貨幣経済

貨幣経済

 貨幣経済も市場経済も物が売れないと成り立たない経済社会である。自給自足社会では、物が売れなくても生活は出来た。つまり、何等かの財を得らなければならないと言うのは、生活を成立させるための絶対的前提でしなかったのである。何かを売って貨幣所得を得るというのは、あくまでも補助的手段に過ぎない。しかし、今日の社会においては、何かの財を売って所得を得ることは、生活を成り立たせる為の大前提となる。
 つまり、貨幣経済は、市場取引を前提としている。市場価値は、貨幣価値であり、市場において貨幣価値は、取引によって顕在化する。
 また、現代人が生きていく為には、貨幣所得は大前提である。そして、貨幣価値に、更に、時間的価値が加わったのである。

 昔は、程々の資産が在れば一生食べていけた。
 しかし。現代ではなかなかそううまくはいかない。それは、経済的価値に時間的価値が加わったからである。
 近代貨幣経済が確立される以前は、一定の所得があれば生活していくのに困らなかった。それは、商売をしていく上での前提でもあった。しかし、現代では、この前提は成り立たない。物価が上昇するだけの所得を常に付け足していかなければならない。その為に、小商いの店は淘汰されてしまう運命にあるのである。
 現在の経済体制は、一定の水準に社会も、家計も、企業も、保つと言う事が困難な時代であることを前提としなければならない。つまり、一定ではなく、変動を前提とした経済体制なのである。それが経済の名目と実質との基準の違いを生み出している。名目は、一定を前提に、実質は変化を前提として成り立つ基準なのである。そして、経済の実態は、実質的水準にあるのである。
 故に、人を雇えば、年々、給料を上げて行かざるを得ないのである。つまり、市場の変化に企業内部を合わせていかなければならないのである。しかも、これらの上昇分は、複利である。

 市場経済を構成する要素は、負債、資本、収益である。この市場経済を構成する要素の基本的構造は、内にあって、固くて、基になる部分と、外にあって、柔軟、変動的で、附加された部分の二つの部分から構成されている。
 負債は、金利と元本、資本は、資本と配当、収益は、費用と利益の二つの部分からなるのである。
 また、費用も、短期的に分析すると同様に内にあって固くて基になる部分と外にあって変動的な部分に区分される。
 内にあるとは。内に所属することを意味し、外にあるとは、外に所属することを意味する。固いというのは、一定という意味でもあり、変動というのは、可変的という意味でもある。
 この一定と可変的という構造が経済に重大な働きをしている。

 この変動的部分、可変的な部分は、附加された価値から成る。付加される価値というのは、時間的な価値であり、尚かつ、外部にあって附加される価値である。
 付加される価値を生み出す要素は内部にあってもそれを実現するのは、外部に表出された時点である。
 附加される価値は、時間的価値である。時間的価値が減少すると附加される価値は失われる。

 この変動的な部分が加わったことにより、経済を一定に保つことが出来なくなったのである。
 良い例が、所得である。所得は、物価が上昇する分だけ加算され続けなければならない。故に、経済の水準を一定に保つと言う事は、現在の市場の仕組みでは、出来ないのである。つまり、経済は、上昇し続けることを前提としている。

 負債や資本、収益を考える上で、減価償却が鍵を握っている。しかも、この減価償却は資金の動きにも重大な影響を与えている。
 減価償却費というのは、資金流出のない費用という見方があるが、これは間違いである。減価償却費は、資金の流出を伴っている。ただ、その資金流出が期間損益の費用という形で認識されないと言うだけである。つまり、減価償却費の相対勘定、即ち、実際に費用流出を伴う勘定が認識されていないと言うだけである。では、その相対勘定は何かというと、資本勘定と負債勘定である。即ち、減価償却費として処理されている取引は、直接、負債勘定や資本勘定から差し引かれていることを意味する。これが、会計上、資金の動きを見えにくくしているの原因である。
 減価償却に対応するのは、長期資金の動きである。つまり、基本は、長期借入金の元本の部分であり、資本である。長期借入金の元本というのは、負債と見なされるが限りなく資本に近い性格を持っている。
 翻ってみると資本というのは、長期借入金の元本が変質した部分とも言える。この長期借入金が負債の基幹を形成し、負債の性格を規定している。 長期借入金がなぜ、資本化したのかと言うところに鍵がある。
 長期借入金の元本は、本来、固定的で元となる部分である。長期借入金は、固定負債であり、相対する部分は、固定資産である。固定資産は、費用性資産、即ち、償却資産と非費用性資産、即ち、非償却資産からなる。非償却資産の大部分は土地(不動産)によって構成される。固定資産とは、生産手段でもある。
 借り手側からみると、返済することが出来なくなった負債、あるいは、貸し手側からみると返済されては困る負債が滞留し、資本化したとも言えるのである。金融危機になるとこの負債の曖昧な部分が企業活動に対して負の作用を及ぼす。それが返済圧力である。
 実際のところ、金融危機になるとこの固定負債に対する返済圧力がかかる。それは、固定負債を裏付けているのが固定資産だからである。金融危機は、この固定資産の価値の収縮に基づいて引き起こされる場合が多い。資産価値の上昇によって梃子によって長期資金を調達して新たな投資をする。その投資した資金を回収する以前に資産価値の下落が起きると固定負債に対する返済圧力がかかるのである。

 金融機関は、資金を集めてそれを運用することが基本的な機能である。つまり、金融機関は、絶えず附加された価値を産み続けなければならない宿命にあるのである。そうなると資金量は、金融機関の実力を必ずしも現しているわけではない。資金量は、資金が効率よく活用されている時は、成長や収益に寄与するが、資金の運用先が見つからなくなり、効率が低下するとかえって負担となる。
 金を預かっているだけでは、金融機関は成立しない。預金というのは、金融機関の借金、負債なのである。この点を忘れると現在の市場経済は理解できない。
 つまり、金融機関は、常に、効率的な運用先を捜すか、作り出さなければ存続できないのである。手っ取り早く運用先を見つけだすとしたらそれは自前の市場である金融市場である。金融市場は、資産価値を梃子にして資金の表面的価値によって利鞘を稼ぐ。
 本来、市場価値は、貨幣価値は、取引によって顕在化する。それを市場を介さずに内部取引によって資産価値が上昇したように見せ掛けるのである。それが、含み益による未実現利益の顕在化であり。時価主義の実態である。
 しかし、それは、蛸が自分の足を食べているようなものであり、実体に乏しい取引なのである。

 問題は、長期借入金、固定負債の返済の処理をどうするかである。

 経済の働きは、合目的的なものである。ところが経済は、その本来の目的を喪失してしまっている。
 経済の目的は、国民を豊かにすることである。豊かな社会とは、必要な財がゆとりを持って公平に社会の隅々まで分配されている社会である。
 大切なのは、公平に分配されているという事であり、いくら豊富に財があっても偏りや格差が大きければ、豊かとは言えないのである。
 公平というのは、同等と言うのではない。つまり、人それぞれおかれている前提条件も違い、要求するものも違う。故に、全体と個との調和がとれる社会を豊かな社会というのである。
 また、豊かさの前提は、生きていく上で必要な物資の最低必要量の確保である。

 豊かさというのは、希少価値の高い物を数多く所有している社会だという錯覚がある。いくら希少価値が高く、贅沢な品物をたくさん持っていたとしてもその日の生活に事欠くようでは豊かとは言えない。
 猫に小判と言うが、猫は小判のために殺し合いをしたりはしない。猫と人間、どちらが真の価値を知っているのか。こう考えるとわからなくなる。

 昨今、豊かさを貨幣価値で測り、効率性で判断しようとする傾向が強い。金さえあれば豊かだと思っているのである。そして、そう言う価値観が蔓延している。そして、貨幣的に効率が良ければいいと生産性だの効率性だののみを基準にして社会の豊かさを推し量ろうとしている。
 しかし、豊かだという社会は、ある意味で、非効率な社会である。例えば、人々は、金銭的に豊かになると効率的に作られた大量生産された商品には目もくれなくなる。それこそ、手作りの物がもてはやされ、ブランドが価値を持ち始める。つまり、効率性は、豊かさの基準にはならない。

 では高級な物、希少な物が多ければ、豊かな社会の基準となるのか。
 貧富の差が広がると富裕層は、高級なレストランを求めるようになる。その一方でその日の食事に事欠くような世帯も増える。格差こそが高級品や高級レストランを数多く生んでいるのである。貧しいと言われる国にも金持ちはいる。むしろ、貧しい国の金持ちの方が豊かだと言われる国の富裕層よりもずっと贅沢な生活をしている。貧富というのは相対的な物であり、貧富が格差を生むのではなく。格差が貧富を生むのである。
 貧困は、社会が貧しい事だけが原因なのではない。多くの貧困は富の遍在が原因しているのである。分配の問題である。貨幣経済が有効に機能していないから富の偏在が生じるのである。そして、無駄や、浪費もである。
 
 小判の価値という物の本当の意味を人間は理解していないからである。小判、即ち、貨幣の持つ意味や機能も理解せずに、したり顔で経済を語ったり、教えたりするものがなんと多いことであろうか。

 貨幣経済で大前提となるのは、貨幣の働きである。貨幣の働きがおかしくなるから、貨幣経済はおかしくなるのである。

 貨幣は、交換価値を数値的に表象した物である。

 貨幣によって生じる負の価値と、貨幣そのものの価値と、正の価値である。正の価値というのは、貨幣が表示する現物であり、貨幣の負の価値というのは、貨幣が表示する価値である。つまり、価値そのものと、価値するものと価値されるものである。

 貨幣は、認識上の問題である。対象と自己との関係から生じる。自己は対象を認識する上で対象への働きかけと、自己との働きかけの二方向の作用によって対象の意味を認識する。つまり、貨幣の働きは、貨幣が対象に対する働きかけと貨幣に対する貨幣の働きかけの二方向の作用がある。

 貨幣の働きには、認識上の働き、作用反作用がある。作用反作用を言い換えると正と負、陰と陽である。

 貨幣は虚であり、陰である。貨幣は抽象的なものであり、具象性はないか、あっても象徴的なものでしかない。

 この様な貨幣の働きを知るためには、近代の貨幣の起源を明らかにする必要がある。
 貨幣は、近代に入って著しく変質した。つまり、実物貨幣から信用貨幣へと変質したのである。この信用貨幣への変質が近代貨幣経済の枠組みを形成したのである。

 紙幣というのは、最初は、借用証書なのである。最初は、返済もされたし、金利もついていた。ただ、それが、「ある時払いの催促なし。しかも、返済期日もなし。」に変質してしまったのである。つい最近まで、つまり、ニクソンショックまでは、催促なしでもなかった。催促すれば、金に変えてもらう事もできたのである。結局、不兌換紙幣になると催促も出来なくなってしまった。
 つまり、紙幣というのは、返済する必要のない借用証書なのである。なぜ、そんなことになったのか。また、なぜそんな事が可能なのか。
 返済する必要のない借用証書である紙幣が通用するのは、紙幣には、額面に示された貨幣価値があると公が認めているからである。つまり、返してもらえなくても、その価値があると広く認められていれば、支払手段や決済手段として有効だという事である。また、譲渡できるという事も重要である。譲渡できなければ、貨幣は、返済されないのであるからただの紙切れに過ぎなくなる。
 ならば、なぜ、そんな事。考えてみれば理不尽なことが可能なのか、それは、根本が国家の借金だったからである。つまり、紙幣というのは、国債の一種だったのである。国家が支払不能、つまり、返済できない状態に陥った際に、支払い延期の為に発行した証書なのである。
 つまり、国家が債務者であり、借金が返せなくなった時、国家権力を発揮し、支払を力ずくで延期したのである。国家は、権力、即ち、公に認められた唯一の暴力装置だから出来たのである。最も、現在でも、国家権力の及ばない地域では私的権力者が貨幣を発行することが稀にある。

 しかし、民間企業は借金が返せなくなれば倒産してしまう。銀行だって例外ではない。銀行にとっての最大の借金は、預金である。預金の取り付け騒ぎが起これば銀行も倒産する。しかし、国家は、借金が返せなくなっても倒産するわけに行かないと言うことになっている。それ故に、将来の任意の時点で引き替える権利に変えてしまったのである。それが紙幣の起源である。この事は重要であり、紙幣の本質をよく表している。そして、現在の貨幣の意味をもである。

 返済する事のない借用証書が紙幣に変化するのに、もう一つ重要なのは、流動性の問題である。流動性というのは、他人に譲渡することが可能であることである。紙幣も、流動性を持ったことが、本来、借用証書としての意味しかなかった紙幣に交換、決済、与信という機能を与えるのである。

 この事は、紙幣に、それまで貨幣が有していた支払手段、決済手段の他に、信用を供与するという機能を追加した。つまり、債務としての働きである。その為に、紙幣の流通する量が多くなると貨幣価値が下落するのである。

 そして、もう一つ重要なのは、資本そのものが商品化されることによって流動性を持ったという事である。資本も返済する必要のない資金である。その資本が債権として機能するのは、譲渡が可能だからである。譲渡が可能と言う事は、流動性を意味する。流動性があるから、本来返済する必要のない借金としての意味とかなかった資本に債権としての正の価値をもたらすのである。

 借金とは何か。借金というのは、、現時点における貨幣価値を実現する権利と将来の任意の時点における貨幣価値を実現する権利とを時間価値を換算して交換することである。この場合、時間価値をどの様な式で計算するかは、任意なのである。
 時間価値の一つの例が金利である。また別の例が利益に基づく配当である。これは、時間に対する概念の違いによって変わってくる。
 ただ、重要なのは、時間的距離を特定する必要がある。その必要性から、時間の単位を確定する必要がある。故に、時間は、変化の単位なのである。時間は、変化の単位であるから、時計的単位である必要はない。一つの製品を製作するのに必要とする経過単位でも良い。つまり、時間の所有は個人に帰すのである。

 借用書というのは、将来の任意の時点で額面の示されている貨幣価値に相当する交換価値を持つ財と巷間が出来る権利を保障した証書である。そして、最初の内は、等価の金と交換することが可能だったのである。しかし、金と変えてしまうと意味がない。また、価値が保障されている限りは、金と交換する必要もなくなったのである。それが兌換紙幣である。
 流動性が与えられたことで紙幣とは、それが、分配のための手段、媒体に変質したものである。現在では、最も流動性の高い資産である。つまり、交換価値を表象した物である。ただし、貨幣が表象するのは権利であり、実際に交換するかしないかは、その財をその時点で所有している者の意志に委ねられている。これが個人主義である。

 紙幣というのは、元々、価値のない物、信用によって価値を付与されているだけの物なのである。その元々は、公の、もっとハッキリ言えば国の借用証書なのである。
 紙幣が流通すると言う事は、それだけ、公の借金が増えると言う事を意味しているのである。

 紙幣を刷れば、いくらでも、返済する必要のない借金が出来ることになる。現実に、そう考えて実行した権力者もいた。その結果は、ハイパーインフレである。無制限に紙幣をすれば、紙幣の信認が薄れ、貨幣価値が際限なく下がることになるのである。

 対象認識は、物と意味と意味づける主体、あるいは、認識する主体の三者によって構成される。

 包丁の実際的な意味は、包丁が使われる対象と包丁と言う物の持つ特性、使用価値と包丁を使う主体によって決まる。包丁が料理のための食材に対し、料理するために、料理人として使われた場合、料理を作るための道具だが、殺人事件において、被害者を、加害者指すための道具として使われた場合は、犯罪のための凶器となってしまう。

 貨幣も同様である。貨幣が価値を持つのは、貨幣の持つ価値と貨幣が指し示す実体、その価値を認める主体の三者によって成り立っている。

 貨幣は、交換価値を表象する物、即ち、媒体で、交換価値そのものを持っているのではない。交換価値を持っているのは、財そのものである。しかし、財の持つ交換価値は、財を交換しようとする当事者間によって決められる。
 つまり、貨幣価値は、貨幣が指し示す実体の価値と貨幣と貨幣価値を認める者の三者からなる。そして、三者が生み出す価値はそれぞれ独立しており、変化、即ち時間軸をそれぞれが内包しいる。それが経済現象を複雑としているのである。

 貨幣市場を基礎とした市場が裁定するのは、貨幣価値である。注意したいのは、貨幣価値を基礎とした市場で裁定するのは貨幣価値であって交換価値ではない。あくまでも貨幣価値である。

 市場の機能は、貨幣価値の裁定であり、競争ではない。競争は、手段であって、目的ではない。競争に変わって話し合いでも良いのである。どの様に手段を使用するかは、前提条件によって変わるのであり、法則ではない。競争を法則とするのは、一種の信仰である。市場は、神の手で支配されているわけではない。


                    


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