とんでもない歴史であるだろうし、皇国史観から見れば唯物史観は、許し難い思想であろう。つまり、歴史観というのは、思想信条に属すものなのである。

 政治や経済問題も同様である。日本人は、戦後、民主主義は、絶対的な制度のように思い込んでいる。極端な話し、民主主義でない国は、遅れている。野蛮な国だと決め付けている。そして、治安も悪いと思い込んでいる。しかし、その前提である民主主義については、曖昧であり、極端な話し何も知らない。つまり、戦後の日本人にとって所与の事実であり、考えるまでもない前提なのである。その前提の上に日本国憲法が成立している。だから、日本国憲法を読んだこともない日本人は沢山いる。なぜならば、それは教典のような書物であるからである。

 民主主義は万能ではない。民主主義を絶対不可侵の制度だとするのは、普遍主義や普遍帝国主義に変質する危険性がある。先ず自分が何によって立っているのかを明らかにしていく過程こそが重要なのである。

 主権在民と言っても何が主権で、何が国民か、つまり、日本人しは何かを多くの人は、理解していない。大体、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、極めて曖昧な概念で明確な定義が出来ないとすらしているのである。主権という概念は、最初から極めて曖昧なのである。だから、主権を多くの人は理解しようがない。各々勝手に解釈するしかないのである。
 理解してない癖に、それを大前提として国策を論じている。だから議論がかみ合わないのである。各々が、各々の前提で話をしているからである。
 日本人という定義に至っては、ますます曖昧である。本来は、法的な定義に基づくべきなのであろうが、その様な議論上のルールも確立されていない。それで、日本民族は単一民族か否かを論じてもかみ合うはずがない。前提がハッキリしないのである。

 経済も然りである。自由貿易がいいとなるとそれが自明な真理のようになってしまう。そして、保護主義的な政策は絶対に駄目と決め付ける。競争の原理がいいとなると、何でもかんでも競争をさせればいいとなる。規制を緩和しろとなると規制は悪だになる。財政赤字は悪いといわれても、財政赤字のどこが悪いのかを確認しようともしない。これでは事実を検証しようがない。

 経済現象は、歴史の所産でもある。つまり、時間の経緯、過去の経緯が前提としてある。
 しかし、多くの経済学者はこの歴史的認識を無視するか、軽視する。そして、あたかも経済は、歴史的な経緯なしに成立している現象だとしている。それが科学的経済学だと決め付けている。しかし、経済は、歴史そのものである。経済が歴史を作るのではなく。歴史が経済を作るのである。つまり、経済制度の基礎の部分は、歴史的経緯によって構築されているのである。問題は、歴史をどう認識するかの問題である。そして、それは思想的問題なのである。

 根本は、歴史から、何を、どの様にして学ぶかである。先ず、何を前提としているのかを明らかにすべきなのである。

 経済は、架空の出来事ではない。経済現象の生々しい生業の結果である。その背後には、ドロドロとした人間の欲望が渦巻いている。
 経済現象は、自然現象とは違う。歴史的所産である。自然科学と同じように考えるのは愚かである。なぜならば、経済に関わる者は全て、当事者でもあるからである。自分だけが客観的な立場に立つわけにはいかないからである。
 その意味で、経済は、戦略であり、政略であり、経略であり、謀略の結果でもある。そして、経済の根源には人間の剥き出しの欲望があるからである。それがいかに醜いことだとしても、その現実から目を背けたら、経済を理解することは出来ない。

 戦争は、国家間の武力衝突である。戦争には、戦争に至る原因、理由がある。その原因、理由の多くが経済問題である。
 国家が生存していく上で必要な物資、権力者が欲する物があるから侵略するのである。大義名分だけで国民の命を犠牲にしたりはしない。ただ、戦うためには、大義名分が必要なのである。
 これは厳然たる事実だ。経済は、人間の、特に、権力者の生臭い欲望に直結している。その事実に目を瞑って経済を語ったところで意味はない。マネタリストも、ケインジアンも、経済の裏に潜む薄暗いところに光を当てずに、経済を語ったところで、経済はよくならない。経済的出来事は、神の為せる業ではなく、人間の所業なのである。神に責任を求めるのは愚かなことである。

 最後に、神の問題がある。

 戦後の日本人の多くは、神を知らない。日本人の多くは、神とは、何等かの冠婚葬祭でしか関わりがない。最近は、その冠婚葬祭ですら怪しくなってきた。人前結婚式として結婚式から、知らず知らずのうちに神が排除されつつある。そして、多くの日本の若者は、それを近代的だと錯覚している。
 今の日本人にとってクリスマスやハローウィンは、宗教的儀式ではない。冬のイベントの一つに過ぎない。もっと有り体に言えば、デートの口実ぐらいでしかない。だから、キリスト教を信じるか否かは、あまり重要ではない。尚更、神の存在など聞くのは野暮な話である。
 結婚式も人前結婚式などという以前は、結構教会で結婚式を挙げるのが流行った。結婚式場やホテルの多くは、教会と神社を敷地内に建てている。有名人の多くが、教会で結婚式を挙げて話題になった。中には、海外の教会まで出かけて結婚してカップルもいる。
 しかし、教会で結婚するのはキリスト教を信じるからではなくてファッションでしかない。だから、結婚式のためにキリスト教に入信したのである。それも結婚式の時だけである。神前結婚式は、まだしも仏前結婚式は、お洒落じゃあないからと敬遠されるのである。

 神の存在を事実として受け容れるか。それは、その人が、最後に、選択する問題である。日本の諺に、困った時の神頼みというのがあるが、神の存在を事実と受け容れていない者は、神に頼りようがないのである。





                    


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