場の理念
市場(取引の場・交換の場)
B 利益は、差によって生み出される
利益は、差によって生み出される。
利益を生み出し差には、空間的な差、時間的な差がある。空間的な差は、通貨圏や国家間、地域間における為替の水準や物価水準、所得水準、生活水準などに依って生じる差である。時間的な差というのは、時間の経過によって生じる差である。
入りと出の点の場所や時間、価格、通貨の差が損益を生み出していると言える。入りと出と言うからには、何に対する入りと出なのかである。それは、経営主体や家計主体、財政主体であるといった経済主体である。また、その他には通貨圏などの特定の閉鎖された空間がある。その主体や空間にとって経済的価値は入りと出が決まるのである。
かつては、地理的な差が、利益に重要な役割を果たしてきた。典型的なのは、三角貿易である。英国から工業製品を積み込み、それを北米に持っていって農産物や魚に代え、西インドに持っていって砂糖や糖蜜に代えると言った貿易である。(「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」)
今日では、為替によって生じる通貨の価値の差や時間的な差がこの差に加わっている。
金利や利益、地代、家賃と言った付加価値は、時間が生み出す価値である。それを時間価値という。金利や利益は、時間によって増加した貨幣価値であり、増加した分だけ余剰の貨幣価値を必要とする。その余剰の価値は、空間的差、時間的差によって清算される。即ち、差が解消されると清算することが出来なくなる。即ち、利益や金利を必要とした時点で、市場は、常に、空間的、時間的な差を前提としなければならない。それに対し、市場の圧力は、常にこの差を解消する方向に働く。利益や金利を生み出そうとする力と、利益や金利を生み出す差を解消しようとする市場の力を、調整するのが市場の仕組みである。
成長段階から成熟期に移行する段階の市場は、実質的な資金需要が減退する。つまり、投資対効果の効率が減退する。投資したほどに収益が上がらなくなるのである。
金融側から見ると貸付金の回収段階にはいる。そうなると市場の拡大速度が遅くなり、やがては、成長の限界に達する。市場取引は、通貨の流量の制約を受けるために、実物市場に流通する通貨の量が減少する。通貨の量の減少は、実物市場の市場取引に制約を加える。つまり、負荷となる。
それによって、実物市場において時間的価値が負に作用しはじめる。その結果、企業収益が圧迫を受け、時間的価値である利益が減少に転じる。それが成熟市場である。
時間価値が負に作用した時、信用収縮が生じる。
負債というのは、資金調達の有力な手段であることを念頭に置いておく必要がある。資金の調達というのは、信用の創出を意味する。借金の原点は、資金調達なのである。つまり、資金、現金を調達したから、得たから支払義務、返済義務が生じたのである。そのことを忘れてはならない。
取引の一面しか見ない傾向が、一般にはある。しかし、経済取引は一面だけでは捉えきれない。売ると言うことも買うという取引の表裏を為す行為である様に、貸借関係にも、借りると言う事は、貸すという行為の表裏を為す行為、取引であると言う二面性がある。つまり、取引には、必ず、同量の反対取引が存在する。債務には、同量の債権が生じる。
これを取引の作用反作用という。銀行が融資を実行すると言う事は、借りる側に債務と現金収入が生じると、同時に、貸した側に債権と現金支出が生じると言う事を意味する。そして、その元は、金融が預金者から資金を借りること中央銀行から融資を受けることなのである。
借金というのは、反対給付のない一方通行的な行為ではない。借りたから返さなければならないのである。逆に言えば、借りなければ、返す義務は生じないのである。借りてもいない物を返すと言う行為は、返済ではなく、強奪である。
もう一つ、借りたから、信用取引が生じるのである。売掛金も買掛金も、受取手形や支払手形も信用によって成り立っている信用取引の一種である。この信用取引が、貨幣制度の前提となる。貸借関係がなければ、現在の貨幣制度は成り立たないのである。
国債の問題を考える時これを忘れてはならない。貨幣制度の根本は、融資、即ち、借入にあるのである。信用収縮というのは、この貸借関係が収縮することによって始まる。借入を行ったから、信用関係が生じたという事である。
そして、返済が始まった瞬間から信用収縮は始まると言うことである。この事は、貸借関係というのは、貸し手だけでは成り立たず。借り手だけでも成り立たないという事である。優良な債務は、優良な貸し手があって成り立っているという事である。貸し手の論理ばかりが先行すると本来の信用制度は確立されない。
金融不安の根本には、金融機関が優良な貸し手を見いだせなくなったことある事を見落としてはならない。
もう一つ、覚えてなく必要があるのは、現金勘定というのは、支払準備を意味するという事である。支払を準備するために、現金預金が必要とされる。
融資と言っても現実に現金のやりとりが行われる取引は少ない。多くは、帳簿上で行われ、実際には、金融機関内部での取引に置き換えられる。
金融機関からの借入金と支払に充てた現金とが全く同じだと仮定した場合、金融機関が現金を支払って購入し、借り手側が使用料を支払っているという解釈も成り立つ。ただ、その場合、最終的所有権の問題が発生するが最終的に資産の所有権も移転するとなると、実体は、融資と変わりない。その実例が、ファイナンスリースである。
この事は、借金、即ち、貨幣の働きの持つ一面を現れているとも言える。つまり、貨幣というのは、信用で成り立っていて、実際に現金という物を介さなくても成り立つのである。つまり、貨幣制度の根本は、現物の貨幣というより貨幣が生み出す信用制度だと言う事である。そして、通貨量の前提となる信用の規模というのは、負債によって成り立っているのである。
急速な信用収縮は、金融機関の貸付金の毀損が原因となり、これは、借り手側の債務の毀損より生じる。借り手側の債務の毀損とは、貸し手が担保としている債権の毀損である。この事は、金融機関の債権の毀損を意味する。金融機関の債権を圧縮しても、金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の持つ債権を健全化したことにはならない。つまり、何等かの形で金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の経営は健全化されないことを意味している。必然的に、預金の価値を圧縮することも含まれる事を意味するのである。
空間も、時間も均衡した状態が安定した状態である。故に、空間的差も、時間的差も解消される方向に圧力がかかる。エントロピーの増大である。定常状態に市場が近づくと金利は、低下する方向に向く。
日本は、現在、歴史的な低金利が持続的に続いている。低金利と言うよりも、ゼロ金利、マイナス金利と言ってもいい。つまり、時間的価値が消滅した状態が続いていることを意味する。
宗教的倫理観の多くが、金利を悪と見なすが、それを意図したわけではなく。市場が欲しているのである。
これが一体何を意味するのか。また、長期にわたってゼロ金利が続くことによってどの様な状態になるのかをよく見極める必要がある。
市場は、時間価値が喪失した状態を放置すると、市場取引の総和は、ゼロに収束する。
取引は、それが成立した時点では、均衡している。それが複式簿記の原則であり、複式簿記を土台とした会計制度の基本である。
時点時点で取引が均衡しているのであるから、放置すれば、市場は、定常的状態に陥る。利益は、変化や差がもたらすのであるから、定常的状態とは、利益がないである。
市場の均衡を避けるためには、人為的に格差を付けるしかない。それが規制であり、市場の仕組みである。
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