構     造

財政と経済政策


 経済政策の鍵を握るのは、財政である。
 財政というのは、本来、合目的的な構造を持つ。今日の財政の問題は、財政が手段と化している事である。公共事業の目的が問題なのではなく。公共事業をすることが目的と化している。借金をする目的が問題なのではなく。借金をすることが目的と化している。その為に、財政本来の目的が見失われ、本来の機能が発揮できないでいるのである。

 では、財政本来の目的とは何か。それは、国家建設と国家運営にある。国家建設や国家運営に必要な資金をどの様に調達し、どの様に活用するかにある。故に、財政の目的の根源は、国家理念であり、憲法によって規定されるべき理念である。

 言い換えると憲法によって確立された理念に基づいて国家を建設するための手段として財政は、位置付けられるのである。
 故に、財政は、合目的的でなければならないのである。

 現在、国家財政は、破綻の危機にあると言われる。実際に破綻の危機にあるのか。また、何に照らして破綻の危機にあると判断されるのか、その基準は、現在市場経済の原則にある。

 現在の市場経済は、会計の文法、文脈によって成り立っている。それに対し、財政は、違う基準によって成り立っている。財政赤字の代表される。財政の問題点は、この会計の文脈と財政の基準の違いに起因している。
 
 財政と会計制度を基盤として市場経済との違いは、財政と市場との連続性が保てなくなっている。その結果、財政赤字の本質が理解されていないのである。

 故に、市場経済を基盤としている国家では、財政と、会計の違いには、どの様なことがあるのか。それを明らかにする必要がある。

 財政を考える時は、収入と支出両面から考える必要がある。
 国家収入には、第一に、税収。第二に、借入。第三に、事業収入。第四に、資産運用益。第五に、通貨発行益がある。
 支出面とは、使い道を考えることである。

 財政は、第一に、期間収支を基本としている。それに対して、会計は、期間損益を基本としている。第二に、現金主義である。それに対して、会計は、実現主義である。第三に、予算主義である。会計は、実績主義である。実績主義とは結果主義である。予算主義は、言い換えると先決主義である。先決的な体制が維持できる前提は、全ての事象が予見できる事である。つまり、あらゆる生産と消費、収入と支出が予測可能で、予め設定できなければならない。それに対して、会計は、全てを予見することは、不可能であり、それ故に、状況に合わせて適時、各々の権限によって決断できる仕組みを前提とするのである。だからこそ、モラルハザードが問題になるのである。
 多くの人は、財政の破綻の原因は、官僚の横暴さにあるように言う。しかし、私は逆だと思う。あまりにも、官僚は権限を与えられていない。予算が決められたら、その範囲でしか判断が下せない。その為に、官僚制度が硬直化しているのである。むしろ、大幅に官僚に権限を与え、その代わりに責任を明確にした方が財政は健全化できる。
 これらの財政に対する現在の原則が今日の財政問題の元凶である。
 特に、財政の原則と会計の基準との相違は、決定的な要因の一つである。

 財政には、第一に、資本という概念がなく、経済主体の所有権と経営権が未分離だと言う事である。これは、主権者と政府との関係が未分離であることを意味する。
 第二に、期間損益ではなく、期間収支である。故に、利益という概念がなく、残高が基準となる。基本は、一定期間における現金収入と現金支出の残高である。
 利益は、情報であり、現金は現実である。問題なのは、利益が示す情報の意味であり、現金が表す現実である。情報の意味は、即ち、情報を成り立たせている観念、思想である。それがあって現実は意味を持つ。
 第三に、現金収支という観点から、財政は、長期均衡ではなく、単年度均衡を基本としているという事である。その為に、減価償却という概念がない。また、財政には、費用の繰延という思想がもてない。会計は、継続を旨として長期均衡主義の立場にある。故に、償却という概念と費用の繰延という思想が成り立つ。単年度均衡に基づく制度は、時間価値が成立しにくい仕組みなのである。
 第四に、複式簿記ではなく、単式簿記を基盤としている。単式簿記というのは、現金主義であることを意味している。現金主義というのは、現金取引を基礎とした思想である。現金取引は、取り引きの軌跡だけを示しているのであり、取り引きの内容、構造まで明らかにしているわけではない。つまり、現金によって明らかにされるのは、資金の動きである。資金の動きとは、その時点、時点で実現した貨幣価値の軌跡である。
 現金主義では、貨幣価値の実現は表現できても取り引きの内容までは理解できない。また、取り引きの背後にある貨幣価値も捕捉できない。ただ、貨幣価値の過不足だけによって取り引きを認識せざるをえないのである。
 第五に、資産、負債、資本、収益、費用、資本の区分がない。基本的には、財政で重要なのは、現金残高だけである。つまり、財政では、負債と資産、収益と費用の因果関係が確立されていない。

 もう一つ重要なのは、自由主義経済の前提は、貨幣経済主義だという点である。注意しなければならないのは、貨幣には、実物貨幣と表象貨幣があるという点である。そして、自由経済における貨幣とは、表象貨幣を意味する。
 実物貨幣と表象貨幣とでは本質が違う。実物貨幣は、貨幣その物が価値を持つが、表象貨幣は、貨幣価値を指し示す表象にすぎない。
 そして、表象貨幣の源は、借金なのである。
 表象貨幣は、決済する事を前提として成り立っている。決済とは、同量の貨幣価値を実現する事によって債権債務関係を解消し、それをもって取り引きを完結させる行為を意味する。その前提は、債務と債務を保障する者の存在を前提とする。つまり、表象貨幣というのは、貨幣価値を何者かが保証することを前提としているのである。国民国家では、貨幣価値を保証する者は、国家であり。国家が、貨幣価値と支払を保証するという点において表象貨幣は、国家の債務でもあるのである。

 財政の問題を論じる時、近年は、常に、赤字問題でしかない。赤字を論じる場合でも、いかに赤字が多いか、あるいは、いかにして赤字をなくすかの問題が主であり、なぜ、赤字か生じるのか。財政赤字とは何かについて論じられることがあまりない。

 財政赤字が深刻だから財政再建は、喫緊の問題だと内外、政府、メディアが大騒ぎをしている。しかし、ではなぜ、財政赤字は問題なのかと改めて問い直すと、赤字だから悪いと言った類の解答しかない場合が多い。要するに解っていないのである。

 財政赤字の議論は、財政は、赤字だから悪いのであって、それ以上でも、それ以下でもない。しかし、本来は、財政の在り方である。健全な財政とはいかなる物なのかの問題なのである。その上で、財政赤字がどの様な影響をもたらすかが問題なのである。

 その意味では国債の活用が重要になる。
 国債というのは、国の借金を意味すると見なされている。しかし、国債を所謂(いわゆる)個人の借金と同一視するのはおかしい。

 国の借金、国の借金と言うが、国債の働きを、ただ、国の借金としてしか捉えられないとしたら、それは間違いである。
 国債を負の作用だけで見るべきではない。国債には、信用を創出するという作用や資金を調達するという働きがある。更に、通貨を発行するための根源でもある。
 つまり、国債は、通貨を制御するための重要な手段ともなるのである。問題は、国債を発行する際の財政規律である。国債が悪いのではなく。国債を無原則に発行することが悪いのである。
 国債は、財政破綻の補填という機能よりも通貨の制御するための手段と言う事の働きの方が重要なのである。問題なのは、財政が国債本来の機能を阻害することである。財政の規律があって国債は正常に機能する。故に、財政の赤字が問題なのではなく。財政の赤字によって国債が本来の機能を発揮できなくなり、経済が混乱することなのである。

 また、財政赤字問題では、財政赤字の背景も重要となる。そして、財政の背景となる仕組み、構造を明らかにするためには、複式簿記に基礎を置いた会計制度に依る必要があるのである。
 民間企業と財政とは、経済的価値の基準が違うのである。故に、赤字と一口に言っても赤字の持つ意味が違うのである。
 家計が赤字だと言っても大地主や資産家の家計と所得だけで生計を立てている家計とでは赤字の意味が違う。
 赤字だと言っても財産や蓄えが豊富にあれば、収支が合わなければいつか蓄えを食い潰してしまうと言うだけで、すぐに破綻するというわけではない。
 相続税対策のために、年収の何十倍もの借金を故意にする者すらいるのである。

 赤字国債というものをどう考えるかによる。確かに、借金は、返済することが原則である。しかし、国債を家庭や企業の借金と同列に考えるのは、おかしい。国債には、信用の創出と紙幣の発行の動機と言う事がある。むしろ、財政の延長線上でのみ国債を考えることの方が問題なのである。
 それに、借金があまりに巨額になると返済しきれなくなる。公債の歴史は、この財政赤字をどうするか、そして、返しきれなくなった公債をどうするのかの歴史だと言って良い。これは、税の有り様にも重大な影響を与えてきた。
 公債を返せなくなった時、どうするのかというと。一つは、返さなくていいいものに置き換えるという手段をとると言うことである。第二に、貨幣価値を下げる。第三に、借金そのものの価値を下げる。第四に、債務不履行である。第五に、凍結してしまう。第六に、体制を根本から変えてしまう。
 第一の返さなくていい物に置き換えると言った場合、返さなくていい物とは何かであるが、それは、第一は、紙幣、証券である。第二は、資本である。つまり、株である。第三に、税である。第四に資産である。第五に、負債、借金の付け替えである。第六に、預金、貯金に替えてしまう。
 実は、この六つは、資本主義経済の黎明期に行われた事なのである。そして、バブル現象を引き起こしている。
 借金を構成する要素は、第一に、元本。つまり、借金そのものの本体であり。第二に、金利。これは、時間経過から生じる価値。第三に時間。第四に貸し手。第五に借り手。そして、第六に担保。第七に、返済方法です。借金を解決する手段はこの七つの要素の中に隠されている。
 公債の歴史というのは、ただ返却すればいいと言うのではなくて、返せなくなったらどうするのかと言うところからはじまっているんである。それが、議会を生み、戦争や革命を引き起こしている。
 そして、それが結果的に近代の貨幣制度の在り方を変革してきたとも言える。つまり、国債を考えることは、貨幣制度を考えることに繋がるのである。ただ、借金をどう返すかの問題だけで終わるわけではない。

 ただ、払いきれない借金は、踏み倒してしまえばいいと考えられたら困る。やむおえないから、また、財政の赤字や国債が貨幣の正常な働きを疎外するようになるから、窮余の策として考えられたのである。財政の赤字や国債の大量発行には、必ずと言っていいほど戦争や濫費が絡んでいる。これらは明らかに人災なのである。問題は、財政の規律にある。財政の規律が保たれなくなると貨幣の信認も失われるのである。

 最初に景気対策、公共事業ありきで赤字国債を垂れ流しすべきではない。同様に、財政再建が全てに優先され国際に対する柔軟性が失われるのも困りものである。
 大切なのは、国家百年の計である。
 公共事業こそ、巨額の資金と長期の時間を必要としている。故に、単年度、単年度で事業を捉えようとすれば、事業として均衡するのは難しい。
 景気対策は、資金が巨額な上、長期間、人手を必要とする事業だからこそ、調整することができるのである。それは、事業計画に沿って為されるべき施策であることを忘れてはならない。

 借金というとすぐに返すことばかりを思い浮かべる。借金は、返さなければならないと言う、それが圧迫感や威圧感を生む。しかし、貸す側から見て返して欲しくない借金もある。
 その意味では、貸付金や借入金のことを考える上で、預金の事を考えるといい。
 預金は、典型的、借入金であり、貸付金である。預金というのは、預金者が金融機関に資金を貸し付けることである。しかし、預金者のほとんどは、自分が金融機関に貸し付けている。つまり、融資しているという自覚はないと思われる。預金者は、預金という言葉から見ても解るように、お金を預けているという感覚である。
 預金は、貯金、貯蓄と言う意味合いが強いのである。それは、資金を貯めている(プール)していることを意味している。
 しかし、現実には、預金は、金融機関への融資なのである。預金の数だけ貸付金の種類があるといえるのである。だから、借金のことを考える場合、預金を考える事は、いろいろと含蓄があるのである。

 我々は、取引の一面しか見ない傾向がある。借りると言う事は、貸すという行為の表裏を為す行為、取引である。売ると言うことも買うという取引の表裏を為す行為である。つまり、取引には、必ず、同量の反対取引が存在する。債務には、同量の債権が生じる。これを取引の作用反作用という。銀行が融資を実行すると言う事は、借りる側に債務と現金収入が生じると、同時に、貸した側に債権と現金支出が生じると言う事を意味する。そして、その元は、金融が預金者から資金を借りること中央銀行から融資を受けることなのである。
 借金というのは、反対給付のない一方通行的な行為ではない。借りたから返さなければならないのである。逆に言えば、借りなければ、返す義務は生じないのである。借りてもいない物を返すと言う行為は、返済ではなく、強奪である。
 もう一つ、借りたから、信用取引が生じるのである。売掛金も買掛金も信用によって成り立っている信用取引である。この信用取引が、貨幣制度の前提となる。貸借関係がなければ、現在の貨幣制度は成り立たないのである。
 国債の問題を考える時これを忘れてはならない。貨幣制度の根本は、融資、即ち、借入にあるのである。信用収縮というのは、この貸借関係が収縮することによって始まる。
 借金の原点は、資金調達なのである。つまり、資金、現金を調達したから、得たから支払義務、返済義務が生じたのである。そのことを忘れてはならない。
 もう一つ、借入を行ったから、信用関係が生じたという事である。
 
 返済とは、融資と関係から捉えるべきなのである。それは、元本の返済と利払いの違いにも表れる。会計的に見て元本と金利は、本質が違う。故に、会計上の処理の仕方も違てくる。
 高利貸しは、借りる時は、仏に見え、返す時は、鬼に見えるとも言われる。先ず、金を借りる必要があるから、返す責任が派生するのである。
 もう一つ重要なのは、借入を立てた時、金融側から見ると貸し付けた時、つまり、融資が実現したときに一番、信用の度合いが強い時、信用枠が大きい時である。そして、回収、即ち、返済が始まるとその信用枠は、収縮していくのである。

 貸す側は、借金を返されると信用枠が収縮するのである。逆に言うと貸付金によって信用枠は拡大する。つまり、金融機関は、金を借りてもらわないとなりたたない。また、金を借りてもらわないと、信用量、即ち、紙幣の裏付けも拡大しないのである。

 住宅ローンが典型である。住宅ローンは、住宅ローンが設定されたが、一番、与信枠が拡大した時である。そして、非償却資産である土地の価格が上昇している時は、元本の保証は、土地の価格によって為されるのである。そうなると、金融機関は、金利さえ、確実に払ってもらえるのならば、借金を返してもらうことよりも、借金をしつづけていてもらう方が得なのである。それがサブプライム問題の背景にある。これが現代の経済の根幹にある原理である。この点を理解してないと、今の金融危機や財政の本質が見えてこない。
 国債も返されては困る部分があるのである。

 預金をされて困ることもある。つまり、貸付金が減り預貸率が下がると金融機関は、借入の負担が高まるのである。つまり、むやみやたらに預金を集めるという行為は、むやみやたらに借金をする行為なのである。しかも、高利で預金を集めるという行為は、高利貸しから借金をすることと変わりないのである。
 
 もう一つ、覚えてなく必要があるのは、現金勘定というのは、支払準備を意味するという事である。支払を準備するために、現金預金が必要とされる。
 融資と言っても現実に現金のやりとりが行われる取引は少ない。多くは、帳簿上で行われ、実際には、金融機関内部での取引に置き換えられる。

 金融機関からの借入金と支払に充てた現金とが全く同じだと仮定した場合、金融機関が現金を支払って購入し、借り手側が使用料を支払っているという解釈も成り立つ。ただ、その場合、最終的所有権の問題が発生するが最終的に資産の所有権も移転するとなると、実体は、融資と変わりない。その実例が、ファイナンスリースである。
 この事は、借金、即ち、貨幣の働きの持つ一面を現れているとも言える。つまり、貨幣というのは、信用で成り立っていて、実際に現金という物を介さなくても成り立つのである。そして、貨幣経済の根底となる信用の規模というのは、負債によって成り立っているのである。

 急速な信用収縮は、金融機関の貸付金の毀損が原因となり、これは、借り手側の債務の毀損より生じる。借り手側の債務の毀損とは、貸し手が担保としている債権の毀損である。この事は、金融機関の債権の毀損を意味する。金融機関の債権を圧縮しても、金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の持つ債権を健全化したことにはならない。つまり、何等かの形で金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の経営は健全化されないことを意味している。必然的に、預金の価値を圧縮することも含まれる事を意味するのである。

 負債とは、負の債権というニュアンスからマイナスのイメージを持たれやすい。しかし、信用制度の基盤は、信用を担保とする負債であることを忘れてはならない。

 借金というのは、決して、社会、国家に対して負の作用だけをしているわけではない。負債には、第一に、資金を貯めておく、貯蔵しておくという働きがある。第二に、信用を生み出し、貨幣の裏付けをするという働きがある。第三に、支払を準備するという働きがある。また、決済という機能もある。
 この様な点を考えると、元本の保証である債権が急速に収縮したからと言って不良債権の回収を急ぐと急激な信用の収縮が起こり、信用制度を根本から瓦解させてしまう危険性があるといえる。
 むしろ、借金があるから、市場は成り立っているのだとも言える。国債は、通貨の量を決定付ける重要な要素なのである。表象貨幣の根源には、国債があるとも言えるのである。故に、国債は、残高水準が重要なのである。

 国債は、担保する基となるの物が、国家の信用なのである。そして、それが信用制度の基盤の本質である。

 経済の問題は、最終的には、金、即ち、貨幣価値に還元されるが、本質は金の問題ではない。経済の問題は、誰が、何を、どの様に負担するかでの問題であって、それに必要な資金をどうするかの問題なのである。
 高齢者や未成年者、病人を誰が、どの様に世話をするかの問題があって、それを具現化するのが財政である。
 例えば、年金の問題の根本は、誰が、高齢者の面倒を見るかであり、その為に、どの様な仕組み、年金制度が適切かの問題なのである。最初に、年金制度ありきではない。
 財政の問題は、経済の問題である。それは、自分の国をどの様な国にするのかの問題なのである。




                    


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